車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

山陰の小京都:2012年~其の一 in 島根県津和野町

2018年09月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

初めて「津和野」の文字を目にしたのは、まだ中学生の頃に図書室で見つけた一冊の本の中。桧皮葺の建物は、それは多分神社か何かだったと思うのですが、その美しい姿が目に焼き付いて離れず、いつかは訪ねてみたい憧れの地として心に刻み込まれました。年を経て・・初めて津和野の町に降り立った時の、溜息と共に感じた甘酸っぱいような嬉しさは、今も忘れられません。

車で知らない土地に行くにはナビだけが頼り。この日私たちは山口県の須佐から津和野に入ったのですが・・お馬鹿なナビと無知ゆえの無謀さで険道と名高い(後で知りました)山間の303号線・20分のドライブを経験した後だけに、安堵もひとしおだった気がします(^_^;)

やっとの思いで辿りついた初めての「津和野」。山間の小さな盆地には、山陰の小京都の名に恥じない津和野藩城下の佇まいが美しく残されていました。

今回は紀行文風に歩いたコースに従っての紹介、まずはだだっ広い大駐車場に車を入れて、町歩きのスタートは「国指定史跡 津和野城址(大手登山口)の碑から。もちろん、碑を見ただけで次へ(笑)

津和野町後田ハ、道路左手に見えて来たのは「津和野城址物見櫓」。木造2階建て、入母屋、桟瓦葺き、白漆喰仕上げに海鼠壁で2階正面左側は出格子。津和野城の麓に設けられた津和野藩邸(藩庁、藩主居館)正面に設置された4つの櫓の1つで、江戸時代末期の嘉永六年(1854)の火災で焼失後に再建されたものと推定されています。大正時代に全面道路の拡幅工事に伴い、現在地である「嘉楽園」の敷地に移築されました。

そのまま道なりにしばらく歩いて右手、津和野町後田に「津和野城址馬場先櫓跡」。建築年は物見櫓と同時期で、津和野藩の馬場に隣接していた事から名付けられました。

木造2階建て、入母屋、本瓦葺き、平入、石垣の基礎、腰壁は下見板張り縦押縁押え、外壁は真壁造り白漆喰仕上げで、上層部は格子が取り付けられています。津和野城の建物の遺構は馬場先櫓と先の物見櫓の2棟のみで、唯一当時からの位置に現存しています。

橋を渡ってここは津和野町森村イ。右手に何やら心そそる、白漆喰土蔵造りの建物が見えてきました。

津和野藩の筆頭庄屋「旧弥重家住宅」を往時のままに復元した「杜(もり)塾美術館」

美しい佇まいですが、時間も押している事ゆえ、門から一瞥して次へ

道沿いにまっすぐ進んだ三差路の右手、津和野町森村650に「津和野町郷土館」

大正十年(1921)、島根県内で最初に開館した歴史博物館で、館内には津和野町内で出土した考古遺物や、津和野藩関係の歴史資料などが展示されています。登録有形文化財の建物・・・はぁ~~~美しい。

津和野大橋を渡って左に「太皷谷稲成神社」一の鳥居。参道にはお土産を扱うお店がズラリと並んでいますが、寄り道は厳禁。何しろ時間が・・(-_-;)

と言いつつ句碑を見つけてしまう辺りがいかにも私らしい。 山茶花の 雨となりたる 別れかな 徳川夢声 】

殿町通りでもこの「藩校:養老館」付近は津和野の町歩きでは特に人気の高いスポット。もちろん・・館内見学の受付は終了してます(-"-)

それでも掘割に人が近づく気配を察して集まってくる鯉たち

お日様の恩恵を失いつつある時間帯ですが、殿町通りには沢山の人が行き交っています。

こんな時間にもかかわらず、町歩きはまだしばらく続きます

訪問日:2012年11月10日

 

