車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

『大吉備津彦命』と『桃太郎』

2021年08月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山と言えば桃太郎。岡山県警のキャラを始めとして、それはもうどんなにささやかな場所にも、お土産に看板、標識からちょっとした広告の挿絵にだって出没します。昔話をあまり知らない人でも「鬼が島に鬼退治に行った桃太郎さん」を知らない人は少ないと思います。では桃太郎さんにモデルはいたのでしょうか?

実は「吉備津神社」の奥深くに鎮座される『大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)』こそが、昔語りの主人公『桃太郎』なのです。吉備の国に伝わる温羅伝説、桃太郎の鬼退治はこの伝説を元にして作られたと言います。

崇神天皇のころ、吉備の国に百済の王子と名乗る容貌魁偉の「温羅(うら)」という者が来襲します。温羅は「吉備冠者(きびのかじゃ)」と名乗り、新山の鬼ノ城を拠点として一帯を支配し暴虐の限りを尽くしました。困り果てた吉備の人々は都へ出向いて、その窮状を訴えます。

訴えを受けた王権は、「温羅」を退治する為に討伐軍を送りますが歯が立たず、 最後の切り札として「比古伊佐勢理比古命(ひこいさせりひこのみこと)」を派遣しました。

しかし命の射た矢は温羅の投げる岩とぶつかり、ことごとく落ちてしまいます。次に命は二本の矢を同時に射ち、一つの矢が温羅の左目を射抜きました。その時流れ出た血が新山から足守川に流れたので、川は赤く染まり血吸川と呼ばれるようになりました。

温羅は雉に化けて逃げたので、命は鷹に化けて追いかけ、次に温羅は鯉に化けて逃げます。命は鵜に変身してついに温羅を捕えました。温羅は降参し「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上。これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになりました。

口承文学としての「桃太郎」の発祥は室町時代末期から江戸時代初期頃とされ、以後、江戸時代の草双紙や黄表紙版の『桃太郎』『桃太郎昔話』などの出版により広まりました。最古の文献としては元禄以前の『桃太郎話』、元禄頃の『桃太郎昔語り』などが現存していたといいます。

桃から生まれた「桃太郎」。おばあさんが作ってくれたキビ団子はまるで魔法の食べ物。サルもキジもイヌもすっかりキビ団子の虜になり、桃太郎と共に鬼退治に行く事になりました。

備前一宮の吉備津彦神社の駐車場から、はるか遠くに見える「鬼が島」を望む桃太郎一行。お猿さんが気の毒なくらい痩せているのがとっても気になります😲 この像は旧有漢町在住のセメント像作家『中山森造氏』の作品です。

備後一宮の境内の一画から、はるか彼方に見える鬼が島を望む桃太郎さん一行。すっかり体力を回復したお猿さん、これなら充分に戦力になりそうですね。

吉備津神社縁起物によると、吉備津彦命は「犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)」、猿飼部の「楽々森彦命(ささもりひこのみこと)」、鳥飼部の「留玉臣命(とめたまおみのみこと)」という三人の家来と共に、鬼ノ城に住む「鬼」である温羅を倒したとされています。

吉備の国に伝わる鬼退治の伝説の足跡は、桃太朗さんと共にそこかしこに見る事が出来ます。古来より言い伝えられてきたもの、新たに観光の拠点として作られたもの、形は様々ですが、それらを訪ねて吉備路を歩くというのも、また面白いテーマかもしれません😄

後記:戦いに敗れた権力者が、勝者に自らの名を差し出す話は、「日本武尊」が九州を支配していた「熊襲建(くまそたける)」を成敗した際にも登場します。敗者となった「熊襲建」から名前を差し出された「小碓命(おぐなのみこと)」は、以後「日本武尊命(やまとたけるのみこと)」と名乗る事となります。名を差し出す=絶対的な降伏を意味するのかもしれません。


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