家光による久能山東照宮の建造物、最後は御社殿の周囲にめぐらされた「玉垣・透塀(重文指定)」
玉垣の腰板には全部で106枚の彫刻があり、それらは一枚の板を彫り上げた透彫となっています。 彫刻の中には鳥を扱ったものが圧倒的に多く、その中でも小鳥を題材とした透彫りは45枚あります。
もちろん、神社建築の彫刻にはつきものの唐獅子と牡丹も、阿吽でその存在感を示しています。
透かし塀の内側には、駿府城の「家康お手植えの蜜柑」を接木した「お手植えの蜜柑」があります。 接木なのに「お手植え」は違うと思うのですが、家康と名がつけば何でも許されるのです(笑)
末社「久能稲荷神社」は「稲荷神社」と「厳島神社」とが合殿になって、西向きに建っています。 東照宮創建以前よりの鎮座と伝えられており、古来山上の愛宕神社の前に鎮座していましたが、明治17年の暴風により社殿が倒壊した為、楼門内東側の現在所に遷座されました。
久能山東照宮博物館には、徳川歴代将軍の武器・武具や、家康公の日常手回り品が収納されています。 他にも総数2,000点を超える奉納品が収蔵されており、じっくりと見学するにはやっぱり時間が足りません。
この博物館前に置かれた狛犬の阿形さんですが、よく見ると唐門の前にいた狛犬さんにとてもよく似ています。 おそらくは、唐門前を守護するために置かれた狛犬さんの先代と見て間違いないでしょう。
胸の部分には「久能山御宮前」、足には「天保四巳年七月」「享和三亥年四月」の刻。 刻まれた二つの年号にある三十年間の開きが何を意味しているのか、残念ながら不明。
これとは別に、原型を失いつつあるもう一対の狛犬さんが、同じ場所に大切に置かれています。 ですが吽形さんの顔の崩れは、年月の風化と言うより何らかの衝撃によって受けたもののように見えます。
正面アップで見る阿形さん・・・間違ってもその笑顔で子供の前に現れないように!
何とも微妙に難しい顔は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」をモデルに彫られた「家康・しかめ像」。 元絵に関しては諸説(笑)あるようですが、一応、己の慢心を戒める為に書かせたとされています。
最後は「バンダイ社」が2010年7月26日に奉納した「BB戦士 徳川家康頑駄無」のプラモデル。 向かって左隣には、家康が初期の頃に用いた「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」の馬印も作りこまれる徹底さ。 それにしても何故、久能山にプラモデル?!と思われたあなた、是非ともググって感心して下さい。
明日はいよいよ久能山東照宮シリーズの最後、家康公が眠る「廟所」です。
参拝日:2011年11月13日
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