『影武者』(80)(1980.5.16.東洋現像所・技術検討試写会)
黒澤明、5年ぶりの新作。『どですかでん』(70)『デルス・ウザーラ』(75)の枯れたような心境から、もう一歩死に近づいたような暗さや重みが感じられるが、その分、難解なところもある。
この映画には、『用心棒』(61)や『椿三十郎』(62)で三船敏郎が演じたスーパーヒーロー的な人物は一切登場せず、戦国時代の武将たちがひたすら人間くさく描かれている。
演技陣では、武田信玄と影武者の二役を演じた仲代達矢をはじめ、山崎努、大滝秀治、室田日出男、根津甚八、清水鉱治ら、一癖ある芸達者たちに、織田信長役の新人・隆大介が加わり、見事なアンサンブルを見せる。その中に入った勝頼役のショーケンが、何とも気の毒に見えた。
長篠の戦いでの武田軍の壊滅シーンは、バックに流れるトランペットも含めて、少々しつこい気がしたが、それをラストの風林火山の旗目がけて倒れ込む影武者の姿とそれに重なるエンディング音楽が補う。佐藤勝に代わって音楽を担当した池辺晋一郎が素晴らしい。
いずれにせよ、70歳を過ぎてなおこれだけの映画が撮れる黒澤明という人は、やはり不世出の監督というべきだろう。ただ、プロデューサーとして協力したフランシス・コッポラとジョージ・ルーカスをはじめ、欧米では黒澤信者が多いが、映像の美しさは別にして、とても日本的な心情を描いたこの映画の本質が彼ら外国人に理解できるのだろうかという疑問が残った。
えっ、カンヌ映画祭グランプリだって…。
(1982.4.3.)
先日、『影武者』の撮影風景を追ったドキュメンタリー「黒澤明の世界」を見たので、もう一度じっくりとこの映画を見て見なくてはと思っていた。
というのも、最初にこの映画を見たときの印象はそれほど良くはなかったし、この2年の間に、過去の黒澤映画を結構見たので、それらを見れば見るほど、自分の中ではこの映画の評価が落ちていったからだ。
ところが、今回見直してみて分かったのだが、自分が最初に見たときは、どうもこの映画の深い部分が分からなかったようなのだ。
特に、武田勝頼を演じたショーケンについては違和感があったのだが、今回は、黒澤は勝頼の単細胞さというか、無鉄砲さをショーケンの中に見たのではないかと思った。この役を演技力抜群の俳優にやらせたら、勝頼の悲惨さは出なかったかもしれない。それ故の起用だったのではないかと。
加えて、最初に見たときに、長過ぎて疑問に思った武田軍壊滅のシーンについても、今回は、直接的な戦闘シーンを見せずに武田の悲劇を見せるには、倒れ行く馬を見せるのが最も的確だったのかもしれないと思えた。
長篠の戦いは、騎馬戦から鉄砲戦へと移り変わっていく戦国時代の節目の一つであり、武田軍の中心は騎馬隊であり、馬なのだ。だから、この場合、黒澤は、馬に対する思いを貫いたのだとも思える。そういえば、影武者の正体を見破ったのも馬だった。
こうしてさまざまな疑問が解けてくると、ラストの影武者の死が、全体を貫く悲しさを象徴しているように見えた。武田軍が戦いに敗れ、瀕死の影武者。川に浮かぶ風林火山の旗。旗を追いながら力尽き倒れ込む影武者。流れる死体、その横を通りすぎていく旗。最後まで影武者と旗は交わらず、カメラはロングに切り替わる。
信玄に魅せられて影武者となる中、不思議な才覚を発揮し、自らも信玄になったような錯覚を見るが、やがて武田の家を追われる男。だが、心は最期まで影武者であり続けた悲劇。結局、風林火山の旗一つも自由にならなかったラストシーンは、無言でこの壮大な悲劇の幕を引くのだ。
1980年代初頭の映画界の状況を反映
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/3862d82ff6477f068c7273240579ce85
隆大介 織田信長のイメージ、ここに極まれり
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/9c0d354e00deda66838af70ec925ae35
黒澤明VS勝新太郎
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