木曽路の宿場巡りは中山道六十九次三十七番目の宿場「福島宿」。上松宿から二里十四町四十間(約9.5k)。宿の延長は3町55間(約420m)、宿内家数158軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、宿内人口は972人。
残念ながら昭和2年5月の大火により、宿場の町並みはほとんどが焼失。かろうじて上之段地区は大火から逃れられた為、今も出梁(だしばり)造り・袖うだつ・千本格子などを持つ建物が往時の面影を伝えています。
上記の用水画像と比べるといささか風情に欠ける「上之段用水」。用水は木曽家の館に八沢川上流から取水したのが始まりで、昭和初期まで地元住民の洗い場、社交所として利用されたそうです
ちなみに「上の段」とは、木曽氏の居館があった場所に形成され、戦国時代に栄えた城下町の事を指します。
木曽氏の居館があった「大通寺」へと通じる「寺門前小路」
宿場の面影を残す通りの一画に建つ臨済宗妙心寺派寺院「智勝山:大通寺」。『柱山和尚』を開山とし、木曽関所代官の『山村良勝』によって建立。
町指定文化財の鐘楼門は安永7年(1778)に建てられたもので、福島町に現存する木造建築物としてはもっとも古いものの一つにあげられています。
境内の一画に建立された『武田信玄の息女:真理姫供養塔』。弘治元年(1555)、武田の軍勢に攻め入られた木曾義康は降伏。信濃と美濃・飛騨の国境を守る重要拠点を支配する木曾氏の存在を重く見た信玄は、義康の嫡男・義昌の正室に三女である真理姫を与えて、木曾氏を親族衆としました。戦国の習いとは言え、わずか6歳の幼い姫君が妻として嫁ぐ木曽の地はどのような場所だったのか。夫の離反により、我が子を、我が父に処刑された真理姫は、自ら義昌と離別して木曾山中に隠遁・・それでも98歳の天寿を全うした事実に驚かされます。
復元された「高札場」
木曽川沿いに見られる「崖屋(がけや)造り」。聞き慣れない言葉ですが、簡単に言うと「崖に建てられた家」・・なんて書いたら、どんなに恐ろしい場所なんだと言われそうですが、こんな感じで・・
明治時代に開通した狭い通りは、車社会に移行し始めた時代の要請に沿って拡幅。その結果、川沿いの通りに沿った建物は後退を余儀なくされ、苦肉の策で建物自体が川の上にせり出すようになった・・木曽だけに限らず、似た状況下の中で、稀に目にする景観です。
足湯を備えた親水公園の側には、御嶽街道の起点であり、聖域(霊界)への入口でもあった「行人橋」が復元されています。橋の対岸の城山には権現滝があり、御嶽登拝の人たちがそこで滝に打たれて身を清めたとも言われています。
【山蒼く 暮れて夜霧に灯をともす 木曽福島は谷底の町】『太田空穂』
訪問日:2014年6月20日
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