『昭和映画史ノート 娯楽映画と戦争の影』(平凡社新書)
(2004.12.14.)
幻のアクション・スター“昭和の鳥人”ハヤフサ・ヒデトのことをもっと知りたくなって、「幻の大都映画とハヤフサヒデト伝説」が収録されている、この本を読んでみた。
ほかにも、「戦時下に創設された「日本映画学校」」「占領下の溝口健二の映画」「プロデューサー・水の江滝子と石原裕次郎」など、興味深い話が網羅され、一気に読んでしまった。それにしてもハヤフサヒデトの映画を見てみたいものだ。
『シネマと銃口と怪人―映画が駆けぬけた二十世紀』(平凡社ライブラリー)
(2005.1.13.)
山田五十鈴が樋口一葉に扮した戦前の東宝映画から明治時代を考察する、第1章 「一葉の時代」の画像。
監督フリッツ・ラングと俳優ピーター・ローレの数奇な運命とファシズムをめぐる、第2章 『M』の時代。
セッシュー・ハヤカワの栄光と挫折、第3章 戦時下、パリの早川雪洲。
産児制限運動者と芥川の小説をからめた、第4章 サンガー夫人と芥川の『河童』。
戦時中のロベルト・ロッセリーニ作品と吉田満の著書『戦艦大和ノ最期』を軸に、国策映画について考察した、第5章『白い船』と『戦艦大和』。
そしてビスコンティとナチズムを交錯させた、第6章 ファシズムの美学と『地獄に堕ちた勇者ども』
というラインアップ。まさに映画を中心とした幅広い縦横無尽の雑学の宝庫。そして先に読んだ『昭和映画史ノート』もそうだったが、この人の難しいことをすらすらと読ませる文章のうまさ、あるいは幅広い書物からの引用文の巧みな配置にまたも唸らされる。巻末の解説を書いた某氏の妙にひねってわかりづらい文章と比べても文才の差は一目瞭然。オレも見習ってこういうものが書ける自分でありたいと思う。
『物語依存症』(白地社)
(2005.2.4.)
内藤誠の『物語依存症』に、映画監督の川島雄三を“鬼才”という言葉でくくった一文があった。いくつかわが身にも当てはまるので記しておく。以下。
~鬼才ということばで人は、オーソドックスでないこと、マイナー好みであること、猥雑であること、自然主義的なくそリアリズムでないこと、反時代的であること、地方出身のくせに都会的であること、一筋縄ではいかないへそ曲がりであること、堂どうたる大人のようで子どもっぽいこと、スタイリストでありながら形をくずすこと、傲慢で、かつシャイなこと、そして何よりもフリークであることなどを想像するわけであるが…~
『ヘボン博士のカクテル・パーティ』(講談社)
(2005.2.10.)
ヘボン式ローマ字を考案したヘボンを中心に、明治初期、日本にやって来た様々な外国人たちの列伝。女教師、女性旅行家、新聞界やビール産業の先駆者、落語家、亡命バレリーナ、チョコレート屋…、日本で意外な才能を発揮した面々が楽しく語られる。この著者は本来は映画監督のはずなのに、このリサーチ力、文章力には毎度唸らされるばかり。それにしても明治は面白い時代だ。
『昭和の映画少年』(秀英書房)
(2005.2.21.)
例のハヤフサ・ヒデトの絡みで読んだ『昭和映画史ノート』(01)に始まって、『シネマと銃口と怪人』(97)、『ヘボン博士のカクテル・パーティ』(93)、『物語依存症』(91)、そしてこの『昭和の映画少年』(81)と図らずも時代をさかのぼる形で内藤誠の本を読んできたことになる。
どれも面白かったし、いろいろとためになった。今回は大島渚の解説もなかなか面白かった。そういえばこの人には、『映画百年の事件簿』(角川文庫)という著書もあったし、ウィリアム・サローヤンの小説も翻訳していた。ということは、以前からお世話になっていたわけだ。この人の書いたものをもっと読んでみたいと思う。