揖斐川の西岸、瑞穂市呂久地区にある「史跡:小簾紅園(おずこうえん)」。
かつてこの地には呂久川(揖斐川)が流れており、天正8年(1580)に『織田信忠』によって呂久の渡しが開設。江戸時代には中山道の渡船場として大いに賑わっていたそうです。
【文久元年(1861)、孝明天皇の妹『和宮』は『徳川家茂』の元に降嫁するため、京から江戸へ中山道を下向。その道中、旧暦10月26日、呂久川(揖斐川)を御座船でお渡りになる時、色麗しく紅葉している楓を一枝舷に立てさせられ、玉簾の中からご覧になり、和歌をお詠みになりました。このことを記念し、昭和4年(1929)に呂久の渡しの跡地を中心に、和宮が見た楓の庭を含めた地域を公園にする計画が持ち上がり、これが小簾紅園となりました。】
『皇女和宮』ゆかりの地として知られる公園の入り口には、「和宮御送跡」の碑。
公園は和宮が詠んだ和歌碑を中心に整備されており、紅葉の名所としても知られています。10月半ばの訪問でしたが、紅葉の時期が遅かったのか鮮やかな錦秋は見られませんでした。
園内には『秩父宮妃殿下』や、第18代徳川家当主がお手植えされたモミジなどもあります。「徳川家第十八代」なんて書くと、いつの時代の将軍?と勘違いしてしまいそうですが、昭和生まれの方です😊
庭園内の一段高く作られた場所には、『東伏見宮妃周子』様の筆による皇女・和宮の歌碑。歌碑を覆うように枝を伸ばす紅葉は、皇女が愛でたそのままに、美しくあたりを包み込んでいます。
【 落ちて行く 身と知りながらもみじばの 人なつかしく こがれこそすれ 】
自らを「落ちて行く」と表現した16歳の和宮、その胸に去来したものは何だったのでしょう。
庭園内には他にも沢山の碑が建立されており、どれもこれも興味深い内容のものばかり。『西脇関風』の漢詩、さすがに読み上げる事は無理ですが、文字から内容はおおよそ理解できます。
【清流揖川呂久津 寡是和宮駐○也 悲痛挺身救国難 哀歌一首泣郷民】
『八世八仙斎』歌碑【青史には さあり栬(もみじ)葉 かつ散るや】
この詩碑は、11歳の時、宮様の降嫁の行列をお迎えした経験を持つ呂久の詩人『馬淵観雲』が、その遺徳を後世に残そうと自費で建立。【天地長く留めん 碑に涙落とす】と結ばれています。
【福碑には、遺跡造営の経緯や願いが記されています。前段の部分は、宮さんが降嫁する自らの思いを、美しく紅葉する楓によせて詩を歌われたことを紹介しています。中段では降嫁の歴史的背景が書かれ、後段では建碑の願いが書かれています。撰文は『下田歌子』書は『棚橋絢子』です。岐阜県と関わりが深いこの二人は、明治から大正にかけて、皇族や貴族の子女教育をはじめ、日本の女子教育の推進と発展に活躍しました。】(碑の内容は、瑞穂市の「ようこそ小簾紅園へ」より転載させて頂きました。)
訪問日:2018年10月11日
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