昨日までの豪華絢爛な久能山東照宮の建造物とは打って変わって・・、今日は家康公「廟所」の紹介。 本殿の後方にある廟門から神廟までの間をつなぐ「参道」はいずれも重要文化財の指定。 参道左右には家康公に仕えた武将たちが奉納した石灯籠が立ち並び、厳かな雰囲気が漂っています。
神廟の一画に聳え立つ「金のなる木」。木は途中から大きく3つの枝に分かれています。家康公の金のなる木のエピソード。書くと長くなるので目一杯端折って(^^;)
一つ目の枝は「よろずほどよ木」・・・すべてほど良き
二つ目の枝は「しょうじ木」・・・正直
三つ目の枝は「じひぶか木」・・・慈悲深き これらを守り実践すれば富を得られるであろうと家臣に言ったらしい(笑)
石灯籠群から約40段の石段を登った先に、重要文化財指定の「神廟」。 元和2年の創建当初は木造桧皮葺の祠でしたが、家光公により現在の石造宝塔に造替されました。
神廟の真正面に奉納された「唐灯籠」。神廟を直視する無礼を避ける為でしょうか?
さて、ここで初日に書いた、「家康公の遺骸」は久能山か、日光か?の話題に少し触れたいと思います。
創建当時の東照社は、家康を葬った久能山と、分祀の為に造営された日光の二箇所に存在しました。家康の遺命通り、遺骸は四角い棺の中に正装し、西を向いて座した状態で。また遺骸の保存の為に棺の中は、何百キログラムもの硫化水銀で満たされていたとも伝えられています。そして天海僧正の指揮の元、当時の技術を結集し、二週間もの日時を要し家康公の棺はこの地に納められました。
明けて元和3年、再び天海僧正が総指揮を執り、久能山から日光への「宮遷し」が行われます。 こうして「神柩」は、新暦4月20日から約2週間の日程をかけて日光へ運ばれ、奥宮に収められました。 御遺骸は日光に在るという人たちの根拠は、この「宮遷し」を第一の理由としてあげています。
ですが・・素人の私の素朴な疑問は、土葬して一年目の遺骸を掘り起こして「神柩」に移せたのか? 埋葬だけで二週間を要した筈の棺。水銀による防腐処置が施されていたなら、その重さは半端ではありません。
それを開けて遺骸を取り出し、新たな柩に移す・・・どう考えても私には納得できません。
またそれができたとして、道中に二週間もかければ、御遺骸はさらに酷い状態になると思います。 そうした諸々の事を調べていくと実に沢山の方々の研究に行きつき、いずれも非常に興味深い内容で、更に謎は深まるばかり。
ともあれ、この久能山には確かに「神廟(しんびょう)」があります。そして、「廟」とは「墓所」を指すのです。
日光東照宮には「神柩」が納められた「奥宮御宝塔」がありますが、それは「墓所」ではありません。 文字ばかりでずいぶんと長くなりましたが、要するに「御遺骸は久能山に」が私の結論。
最後に「宮遷し」に関わった最も重要な二人の人物の、非常に意味深な和歌の紹介。まずは『天海僧正』から
【あればある 無ければなしと駿河なる くのなき神の 宮遷しかな】
もう一つは、三代将軍・家光が「寛永の大造替」を行った際に久能山に詣でた折に詠んだとする
【東より 照らす光のここにありと 今日もうでする 久能のみやしろ】
帰り際、唐門の下で見知らぬカップルさんにシャッターをお願いされ、そのお返しにと二人並んでの記念写真。旅の良い思い出になりました。
参拝日:2011年11月13日
高所からの景色を楽しめない私のために、ご亭主殿が写してくれたロープウェイから見下ろす久能山参道。
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