車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大山積神社 in 愛媛県新居浜市

2021年01月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

新居浜市角野新田町・山根公園内に鎮座される「大山積神社」。御祭神は『大山積神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)』

〆柱から続く石段参道を上がった先に一の鳥居。右手に「別子銅山記念館」が見えています。

御由緒「元禄四年(西暦1691年)六月住友家により別子銅山開業の際、鎮護の神として大三島大山祇神社の御分霊を別子山村足谷の山方、縁起の端に奉祠し、明治二十六年別子山村足谷の目出度町に移転奉遷した。その後別子銅山の採鉱が深部におよび採鉱の中心が別子山村から東平、端出場と移転したことに伴い、昭和二年十月新居浜市山根町内宮神社の仮遷座を行い、昭和三年五月一日現社地に正遷座祭を斉行した。そもそも大神は別子銅山鎮護の神をして、全従業員の氏神として宗敬され鉱夫入坑の際には必ず坑口に奉祠せる大神を拝礼して入坑するを常とした。また、住友諸事業の発展に伴い新居浜における各事業の守護神として新居浜市磯浦町に鎮座されていた大神も昭和四年当社に遷され、現在も、住友企業の隆盛と社員の安全の守護神として宗敬せられている。」

参道の石段前を守護されているのは、美しい牡丹の花が施された玉を持つ獅子顔の狛犬さん一対。住友家が別子銅山鎮守の神として遷座されただけ有って、狛犬さんの持ち物も一味違います。

  

「祖業永昌斯民以寧」「神威高○○徳惟馨」(○部分に該当する漢字が見当たらず)と刻まれた第二の〆鳥居。拝殿前より神域を守護されるのはやはり、玉を抱え込んだ狛犬さん一対。

獅子顔で団子っ鼻なのにそれがちっとも嫌味でなく、むしろ子供のような無邪気さに見えるのは、その姿勢の所為でしょうか? 抱え込んだ玉はきっととても大切なものなんですね。

「別子銅山記念館」の入り口近く「古式により 毎年元旦に銅山守護神である大山積神社に奉献された大いなる鉱石 (昭和48年度に奉献した最後のもので、鉱石の重さは約300キログラムある)」と記された解説版と「大鉑(おおばく)=銅鉱石」が奉納されています。

元旦、銅山守護神の大山積神社に注連縄で包み幣を掛け、神輿風にして担がれ、別子銅山大鉑の歌と共に、古式ゆかしく奉納された「大鉑」。この画像はマイントピア別子に展示されていた実物大の「奉納大鉑」です。

別子銅山開坑三百年祭記念の、華やかな奉納大鉑を詠った句碑。

【どよもすは 大鉑(おおばく)能うた 鉱山の春 】本田三嶺子

参拝日:2011年6月15日

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別子銅山跡 in 愛媛県新居浜市別子山村

2020年12月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

アンデスの山麓、高い山の尾根に存在する、15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」

新居浜市の山深くにある別子銅山・・その坑道から運び出された鉱石を山麓まで下ろすのに使われた索道基地跡。鉱石の貯蔵庫跡は、過去の栄光を深い霧のヴェールで覆い隠し、静かに、ひたすら静かにそこに存在しています。誰が言い出したのか「四国のマチュピチュ」と呼ばれながら・・・
などと書くといかにも現地に行ったみたいですが、実はこの画像、バスの車体で見た写真😄

国領川に架かる「端出場(はでば)大橋」を渡ると、「道の駅・マイントピア別子」の建物が見えてきます。深い緑に囲まれた道の駅は、まるで別世界のような雰囲気で、初めて足を踏み入れた私たちに不思議な期待感を抱かせます。

道の駅のある端出場地区は、別子銅山最後の採鉱本部が置かれていた所と言うことで、今も当時を偲ばせる物や場所が幾つか残されています。マイントピア別子の案内に寄れば、その範囲はかなり広大で、お手軽に見学は無理。

