田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

「五反田TOEIシネマ」2『アラビアン・ナイト』『ソドムの市』『バルスーズ』

2022-12-06 20:17:31 | 違いのわかる映画館

パゾリーニ+ワン(1980.10.6.)

『アラビアン・ナイト』(74)『ソドムの市』(75)


 どちらもピエル・パオロ・パゾリーニの監督作だが、ひどく理解に苦しむものだった。

 『アラビアン・ナイト』の方は、伝説に題材を求めているのでまだましだが、『ソドムの市』は特にひどかった。まさか、男色シーンや食糞のシーンを、ああもしつこく映すとは…。

 もはや我々凡人の及ばぬところに、パゾリーニは達していたということなのだろうか。まさに、○○と天才は紙一重といった感じか。彼が性行為相手の少年に惨殺されたといううわさも、あながちうそではないのかもしれないと思わされた。

【今の一言】少年に惨殺されたというのは、どうやらねつ造だったらしい。また、パゾリーニは、こうした過激な形で、ファシズムやブルジョワに対する憎しみを描いたのかもしれないと、今では思うものの、再評価する気にはどうしてもなれない。


『バルスーズ』(74)

 犯罪に明け暮れる2人の青年(ジェラール・ドパルデュー、パトリック・ドベール)の無軌道な性を描く。パゾリーニの映画に辟易した後だけに、この映画など、まだかわいげがあるという感じがした。監督はベルトラン・ブリエ。タイトルには睾丸の意味があるらしい

 2人が旅するフランスの片田舎の風景が何ともわびしく映る。列車内でドパルデューたちに乳をもまれるブリジット・フォッセーには驚いた(おお、ポーレット!)。後半は、ジャンヌ・モローが出てきてさすがに締まった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「五反田TOEIシネマ」1『グリニッチ・ビレッジの青春』『ハリーとトント』

2022-12-06 11:28:05 | 違いのわかる映画館

「五反田TOEIシネマ」(1991年閉館)

目黒川沿いのマンション下にあった東映系の名画座。


ポール・マザースキー監督特集(1979.3.23.)

『グリニッチ・ビレッジの青春』(76)

 スターを目指す若者たち(レニー・ベーカー、エレン・グリーン、ロイス・スミス、クリストファー・ウォーケン、アントニオ・ファーガス)の悲喜こもごもを描いた佳作だが、ラストがいま一つ。主人公の両親役のマイク・ケインとシェリー・ウィンタースが好演を見せる。


『ハリーとトント』(74)

 老いの怖さと寂しさを、笑わせながら痛感させる映画。ハリー(アート・カーニー)が尋ねる三人の子どもたち(エレン・バースティン、ラリー・ハグマン、フィル ・ブランズ)が、それぞれいい味を出している。もちろん猫のトントも。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「蒲田パレス座」9『タップス』『未知への飛行』『天国の門』

2022-12-06 06:12:01 | 違いのわかる映画館

『タップス』(81)(1982.11.1.)

 小森のおばちゃまが、やけに褒めているのを耳にし、これはまた甘い青春ドラマなのかなと思っていたら、どうしてどうして、実にシリアスな一級の映画だった。おばちゃまごめんなさい。

 学校の閉鎖に反対する生徒たちが、武器を手に立ち上がったというだけでは、ちょっと過激な学園紛争ドラマで終わってしまうが、この映画の場合、舞台が仕官養成学校、つまり軍隊一歩手前の教育現場であり、そこで軍隊式の教育を受け、外部との接触もほとんど持たずに、閉鎖的な生活を送る若者たちが主人公となれば、話は込み入ってくる。

 彼らにとっては、校長でもある将軍(ジョージ・C・スコット)の言葉は神格化され、知らず知らずのうちにその言葉に縛られ、正常な判断を見失っていく。

 分別のある大人ならともかく、彼らはまだ若く、中には子どもまでいるのだ。価値観や生きがいを見付けにくい今の世の中にあって、目の前に分かりやすい名誉や地位が転がっていれば、それに飛びつくのは当たり前だ。

 考えたら、これはちょっとしたファシズムであり、死を美化して名誉と結び付ければ日本の特攻隊と変わりはしない。しかも、彼らは一本気で真面目な性格だから、なおさらこうしたシステムに魅力を感じるのだろう。

 だから、彼らの姿が、『動乱』(80)などで描かれた2・26事件における青年将校たちの姿と重なるところもある。どんな国であっても、偏った教育は悲劇を生み、やがてはその国を不幸に陥れかねない。そんな警鐘を鳴らしてくれた映画だったという気がする。監督はハロルド・ベッカー。

 リーダー役の青年を演じたティモシー・ハットンが、『普通の人々』(80)の息子役からさらに成長し、この難役を見事に演じ切っていた。期待の新人が登場した。

【今の一言】この頃は、生徒役で共演したトム・クルーズやショーン・ペンをしのいで、ティモシー・ハットンが一番星だったのだ。


『未知への飛行』(64)

 アメリカの軍事コンピューターが、誤ってソ連に対する核攻撃指令を発する。命令を受けた爆撃機は、直ちにモスクワへ向けて発進、帰還可能ポイント=フェイル・セイフ(映画の原題)を超えてしまう。

 やっと日本で公開されたこの映画は、1964年製作だから、今から18年前の映画ということになる。これには実に驚いた。こんなにすごい映画を18年も前に作り、しかも、今でも核の恐ろしさを伝え得る力を十分に持っているのだから。

 時代背景に、米ソの冷戦があったにせよ、ここまでの映画にしたのは、まさに監督シドニー・ルメットの力であり、大統領役のヘンリー・フォンダをはじめとする、キャストの熱のこもった演技の賜物だろう。

 この映画の前は、『渚にて』(59)を除けば、アメリカ映画の描く核戦争の世界は、どこか楽天的だったような気がする。核戦争が起きれば、そこには、もはや絶望と死しかないはずなのに、生き残った者たちによる、アドベンチャー風のストーリーを作り上げてきた。そこには核の恐ろしさを感じることもない。

 それに比べて、この映画が優れているのは、米ソ首脳の姿だけを描く手法、つまり、鳥瞰図的な視点で押し通し、見ている我々に、レーダーを追うサスペンスを感じさせ、彼ら首脳と同じ気分にさせて、一種高尚なゲームのやり取りや駆け引きを味合わせる。

 ところが、もしこの映画のようなことが現実に起こったら、首脳が勝手に決めた安全策で、跡形もなく消されてしまうのは、我々市民なのだということに気付いてゾッとさせられる。そうした恐怖を、我々に感じさせただけでも、この映画の存在は大きいといえるだろう。

 映画は所詮娯楽に過ぎないのだが、たかが映画は、こんなに恐ろしく、切実なメッセージを、伝えることもまた可能なのである。

 


『天国の門』(80)

https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/1f34980b493bc90fff77535d71b9993a

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする