車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

鷲原(わしはら)八幡宮~其の一 in 島根県津和野町

2018年09月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

津和野町鷲原イに鎮座される「鷲原(わしはら)八幡宮」。主祭神は『誉田別尊・玉依姫命・息長足姫尊・他15柱』。2012年・2019年、二度の参拝です。

社伝【平安時代の天暦年間(947~956)に山根六左衛門尉という郷士が豊前宇佐八幡宮を勧請したのに始まる。弘安五年(1282)吉見氏の家祖頼行が石見国入国に際し、鎌倉鶴岡八幡宮から勧請、2代頼直が嘉慶元年(1387)に現位置に社殿を建立して遷座したという。天文二十三年(1554)津和野城攻めで焼失するが、永禄十一年(1568)に吉見正頼が社殿を再建。正徳元年(1711)、亀井茲親により拝殿などが建てられる。吉見氏断絶後も津和野の守護神として崇められ、坂崎氏、亀井氏の歴代藩家から崇敬され、祇園社(現・弥栄神社)、武霊社(現・津和野神社)と合わせて津和野藩の3大社とされ、その筆頭に位置づけられた。明治6年(1873)、村社に列する。】

楼門は一間一戸の四脚門で、屋根は入母屋造茅葺。正面に片流れの向拝(檜皮葺)を付け、両脇には同じ梁間で桁行2間。屋根は杮葺で切妻造の翼廊が延びており、その姿は荘厳で優美。

楼門前左右より神域を守護されるのは、津和野藩御用彫刻師『石工:大島松渓』作の独創的かつ個性的な狛犬さん一対。

今回の「鷲原八幡宮」参拝、この狛犬さんがお目当てと言っても過言ではない位、焦がれていたご亭主殿。本当嬉しそうに何枚も何枚シャッターを切っていました(^-^)

バックシャンという言葉が有るそうですが、まさに後姿も美人(^-^)

このお顔・・・本当に優しくて愛らしい。神獣に愛らしいというのは如何なものかと笑われそうですが、初見の第一印象なので仕方ないです(笑)

楼門から続く拝殿は正徳元年(1711)の建立。入母屋造・鉄板葺き、桁行3間、梁間は2間。 

内部は畳敷きで、柱間は格子戸および格子窓。南正面に潔斎橋、東側面に神饌所が付属します。

本殿は石垣を築いて一段高くなった敷地に建ち、拝殿との間には石の階段が見えます。 建物は三間社流造、杮葺きで、正面に向唐破風造の向拝を設け、外周に覆屋を構えています。

鷲原八幡宮の楼門、拝殿、本殿は2011年11月29日付けで、国の重要文化財に指定されました。 まだまだ見所一杯の「鷲原八幡宮」ですが、長くなるので続きは明日(*^^*)

参拝日:2012年11月日&2019年4月17日

 

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太皷谷稲成神社~其の二 in 島根県津和野町

2018年09月11日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

殿町通りに面する社前町の入り口に立つ「稲成神社」一の鳥居。

鳥居前左右より神域を守護されるのは、長いたてがみをロングヘアーのように背に流した狛犬さん。胸前の筋肉が何故か気になる不思議な顔立ちの一対。

でもこんな顔をされて出迎えられると、そんな些細な事なんてどうでも良くなるかも(^^;)

道なりに左折すると見えてくる神橋と稲荷の朱の鳥居。

真っ直ぐに進み小さな稲荷の祠に手を合わせたら、左に折れて千本鳥居への一歩を。

差し込む光を受けて、その石段はまるで別世界に誘うかのように・・

緑の中にひときわ鮮やかに、朱の千本鳥居が山頂を目指して続いています。

頑張って千本鳥居を潜ってきた人は、昭和47年12月に竣工の、鮮やかな朱塗りの神門に出迎えられます。 中央の門は新年や祭事の時のみに開門され、普段は左右の門から入るようになっています。

ここまで・・距離にしておおよそ300メートル、足に問題を抱えていなければ多少の無理も押してみたかったのですが・・訪問先はここだけではない事を思うと、無理をしなくて済む場所は楽をさせて貰ったほうがどっちにとっても有難いのです。