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美濃地屋敷 in 島根県益田市匹見町

2018年09月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

「道の駅:匹見峡」の道路向かいに、一際眼を引く茅葺の大屋根は「美濃地屋敷」

かって「たたら業」で栄え、江戸時代後期には周辺の村々を管理してきた「割元庄屋・美濃地家」。 入母屋づくりの母屋と白漆喰の米倉は、1855年に改築された当時のままの姿で残されています。

出自は秦氏といわれ、戦国期には雲州富田城主の尼子氏に仕え、その後美濃地村に移住。七尾城主『益田兼堯』に仕えるにあたり、その任地の地名をもって姓としたと伝えられています。

現在の美濃地屋敷は、旧匹見町時代に所有者から寄託を受けて町が管理。屋敷内の見学も可能で、また屋敷を丸ごと利用した活動も展開され、地元のグループによる様々な試みがなされています。

床の間のしつらえが格式を感じさせます。

多人数が共にくつろげる大きな囲炉裏

外光を上手に取り入れた明るい竈場

白漆喰の米倉に施された鳳凰の鏝絵は、屋敷が建てられた当時のものだそうです。もちろん、時代による劣化の為の修復はなされたのでしょうが、それにしても美しい。

倉の展示スペースには、美濃地家に代々伝えられた漆器や酒気などの家財、奥向きの女性たちが用いたであろう装身具の数々が。

また、季節ごとに飾られた節句人形が、当時の華やかさをそのままに観覧者を迎えてくれます。ガラスケース越しですが、この武者人形、ステキでしょう(*_*)

母屋の隣に新たに建設された民俗資料館、2階には数多くの農具や民具が展示されています。でも私たちの目を引いたのは1階に展示されていた「道川神楽社中」の石見神楽資料の数々。

金糸・銀糸を使用した刺繍は、今にも袖や背中から飛び出し雄叫びを上げそうに鮮やかな龍。数十キロの衣装をまとい、いかにも軽やかに立ち回る舞子の所作は、実に惚れ惚れとします。

旧割元庄屋の繁栄を今に伝える「旧美濃地家住宅母屋」は、2018年3月27日国登録有形文化財に指定されました。

訪問日:2012年11月9日

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旧美濃郡匹見町(ひきみちょう)は益田市西部に位置した町です。町域の殆どが森林に囲まれており、広島県、山口県と境を接しています。豪雪地帯対策特別措置法に基づく豪雪地帯としては日本最西端に位置し、1963年の三八豪雪以降より過疎が進行。「過疎発祥の地」としても知られています。「町の木:匹見杉」「町の花:岸ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により美濃郡道川村・匹見上村・匹見下村が発足。

1955年、美濃郡道川村・匹見上村・匹見下村が合併、美濃郡匹見村が発足。

1956年、匹見村が町制を施行、美濃郡匹見町となります。

2004年、益田市に編入、益田市匹見町となりました。

昭和30年(1955)7月1日制定の町章は「匹を図案化したものです。」

今回訪れた旧匹見町域では、残念ながらマンホール類は発見できませんでした。

 

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ぶらり益田あちこちウォッチ in 島根県益田市

2018年09月03日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

雪舟ゆかりの「医光寺」から川を越えた益田市本町に残る「旧美濃郡役所」。大正10年(1921)に建築され役所、警察署などをへて、昭和58年(1983)に「益田市立歴史民俗資料館」となりました。

和風、桟瓦葺平屋建の建物で、左右前方に突出する入母屋造の翼屋を持ち、正面に車寄せの形式は、大正時代の役所建築の特徴をよく示したものとして1996年に国登録有形文化財に指定されています。

高津川下流にかかる「高角橋(たかつのばし)」「全国的にも大規模で、かつ島根県では唯一のRCローゼ桁橋で、5連のアーチが美しい橋です。」と、JSCEのHPに記載されています。さらに特筆して欲しいのは「アーチリブに施された窪み」。橋を渡りながらの写真なので内側のみですが、このアーチリブの窪みは外側にもあるそうです。「高角橋」は、2011にJSCE土木学会の「選奨土木遺産」に認定されています。 