それでも6月の夕方はまだまだ明るさを残しており、敷地内に限ればそれなりに見学も出来そう。

灰色の・・まるで異世界のような建物は、大正8年(1919)完成の「端出場貯鉱庫跡」。鉱石を貯めていた施設だそうですが、近未来のSF映画に登場しても違和感ありません。

木々の向こうに僅かに見えているレンガの建物は、大正4年(1915)完成の「第四通洞」入口。行ってみたいような・・迂闊に近寄ってはいけないような・・。

敷地内の一画には「仲持(なかもち)」の様子を再現したモニュメント。「仲持」とは、奥深い銅山で精錬した粗銅や山中での生活物資(男性は45キロ、女性は30キロ)を背負って、険しい山道を運搬した人の呼び名。明治13年(1880)に牛車道が開設されるまで、すべて人力に頼られてきました

実際には非常な重労働であった「仲持」さんですが、時代が過ぎてしまうとこんな優しい顔出し看板になって訪問客を出迎えてくれます。

敷地内には本物の「銅鉱石」「からみレンガ」なども展示されています。実際に手で触れてみて、改めてその質感、重さに驚ろかされます。

トロッコに積み込まれた銅鉱石は、ここに運ばれ貯蔵庫に入れられて・・・そうして今は役目を終えて、ここでひっそりと赤く錆をまとい始めています。

水の音に誘われてそぞろ歩けば、まるで一枚の絵のような足谷川が見えてきました。それほど大きな川ではありませんが、場所によっては深い水の色を見せており、全くの金づちの私にはかすかな恐怖さえ感じさせます。

対岸に目をやれば、ひっそりと緑に隠れるようにレンガの建物・・あれは明治45年(1912)に創業を開始した「旧端出場水力発電所」

急峻な山の南を流れる銅山川の水を利用し、当時日本一を誇った597mの落差の水圧鉄管を使用。また、当時世界一と言われた20キロメートルの海底ケーブルにより四阪島製錬所まで送電を行っていたとか・・歴史的な事実を知れば尚更に、その「凄さ」に圧倒されます。

赤煉瓦造りの建物は、愛媛県を代表する西洋建築のひとつで、マイントピア本館のモデルとなりました。館内には、ドイツのシーメンス社製発電機、フォイト社製のペルトン水車などが、当時の姿のまま残されています。

気がつけばあたりは薄っすらと夕闇の気配を漂わせて始めています。まだまだ散策したいけれどデジカメも役に立たなくなり始めた事だし・・明日も早いし・・

訪問日:2011年6月14日

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マイントピア別子は、別子銅山施設跡を利用したテーマパークを併設した道の駅です。施設内には温泉も有り、この日はこちらで車中泊をさせて頂きました。周囲には同じような車も何台かあり、温かい温泉でゆったりと手足を伸ばして寛ぎ、ぐっすりと眠ることが出来ました。車で旅する者にとってこうした施設は本当に有り難く大切な場所です。

改めて・・その節には本当に有難うございました🙏🙏

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三島神社 in 愛媛県西条市(旧丹原町)

2020年12月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

西条市丹原町田野上方に鎮座される「三島神社」。御祭神は『大山祇神、雷神、高龗神

由緒 「和銅5年8月23日国司越智玉澄が、国内各部落毎に鎮護のため建立したという。そのうちの一社である。」愛媛県神社庁より

鳥居の内、参道途中より神域を守護されるのは、前足を折り、低く構えた狛犬さん一対。派手に広げた尾が扇のように華やかですが、吽形さんの玉を持つ姿がと、自慢そうな顔が何とも可愛らしく😊 きっと阿形さんも同じ事を思っているのでしょうね。

