TENZANBOKKA78

アウトドアライフを中心に近況や、時には「天山歩荷」の頃の懐かしい思い出を、写真とともに気ままに綴っています。

國次太郎先生と坊ヶツル讃歌

2013年06月10日 | 山にまつわる話

(1980年秋 当時撮った久住の写真です。スキャナで読み込みました)

SUWV在籍中、三人の顧問の先生にお世話になった。1年の時は、ドイツ語の先生で…(申し訳ないが名前が思い出せない)。次に丹野先生。丹野先生が他の大学に移られ、その後顧問になってくださったのが國次太郎先生だった。

在学中、國次先生と一緒に山に登る機会が二度あった。
1回目は、大学3年秋の九重研修での久住登山だった。。
年季の入った登山靴とチロリアンハット姿は、先生自身が山好きであることを物語っていた。研修を無事終え帰りのバスの中で、先生は「坊ヶツル讃歌」を実に楽しそうに豊かな声量で歌ってくださったのを覚えている。

2回目は、九重研修の数ヶ月後に雲仙普賢岳にご一緒させていただいた。
このときは、福岡教育大(先生は福教大の方でも講義をされていた)のゼミの生徒を普賢登山に連れて行きたいということで、島原出身の私にガイド役として声がかかったのだった。
コースは、島原の焼山から鳩穴を経由して普賢岳であったが(このコースは平成3年の大火砕流で消滅し現在は存在しない)登りはじめてすぐに、「えっ!」と思う出来事があった。
それは、登山道の目印として木に巻いてあるテープを見るや、はさみを取り出し,いきなり切り取られたのだ。何をされるのだろうと見ていると、外したテープを別の枝に巻き直されたのだった。理由は、幹に巻いてあると木が生長するにつれ、テープが食い込み、木を傷めるからとのことだった。何という優しさだろうか、先生への敬愛の念がさらに深まった。

そんな先生が、年に1回発行する部誌「木霊」に寄稿してくださったのが、「坊ヶツル讃歌」の元歌になる「山男の歌」だった。


   「山男の歌」

  人みな花に 酔うときも
  残雪恋ひて(超えて)
  山に入り 涙を流す山男
  雪解の水に 春を知る
  
  - 以下省略 -

この元歌についてはネット上で多数紹介してあるが、「残雪恋ひて」を「超えて」と掛けて表記している歌詞はまだ見たことがない。
以前のブログにも書いたが、國次先生が紹介してくださった歌詞は実に深いと思う。

PS 「ミヤマキリシマ…」のくだりは、当然「ピンク」!  → 「ミヤマキリシマ咲き誇り…」
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初めての九重登山、初めての坊ヶツル讃歌

2013年06月10日 | SUWV
初めての九重登山と言うよりも、初めての山登りが九重新歓登山だった。
1978年の5月のこと、何もわからぬまま汽車とバスを乗り継いで長者原へ。
どんよりとした天気の中、重い荷物を持たされスガモリ越経由で坊ヶツルを目指した。


キスを担いでいるのが1年生。みんなかわいいね!?



スガモリ小屋の前にて記念撮影。ここに荷物を置いて三俣山へピストン。
三俣山頂での集合写真。一緒に写っている5年生、6年生の先輩は雲の上の人だった。


坊ヶツルにテントを張る頃から雨になる。次の日も雨で、一日沈殿。
狭くてじめじめとしたテントの中の生活は、初心者にとってはひじょうに辛いものがあった。
ところが、先輩達はというといたって陽気で、山の歌やゲームにと、降り続く雨などおかまいなしのバカ騒ぎだった。
そんな中、ふだん口数の少ないW先輩の提案で、「ここでは、やっぱこの歌じゃろ」と「坊ヶツル讃歌」を歌うことになったが、あのときの場面はなぜか今でもはっきりと覚えている。
それまでのテントの中の陽気さが一転し、しんみりと「坊ヶツル讃歌」を歌いあげる先輩達の姿に、山のことなど全くわからない私だったが、山男達の絆の深さみたいな何か神聖なものが感じとれた。
その漠然とした何かは、私をして、山から下りたらどのタイミングで退部を切り出そうかと考えていたのを思いとどまらせることとなった。
それまでは、「ワンゲルは狂気の集団か…」「こんな不衛生なテント生活など耐えられない」など一人悶々と不満をふくらませていたというのに…。

(「晴れの日の友より雨の日の友」アウトドアに雨はつきもので、悪天候のときこそ山への心構えが問われる。あの、雨の日のテントの異常なまでの盛り上がりは、山に不慣れな新入部員への思いやりであったと理解するには、もう少し山の経験を重ねる必要があった。)
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