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川之江城址散策 in 愛媛県四国中央市川之江

2021年01月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝である川之江の鷲尾山山頂に位置した川之江城。

約650年前の南北朝動乱の頃。南朝方であった河野氏の砦として、土肥義昌(どひ よしまさ)が延元二年(1337)に鷲尾山に川之江城を築いた事に始まります。戦国の世の習いの中で義昌は武蔵国矢口の渡で戦死。細川氏の領有後、河野氏に返され、城主は妻鳥友春になるも、土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれず、河野氏に背いて長曽我部氏に内通。河野氏は河上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせます。しかし、天正十年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時に廃城。

戦国の世も終わった寛永十三年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとするも、寛永十九年に病没。領地は没収されて幕領となり、わずか六年の「うたかたの川之江藩」で終わりました。時は流れ、昭和59年(1984)、350年の歳月を経て、本丸跡に天守、涼櫓、櫓門、隅櫓、控塀などが建築。

とは言え、天守は犬山城天守を模したもの、その他の石垣や櫓、城門等も史実に即したものではなく、当時の名残を留めるものは、模擬天守の石垣の周囲に残存する僅かな石垣だけ。

鉄筋コンクリート造3層4階地下1階。模造であろうと模擬であろうと、満開の桜の中に聳える天守は美しい。

折りしも三月も終わりの季節。私たちには珍しい桜に彩られた城址での一時は、それだけで旅の心を満足させてくれます。

その立地ゆえに隣国との抗争の的となり、何度も主を代えたと歴史に刻まれた川之江城。天正十年(1582)長曽我部氏の攻撃を受け、落城と共に姫ヶ嶽から身を投げて命を絶った年姫の哀れを詠んだ「与謝野晶子」

【姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果ても うまして入りぬ 大名の娘は】

川之江城址には「尾藤二洲伝」の著者『白木豊』が、昭和38年にこの城山で二洲をしのんで詠んだ歌

【川之江ハ 椿さくころ良き人を しぬひて居れ鳥が おときこゆ】

『尾藤二洲』「梅花五言古詩」

此の花は花中の選 人能く汝に儔(ともがらと)するは誰ぞ

一たび孤山に従って逝き 風情独り自ら知る

吾其の淸高を愛するも 而も未だ相隨ふ能はず

早晩塵絆を解かれなば 汝に野水のほとりに就かん

「江戸時代後期の儒学者『尾藤二洲』、その性格は「恬淡簡易」と評され、甥の頼山陽と歴史への関心を分け持ち、夜の更けるのも忘れ「喜んで本邦群雄の事跡を談じ」たという。三博士の中ではもっとも詩人の素質に富み、こだわりなく詩を作る。詩は「唐を以て法と為す」べきであるが、陳腐にならないように新しい感覚のある宋詩をも読むべきである、ただし「宋人は雅俗を択ば」ないので模倣しすぎると詩の形を為さなくなる、と考えていた。二洲の詩的感興は、世俗を避ける心と結びついている。」Wikipediaより

訪問日:2013年3月29日


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