境内側から見る神門

神門の先に

263段の石段が続きます

2012年の参拝は鮮やかな紅葉と朱塗りの千本鳥居とのコラボ

未だ千本鳥居に未練はありますが、ここに限らず、私たちは(私はと言うべきですが)歩行距離を少なくする為、可能な限り車で行ける場所までは車で行くをスタンスにしています。だからこちらのように、第二鳥居の側に駐車場がある状況は、実は非常に有難いのです。

参拝日:2012年11月11日&2019年4月18日

 

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太皷谷稲成神社~其の一 in 島根県津和野町

2018年09月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

津和野町後田に鎮座される「太皷谷稲成神社」。通称「津和野のおいなりさん」と親しまれます。かってこの地は津和野城の城山の一角で、時告げの太鼓が鳴り響く谷間にあった事から、太鼓谷と呼ばれました。

日本五大稲荷の一つに数えられており、御祭神は『宇迦之御魂神・伊弉冉尊』。 絵馬には宝珠を持って雲に乗る『稲成大神』と、稲穂を咥えたお先狐(神狐)。「いなり」=「稲成」の表記は日本ではここのみとされ、願い事が叶うようにとの意味を持ちます。

由緒【安永2年(1773)、津和野藩7代藩主『亀井矩貞』が、藩の領民安寧のために京都の「伏見稲荷大社」から勧請を受け、三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したのに始まる。以降、歴代藩主の崇敬を受け、廃藩後は庶民も参拝できるようになり、中国地方有数の稲荷神社となった。】

朱塗りの拝殿・本殿は、昭和44 年(1969)の再建

拝殿に掛けられた大しめ縄、島根県内でも石見地方の神社ではこうした大しめ縄を良く見かけます。

華麗と言う言葉がふさわしい拝殿内

拝殿前左右より神域を守護される神狐さん一対。向かって左は巻物を咥えているのですが・・相方は何を足の下に置いているのでしょう?

表参道右手に鎮座される「元宮(旧熊野神社)」。御祭神は『伊弉冉尊(熊野大神)、宇迦之御魂神(稲成大神)』

太皷谷稲成神社ではまずこちらの「元宮」を一番最初に参拝します。

「江戸後期の安永2年5月15日、藩主七代亀井矩貞公により、京都伏見より稲荷大神を、城内の一角である太皷谷の峰(津和野城の鬼門)に勧請。慶應3年7月、津和野藩の神社整理により、津和野乙女山に鎮座の熊野権現社を稲成神社に遷し、相殿として奉斎。以来、社号を熊野神社と称した。大正12年、現社殿を建立し、昭和2年に熊野神社から稲成神社と改称。昭和44年、新社殿建立につき、当旧社殿を「元宮」と改め、熊野・稲荷両信仰の神域として現在に至る。」公式HPより

拝殿奉納額「宝珠を持って雲に乗る『稲成大神』と、稲穂を咥えたお先狐(神狐)」の鏝絵。

拝殿奉納額「天人」の鏝絵

拝殿奉納額「鳥居の奥に稲穂:左右に命婦専女神」

次に「元宮」の後方に鎮座される「命婦社」を参拝。御祭神は『命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)=(稲成大神お使いの夫婦の白狐神)』

「古来より、命婦社での祈りは、京都の伏見稲荷大社に通じるとの伝説が残り、霊験顕著な神域として崇敬されます。通称「おじょう」とも呼ばれ、脇にはいつもローソクの火が絶えず、神妙な風格を漂わせています。」公式HPより

三番目に後方に見える拝殿に参拝し、最後に御本殿裏手の新殿裏奉拝所」に参拝する四所参りがこちらの作法となっています。稲荷信仰では古来より、御祭神は本殿の背後より出入りするとの言い伝えが残る事から、このようなご神域が設けられた旨が公式HPに記載されています。

拝殿を背景にして

明日は稲成といえば外せない朱の千本鳥居の紹介です。

参拝日:2012年11月11日&2019年4月18日

 

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弥栄(やさか)神社 in 島根県津和野町

2018年09月10日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

津和野町後田に鎮座される「弥栄(やさか)神社」。御祭神は『須佐之男命』

「もと滝本祗園社といい、太鼓谷の山上にあったが、室町時代の正長元年(1428)、時の領主吉見弘信が、城の鬼門鎮護のため現在地に移した。その後享禄元年(1528)、吉見正頼が、山城国の八坂神社(京都市)から改めて分霊を勧請したという。慶応三年(1867)、現社号に改めた。」津和野観光HPより

