築城の名手「藤堂高虎」会心の名城とうたわれた「宇和島城」。宇和島市丸之内に建ち、別名を鶴島城と呼ばれる天守は、昭和9年(1934)に天守・大手門(追手門)が国宝保存法に基づき、当時の国宝(現行法の「重要文化財」)に、城址は昭和12年(1937)に国:史跡に指定されました。(昭和20年7月の宇和島空襲により大手門は焼失。)
お城への入り口になるのは、三の丸跡に移設された「市指定有形文化財:藩老:桑折(こおり)氏武家長屋門」。かってこの場所には三の丸御殿が建ち、その近くにまで海が迫っていたと言います。
宇和島の天守がこの地に初めて建造されたのは慶長6年(1601)。高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主「伊達政宗」の長子「伊達秀宗」が宇和郡10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代「伊達宗利」の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成しました。
これまでの経験からいうと、お城への道はたいがい大変なものと相場が決まっています。様々な理由は有るのでしょうが、一番の理由は敵が容易に攻め込めない様にという一点に尽きます。
この中途半端に段差の異なった石段、慣れていないというのもありますが、昼間の明るい日差しの下でさえも歩幅の調子が狂って、危険な事この上なし。
石段の途中に、かなり大型の井戸を見つけました。説明では「宇和島城の本丸北側の井戸丸(井戸屋形)。井戸の直径は2.4m、深さ11m。井戸丸に通じる石段も往時のままに段差がそれぞれで異なる設計となっており、敵軍が攻めづらい工夫がなされている」とあります。
長い年月の中で苔むした石段、生い茂る草木が石垣の隙間からはみ出し、地面を覆い隠しています。気分的には山城にいく感じ・・
なんだかんだと言いながらでも、何とか天守までたどり着きました😄 途中までの道が嘘の様な、驚くほど明るく開けた天守台。やっぱり本物のお城は素敵で、満開の桜がさらに城を引き立たせています。「伊達なまち歩き」の顔出しは、多分伊達家の誰かなんでしょうね。
丁度団体さんとかち合ってしまって、入城は遠慮したのですが、どっちみち、往時のままの城内に気軽に入れるほど健脚でもないので、まぁ、良いか😅 お城の素敵さは十分堪能できたしね。
宇和島城を後にして住吉町に向かう途中、宇和島市駅にほんの数分立ち寄ってもらいました。目的は闘牛の像と、宇和島で最初に走ったという「ケ220・ドイツ製の蒸気機関車」。駐車帯が無かったので、ご亭主殿はロータリーを二週して、待ってくれました😅
とりあえず目的の物は写真に収めたし・・と言うことで住吉町に残された「宇和島市立歴史資料館」へ。明治17年(1884)、旧宇和島警察署庁舎として建てられた「擬洋風建築」の建物は、昭和28年(1953)に、南宇和郡西海町(現:愛南町)に移築され、同町の役場として1990まで使用。その後宇和島に里帰りをし、住吉町の樺崎砲台跡そばに復元されました。
残念ながら玄関ドアには「本日休館」の札・・好きでわざわざ予定に入れる割には、休館日を把握していない当たり・・間が抜けています😔 まぁ、この美しい外観を見る事が出来ただけで、良しとしましょう。
資料館の敷地には「旧宇和島海軍航空隊・甲種飛行予科練習生実習用教材:旧日本海軍魚雷酸素式機関部」や、「最後の小型焼玉エンジン」が屋外展示されていました。
見るべきものはこれで終わりですが、もう一つ気になるものがこの「やつしか」。何とも怪しい鹿もどきの集団が、意外とあっちこっちに出没するのです。
牛鬼ストリートの中の何処かのお店の玄関マットの中には、奉納の儀式でもしているような「やつしか」の集団がデザインされています。
「やつしか」とは宇和島地方に古くから伝えられ、350年余の伝統を持つ民俗芸能。「鹿の面を頭につけ、その面から垂れた布で上半身を覆い、太鼓を前に抱えて打ちながら歌い踊る。この「太鼓踊り」系の鹿踊りは、宮城県各地に普及。その中で、雄鹿たちが雌鹿を尋ね探して遂に発見して喜ぶ「めじしかくし」という踊りが、旧宇和島藩領となる南予一円には定着、分布している。」HPより
路上絵が出たついでに、国名勝の指定を受けた「天赦園」の庭に咲くという「白玉藤」。池泉廻遊式庭園の水面にうつる「白藤太鼓橋」・・時期が合えば実物を見たかったのですが・・
市の花は「ミカン」なので、多分これも 「天赦園」のお庭に咲く「あやめ」でしょう。
訪問日:2013年3月25日
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