償いの書(26)
あるひとつの選択自体が力を持ちはじめ、それ自身が動力となっていく。ぼくは、上田さんに彼女と結婚しようと思っている、と静かに語った。
「お前は、大事なものに気付くのが、いつも遅すぎると思うけど」と、言われた。「ラグビーをやめてしまったのも、もったいないと思っていたけど、オレはなにも言わなかった。だが、今度は、別の選択をするようなら、お前は見込みのない人間だと思うかもしれなかった。そういうことだよ」
と言って彼は満足そうに笑った。彼が、大人になった彼が、ぼくが学生のときに知っているように笑ったのは、久し振りのような気もしていた。最初に知ってから、もう十年以上彼の表情と付き合ってきた。彼の顔は言葉より雄弁になることが多かった。
「じゃあ、良かったことだと思うんですね?」彼は、何を訊いているのだ、という不可解な表情に直ぐにかわった。
「当然だよ。智美も真剣にお前らのことを心配していた。お前らじゃないな、近藤のことを」
自分の選択を誰もが後押ししてくれるというのは嬉しいことだった。しかし、現在という立場にいる当事者はそれが正解かは決めかねることもある。だが、それが動力となって形をなしていく以上、正しいと思うのは間違いではないのかもしれない。
真面目な話を終えてから、ぼくらはいつものように軽いふざけた内容の話もした。そうなると、上田さんは誰よりも軽妙で、ひとの笑いを誘引するような雰囲気を発することに長けていた。それで、ぼくも、いささか重苦しい空気を忘れ、笑い転げた。
「上田さんにも言ってみた」
「それで? なんだって?」
「自分のことのように喜んでいた」その後に会った裕紀は、それで安心したように笑った。「でも、ぼくがラグビーを続けなかったことを、また持ち出した。それで、大学時代の友人に同じことを言われたのを、ふと思い出した」
「でも、いろいろ考えての決断なんでしょう。そこに、わたしはいなかったから詳しくは分からないけど」
彼女はそのことを、とても残念そうに言ったが、ぼくは、それをいつかは忘れたい記憶と思っている。彼女は、そこに居るべきでもあったし、もちろん、居てはぼくの人生が困ることになった。
「いろいろ考えてだとは思うけど、もう人生は続いてしまったのだし」
ぼくは今後、彼女と生きることになる。彼女の好みの傾向を判断して、それを最優先させることや、ぼくの好き嫌いも知って欲しいと思っている。消せるものや、どうでもいいことは後回しにして、なによりも大切なものはなにかということを考え続ける日々になるのだろう。父親や母親は、いったいどうしていたのだろう? ぼくと妹が不自由なく学生時代をおくれたのを大切なこととして記憶しているのだろう。ぼくは、もう少し誰かを喜ばすことができたのかもしれないと今更ながら感じている。しかし、何人かには遅かった。いまからでも手遅れにならない関係は、とても貴重なものとして優しさを示したりするよう、その場ではっきりと決意した。
「これからは、なにか心配事があったらわたしに相談して。わたしもひろし君に訊くから」
裕紀は安心しきったような表情を浮かべた。彼女には頼りにする存在が必要なのだろう。家のそばにはおじさんが住んでおり面倒を見てもらっていたが、それは決定的に両親とは違う存在だった。その代わりをぼくが引き受けるという大それた考えももったが、相互に助け合っていけばいいのだ、と軽く簡単に考えようとした。
「そうするよ」
彼女のつくった料理を食べた。その味は、ぼくの規定のものとなる。ぼくは、洗濯を終えた衣類をベランダから取り込んだまま無造作に置いていた。ぼくが近くの店に必要なものを買いにいっている間、それは丁寧に畳まれていた。それも、ぼくの規定のものとなっていくことになるのだろうかと、その固まりを眺めながらぼんやりと考えている。
ぼくの優しさを込めた言葉が、彼女の基準となり、それを越えることがなく低いままならば、ぼくが弱っていたり怒ったりしていると勘違いしてしまい当惑するかもしれない。
ぼくの電話の回数を覚えていて、それが減れば、彼女は悲しむかもしれなかった。それらの基準をふたりで積み上げることがたくさんあるような気がした。ぼくらには設定の変更が必要なのだろう。でも、それは、それほど難しく考えることではないのだ。少しずつ調整していけば、人間には適応力が備わっており、彼女も外国でも暮らした経験があるのだから、ぼくともそう衝突するのだとは考えられなかった。そして、彼女は奇跡のように不満をあまり漏らさないタイプの人間なのだ。
ぼくの部屋に彼女のこまごまとしたものが増えていった。また、彼女の部屋にぼくのTシャツがあり、それはタンスの中にしまわれていた。それらが、いつかひとつになったことを想像すると、ぼくらは目覚めから眠るまでの期間をそれぞれが大切な存在として生きていくんだということをおぼろ気ながらに象徴しているようだった。