御本殿側面より

拝殿内に奉納された鏝絵額は「津和野町 藤本誠一氏」作で、「鷺と掘割の鯉」

「津和野町 田中宷氏」作、鏝絵奉納額「鷺と笹竹」

・・・・・で、私たちは素敵な鏝絵に舞い上がって、二人揃って拝殿の写真を撮るのをすっかり!キッパリ忘れていました。後で確認したところ、お互いに相方が撮っている筈だと思ったようです。代りに「津和野今昔百景図」を(ーー゛);

津和野町指定文化財天然記念物「弥栄神社の大欅」

推定樹齢およそ600年以上。正長元年(1428)に吉見弘信が植えたと伝えられています。

意志あるもののように見える木の瘤・・自然は時として予測もつかない芸術を生み出します。

大人しく頭を撫でられる巨獣の図・・(-_-;)

弥栄神社では、毎年7月20日・27日に祇園祭の神事として「鷺舞」が奉納されます。鷺舞は室町時代から、京都八坂神社:祇園祭の山鉾(やまほこ)巡行で演じられる神事として各地に伝承されましたが、江戸時代中期に途絶えてしまい、唯一、津和野に伝承された鷺舞だけが、400年間変る事無く奉納され続けています。殿町通りで見つけた「弥栄神社・祇園祭:鷺舞」の像。

「津和野弥栄神社の鷺舞」として国の重要無形民俗文化財に指定された鷺舞。津和野の町を歩いていると、思いもかけない場所に「鷺舞」が登場して私たちを喜ばせてくれます(^-^)。

観光地定番の顔出し(笑)

参拝日:2019年4月18日

(鷺舞画像のみ2012年11月10日を含む)

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覚皇山:永明寺(ようめいじ) in 島根県津和野町

2018年09月09日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

津和野町後田ロに門を構える曹洞宗寺院「覚皇山(かくおうざん):永明寺(ようめいじ)」『釈迦牟尼佛』を本尊とします。島根県最古の別格大禅院であり、歴代の津和野城主たちの菩提寺として約600年の歴史を持ちます。石段先に出迎えてくれるのは、津和野城の総門を移築した山門。

寺歴「応永二十七年(1420)に津和野城主『吉見頼弘』が、『月因性初(げついん しょうしょ)禅師』に願い出て開山。以来、吉見氏十二代、『坂崎出羽守』一代、亀井氏十二代と、歴代の津和野城主の菩提寺として栄えた。元禄十一年(1698)に諸堂が大火により焼失するも後に再興される。」境内案内より抜粋

境内から見上げる石段の先、左に「中雀門(ちゅうじゃくもん)」と奥に本堂の屋根。右手石段の先に「鐘楼門(しょうろうもん)」。

「中雀門」正面、総茅葺き:縋破風(すがるはふ)の「本堂」は享保14年(1729)の再建。

本堂の向かって右手に、江戸時代後期の築とされる「庫裏」

本堂向かって左手、鮮やかな木々に彩られた庭園がわずかに垣間見えます。

「中雀門」から見る「鐘楼門」

「鐘楼門」の右下に、切妻造白漆喰の「経蔵」

山門から左に進むと、濃い緑に包まれた一画にひっそりと佇む「森鴎外墓所」

墓石には鴎外が残した遺言通り「森林太郎墓」の文字が、『中村不折』の筆で刻まれています。

境内一隅に『淡島明神』を祀る「淡島堂」の堂宇。

紙人形作家『河津匂子(かおるこ)』歌碑

【紙人形  紙の椿を  持たせけり】

参拝日:2019年4月18日

 

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山陰の小京都2019年~其の三 in 島根県津和野町

2018年09月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

心地よい春の日差しの中、自分たちの思うようにそぞろ歩く津和野の町歩き、やっぱり良いですね~(^-^) 夕方近くに訪ねた七年前と違って津和野カトリック教会も何となくさわやか。