益田市中心部近く、島根県西部・山口県北部を利用圏とする「萩石見空港」があります。 島根県西部の高速交通網整備を目的として、1993年に島根県下3番目の空港として開港。

さて、石見といえば『柿本人麻呂』。空港駐車場の近くには、石見を詠んだ人麻呂さんの歌碑が建立されています。

【 石見のや 高角山の木の際より わが振る袖を 妹見つらむか 】

もう直ぐ飛行機が到着するからと聞いて、寒い高台で機体が見えるのを一時間も待ってた二人・・ 今思うと、なんであんなに長い時間を費やして飛行機を待ったのか・・不思議でなりません?
私たちに飛行機の到着を教えてくれたおっちゃんは、毎日ここに来て飛行機を眺めているそうです。

益田市高津町の国道191号線沿いを走っているとき、ちょっと気になる風景を見つけました。 ここは三里ヶ浜の海水浴場の一部「持石海岸」。海岸沿いには、意図不明の石のモニュメントが・・・

海に面した窓石のモニュメントには「心に刻む益田十景」「三里ヶ浜海岸の夕日と漁火」の文字。 このモニュメントの穴から、日本海の夕日とか漁火とかを眺める?? いや、まさかね(^^;)

しばらくの間、砕ける波の音に耳を傾けていましたが、11月の日本海は風が冷たいのです。 真っ白に砕ける波の向こう、左手に小さく見えるのは観音岩、その向こうはもう山口県です。

車に戻りかけてふと目に入った・・・あれは何だったんだろう?

訪問日:2012年11月10日

 

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雪舟山水郷 in 島根県益田市乙吉町

2018年09月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

備中国(岡山県総社市)に生まれ、10歳で京都相国寺で禅の修行を積みながら、当時最高と言われた『天章周文』に絵を学び、後に遣明船に同乗して明国に渡り、李在より中国の画法を学んだと伝えられる『雪舟』。岡山県出身の私が初めて『雪舟』に触れたのは、小学校の校長室前の廊下に並んでいた『和気清麻呂』『緒方洪庵』『犬養毅』諸氏の肖像画の中だと記憶しています。

益田市乙吉町にある「雪舟山水郷」は、雪舟の郷記念館を中心とした雪舟終焉の地一帯で、雪舟の死没地「東光寺跡」には冒頭の「雪舟禅師銅像」「雪舟禅師終焉地碑」などが建立されています。

「石州山地 雪舟廟」

「晩年、益田を再訪した雪舟は東光寺の本尊観音菩薩の前にぬかずき、酒をくみ、尺八を奏でた後で、水墨画を描いていたが、ついにこの地において文亀2年(1502)に83歳の生涯を終えたと言い伝えられる。 雪舟の遺骨は東光寺の丘に埋葬され宝篋印塔が置かれていたが、宝永のころ摩滅して退廃したので土地の人によって再建された。墓は高さ160cm、台石2段の上に扉を設けた石室を置き、その内部に「石州山地雪舟廟」と記され、石室内には雪舟の旧墓の相輪の部分が納められている。」雪舟の郷記念館HPより

雪舟禅師追褒塔(せっしゅうぜんしついほうとう)」

「雪舟禅師面影石と大喜庵の雪舟お手植椿」

東光寺の後方に設けられた「多根兼政公顕彰碑」。益田兼時の命により、蒙古襲来の防備の為に濠を築き、川をせき止め濠を築く大土木工事を成し遂げた人物だそうです。

「多根兼政公御廟所」

「雪舟の郷:記念館」・・・何故か休館日でした(-_-;)

訪問日:2019年4月19日

 

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医光寺(いこうじ)in 島根県益田市七尾町

2018年09月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

益田市七尾町、標高約120メートルの七尾山に築かれた「七尾城」。別名「益田七尾城、益田城」とも呼ばれた山城。『益田兼高』が建久4年(1193)に築城したと伝えられ、標高約118mの山頂の本丸跡からは、眼下に益田平野から日本海までを一望する事ができるそうです。でも、二人とも年季の入った根性無しなので、石段上の「国史跡:七尾城址」の幟を見て回れ右(-_-;)

