車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

法性(ほっしょう)神社 in 長野県辰野町平出

2022年09月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

辰野町平出に鎮座される「法性(ほっしょう)神社」。御祭神は『健御名方命 御産子命(みしゃごのみこと) 天照大御神 誉田別命』。

「法性神社の由来碑」

「延暦二十一年(802)坂上田村麿が東征の際武運長久を祈って伊那に五社を造営したが、その一つであるという伝承がある。元暦二年(1185)に信濃権守大祝盛高が再建。後、弘治二年(1556)に武田晴信(信玄)が再建。寛政八年(1796)吉田家へ願い、諏訪法性大明神の社号をうけた。明治四十一年、平出北原にあった八幡社と、境内にあった御社宮司社と伊雑皇社を合祠し「法性社」を「法性神社」と改めた。」

石段参道の先に拝殿

石段参道下より神域を守護されるのは、信州ではあまりお目にかからない出雲丹後系の狛犬さん一対。吽形さんの口には朱が塗られ、阿形さんは仔狛を足の間で遊ばせています。

と・・機嫌よく写真を写していたら、真榊を手にした神主さんと揃いの法被を着た方達が・・・何かお祭りでもあるのでしょうか?

祭事が終わったらしく、社務所に引き上げてゆきます。

そう言えば拝殿には沢山の御神灯が下げられていたけれど・・

もしかして御柱の祭祀があったのかもしれない。だってほら、まだ真新しい紙垂が巻かれた柱が境内に立てられているもの。という事は・・これから祭りがあるのではなく、祭りがあった・・つまり「祭りの後😔…」

この綱・・・多分御柱を運ぶために使われた「曳き綱」だと思う。でも仕方ないよね。祭りの予定を調べて日程を組んでいないし、そもそも祭りが有る事さえ知らなかったんだし。

と・・ヒソヒソ声で話していると、神主さんを先頭に先ほどの方達が拝殿に向かう様子。せめてお邪魔にならないように神事だけでも拝見させて頂ければ・・

拝殿内では神主さんの祝詞のあと、先ほど見かけた法被を着た方々が順に拝礼されている様子。静かに・・静かに、柏手の音も立てず・・出来るだけお邪魔にならないように参拝を済ませ、再び境内に戻ります。

奥の方に見える石祠群は、多分境内社かもしれない。でも拝殿内で神事が行われていると思うと、本殿に近寄るのも何となく躊躇われる・・かといって、ずっと終わるのを待てるほど時間に余裕もないし・・

拝殿近くの神庫に「波頭を翔る龍」の鏝絵。

境内には「平和祈念之碑」「旅順陥落記念碑」が建立されているとのことですが、この碑がどれに該当するのか、もしくは関係ないのかも不明。

法性神社入り口に建立されていた「有賀幸作君記念碑」。上に瀬戸団治による「戦艦大和最後の日」のレリーフ。中央に「海軍中将有賀幸作」像。左下に「川紀元」の書による「有賀喜左衛門」の撰文。

碑文「国に捧げた君たちの尊いいのちよとこしえに 世界平和のいしづえたれと祈る」

「昭和20年4月 日本海軍は戦艦大和を旗艦として残存僅か十隻を以って海上特別攻撃隊を編成し沖縄に突入しようとしたが進撃の途上敵機の猛烈な攻撃に逢い種子島西方海上において遂に敗滅した。その時巨艦大和に艦長として坐乗していたのは平出出身の有賀幸作君であった。君は艦の沈没に先立ち総員退去を命じ艦橋のコンパスに身を縛り艦と運命をともにした。私達は君と共に祖国のために壮烈な戦死を遂げた多くの将兵の心情を偲び日本海軍の最後の日を目に浮かべる。」 昭和42年5月 有賀幸作君記念碑建設委員会

参拝日:2016年4月25日

 


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