畳にステンドグラスの光は差し込みませんでしたが、光を反射するステンドグラスは信仰を持たない私にもちゃんと美しく見えます。

協会の道路向かいにある「松韻亭蔵」。お日様の下で見ると石州瓦の赤がより一層際だって見えますね。

切妻造鉄板葺の店舗は、江戸時代から続くお香のお店「分銅屋 七右衛門本店」。

北入母屋南切妻造桟瓦葺で、側面を大壁造、正面を真壁造とし、両端に袖卯建を持つのは、明治創業の造り酒屋「古橋酒造株式会社」

今日はこちらのお店でとっても「物凄いモノ!」を見せて頂きました。ぬっと突き出した首、ランランと光る眼、鋭く並ぶ牙にのたうつ胴体・・・

制作は地元の左官『藤本誠一氏』によるもの。まさかこんな物凄い鏝絵の大作を見られるなんて!!、もうそれだけで津和野が好きになれそう・・って、元から好きなんですが(^^;)

お店の方に笑われそうな勢いでデジカメを向け続ける御亭主殿。本当に良いものを見せて頂きました。有難うございました(*^^*)

今回はこちらで鏝絵にも描かれていた「初陣」をお買い上げ。大好きな鏝絵に美味しい日本酒。御亭主殿、幸せそうですね(笑)

木造つし2階建。上屋部分には袖卯建。格子が美しい虫籠窓を持つのは「橋本本店」。左右袖塀付の表門が更に格式を添えて美しい佇まい。

登録文化財で有っても無くても関係ない。だってほら、ほんの少し迷い込んだ辻で見かける趣のある佇まい。

山陰の小京都とはまさに!一歩ずつが本当に発見の連続で、もうこのまま時間が止まればよいのにと思ってしまう。

ああ、いつの間にか津和野駅が見えて来たよ。

右から左に書かれた「のわつ」の駅名版。あの赤い電車は今でも稼働しているのかしら? こんな情景を見ると決まって電車の旅がしたくなる。でも結局一度も実行していないんだよね(^^;)

駅前に、津和野の素敵を一杯満載したバスが。朱い鳥居は「太鼓谷稲成神社」、鳥居の側で愛嬌を振りまいているのは「つわみん」。ご当地ものとしては充分に存在感を発揮しています。

丸々一日半を費やした津和野時間、まだまだ続きます

訪問日:2019年4月18日

 

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山陰の小京都2019年~其の二 in 島根県津和野町

2018年09月08日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

前々回に紹介した「物見櫓」で終わった其の一、二日目は同じく前々回に紹介した「藩邸馬場先櫓」。

今回は明るい時間帯なので角度を変えて写してみましたが、どうでしょう?(^^;)

「井戸」大きな格子の鉄蓋がありましたが、基本的にこういう構造物は近寄らない事にしています(-_-;) だって貞子が・・

「津和野藩庁正門跡」ここはかって津和野藩庁門の有った処で後、県立津和野中学校、県立津和野高等学校の正門として使われていました。

春の日差しを受けて流れる津和野川。それはそのまま絵葉書の世界のように美しく、こんな時に画才が有ったら、きっと座り込んでしまうだろな

津和野川沿いの道をのんびりと歩き、太鼓谷稲成の千本鳥居をほんの数段試し登り。すぐ近くに「総霊社」の鳥居を見かけて参拝。幕末に津和野藩の神葬祭政策で設けられた社ですが、神式の葬儀はあまり浸透しなかったようですね。

後に紹介する「藪原神社」参拝を終えて殿町通りへ。津和野川を跨ぐ山口線の鉄橋。これで電車とか来たら最高なんだけど、そう都合よくはいかないみたい(笑)

またしても徳川無声さんの句碑に目が留まって・・どうも文学碑に限らずですが、「碑」と名の付く物には何故か吸い寄せられてしまいます。そのくせしょっちゅう取りこぼしているのですが・・

7年前にも感動した殿町通りのこの景色・・今回は全面解体によって保存修理工事がなされ、改めてきちんと感動できました。きちんと感動ってどんな感動?などと野暮なことは聞かないように。

殿町通りの中心部では、鮮やかな鯉たちが掘割の中を優雅に泳ぎ、観光客を出迎えます。 鯉が飼われ始めたのは『坂崎出羽守』時代からと言われていますが、今では人口を超える数の鯉がいるとか。

掘割から飛び出すくらい沢山います・・(^_^;)

鯉はさて置き、さっそく養老館へ。今日は時間もたっぷり有るし、前回行けなかった場所は心残りの無いように行っておかなければね。

武術教場の上座には一段高く板の間が設けられ、養老館での学びの様子が描かれた屏風が置かれています。

稽古に励む藩士たちの掛け声が聞こえてきそうな空間。この日は何故か他の観光客とあまりかち合わず、ゆっくりと往時の雰囲気に浸れました。

中の通路越しに見えたこの建物は・・はて?何だったっけ??

