爪の先まで神経細やか

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償いの書(28)

2011年02月20日 | 償いの書
償いの書(28)

「赤ちゃん、見てきたよ。大きくなってた。写真、現像したら見せるね」
 何日か経って、裕紀はうきうきした気持ちで、その後に、妹やその息子を訪れた時の様子も語った。赤ん坊は手足を自分の意図とは関係ないように伸ばし、その小さな指を裕紀は握ったと言った。その感触がいまだに残っているように、彼女は細長い自分の指を眺めていた。
「それで、ゆりちゃんは?」
「そこから、電車に乗って帰った」
「なんか、言ってた?」
「別に。楽しかったとは言ってたけど、他にはないよ。なんで?」
「別に」

「そう」気に留めた感じもなく、道中のことや、彼女らの小さなときのエピソードを詳しく話した。そうした面で彼女の記憶力は、とても優れていて、無菌室のさらに密封された箱に思い出がしまわれていたように、新品なものとして過去の事柄をぼくに提供した。ぼくは、妹や山下の現状の生活を聞き、いくつかの質問をして、いくつかの相応しい回答を得た。

「元気にしてるんだ」と、最後には、そういって妹たちの生活を思い巡らしながらも話は終わった。
「ゆり江ちゃん、可愛いよね。もし、私が先に死んでしまうようなことがあったら、ああいう子と結婚してね」
「なんで、唐突に、また。まだ、なにも、ぼくらの生活は、始まっていないのに」

「ただ、なんとなくそう思っただけ。ひろし君を誰かが支えなければならないと、いつも思ってるの。紐のついていないタコのように感じるときがあるんだもん。だから、それを繋ぎとめる役割として、次には、ゆり江ちゃんみたいな暖かい子が必要だと思っているんだ」
 彼女は、作為もなくそう言ったのだろう。なにかの裏面があると考えたり、なにかを誘導する悪意のある質問の提起など彼女は考えるはずもなかった。

「ぼくは、裕紀以外に誰も考えていないよ。それに、永遠とか永久という言葉自体が美しいものだと考えているよ」
「わたしもそう思っているけど、ただ、実際的なことを思いついただけ。もし、両親が事故にあったときに、どちらかだけ生き残っていたら、それはどういう意味合いをもつのだろうかと、たまに考える。おじさんにも、そうしたことは言えていない」
「ごめん。なら、ぼくも、ゆり江ちゃんをしっかり二番目の奥さんにするよ。裕紀が願うなら」と、冗談交じりに話して、その話題を打ち消した。彼女は、怒ったような、また、笑ったような、そして、安心もしたような不思議な表情を浮かべた。

 しかし、そうした話題を話しながらも、ぼくらの間には確実な愛情があった。それを継続性のあるものとして考える自分がいて、ひょっとしたらなにかの不幸があるため中断してしまう可能性があるものとして捉えている裕紀がいた。その頃の自分は、しかし、なにも理解していなかったのだろう、という浅はかな思慮に欠けた自分があったのも事実だった。

 ぼくらは、今後のいくつかの計画を練り、結婚式や新しい家のことを話した。ぼくは、社長にこれまでの経過を打ち明け、実際的な解決法を導き出してもらおうとした。彼は頼りにされると、力以上に本領を発揮する人間の常として、ぼくらの新しい家のプランをいくつか紹介してくれた。安く、使い勝手がよく、これこそが生活というリアルな空想の面を打ち消したような部屋がそこに含まれていた。それは、本来はぼくらが必死に(そうならなくても買い手はたくさんいた)売り込む部屋だったのだが、「お前を東京に送り込んだお詫びとしての部屋」という定義で、ぼくに見せてくれた。

 ぼくは、その部屋の鍵を持っていた。ひとりで、その部屋の立地や場所を把握し、さまざまなものを検討して合格点を与えた。
 ぼくらの部屋にあった家具をいくつか運んだ様子を想像し、裕紀がそこで動いていることをイメージして、ぼくはその部屋を客観的に眺めていた。それが点から面に変わり、頭のなかにあるものが事実として反映されるのも間近だった。
 そんな時に、ぼくは職場に一通の封筒が机のうえに置かれていることを知る。

「ひろし君
 その後、元気ですか。
 結婚することになるみたいですね。
 おめでとう。
 誰よりも、わたしは、ひろし君の幸福を願っていることを忘れないでくださいね。
 もう少し、女性に優しい言葉を告げられれば、無敵だと思いますけど、もう、そういうことは覚えたのかな?
 わたしは、自分の子どもの成長がこれほど、楽しいことだとは思ってもみませんでした。
 意外と、母性があったことに自分でも驚いています。
 いつか、こっちに戻る機会があれば、また、ひろし君も見てくださいね。
 ただ、幸せを願っています」

 ぼくは、その見覚えのある雪代の筆跡で書かれた手紙をいったんは自分のカバンにしまいこんだが、家にあれば、それを裕紀は見てしまうということを恐れ、また職場の机の奥にしまった。ぼくは、彼女をいつも忘れようと必死になっていたのだが、それを誰かは許してくれないようだった。しかし、もしかしたら、自分自身で忘れないようにと、こころのどこかでは思っていたのだろうか。