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた『毛利輝元』は、周防国・長門国の2ヶ国へ減封。その折、『益田元祥』も毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となりました。遺構として残された七尾城の大手門は、益田市染羽町にある「医光寺」に移築。その後、竹田の番匠によって屋根を黄檗(おうばく)宗寺院の山門にみられる竜宮造に改造。昭和36年「医光寺総門」は、島根県有形文化財に指定されています。

臨済宗東福寺派寺院「滝蔵山:医光寺」『薬師如来』を本尊とします。もとは天台宗崇観寺(すうかんじ)の塔頭でしたが、戦国時代に崇観寺は荒廃。天文年間に益田氏17代当主『益田宗兼』が塔頭医光寺を再興し、以後は医光寺が継承寺院となっています。

文明年間(1469~1487)画聖:雪舟が、第五世住職として万福寺から移った際に、山崖をそのまま活かして名園を築きました。現在の庭は享保14年(1729)の大火後再建されたもので、池泉観賞半回遊式庭園といわれ、雪舟庭園として国史跡および名勝に指定されています。

中門(市兵衛門)。享保14年(1729)の大火後、中門だけが30年経っても再建出来ませんでした。その時、寺僕の市兵衛は自ら再建を申し出、あらゆる節約・努力の果てに、安永年間(1772年~1781年)に中門の再建を果たしました。

中門:貫の彫刻は獅子と象

屋根を支えているのは力神?それとも、この中門再建の為に、一合の米を三合にのばして腹を満たし、爪に火を点すような節約を続けたと云う「市兵衛」さん?? 私としてはそれも有ではないかと思えてしまう。

中門を入ってすぐ、境内に奉られる「市兵衛地蔵」。その前には市兵衛さんが使ったという臼が、裏返しに埋められています。

鐘楼

境内の一画に設けられた「雪舟灰塚」。晩年、山寺東光寺に入山し、本尊観世音菩薩の下で禅の修業を兼ねて画の制作に励んでいた雪舟。やがて永正三年(1506)87歳(あるいは文亀二年(1502)83歳)、この地で生涯を終えました。東光寺で亡くなった雪舟の遺骸は崇観寺(医光寺)に運ばれ、そこで火葬にふされ雪舟灰塚を建てたと伝えられます。

近くに立ち並ぶ仏塔群

参拝日:2012年11月10日

明日は年代超えて訊ねた雪舟終焉の地「東光寺跡」の紹介です。

 

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櫛代賀姫(くしろかひめ)神社 in 島根県益田市久城町

2018年08月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

益田市久城町に鎮座される「式内社:櫛代賀姫(くしろかひめ)神社」。御祭神は『櫛代賀姫命(くしろかひめのみこと)・応神天皇』

由緒に【祭神は、この地方を開拓した櫛代族の祖神と して、天平五年(733)丑五月管長の命に より創建、大同元年(806)石見観察使藤 原緒継が鎌手大浜浦より現在地久城明星山に御 遷座、承和七年再建、爾来延喜式所載神社とし て崇敬せられ七尾城主、益田家より社領十二石 をも受け、益田、美濃郡、鹿足郡に渉る総氏神 、縫針の祖神として広く尊崇せらる。」

由緒碑の神紋「のぼり藤に久の字」は「益田氏」の家紋としても知られています。

中世に浜田市の上府八幡宮から浜八幡宮を勧請。武運の神として崇敬を集め、当地を本拠とする益田氏によって手厚く保護されてきました。
拝殿の後方に鎮座する三間社流造・銅板葺の本殿は、国登録有形文化財の指定。

本殿前より神域を守護される狛犬さん一対。塀の隙間から拝見させていただきました。石見系にしては柔らかい顔つきで、どちらかというと備前地方の貴公子タイプにも見えます。