敷地内に建立されていた「森鴎外遺言碑」。大正十一年七月六日、鴎外は親友「賀古鶴所」を枕元に呼び寄せ、【・・・余ハ石見ノ人森林太郎トシテ
死セント欲ス・・・・】の遺言を口述させました。

津和野の町歩き、まだまだ続きます

訪問日:2019年4月18日

 

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山陰の小京都:2019年~其の一 in 島根県津和野町

2018年09月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

感動は消えやらずそれから7年を経ての再訪・・でも改めて画像をみると、ほぼ同じような場所を訪ねている・・まぁ好みと言うものはそう簡単に変わるものではないという証ですが・・今回はJR山口線津和野駅の北側にある「津和野駅転車台」からスタート。津和野駅は快速「SLやまぐち号」の終着駅と言う事で、ここには「SLやまぐち号」の為の現役の転車台が残されているのです。

津和野の紹介ページに必ずと言ってよい程登場する「SLやまぐち号」。山間の緑の中を走る黒い機関車は、鉄オタならずとも心ときめかせる風情がありますが、実は機を逃して一度も乗った事がありません(^^;) だからという訳ではありませんが2012年に津和野駅に展示されているSL列車を見た時は、子供みたいに喜んだものです。

2019年の再訪でもやっぱり「D51」君に会わずにはいられなかったらしく(笑)、七年ぶりの再会。白泉部分が無くなってより男らしくなったかな?

山口線現役時代最後のSL列車「D51型194号機」。運転席に入ることもできるとあって、ご亭主殿、ちょっと楽しそう(^-^)

この後、太鼓谷稲成神社と鷲原八幡宮に参拝。二度目の津和野町歩き・一日目のスタートは、津和野町中座ロにある「高砂酒蔵資料館」

江戸時代から続く築200年以上の蔵を利用した館内には江戸から昭和30年ごろまでの酒造りに関する道具、酒器などが展示されており、自由に見学する事ができます。

津和野町町田イ、前回訪問した『西周』生家と津和野川をへだてた向かいに、『森鴎外(林太郎)』が明治5年(1872)11歳で上京するまで過ごした旧宅が残されています。

「旧居は森家の上京後人手に渡り、一時は他所に移築されていたましたが、昭和29年(1954)鴎外33回忌にあたり、津和野町がこれを買い戻し、現在地に復元しました。この旧居も建築以来130年、老朽化が著しいため、昭和59年(1984)秋に解体、全面的に修理され、昭和44年(1969)に国の史跡に指定されています。」しまね観光ナビより

文久2年(1862)1月19日にこの家で生まれ、11歳まで過ごした生家に彼が戻ってくることは一度もありませんでした。ですが遺書に記された「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」に籠められた故郷への想いは決して消え失せてはいなかったのだと思います。

生家と隣接する「森鴎外記念館」では彼の遺品や直筆原稿などを見ることができます。膨大な資料の中で今でも鮮明に思い出すのは・・「乃木及同夫人死体検案始末」と題された一枚の資料。鮮血の中に伏した二人の姿は・・衝撃的で切なく痛ましく・・悲しい程に潔くて涙が止められませんでした。

かって津和野藩主の庭園の一部だった「嘉楽園」。明治維新の御殿解体後は荒廃していましたが、その後、一部が復元され、町民の散策の場として親しまれています。

園の中心に、明治24年に建立された旧津和野城主『亀井茲監』頌徳碑。像は、ドイツへ留学していた亀井玆監(これみ)の養子、玆明の設計によりドイツで鋳造。題字は『三条実美』、碑文は『西周作』