参拝日:2011年6月14日

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綾延(あやのべ)神社 in 愛媛県西条市丹原町

2020年12月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

西条市丹原町に鎮座される「綾延(あやのべ)神社」。御祭神は『綾延姫命(あやのべひめのみこと)、品陀和気命、息長帯姫命、三柱姫大神』。

「往古、西条市今在家の黒須賀の浜に漂着した綾延姫命は、土地の旧家汐崎氏に奉じられて田野の郷に移り住み、綾織りの技を伝えた。この地に没するや、里人は、生前の賢徳を慕って霊亀二年(716)墓辺に一祠を建立してお祀り申し上げたのが当社の創祀と伝えられている。それ故に、往古は墓辺社(はかべのやしろ)(墓辺神)とも称し三代実録に依れば、元慶2年7月8日従五位下に叙せられている。 その後、延久5年8月15日源頼義が、豊前の宇佐から八幡宮を勧請して合祀し、墓辺社又は八幡宮と称したが、後に綾延八幡宮と称え、明治2年10月綾延八幡大神と改称し、同12年9月綾延神社と改める。明治15年県社となる。」愛媛県神社庁より

参道途中、神門前より神域を守護されるのは文政5年(1822)壬午8月建立の狛犬さん一対。体格に比較して小顔なのが不思議な愛嬌を見せ、見上げたこちらも釣られて笑顔になりそう。

大降りの注連縄が掛けられた神門の左右には、随身様と神殿狛犬さん。

神門内より神域を守護される随神様と木製の狛犬さん。いずれもかなりの年代を経たと思われるひび割れがあり、それがとても痛ましい。

10月の第3日曜日とその前日に行われる、家内安全と五穀豊穣を願う綾延神社の秋季大祭。拝殿前で繰り広げられる「獅子踊となぶりこの掛け合い」「奴行列」。一度でいいから見たいと思うも、ここまでの距離は如何ともし難く・・

境内に鎮座される「金神社:塚神」・「和霊神社:山家公頼霊」・「荒神社:塚神」

「稲荷神社:宇賀御魂神」「古綾延神社:綾織神」「床浦神社:宇津久志神」

「高良神社:武内宿祢命 」

参拝日:2011年6月14日 

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開明学校・宇和米博物館 in 愛媛県西予市・卯之町

2020年12月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

卯之町で一番に見たいものと言えば、やはりこの「開明学校」。明治15年(1882)、町民の寄付により、地元の大工によって建築された擬洋風建築で、四国最古の小学校。

維新を経て迎えた明治と言う時代、人々が子弟に託した教育への思いは切ないほどに真摯なものでした。日本と言う国を背負って立つ為に・・・・大国の干渉の中、当時のアジア諸国のようなみじめな植民地にならない為に・・・何よりも人々が諸外国を相手に対等に渡り合える為に、学問を身につけることは必須だったのです。

各地を旅し、当時の姿のままに残された・・言葉は悪いですが身不相応とも思える旧学校校舎を見るたびに、胸が熱くなります。それは、校舎の建築に関わる人々の想いが、心に真っ直ぐに響いてくるからなのです。

白壁やアーチ型の窓も当時のままに現存し、長野県の「旧開智学校」とは姉妹校関係にある「旧開明学校」。建築史上、また教育史上においても非常に価値が高いものとして、1997年5月に国の重要文化財に指定されました。

黎明期の日本人が何よりも大切にしたのは、個々の権利ではなく「日本人」としての誇りでした。今、自国を愛する事を、まるで悪い事のように教え込む、負の勢力の存在を見聞きするたびに、先人への申し訳なさに歯噛みし、反日を是とする愚か者たちに対し、憎しみにも似た思いを感じずにはいられません。

ジジババ世代になると、最近とみに愚痴が混ざって涙もろくなっていけません😅。校舎の横にある「申義堂」は、明治2年(1869)に建てられた、開明学校の前身。『左氏珠山』の門下生や、町民の有志により建てられた私塾で、これを見ても卯之町の人々が、いかに教育を重んじたか、窺い知る事が出来ます。

