車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

勤王僧『月性』 in 山口県柳井市遠崎

2024年07月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

柳井市遠崎に門を構える浄土真宗本願寺派寺院「妙円寺」『阿弥陀如来』を本尊とします。大島戦争(大島口の戦い)の際には、第二奇兵隊の本陣となった「妙円寺」・・

序文は寺の紹介ですが、今回は長州の藩論を攘夷に向かわせる為に奔走した、妙円寺第10世住職『月性(げっしょう)』の話。

文化14年(1817)、妙円寺に生まれ、15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、26歳のとき京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流。黒船の来航後は外国の侵略に備えて「海防」に力を入れ、身分を問わず、志のある者による兵制をつくるべきだと提言。その考えは後に高杉晋作が創設した奇兵隊となって実を結びます。村田清風や吉田松陰からも厚く信頼され、海防の急務を論じ、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んだ『月性』。世人は彼を指し「海防僧」と呼びました。

熱血漢で、詩をよくし、「人間(じんかん)到る処青山(せいざん)有り」の作者としても知られる「月性」。右手に刀を持ち左手を真っ直ぐに伸ばす「月性像」は、安政2年(1855)に描かれた月性剣舞の図を参照にして建立されました。

境内の一画に残される茅葺の建物は、嘉永元年(1848)、月性が32歳の時に開いた私塾「清狂草堂(せいきょうそうどう)」。当時は、現草堂の東約50mの所にありましたがその後老朽化した為、月性没後33回忌にあたる明治23年(1890)、門下生により記念館として建立。

「西の松下村塾、東の清狂草堂」と称され、討幕に活躍した多くの人材を輩出。門下生には、奥州鎮撫使参謀となった「世良修蔵(せらしゅうぞう)」、三代目奇兵隊総督となった「赤祢武人(あかねたけと)」、本願寺の重鎮となった「大州鉄然(おおずてつねん)」、諸隊の脱隊騒動の首謀者とされる「大楽源太郎(だいらくげんたろう)」等々・・。

妙円寺本堂の西側正面に「清狂師之墓」と刻まれた墓碑。「清狂」は月性の号。安政5年(1858)病没:享年四十歳。

月性没後150年(1969年)に設置された「将東遊題壁(将に東遊せんとして壁に題す)」詩碑。天保14年(1843)、月性が大阪に向かうに際し詠んだ、七言八句の律詩。右の碑に後半、左の碑に前半が刻まれています。

【男児立志出郷関 学若無成不復還 埋骨何期墳墓地 人間到処有青山(男児志を立てて郷関を出づ 学もし成る無くんばまた還らず 骨を埋むるなんぞ期せん墳墓の地 人間(じんかん=俗世) 到るところ青山(せいざん=墓)あり)】

【二十七年雲水身 又尋師友向三津 児烏反哺応無日 忍別北堂垂白親(二十七年雲水の身 また師友を尋ねて三津に向かう 児烏反哺(じうはんぽ=孝養を尽くす) まさに日なかるべし 別るるに忍びんや北堂垂白(ほくどうすいはく=白髪が目立つ母) の親)】

「野口雨情詩碑」。昭和10年(1935)、野口雨情が来柳のときに作詩した「柳井小唄」7連のうちの第5連。【柳井名物は わんわん寺と 清狂草堂と 般若寺】‥一連の流れの中でホェ?と気が抜けてしまった・・・😅

「月性剣舞の像」の後方、左に建立されていた「忠勇義烈」の碑

当初は「月性」縁の碑かと思ったのですが、「松戸八幡宮」の御旅所と教えて頂きました。おそらく「忠魂碑」の類と想像されます。

さらに!「月性」殿とは関係ありませんが、遠畑地区のカラータイプの親子マンホール(貴重)は妙円寺の駐車場に設置。ところが・・何という事でせう!!タイヤの下敷き😱・・この画像で我慢するしか無いのかと半泣きの所へ、表の騒がしさに何事かと顔を出してくれたのが運良くも車の持ち主。半ば不思議がられつつ🤔、快く車を移動してくださいました🙏

こうした経緯を経て、貴重なカラー親子マンホールをGetできました😄

訪問日:2017年11月28日

 


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4 コメント

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Unknown (necydalis_major)
2024-07-01 08:25:42
だんちょう

おはようございます。
マンホール撮影だと
こうした車が乗っかっていることが
あるのでしょうね。
除けてくれて良かったですね☺️☺️
返信する
だんちょうさん (tibineko)
2024-07-01 09:27:50
おはようございます

そうなんです。
特にこれが唯一のマンホールなのにという事もしばしば。
だから今回のご厚意は
本当に嬉しかったですよ。
返信する
学舎・ tibineko堂 (onecat01)
2024-07-01 22:57:59
 tibineko先生。

 国防を説き、後進を育成したご先祖さまは吉田松陰だけではなかったのですね。

 男児志を立てて郷関を出づ 
 学もし成る無くんばまた還らず 
 骨を埋むるなんぞ期せん墳墓の地 
 人間 到るところ青山あり)

 漢詩は知っておりましたが、月性が作者だったとは知りませんでした。国難の幕末には、多くの忘れにれた偉人がいたと言うことですね。

 もし私が親子マンホールの上に駐車していましたら、半端な移動をせずtibineko先生のために、全体が見えるように動かしたと思います。運転手でなかったのが、残念です。
返信する
onecat様 (tibineko)
2024-07-02 08:39:36
国防坊主の異名で知られた「月性」
tononekoさんの乱読書のなかにあった「月性を読む」で知りました。

他の方に比べて知名度は少ないですが
彼の存在が維新の祖となっ事を思うと、感慨深いものがありました。

親子マンホールは、全体が写せるように車の持ち主さんが移動して下さいました。
旅先で出会う人の優しさは、何年経ても忘れられない思い出です。
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