ちなみにですが、銅像としては日本における初期の頃のものとして有名で、我が国でもっとも古いかもしれないといわれていると・・これは日本遺産津和野今昔からの受け売り。

小高く作られた基壇の上に建立された「忠魂之碑」。揮毫は『陸軍中将:木越安綱男爵』

贈従四位大國隆正翁之碑」。津和野藩の国学者。平田篤胤に国学を学び、後に脱藩して京都で国学を講じ、亀井茲監の許しを得て藩に復帰。養老館で教授を務めた人物。

「山邊丈夫(やまべたけお)君頌徳碑」。元津和野藩士で東洋紡の創始者。
嫡子亀井茲明のイギリス留学に随行し、経済学や保険学、機械工学を学んで帰国。渋沢栄一等の援助により、東洋紡の前身大阪紡績を設立。

道路側に見えるのは、前々回に紹介した旧藩邸の遺構「物見櫓」一棟。

まだまだ続く二度目の津和野町歩き、続きは明日のブログで

訪問日:2019年4月18日

 

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山陰の小京都:2012年~其の三 in 島根県津和野町

2018年09月07日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

道の駅:願成寺温泉で迎えた朝、昨日の激しい雨も収まって何とか無事に津和野まで引き返せそうです(^^;)

道の駅の敷地内には「静御前」のブロンズ像があるのですが、実はここ阿東徳佐地区は、静御前が大内満盛の庇護を受け「宝清山八幡宮」近くの「笊笥庵」に居住していたと伝えられており、静御前の墓と伝えられる宝篋印塔も文化財として保護されています。その伝説にちなんで作られた「静御前追慕の舞」・・・ひらりと打ち振る静御前の扇子が指し示すのは、遠く奥州平泉・・愛しい義経殿の墓。

ここまで来てその伝説の場所を訪ねないのはどうかと思いつつ、見残してしまった津和野の町歩きも捨て置けずで、後ろ髪惹かれながら津和野の町へと引きかえし、山陰の小京都二日目です。

道の駅「津和野温泉なごみの里」でくつろいだ後、朝一で参拝した神社はこの後の紹介に譲って、まずは明治の啓蒙思想家として名高い『西周(にしあまね)』が21歳まで過ごした生家を訪ねます。

文政十二年(1829)、津和野藩の御典医の家に生まれ、藩校で蘭学を学び、後、文久2年(1862)に幕命でオランダに留学。帰国後は開成所(東京大学の前身)の教授を拝命。明治の新政府では、兵部省(陸軍省)、文部省、宮内省の官僚を歴任。明治天皇の侍講(じこう)として、博物学、心理学、英国史などの講義を行い、陸軍省時代には軍政の整備と軍の精神の確立につとめ・・・と、ざっと書き出しただけでも凄い人物です。

「哲学」「心理学」「概念」「芸術」「理性」「科学」などの言葉を考案した周が21歳まで過ごした生家。業績と名前しか知らなかった人物が生まれ育って実際に過ごした家の前に立っている・・それだけで彼の存在が身近に感じられるから不思議です。

この後「太鼓谷稲成」に参拝(後ほど紹介)し、その足で向かったのは、「乙女峠マリア聖堂」

乙女の名が気になって調べた所、昔この地に津和野藩城主の姫が埋葬された事にちなんで「乙女山」と呼ばれたのが由来。では元は何と呼ばれていた山だったのかと更に調べてみましたが、それ以上の事は不明(-_-;)

私の足には予想以上にきつい坂道を登って30分、やっと平坦な場所に到達、その先に聖堂が見えてきました。赤や黄に彩られた敷地内には私たち以外に人影もなく、痛む足をさすりながら一休み。

差し伸べられる木々を背景に、ひっそりとそこに在る建物は「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる聖堂」として、昭和23年(1948)に建立。36人の殉教者やその背景については、ネット上にいくつも紹介されています。

キリスト教が厳禁だった明治元年に長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンたち。津和野藩の改宗のすすめに応じなかった37人が殉教の道を選びました。

改修を拒み責めを受ける信徒の前に、日本で唯一、聖母マリアが降臨され信徒を励ましたと伝えられる殉教の地。「マリア聖堂」の名は、「聖母マリア」に献堂された事からだと案内に書かれています。

館内には改宗のすすめに応じず殉教者の道を選んだ信者の様子を描いたステンドグラスが並べられ、敷地内には、キリシタン禁止令の中での、布教の様子を刻んだレリーフが建立されています。

黄色の絨毯に覆われた一画には、俗に「キリシタン灯籠」と呼ばれる「織部灯篭」が建立されています。「織部灯篭」は、「織部焼」で有名な『茶人:古田織部』が考案した石灯篭の総称ですが、その形が十字架に似ていることから、隠れキリシタンの偶像として拝まれていたと言います。