卯之町のもう一つの学校関連の建物は、重伝建の町並みから車で10分ほど走った所。「米どころ・宇和」を伝える「宇和米博物館」として一般に公開されています。

元々は宇和町小学校の旧校舎だったものですが、遠目で見てもわかるように、相当に長いです。 どれぐらい長いかと言うと・・・何と廊下が109メートル!・・・・と言うことで、この長さを生かした雑巾がけレース「Z-1グランプリ」が毎年行われているそうです😄

雑巾がけ・・・なんとも懐かしい響き😄 板目に沿って真っ直ぐに走るのですが、男子たちにとっては遊びの延長だったようで、たまに先生に見つかってお小言を貰っていました😊

訪問日:2011年6月14日

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ふらり~卯之の町歩き in 愛媛県西予市

2020年12月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

宇和地区の中心地にあり、松葉城の城下町として栄えた卯之町。町内には江戸中期から昭和初期までに建てられた商家が並び、2009年に、全国で86番目の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
町並みに入って最初に目にしたレンガ塀のお宅、内子とはまた違った趣に期待が膨らみます。

卯之町観光無料駐車場に車を入れたら、今日のメインは「卯之町・町歩き」。スタートは「松屋旅館」。江戸中期創業の老舗旅館で、『前島密』や『新渡戸稲造』など、多くの文人・政治家等が宿泊したそうで、入り口にはそうそうたる名前が並んでいます。

【この宿の 庭木の茂り なつかしき】 高野素十

長い歴史のある町並では飾瓦も忘れてはいけません!。細かい細工が施された「大根(丁子紋)」も、荒波の中を泳ぐ「鯛の上に立つ大黒様」も、本当に楽しい出来栄えです。

・・・ん??鯛なのに大黒様?、恵比須様じゃなくて??

玄関の上を飾る彫刻額。多分どこかの部屋の欄間だったものではないかしら? こんな使いかたって、すごくおしゃれ😄

間口の広い建物は、明和7年(1770)に建てられた造り酒屋「末光家住宅」。明治28年(1895)に改築されましたが、大半は建築時の姿を残しているそうです。 時間が早かったため内部の見学は出来ませんでしたが、この外観だけでも充分に満足。

一歩路地を入ると「宇和ヤマミ醤油」の建物。かすかですが何とも懐かしい香りが鼻腔をくすぐります。

建物は店舗と製造所を兼ねているとの事で香りにつられて建物内に入ると、醤油の香りは一段と高くなり、無性に白いご飯が恋しくなりました😄

ケヤキ材をふんだんに使い、門扉には鉄鋲。そりのある屋根には大きな鬼瓦を据えた大層な門は、卯之町の庄屋「鳥居半兵衛」が天保5年(1834)に建てたもの。

ところがこれが立派すぎて、「庄屋には身分不相応なり」と宇和島藩からお咎めがあったとか。何でもやり過ぎてはいけないというか、分相応にという事でしょうね。

日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる『楠本イネ』。父シーボルトの国外追放後、天保11年(1840)に宇和島藩の外科医であった卯之町の『二宮敬作』に預けられ、14才からの5年間に蘭方医学を学びます。『オランダおいね』の異名で呼ばれた彼女の人生は、ここでは語り尽くせません。

ここは『二宮敬作』の住居があった跡で、したがって「女医・イネ発祥の地」となるのですが、こういうものまで「発祥」と呼ぶとは、ちょっと????の二人でした😅

情緒ある路地の坂道を上がった先に、卯之町のシンボルとも言われる「旧開明学校校舎」がありますが、それはまた明日に。

でも何かがある特別な場所でなくても、この町並みは美しく、私たちの足を止めさせます。 江戸時代後期の蘭学者であった『高野長英』が一時隠れ住んだと言われる卯之町。 身を潜めて息を殺しながら・・でももしかしたら、この佇まいの中を歩いたかもしれません。

「宇和先哲記念館」では、『楠本イネ』や、『二宮敬作』など、多くの偉業を残した先哲を偲び、その人間像や業績を知る数々の資料が展示されています。心は惹かれますが、町歩きの魅力には勝てません。

