江戸時代に整備された主要五街道「東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道」。その一つで日本橋と京都を結ぶ東海道に置かれた五十三宿の内「草津宿」は江戸より数えて五十二番目の宿で、ここで中山道と合流します。東海道と中山道との分岐点は「追分」と呼ばれ、その地点に立てられた道標を「追分道標」といいます。
幕府は人々の往来の激しい宿場や関所、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に「高札場(制札場)」と呼ばれる設置場所を設け、封建倫理の教諭、火事や強訴徒党などに対する取り締まりを示しました。現在は観光設備の一環として、主だった宿場の入り口などに復元された高札を見る事が出来ます。
天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によれば、草津宿の宿内家数は586軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒で宿内人口は2,351人であったと記されています。
現存する「草津宿本陣」は、当主の『田中七左衛門』が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。また、いつの頃からか材木商も営むようになり、江戸時代には田中九蔵本陣と区別して「木屋本陣」と呼ばれていました。寛永12年(1635)に創建されましたが後に焼失し、膳所藩主本多家の「瓦ヶ浜御殿」を移築。書院造で表門、御除門、敷台付き玄関に庭、部屋数39という本陣としては最大クラスの屋敷です。
今で言うところの宿帳に当たる「大福帳」には、浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三など歴史上重要な人物の名前も多く残されており、ここがいかに主要な本陣であったか推測されます。また、皇室から将軍家に降嫁された和宮様ご一行は、ここから中山道を経て江戸に向かわれました。
こちらは、宿泊当時の記録に見られる献立を再現した「皇女和宮の食事」で、草津宿街道交流間に展示されていたものです。都を離れる皇女様をお慰めしたい思いが、美しい彩に感じられます。
「関札」は、本陣に誰が休泊しているのか知らせるための札で、本陣の表門脇や、宿場の入口に掲示しました。草津宿本陣には木製関札約460枚、紙製関札約2900枚が残されています。
赤絨毯が敷かれた上段へ通じる畳廊下。本来は襖がたてられており、利用人数が多い時には部屋として使われる場所です。通常本陣には30~40人が宿泊しますが、畳廊下を利用すれば70人あまりを迎え入れることができたといいます。
上段の間は、座敷部の最も奥にある一番格式の高い部屋で、一行の主客が休泊する部屋。中央に「置畳」と呼ばれる二畳分の畳が置かれています。ほかの部屋と比べて豪華な設えになっており、床の間・違い棚・書院を備えているほか、格天井が設えられています。
尾篭な話で恐縮ですが😅 「上段雪隠」は床の間付きの畳敷きで、お軸が掛けられ香が焚かれていたそうで・・ついでに便器は木製漆塗りという・・贅沢極まりない作り😓
主客専用の「湯殿」は、屋外にある「湯沸かし屋形」で沸かしたものを湯船まで運び入れて使用。八畳の広さで床は板張り、排水用の溝が切られています。湯船の大きさに対して部屋が広いのは、外からの攻撃が届かないようにするためだったとも言われています。
客間の近くには、主客の目を楽しませるための庭園が造られており、季節ごとの美しさを楽しめるようにと手入れが施されています。
宿泊客のために用意される食事は、身分や位によって種類も多く、また人数もかなりのものであったと思われます。本陣の台所には多人数の調理ができるように、五連式のかまどなども備えられており、一番大きい釜とその横の釜の2つで、一度に30人分の食事を準備することができました。
また、台所から続く土蔵の裏庭には予備の竈があり、急な人数増加にも対応できるようになっています。
見所満載の草津宿本陣、しっかり堪能できました。
訪問日:2009年3月15日
おはようございます!
今朝は晴れているけど
寒いてす、マイナス3度スタートの札幌。
風邪を、こじらせたようで昨日から喉が痛いです。
早く治ると良いのだけれど
お互い気をつけましょうね!