境内入り口より神域を守護されるのは、文化十四年生まれの石見系構えの狛犬さん一対。 口中に玉を含む阿形さんの顎は、原型を大切に再現した補修がなされており、見た瞬間に嬉しさが・・(*^^*)

嬉しいと余分に紹介したくなります(笑)

境内左手に鎮座される境内社「大元神社」。社殿の左右にはガラスケースに納められた神殿狛犬が神域を守護されていますが、ガラスの反射で画像としては今一つ・・

遷座の顛末にちなんだ「獅子舞・角力神事・針拾い神事」の特殊神事が知られており、境内には屋根付きの立派な土俵が設置されています。

御神木:大銀杏

参拝日:2012年11月10日

 

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三隅(みすみ)神社 in 島根県浜田市三隅町

2018年08月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

浜田市三隅町三隅に鎮座される「三隅神社」。御祭神は『三隅兼連(みすみかねつら)』。『御神本国兼(みかもとくにかね)』を祖とする南朝の忠臣で、益田氏の祖とされる人物。

神社の創建は新しく「昭和3年に神社創建の議が出願され、昭和12年に造営。 御祭神である三隅兼連は、南北朝の争乱の際に新田義貞、名和長年らに呼応して足利氏と戦い、京都の山城国(笠置山の戦い)で討ち死。明治以降になって忠臣と称えられ、当時の町長の奔走もありこの地に祀られる事になりました。」境内由緒より

参道左右より神域を守護されるのは、来待石製の狛犬としては島根県内でも最大級の大きさと言われる出雲丹後系の構え狛犬さん一対。「昭和十年十月建立」「松江市和多見 石工:渡部 卯助」の刻。

この大きさです。

鎮守の杜を背に拝殿

「摂社・高城稲成神社」

「摂社:照国社」。御祭神は『三隅町の御英霊』

小さな稲荷社

有形文化財:三隅の郷土史家『木村晩翠(ばんすい)』の詩碑。【一代の人生は迷いの夢であり、天然、自然は真実の現れである。しかし人間の本性は真実だからこの二つの道は遠くない。一代の働き次第で凡人も神仏一如となる。人生永遠の幸福は人間の尊さを味わう事である。】

【三隅城落城の時、家人と共に脱出させた愛児・梅千代が逃がれる際に隠れたと云う谷川の石橋で、無事に敵の目から逃げおおせた事から、以後、人はこの石を「厄よけ石」として崇めるようになった。こうして難を逃れた『梅千代』は、やがて大成して、尊勝寺中興の祖『良海法印』と仰がれている。】

大麻山:尊勝寺は廃仏毀釈の時代に倒壊して現存せず、現在は敷地に庭園が設けられています。紅葉に染まったその姿はただひたすらに美しく、人々の憩いの場所となって存在しています。

厄除け石と神庫

「厄よけ石」の近くに奉納されていた「御神馬」。ともすれば周りの景色に溶け込んでしまいそうな。

三隅神社再建に奔走した三隅町長『寺戸光次氏』胸像

三隅神社の境内に隣接して作られたツツジの名所。

「人まちいし」に刻まれた句 【千人の 心千本 梅の丘】谷水

【一期かな 彼岸桜に 一会かな】 杞陽

「忠魂碑」尊い命の贖いによってもたらされた平和に、ただ感謝します。

参拝日:2012年11月9日&2019年4月19日

 

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岡見(おかみ)八幡宮 in 島根県浜田市三隅町

2018年08月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

浜田市三隅町岡見に鎮座される「岡見(おかみ)八幡宮」。御祭神は『應神天皇・仲哀天皇・神功皇后、於迦美神(おかみのかみ)』

御由緒に「第35代皇極天皇の御世に鎮座された、古くは「多鳩(たばと)神社」と称した。岡見の地名は主祭神於迦美神が住せられたるに由来し水の神なるを以て命の主神、五穀豊穣の神として神威高く種村、海老谷を併せ岡見川水域住民に深い信仰を受け、又岡見総産土神、総氏神として尊崇されて来た。 近世三隅氏の治世となり其の祈願所と定められ一族の厚い尊崇を受けるも南北朝以来、益田氏との抗争200年に及ぶ。岡見は両氏の境界に位置し為にその戦禍を受けこれを防ぎて八幡宮に改めた。」境内由緒より