訪問日:2011年6月14日

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伊方~あちこちウォッチ in 愛媛県伊方町

2020年12月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

マンホールを探しながら歩いていた折に見かけた沢山の石仏。もともとこんなにあったのか、道路の拡張などで集められたのか・・本当のところは分かりませんが、一箇所に寄り添い、静かに人々を見守っています。

川向こうの何方かのガレージに見つけた絵は、日本一長い半島の先端に建つ「佐田岬灯台の見える風景」。時間に余裕があれば是非とも訪ねてみたいスポットですが、多分無理だろうな~😓

伊方町九町に鎮座される「寄木神社」。御祭神は『大海津見神・市杵島姫神・端津姫命・田心姫命
「創建年代不詳。九町浜4地区の産土神社。明治初期まで池脇大明神或いは弁財天社と称され、その後寄木神社と改称。」愛媛県神社庁

鳥居の内より神域を守護されるのは、何とも不思議な質感の狛犬さん一対。阿吽共にお顔の部分がセメントか何かで修復されたかのような手触り。

鎮座地の側に広がる砂浜、お天気がよければもっと綺麗な景色が見えたのかもしれませんが、残念でした。ちなみにここまで来たのは伊方町の旧町章付きマンホール目当て・・だったのですが、目新しいものは無し!もう一度あの赤い道を、足と顔を引きつらせながら走って国道197号線に戻ります😭

お天気がよければもう少し楽しめたかもしれない「道の駅:瀬戸農業公園」。 あなたはもう風を感じましたか?~ ・・・感じすぎて風邪を引きそうです 😭

お天気がよければ(こればっかり)きっと宇和海か瀬戸内海が一望できるはずの展望台。この雨で、流石にそんな物好きは私たち二人だけ😅

代わりといっては何ですが、四国最西端に建つ「佐多岬灯台」・・・のポスターが貼ってあったので。

「ワ~~イ、国道九四フェリーだ~~~。四国最西端だ~~!!」

ワァ───ヽ(〃v〃)ノ───イ ワァ───ヽ(〃v〃)ノ───イ

訪問日:2011年6月14日&2015年2月26日

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三島神社 in 愛媛県八幡浜市保内町

2020年12月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

八幡浜市保内町宮内に鎮座される「三島神社」。御祭神は『大山祇命』。

由緒「宝亀5年8月宇和郡司が、大山砥神杜の御分霊を勧請して創立した。 保内郷の総鎮守として崇敬篤く、応仁の頃には高森城主が特に尊崇して摂杜九杜、末杜七五杜を付属せしめ、神領を寄進して別当を置いた。 その後、藤堂、伊達等代々の領主の崇敬篤く、明治6年4月郷杜に、昭和8年県杜に列格した。」愛媛県神社庁

鳥居の内より神域を守護されるのは、最近の奉納と思われる狛犬さん一対。昨今巷に溢れる「模倣型」の狛犬でないのが何より😊 それにしても阿吽共に随分と怖い顔をしておいでですね。

手水舎の先、参道途中より神域を守護されるのは、文化九年(1804)建之の浪花狛犬さん。全体に大振りなタテガミと、葉団扇のような尾がとても特徴的な一対です。取り合えず・・・顔が怖いのですが😱

更に拝殿前から神域を守護されるのは、どちらかというと「可愛い」と言う表現がしっくりくる狛犬さん一対。

狛犬さんに長老とか若衆のタイプがあるとすれば、こちらはまだ年若い少年期でしょうか。 一生懸命に踏ん張っている足が、「頑張っている」感をかもし出しています😊

拝殿の屋根には三匹の獅子が透かし彫りの玉を取り合ってじゃれています。左の獅子は、透かし彫りの玉から延びる紐を加え、真ん中の獅子は玉は我が物だと主張。右の獅子は、未練たっぷりに獅子と玉とを見返って・・・何とも素晴らしい細工です!

