tarpin翁のスローライフ

福井県奥越地方、季節のたより、ガーディニングなど、
写真日記・・・そして・・・。

今冬最後の「早朝坐禅会」に参加

2024年11月17日 | 坐禅会
この月の早朝、禅堂に到着時にはまだ夜は明けていない。



今朝は私が一番乗り、
すでに老師とご住職氏が着座、堂内はこうこうと明るい、
珍しく温かく、扉か90cmほど開けたまま、
それでも寒くない不思議な朝でした。
静寂の中、野鳥の鳴き声が時に有るだけ、
ストーブの風の音もなく、静かに座れた朝でした。

参禅者が着座すると「小鐘3つ」、
同時に6時の梵鐘の音、ゴ~ン。いい雰囲気です。

暫くして、老師の坐中のお話が始まった。
2024年もあと残す日々僅かになりました。
今日までの各自の営みの生活が、
明日以降の生活に寄与できるようお願いしたい。
 各自の生活の理解を超える大きな世の中の営み、例えば太陽に手をあわせる事等、
私たちは、すべての物と一緒に生きていることを感じるはず。
己という小さな動きが、
人類を救うような大きな力になることを祈るばかりです、
「命」生きるとは、呼吸をする事、この命は遠い未来につながる呼吸のはず、
一日に一度は、命に対する意識をしてください(帰命礼阿弥陀仏など)
そんなことに触れながら未来への平和を目的に祈りたいものです。
こんな事を思う姿が坐禅です。
と結ばれました。
 そして全員で回向、
「願わくば、この功徳を持って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と。
 今年最期の坐禅会となり、
2月迄休み、3月から再開の指示でした。
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10月「早朝坐禅会」に参加。

2024年10月20日 | 坐禅会
起床の午前5時、外は真っ暗。
市内に「熊の出現」情報があり、
今朝も禅堂迄は自家用車で。

禅堂では、
すでに老師と住職が座られ、沢山の参禅者も着座、
私が座る頃「6時の梵鐘の音」、今朝は、坊守様が当番なのでしょう。

ゴ~ン・ゴ~ンの3つの音の後、
「小鐘3つ」の合図、正式の坐禅会の始まりです。

そして老師のお話しが始まる。
今朝は「いつもと違う初めてのお話しをします?」から始まった。
「参禅の皆様は、禅堂に入る前から、お寺の設えに対して合掌をして
くださっているが、どういう気持ちと心での合掌でしょうか、

私たちは今、人間という形で身と心を頂いていますが、
いつの過去世からこの命が繋がっいるかは分からない、
直前では、それぞれの先祖様から頂いた身があります、それが今です。
「合掌」で拝まれるのは、仏像や御仏の姿でしょう。
いま座って仏様の真似事をさせていただくのは、
此処迄の命の旅路のお礼として、
手を合わせていることになります。
長い命のつながりの不思議さ・ありがたさ、
その一瞬に手を合わせているのです。
こうした姿、「坐禅」は、命の営みとしての姿です。
皆さまは、こんな機会を持ち、これからの人生をどのように進んでいくかは、
それぞれ思いの中に有るはずです。

坐禅の心は、全世界の人々ももっている事を感じてほしい。

坐禅をすることは、道元禅師様の悟られた世界です。
「おお三昧・おお三昧」と命の輝きの姿、こんな坐禅の心を味わってほしい。
と、老師は結ばれました。
そして小鐘1つで終了。
 全員で「願わくば、この功徳を持って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と、回向。
座後のお茶会はで、
11月は実施、12月から2月迄はお休みが決まりました
今朝は住職氏から内裏の説明を頂きました、初の体験。





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「8月早朝坐禅会」に参加。

2024年08月18日 | 坐禅会
毎月の恒例行事。
曇天ですが、お天気も良く・・・
 それでも早朝から25℃以上の暑さ、今日も猛暑日になりそうです。

おやっ?スタート8分前に禅堂に到着、
靴下を取り眼鏡をはずして着座、
堂内では、老師とご住職のみ座られている。
一番乗り、そんなに早くないのにとの思い。
お盆休みかなと・・・ 。
そのうち到着、遅れた人入れて6名の参禅者。

静寂の禅堂では扇風機が3台も動いている、
この暑さへの配慮か。
6時の梵鐘は、力強く感じましたが、住職夫人(坊守)が当番なのか。
5分ぼどしてようやく小鐘3つ、正式のスタートです。

沈黙の時間、なぜか蝉の声も少ない朝、
扇風機の時たま来る涼し気な風、
坐中の老師のお話しは一切ない今朝の坐禅会でした。

小鐘1つで終了。(珍しく早い終了
そして「願わくば、この功徳を持って普く一切に及ぼし、
 我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と、回向唱えられた。

