小さな葉のモミジの木を見ると思い出す人がある。その人は私の祖父くらいの年齢で、由緒ある旧家の庭師として活躍された方、そのご自宅の近くに引っ越して知り合いになった。日頃は植木鉢一つも置かれていない玄関前に、師走になると見たことのない大きさの葉牡丹が紅白で並んでいた。通る人が見返るその姿はさすが庭師とうならせる立派なもの。そんな年の離れた方に若輩の私が声をかけてもらっていた。
そのころ小さいが数本の松が庭にあった。父の知人が植栽し剪定も勝手にされていた。その方が亡くなられて松葉の伸びを見ながらどうするか思案していた。そんなとき庭師から「教えよう」と声を掛けられた。1年に2回挟みを入れる、その方法を教わった。それから十数年、枝ぶりを変えずに年2回の挟み入れは欠かさなかった。訳あって譲ったが今どうなっているだろう。
もう一つ習った。胸の高さほどのモミジが池の側にあった。「このくらいの大きさのモミジには小さな葉がにあう、7月の終わりまでにひと葉も残さずもぎ取ると秋には小さな葉が紅葉する」と教わった。その年の秋には、同じモミジとは思えない装いになった。庭師ほどいい仕事はない、仕事ぶりを眺めるふりをして一服出来る、と煙管を口にされる。
ほんわかと上る白色の煙は穏やかな庭師の人柄に似ていた。1度、内庭を見せてもらった。2畳ほどの広さの池のほとりには数本の赤い実のついた背の低い木が植えられていた。その質素とも思える造作の奥深い味わいは理解できなかった。旧家の庭師としての心構えがそうさせていたのかも、亡くなられて何年か過ぎてからそう感じたことを思い出す。
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