山陽小野田市旦西の一画に今も残る、近代化産業遺産及び市指定文化財「旦(だん)の登り窯」。
旦の皿山のはじまりは、旦の給領庄屋:作左衛門宅に寄寓していた都濃郡富田の人:甚吉が、周辺の畑土を指し「この土なら焼物がつくれる」と語ったことから始まります。それを受け、長州藩士:前原一誠の父 佐世彦七が援助し、「登り窯」が開かれました。
内部の見学が可能な窯があり、早速中へ。「異常な怖がりの癖に、狭い所は平気なんだね」・・よく言われます😅
廃窯の内部と言うのは何故かしら不思議な空間。窯の外はお天気でも無いのに奇妙に明るすぎて、その場から出る事が一瞬ためらわれ、足が踏み出せなくなる・・・
炎と釉薬が化粧した煉瓦の色、それを綺麗と思うのはたぶんその独特の空気のせいかもしれません。
「明治24年(1891)、日本舎密(せいみ)製造株式会社(現 日産化学工業株式会社小野田工場)が硫酸瓶等を製造、その容器を当初ドイツから輸入していたが、旦の焼物に注目、試作発注し生産をはじめた。本市製陶業の成長は、同社の創業に負うところが多く、石炭とならんで陶器はかつて本市の有力な地場産業品であった。登り窯は、とんばりと呼ばれる煉瓦造り。大口から煙突までの長さ28.6m、幅7.5m、煙突の高さ12.3mで、製品を焼く十袋の窯と火力の調整を行うふかせ一袋の構成。窯では硫酸瓶や焼酎瓶などを焼き、ふかせでは消し壺や焙烙(ほうろく)などを焼いた。」現地案内より
名も知らぬ草に寄り添われるように余生を過ごす旦の登り窯。細い通路の向かいには硫酸瓶を積み上げってつくった瓶垣。いつの間にか雨も止んだようで、草の匂いと煉瓦の匂いが私たちを現実に曳き戻してくれます。
焼かれる硫酸瓶には厳密な規格があり、規格外となった瓶を再利用して作られたのが「瓶垣」と呼ばれる硫酸瓶垣。町の所々には、このような美しい「硫酸瓶垣」を見られるポイントがあり、観光客に人気のスポットとなっています。
小野田橋のたもと、高々と一際目をひくのは、巨大な硫酸瓶のモニュメント。
硫酸の運搬容器として山陽小野田で作られていた陶製の瓶。旦地区の土と、島根の石州瓦と同じ「来待釉(きまちゆう)」といわれる耐酸性の釉薬が使われた硫酸瓶は、この橋の近くから船に載せて各地に出荷されていました。
明治24年(1891)に、日本舎密製造会社 小野田工場(現:日産化学株式会社小野田工場)を設立。硫酸を生産するため容器が必要になり、地元の旦地区の土が耐酸性に富むことから試作され、明治26年に製造に成功。昭和20年代に生産のピークを迎え、全国シェアの7割を占めるまでになり、昭和30年代後半まで製造されました。
おまけ・・「厚狭から目出たい」という語呂合わせで、厚狭駅から目出駅までの切符が一時大人気だったそうです。物好きに立ち寄った「目出駅」。目出たい事があると良いね。
訪問日:2012年11月17日
登窯の写真は、どれも心が惹かされます。かって大いに働き、今は役目を終え、草が生えている登窯の静かさに、ご苦労様と言いたくなります。
「硫酸瓶垣」も、「厚狭から目出たい」も初めて知りました。目出駅という駅があるんですね。手を挙げている可愛らしい人は、観光客なのでしょうか。
じっと見ているといろんな物語が浮かんできます。
ごつごつした窯肌を撫でながら
「ずっと頑張って来たんだね」
そんな言葉をかけていました。
柔らかい草の匂いの中で眠る旦の登り窯
心に染みる出会いでした。
間違いなく「観光客です」😆