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償いの書(29)

2011年02月26日 | 償いの書
償いの書(29)

「なにか良いことが待ってるみたいな顔してるのね」会社をでて外回りをしようとしていると、いつも犬の散歩をしている女性とすれ違いざまに声をかけられた。最近は懇意になって、会釈をしたり、すこしぐらいは世間話をするようになった。しかし、その存在自体が謎のままのひとだった。

 華美ではないが、全体的には華やかさがあり、優雅さを先天的にもって生まれてきたような印象があった。

 そこで、ぼくは立ち止まり小さな犬の頭をなでながら、その犬もそうされているのを喜んでいる顔つきでいたが、返事をした。
「そうですか? あるんでしょうかね」しかし、自分の発した返事は曖昧なものだった。
「永遠のものが見つかったとかでしょう」
「分かるんですか?」
「そういう商売をむかし、していたのよ。嫌気がさしたけどね」
「そういう職業もあるんですね。身近にいないものだから」ぼくは、びっくりしたような表情をしていたと思う。確かではないが。

「まっとうな仕事ではないけど、プレゼントをむりやり好きでもないのに渡されたみたいなものよ。しかし、一瞬一瞬を大事にしないといけないわよ。その永遠のものを」
「そうします」犬は、あまりにもなつきすぎ、もっと触れ合いを要求し出した。ぼくは、仕方なしにカバンを地面に置き、身体をかがめ、両手で犬の首辺りを撫でた。
「一回、失った。また、それを手に入れた」

「はい?」犬の動きに注意をとられ、ぼくはその言葉を聞き逃しそうになった。
「あなたは、一度、失ったものを、もう一度、思いがけなく手に入れた。取り戻した」
「その通りです」
「優しさがなんであるかを、その子はもっていた」
「正解です」
「あなたには、罪の意識もどこかに消えないまま残っている」
「忘れようとしているんですけど」
「その子には、悲劇的な過去があり、それもあなたは自分の問題として背負おうとしている」
「そうかもしれませんね。別に負担とは感じていませんけど」

「しかし、悲劇がなければ、あなたには罪の意識もなく、またあなたを引っ張ってくれるものがあることを願望しているのかもしれない。違うね。もう限界」
「凄いですね。彼女のことも見てもらいたい」
「もう、終わったのよ。箱にはプレゼントは残っていない。いまは、ただ犬を散歩させるおばさん」
「充分、きれいですけど」
「あなたが、何人にもそう言ってきたのも映像としてあるのよ」

 ぼくは、意識していなかったが背中の方を振り向いた。もちろん、そこには、見慣れた自分の会社の出入り口であるドアがあるのみだった。そこからとその宣告から逃げるように、もう一度、犬の頭を撫でカバンを拾い駐車場に向かった。

 カバンを横に置き、ぼくは車のエンジンをかけた。その後数秒のことだが、ぼくは罪や罪悪感のことを自分の脳のなかに広げた。ぼくは、彼女に悲劇的なことが起こっていなければ、それほど、この関係を大事にしなかったのだろうかと疑問に思い出した。しかし、その考えを何度も跳ね返したり、払拭しようと努力した。だが、車を走らせ、信号で止まっている間にはもう自分の気持ちも切り替わっていた。数週間後には、ぼくらは世間が認める関係になる。それを自分は永続させる人間として頑張ろうとしている。それだけで充分だと思っていた。

 仕事もすんなりと終わり、夜は裕紀に電話をした。会話の流れから、ぼくが職場のそばで会う女性には、不思議な能力が備わっているかもしれないと言った。しかし、彼女はそのことを気味悪がったので、話は発展することもなく終わった。あとは、ぼくらのこれまで一緒に過ごした時間の確認をしたり、それから先の未来の話に転換していった。

 話が終わり、自分らが行うパーティーのことで上田さんに電話をした。彼は自分の仕事でつながりのあるひとを探してくれ、そのひとに任せた。その最終的な調整ができたという報告をもらった。だれよりも上田さんと智美は親身になってぼくらのことを考えてくれた。ずっと大切な友人であると思っていたが、結婚がきまってからは、さらにもう一段深い関係にぼくらはなったのだ。

 ぼくは、残されたひとりの時間を堪能するように冷蔵庫からビールを出し、好きな音楽を聴いて寛いでいた。目をつぶると、いくつかの映像が浮かび、それは眠りの導入口までついてきたが、実際に眠ってからは、夢となって追っかけてきた。15秒のコマーシャルが連続して流れるように、その夢はぼくが女性に言ったいくつかの優しい言葉や冷たい言葉をつなぎあわせていた。だが、最終的には自分が言わなかった暖かい言葉も含まれていった。

 目覚ましが鳴る前の最後の映像は、ある映画館の中だった。ぼくは、地元の職場の同僚と転勤前に映画を見に行った。そこで会った雪代と島本さんの映像が、はっきりと自分の頭のなかに記憶として残っていた。喪失感を思い浮かべながらぼくは眼を覚ます。しかし、直ぐに手に入れた幸福に自分の標準を定めるように、残り数日のぼくのひとりの時間を幸福なもので満たそうと考えていた。
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