私は、特定の宗教を持っていませんが、だからと言って他国の神や仏の存在を否定しようとは思いません。 けれど・・本当に飢えた五歳の幼子が、自らの意思で与えられた食べ物を拒み、殺される事を望んだのだろうか。子の親はそれを素晴らしいと本当に心から褒め称えたのだろうか・・よしやそれが真実であるなら、神の名で心を縛り、命を差し出させても是とする「この神」の教えは・・やっぱり私にはわかりません。

「八百万の神々」の国で生きる私には、決して他を認めない唯一神の教えは・・多分一生理解できないだろうと思います

訪問日:2012年11月11日

 

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山陰の小京都:2012年~其の二 in 島根県津和野町

2018年09月07日 09時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

殿町通り藩校養老館の前に残るのは津和野藩の筆頭家老を勤めた「旧津和野藩家老多胡家表門」。幕末の安政年間(1854~1860)に建造されたもので、桁行5.5mの棟門、左右に番所を付設。昭和52年(1977)に県指定の文化財となりました。

養老館表門と向かい合う位置に、薬医門形式、切妻、桟瓦葺の「大岡家老門」。津和野藩の家老職を勤めた大岡家の表門で、向かって右側には潜り門が設けられており格式の高さが窺えます。

大岡家家老門を潜ると、これもまた心惹かれる佇まいの「津和野町役場津和野庁舎」。大正八年(1919)に「旧鹿足(かのあし)郡役所」として建築。

木造平屋建、瓦葺、真壁造りの和風建築で、正面に車寄せ。左右に翼屋が突き出す特徴的な役場建築の形態を持ち、大正期からの役場として親しまれています。

殿町通りを更に進むと右手に、昭和6年(1931)、ドイツ人シェーファー神父によって建てられたゴシック風建築の「津和野カトリック教会」が見えてきました。

内部は畳敷きになっており、色鮮やかなステンドグラスが祭壇を美しく彩ります。明るい時間ならステンドグラスの色を通して畳の床はもっと鮮やかに染まった事でしょう。

白い漆喰壁に石州瓦の赤い屋根が彩る城下町に、いつの間にか溶け込んでいる西洋ゴシックの建物。それに何の違和感も感じさせない懐の深さがこの町には有るのです。

カトリック教会の道路向かいには「沙羅の木松韻亭」。道路を挟んで「三松堂菓子庵」

四つ角の先、菓子庵の向かいに建つのは、津和野の代表的な町家建築「財間家住宅」。ここを境に道は本町通になります。

すれ違う人もない本町通から振り返る殿町通りも、いつの間にか人影が見えなくなりました。

ゆかしい景色を独り占めにして歩く津和野の町・・でもやっぱりこんなに静かだと、ちょっとばかり寂しいね(^^;)

享保二年より数えて十五代目と書かれた酒樽が一際存在感を放つ「橋本本店」。こんな時間にはオレンジ色の灯りがとても暖かくて、店先に置かれた床几が本当に嬉しいと思える。

享保15年創業の「華泉酒造」。切妻造の2階大壁に開けられた虫籠窓、両端に袖卯建を付けた建物は明治中期に建てられたもの。土間から漏れる明かりの温かさに誘われて、御亭主殿の足が思わず立ち止まってしまうのは・・これはもう想定内。

立ち寄った店内のしつらえの誘惑に抗えなかったようで、機嫌よく小さめの袋を下げて出てきました(笑)

津和野駅まで歩いたところで、今日の町歩きは終わり。さぁ、陶板の鷺舞に見送られて、元来た道を引きかえしましょうね。晩秋の夕暮れは驚くほど早く、お気に入りの町並を黒いレースのヴェールに包み込んでいきます。

今日はこの後山口県の「道の駅:願成寺温泉」まで足を延ばしてゆっくりと温まってきます。・・・とルンルン気分だったのに予想外の山越え。山間の町だという事を改めて認識しました。温泉はとっても気持ちよくてすっかり温まったのですが、外は物凄い土砂降りで津和野まで引き返せず・・・

予想外の散々な一夜となりました。

山陰の小京都、一夜明けてまだまだ続きます(*^^*)

訪問日:2012年11月10日

 

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