車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

勝浦市内~あちこちウォッチ in 千葉県勝浦市

2019年06月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

勝浦市最初の訪問先は「お仙ころがし」。随分と変わった名称ですが、これは勝浦市の西端から鴨川市にまたがる、約4kmの「崖」の通称で、この名前は「江戸時代の悲話」が元になったと云われています(リンク先に詳細が有るので興味のある方は)。 かっての旧国道は崖の中腹を通っていたそうで、古くから交通の難所として知られていました。 この画像は小道側から見たものですが・・・実はこれには語るも涙、書くも涙の失敗談があります😭

私たちの旅は、とにかく細かい場所の地点登録が多く、その為全てに番号をふって行動します。注意していても日に100近くもの登録なのでちょっとした失敗が大惨事を招きます😣 ちょっとした手違いで・・100近くある番号の中間に、全く別の日の番号の登録が混ざっていました。なんと千葉市からいきなり150k先の勝浦まで走ってしまったのです。 激しい雨の中、市原のマンホールも大多喜町の「ウエルカム~またのお越し」のボードも横目に見て・・

目的地は小道側からの「おせんころがし:のみ!!」。でも一気に150kも離れているという時点で気がつくべきなのに・・・当時のご亭主殿はナビの指示には絶対的な信頼を置いていました。でもそのナビに指示を入れたのはご亭主殿なんですけどね😅、本当に思い出すも涙です。しかも律儀に順番を守って、そこからまた市原市に帰ってくるという・・往復300kをかけて、海岸線を見る為だけとは・・実に壮大な回り道の迷所訪問。

二度目の勝浦市訪問でこの場所の近くを走った時、一瞬であの日の記憶が蘇り苦笑いでした。

訪問日:2014年5月21日

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勝浦市興津、興津海浜公園に「繋船柱(けいせんちゅう)」と呼ばれる柱があり、記念碑として保存されています。 【江戸時代、興津は、東北諸藩の廻米交易船の碇泊地として、房総沿岸有数の避難港として、いわゆる興津千軒の繁栄をもたらした要港でした。殊に穀倉を誇る仙台藩はその往来が最も激しく、興津天道山下に陣屋を置き、寄港船の取り締まりや連絡等にあたらせたといわれています。この柱も当時仙台藩によって運ばれたもので石巻近在に産する粘板岩、通称仙台石でできています。】説明版より

かつて港の弁天崎磯際には、この「繋船柱」が十数本も並立していたと言われています。500石以上の船が何隻も舳先を連ねて並ぶ姿は、想像するだけでもワクワクします。

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日本三大朝市のひとつとされる「勝浦の朝市」は、天正19年(1591)に『植村土佐守泰忠』によって始められました。 輪島の朝市・飛騨の朝市と制覇した私たち、残すはこの勝浦のみと、かなりの気合で訪ねて来ましたが・・・朝市通りに着いても全く賑わいらしい賑わいも無く・・と言うか人通りが少なすぎ!

出ているお店も数えるほどしかなく、売られているものも同じような野菜に漬物、魚・・後は魚の干物。 土日ではないから、人出も少ないし歩きやすいかもと思っていましたが、まさかこれ程閑散としていようとは😓  それでも折角来たんだし・・と、なかば無理やり車中でも食べられる佃煮やお漬物を数点購入。

その朝市どおりに鎮座される「遠見岬神社」の石段は、残念な結果となって無くしてしまった気力を、更に打ちのめす険しさ😣、 石段下の拝礼🙏で終了です。

後は勝浦で何が記憶に残ったんだろう??、ああ、そうだ!勝浦ご当地グルメの「勝浦タンタンメン」。何で「タンタンメン」?とご亭主殿に質問されましたが、そんな事、私にも分かりません😓 でも、町中には一杯「勝浦タンタンメン」のお店があるし、自販機でも宣伝中と言ったら、何故か納得してました。私にはそっちの方が不思議です?

訪問日:2019年3月8日


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