拝殿

拝殿玉垣の内左右より神域を守護されるのは、擬灰岩、もしくは擬灰質砂岩製と思われる狛犬さん一対。「安政四年(1857)丁巳8月吉日」の刻。 擬灰岩は火山灰が固まって出来た岩石の為、花崗岩などと比べてもろい分、加工はしやすく阿吽共にとても表情が豊か。狛犬さんが奉納された安政四年の前後は、日本各地で大きな地震や疫病などの災害が起こった年でもあります。

出雲大社宮司『千家尊統(せんげたかすみ)氏』による拝殿額。

拝殿貫の獅子彫刻

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和二十二年(1947)十二月吉日建立の狛犬さん一対。阿形さんは玉を口中に。吽形さんは・・某SFに登場するヨーダのよーだと言ったら、思いっきり爆笑されてしまった(^^;)

参拝日:2012年11月9日

 

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湊浦(みなとうら)八幡宮 in 島根県浜田市三隅町

2018年08月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

浜田市三隅町湊浦に鎮座される「湊浦(みなとうら)八幡宮」。御祭神は『誉田別命』

創建・由緒共に不明

鳥居の左右より神域を守護されるのは、耳をぺったりと寝かせた狛犬さん一対。「天保十四年(1843)癸卯6月吉日 石工:石田栄助」の刻。阿形さんは口中に玉を、吽形さんは・・・例えて言うなら口中の玉をうっかり飲み込んでしまったようなお顔(^^;)

拝殿

翼竜の彫刻

貫の獅子と獏。玉眼の所為かより一層の迫力。

本殿褄部分の龍の彫刻

拝殿屋根には、久々に目を引いた鬼

摂社「粟嶋神社・天満宮・恵美須神社・厳島神社&住吉神社」

参拝日:2012年11月9日

 

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三家元(みかもと)神社 in 島根県浜田市内田町

2018年08月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・島根県

浜田市内田町に鎮座される「三家元(みかもと)神社」。御祭神は『御神本國兼命(みかもとくにかねのみこと)・周布兼定命(すふかねさだのみこと)・内兼茂命(うちかねしげのみこと)』

境内入り口より神域を守護をされるのは、小柄ながら一生懸命な顔立ちの狛犬さん一対。「精一杯頑張ってます」感が半端ない(^-^)

祭神『御神本國兼』は平安時代後期の官吏で、石見の豪族・益田氏の祖とされます。 藤原の末裔である『藤原定通』が浜田の御神本に居館を構えてより、『御神本氏』を称したと云われ、南北朝の争いでは後醍醐天皇方として戦われました。

境内より神域を守護されるのは明治十九年奉納の後期石見系構え狛犬さん一対。阿吽共に顔立ちは穏やか、参拝者を見上げるような視線が実にお優しい。

この日は境内摂社の恵比寿講という事で、拝殿横の社務所には宮司さんや氏子の方々が揃っておられました。祠の扉が開けられる機械は滅多に無い事だからと、摂社内の『恵比寿・大黒神』のお顔を拝見しながら参拝をさせて頂く事に。

綺麗に彩色された二神は、極上の笑顔で私たちに笑いかけ、手を合わせる私たちも思わず笑顔に。恵比寿講なのに大黒様が一緒なのは、これはもう日本人独特の神様への大らかさという事で(笑)。

三家元神社の宮司様。その折には暖かいおもてなしを頂き有難うございました。心より感謝申し上げます。

参拝日:2012年11月9日

 

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