茶菓を頂いての座後の茶話会は、老師・坊守氏、住職氏を
交えての比較的長いひと時でした。
義宣寺境内の「さるすべり」は美しい。




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6月「早朝坐禅会」に参加、普勧坐禅儀。

2024年06月17日 | 坐禅会

今朝の早朝はすがしい朝でした。

昨日のバス旅の疲れもありましたが、休まず参禅。

スタートの午前6時は、坊守様のお撞になる梵鐘の音、

同時に老師の「小鐘3つ」、今朝は住職様もすでに着座、

ほとんどの仲間も出席され、雰囲気上々。

かすかに聞こえる梵鐘の合間の「般若心経の読経」。

後は、野鳥のさえすり以外は音は無く静寂の世界、良いスタートでした。

いつも始まる「老師の坐中のお話」。

曹洞宗開祖、道元禅師が中国から帰国され、

最初に作られた書が「普勧坐禅儀(ふかんざせんぎ)」です。

始まりの文言は「原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。」とあります。

道元禅師様は、禅の説き方として、「人間の真理はその命の営みを、非の打ち所のない真理で出来上がっている」ものとされた。

いろいろな悩みや考えは個々人に有るものですが、

すべての理屈を抜きにして 「ただただ座りなさい」、

お釈迦様が心理を得られたように、

幾度も坐禅を繰り返すことにより誰にでも、

それが見つかることが有るものです。

一度座れば1仏と解説する人もいますが、

一度ではダメ、幾度も繰り返し学び座りましょう。

そんな基本的な学びの後に、

坐禅の3つの基本、「整心・整息・整身」の具体手法が示された。

 

「坐禅を実行している私たちは、座って得た道元禅師様や遠くは

お釈迦様の教えで得た知識・知恵等繰り返し学んだことを、

これからの歩みの中に実践出来る事を目標にしてくださ。

と結ばれた。

最後にいま一度

「原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん」。

参考に「普勧め坐禅儀」原文

「原夫道本圓通、爭假修證。宗乘自在、何費功夫。況乎全體逈出塵埃兮、孰信拂拭之手段。大都不離當處兮、豈用修行之脚頭者乎。然而毫釐有差天地懸隔、違順纔起紛然失心。直饒誇會豐悟兮、獲瞥地之智通、得道明心兮、擧衝天之志氣、雖逍遙於入頭之邊量、幾虧闕於出身之活路。矧彼祇薗之爲生知兮、端坐六年之蹤跡可見。少林之傳心印兮、面壁九歳之聲名尚聞。古聖既然、今人盍辦。所以須休尋言逐語之解行、須學囘光返照之退歩。つづく・・・・」

夏ツバキ

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5月早朝「座禅会に参加」。

2024年05月21日 | 坐禅会

今月の坐禅会が始まる午前6時前は、空は明けていますが、

曇天では、まだすっきりしない。

6時10分前に着座、すでに幾人かの参禅者、

驚いたのは椅子席が3つもる。

 

坊守さんの撞かれる梵鐘は午前6時の時報、

禅堂の戸が開いているせいか、鐘の音は一段とすみ、お腹まで響く波長。

同時に老師の撞かれる「小鐘3つはスタート」。

 

直ぐに、老師の座中のお話がはじまる。

「道元禅師様お教えの坐禅は、まず座ること、すなわち「正身端坐」、

正しくすわることを示された。

「正しく座る」とは、まず脚を組み、手のひらを組み、腰を立て、あごを引き、口を閉じ、目を開ける事、

形が整ったら、息を鼻から出し入れする、

息の音は隣の参禅者の気にならない程度、

「微鼻息かすかに」とある。かすかにとは、微妙で気遣かいされた息の出し入れ。

「心姿すでに整のい」、「心姿」とは、正しい端坐か、息は鼻からかすかか、その姿をはっきり見極めているか。

この時の気持ち・心を「手の平の上に置く」調心という。

「身を整え・呼吸を整え・心を整える」この3つが「三信」で坐禅の要素。

これが、お釈迦様のおすすめ。

世の中を生きるのは息苦しく、いろいろに難問に当たるのが普通、

その対処方法が坐禅であることを、お釈迦様80年の生きざまで会得された、

また道元禅師様は、「それが今を生き抜く最高の方法だ」と釈迦80年の生き方から学ばれた。

それが今、座っている道元禅師様が進める「座禅」です。

老師経験の中での事例、

「死のうとは思わないが、生きていることがつらいことがある」との

悩みの人が続けられた。

そんな時、御仏の像の前に座る、ただ座っていても何も起こらない、新しい命が満ちてくるまで座るのです、

正しい端坐・3信の実行の中でそれが現れてくるものだと。

多くの悩み苦しみ、その中に自分を入れ込んでいく、一筋の光明を得る。

お釈迦様がそうだったと伝えられた。

 

「光陰矢のごとし」歳をとると、命の有りようが見えてくる、

ろうそくが自然にすり減り消えていく様、みんなが消える日まで、生き続けなければなりません

「いつかは来る死とは、生という中にある過程」、

それは一体であり流れの中にあるのです、人それぞれにみな異な思い。

それでも結果はみんな同じことに。それが

「私の身は、代々のご先祖様の命の営みが受け継がれている。そして生かされている現実、

それが今の私の命の営み」こうしたことに眼ざめること。

それがこの坐禅の中にあるようです。

老師の結びは、

「他人事でなく皆様は過去世のご先祖の生きざまを感じて生きる事を知る人々になる」、

老師が続けてきて来られた「早朝座禅会ダルマ会」が無駄ではなかったことだと」

そして、小鐘1つ。

「願わくば、この功徳を持って普く一切に及ぼし、

 我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」と、回向唱えられた。

今日の坐禅会は、老師の心の中が申され、ひと時緊張の時間も。

私は、この後の予定があり、座後茶話会に参加せず退席。

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