「御船石と神龍池:宝亀五年 大三島からお船に乗って神様がこの地に着かれました。その神船が石と化して安産・故事に因んで御船石という。池は水枯れる事無く、早天に慈雨をもたらす雨乞いの神として親しまれた龍神社の龍神の気がみなぎり神龍池と呼ばれています。」

伊邪那岐命』をご祭神とする「境内摂社:宮中神社」。拝殿の壁に「天井画の由来」と書かれた案内があったので、拝見させていただきました。

「明治十二年卯第十月吉祥日、有志より奉納された忠義報恩の「忠臣蔵・赤穂義士」の絵は龍堂に飾られていた。当初四十七枚あった絵は三十五枚しか現存しないが、宮中神社再建に当たり天井画として蘇ることになった」旨が記されています。

最後にお気に入りの飾り瓦、何所の屋根にあったものかすっかり失念しているのですが「竹やぶから顔を覗かせる猛虎」

そしてもう一枚、留蓋瓦で寛いでいる・・・・兎?・・・鼻と口が兎に見えるのだけど・・やっぱり兎かな?😓

境内に建立されていた句碑【万○の 木の○ 畏し大御神】・・○部分が不明。

参拝日:2011年6月15日

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ふらり~保内の町歩き其の二  in 愛媛県八幡浜市保内町

2020年12月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

川之石雨井、内之浦公会堂から少し距離を置いた場所に「菊池庸夫邸」「西のおやけ」と呼ばれる屋敷があります。

かつて、宇和島藩きっての海運の町であった雨井地区。天保年間の頃より海運業で栄え、「おやけ(菊池家)」等の大きな廻船問屋は、千石船を使って地域特産の木蝋や魚を運び、九州方面からの米・材木等を大阪方面に輸送して財を成してきました。

建物の随所に施された装飾などに当時の財力の凄さが現れており、それは建物の外観だけからでも十二分に伺い知ることが出来ます。細い路地には背伸びしても届かないフランス積み煉瓦塀。端には見事な卯建があげられています。

そこから見上げる屋敷のそこかしこに隙間見える建築装飾の数々。漆喰持ち送りの鏝絵は、趣向を変えた「波に千鳥」。

煉瓦塀に沿って更に奥に進めば、黒板塀と漆喰壁にしっかりと守られるように洋館風の建物があり、明治時代の物と言われる避雷針アースが目を引きます。

細い路地の奥で「すごいね~」と話し合う声もいつしか「ヒソヒソ・・」とささやき声😅 。なんでもないような場所に「!!」と驚く趣向の数々・・かってこの辺りがどれほど栄えてきたのか、想像力が掻き立てられる空間でした。

海沿いの道から再び市街地に向かい、次に訪ねたのは「旧・白石和太郎邸」。鉱山経営等で財をなした『白石和太郎』によって明治30年代に建てられた和洋折衷の擬洋館です。

玄関上部の小屋根には三角ぺディメント。一階の窓は半円アーチで、直線と曲線の組み合わせは視覚的にも面白く、そのいずれにも唐草模様の華やかなレリーフが施されています。

洋館と言うと「白」と言うイメージが先行しますが、黒漆喰の建物は変に悪目立ちする事無く、海辺の町にしっとりと溶け込み・・、それでいてハッと振り向かせる存在感を放っています。

旧・白石邸は、昭和25年(1950)から1989年まで「川之石ドレスメーカー女学院」として使用されており、今も玄関には「杉野学園・ドレスメーカー女学院認鐙校」の看板が掛けられています。

旧白石邸の隣、むくりと呼ばれる独特の曲線を描いた屋根のお宅は「旧宇都宮壮十郎邸」。他人様のお宅なので遠目からの画像。玄関入口にある持送りなどに細工を凝らした和洋折衷の建物だそうで、明治34年に完成したといわれています。

明治の時代に建てられたいわゆる擬洋風建築は、特に私の趣味にぴったりとあっており、これまでにも旅の行く先々で見学させていただきました。その度ごとに「日本の職人さんの発想力とか技術って、本当に凄いな」と、心のそこから感動させられます。