あるひとつの選択自体が力を持ちはじめ、それ自身が動力となっていく。ぼくは、上田さんに彼女と結婚しようと思っている、と静かに語った。
「お前は、大事なものに気付くのが、いつも遅すぎると思うけど」と、言われた。「ラグビーをやめてしまったのも、もったいないと思っていたけど、オレはなにも言わなかった。だが、今度は、別の選択をするようなら、お前は見込みのない人間だと思うかもしれなかった。そういうことだよ」
と言って彼は満足そうに笑った。彼が、大人になった彼が、ぼくが学生のときに知っているように笑ったのは、久し振りのような気もしていた。最初に知ってから、もう十年以上彼の表情と付き合ってきた。彼の顔は言葉より雄弁になることが多かった。
「じゃあ、良かったことだと思うんですね?」彼は、何を訊いているのだ、という不可解な表情に直ぐにかわった。
「当然だよ。智美も真剣にお前らのことを心配していた。お前らじゃないな、近藤のことを」
自分の選択を誰もが後押ししてくれるというのは嬉しいことだった。しかし、現在という立場にいる当事者はそれが正解かは決めかねることもある。だが、それが動力となって形をなしていく以上、正しいと思うのは間違いではないのかもしれない。
真面目な話を終えてから、ぼくらはいつものように軽いふざけた内容の話もした。そうなると、上田さんは誰よりも軽妙で、ひとの笑いを誘引するような雰囲気を発することに長けていた。それで、ぼくも、いささか重苦しい空気を忘れ、笑い転げた。
「上田さんにも言ってみた」
「それで? なんだって?」
「自分のことのように喜んでいた」その後に会った裕紀は、それで安心したように笑った。「でも、ぼくがラグビーを続けなかったことを、また持ち出した。それで、大学時代の友人に同じことを言われたのを、ふと思い出した」
「でも、いろいろ考えての決断なんでしょう。そこに、わたしはいなかったから詳しくは分からないけど」
彼女はそのことを、とても残念そうに言ったが、ぼくは、それをいつかは忘れたい記憶と思っている。彼女は、そこに居るべきでもあったし、もちろん、居てはぼくの人生が困ることになった。
「いろいろ考えてだとは思うけど、もう人生は続いてしまったのだし」
ぼくは今後、彼女と生きることになる。彼女の好みの傾向を判断して、それを最優先させることや、ぼくの好き嫌いも知って欲しいと思っている。消せるものや、どうでもいいことは後回しにして、なによりも大切なものはなにかということを考え続ける日々になるのだろう。父親や母親は、いったいどうしていたのだろう? ぼくと妹が不自由なく学生時代をおくれたのを大切なこととして記憶しているのだろう。ぼくは、もう少し誰かを喜ばすことができたのかもしれないと今更ながら感じている。しかし、何人かには遅かった。いまからでも手遅れにならない関係は、とても貴重なものとして優しさを示したりするよう、その場ではっきりと決意した。
「これからは、なにか心配事があったらわたしに相談して。わたしもひろし君に訊くから」
裕紀は安心しきったような表情を浮かべた。彼女には頼りにする存在が必要なのだろう。家のそばにはおじさんが住んでおり面倒を見てもらっていたが、それは決定的に両親とは違う存在だった。その代わりをぼくが引き受けるという大それた考えももったが、相互に助け合っていけばいいのだ、と軽く簡単に考えようとした。
「そうするよ」
彼女のつくった料理を食べた。その味は、ぼくの規定のものとなる。ぼくは、洗濯を終えた衣類をベランダから取り込んだまま無造作に置いていた。ぼくが近くの店に必要なものを買いにいっている間、それは丁寧に畳まれていた。それも、ぼくの規定のものとなっていくことになるのだろうかと、その固まりを眺めながらぼんやりと考えている。
ぼくの優しさを込めた言葉が、彼女の基準となり、それを越えることがなく低いままならば、ぼくが弱っていたり怒ったりしていると勘違いしてしまい当惑するかもしれない。
ぼくの電話の回数を覚えていて、それが減れば、彼女は悲しむかもしれなかった。それらの基準をふたりで積み上げることがたくさんあるような気がした。ぼくらには設定の変更が必要なのだろう。でも、それは、それほど難しく考えることではないのだ。少しずつ調整していけば、人間には適応力が備わっており、彼女も外国でも暮らした経験があるのだから、ぼくともそう衝突するのだとは考えられなかった。そして、彼女は奇跡のように不満をあまり漏らさないタイプの人間なのだ。
ぼくの部屋に彼女のこまごまとしたものが増えていった。また、彼女の部屋にぼくのTシャツがあり、それはタンスの中にしまわれていた。それらが、いつかひとつになったことを想像すると、ぼくらは目覚めから眠るまでの期間をそれぞれが大切な存在として生きていくんだということをおぼろ気ながらに象徴しているようだった。