時刻は既に6時近く・・開館は4時までと言う事で、当然内部を見ることは出来ません。こんな場面に遭遇した時いつも思うのは、何故、時間に間に合うように周れないのか!😔😔!
確かに高速を使って遠くまで来て、来たからにはあれもこれも、あそこもここも見たいのは、自分でも承知して・・承知している筈なのに、その時になっていつだって同じ後悔をするのです。

訪問日:2011年6月14日

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ふらり~保内の町歩き 其の一 in 愛媛県八幡浜市保内町

2020年12月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

八幡浜市保内町には、産業遺産に関わる旧跡や、藩政時代の旧跡が幾つか残されています。最初に尋ねたのは、見事な幾何学模様の石垣に目を奪われる「旧川之石庄屋跡」。大小さまざまな青石を鋭角に巧みに組み合わせる技術は相対的に古く、現在では新造・再現は困難であるとし、2002年に国登録有形文化財の指定を受けています。

敷地の奥には文久2年(1862)に建築された土蔵と井戸が残り、同屋敷地内より移設された3mを超える青石の灯篭とともに、藩政時代に庄屋を務めた「二宮家」の歴史を今に伝えています。

 赤レンガ倉庫の手前にある「美名瀬(みなせ)橋」。昭和八年(1933)の架橋当初は欄干に鉄柵があるハイカラな橋でしたが、戦時中の金属供出により現在のようなコンクリートアーチとなりました。

橋が架かる宮内川の護岸は、青石を矢羽根積にしたものですが、味気ないコンクリートの護岸と違って、見た目にも美しいものです。

美名瀬橋を渡った先に見える赤レンガの建物は「旧東洋紡績 川之石工場」。保内川之石地区で紡績業が始まったのは、明治20年代に四国で初めて設立された「宇和紡績」から。以後、経営者を変えながら操業を続け、大正3年には東洋紡績川之石工場として稼動することになりました。

当時の川之石地区に建設された東洋紡績の工場は16棟にもおよんでいました。今は原綿倉庫として利用されていた「赤レンガ倉庫」と関連施設が残るだけ。現在は製材会社の倉庫として使用されており、中には入れませんが、赤レンガ倉庫沿いの「もっきんロード」から間近に見ることができます。

続いて訪ねたのは「愛媛蚕種株式会社(旧日進館)」。明治17年(1884)、呉服商麓屋の兵頭寅一郎が日進館としてはじめ、のち愛媛蚕種株式会社となった建物です。

全面ガラス扉に覆われた木造3階建ての蚕室では、今でもお蚕さんが大切に飼育され、1週間前までの要予約で、ガイドさんの説明を聞きながら見学も出来ます。でも予定が組めない私たちには、ほぼ・・縁のない話。

事務室と玄関、蚕室のある3棟の建物は、国土の歴史的景観に寄与しているものとして1999年6月に国登録文化財に指定されています。

次に向った場所は、明治24年(1891)に開鉱された「大峰鉱山:佐島精錬所」の名残を伝える「からみ石・石垣」

画像の黒っぽい石は、銅鉱石を精錬する過程で銅分を取り除いた後の鉱滓からできた「からみレンガ」と呼ばれるもの。川之石では精錬所の名にちなんで「佐島レンガ」と呼んでいました。

からみレンガの石垣の直ぐ近くに、洗い出し技法の外壁が目立つ「内之浦公会堂」。随所に西洋建築を意識した建物は、昭和12年(1937)に地元出身の実業家那須金市氏の寄付によって建てられました。

「公会堂」の文字の下にはアカンサスの葉をデザインした細工が施され、当時としては非常に斬新なデザインであったと思われます。2001年4月24日、「内之浦公会堂」は国登録有形文化財に指定されました。

八幡浜市保内に残された歴史的建築を訪ねる町歩き、もう少し続きます。

訪問日:2011年6月14日

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