郡山市大町、郡山駅近くの町なかに鎮座される「総産土 阿邪訶根(あさかね)神社」。御祭神は『猿田毘古命・平忠通公・宇迦之御魂命』。
「康平年中(1060~)に伊勢の国:阿坂より猿田毘古命の分霊を迎え、「道祖神社」として創建。「うぶすな様」の愛称で親しまれてきた歴史ある古社。「うぶすな」は「うむ・むすぶ・すな(産む・結ぶ・土)」の意であり、安産・縁結び・地まつり(地鎮祭)の霊験 あらたかなる事で知られる。御祭神である『平忠通公』は平良文の子孫と言われ、弓の名手として武勇の誉れ高く、のちの三浦氏の祖として伝えられる。寛治3年(1089)に公の霊を当社に合祀し「御霊宮」と改称。明治初年「忠通神社」となり、明治22年に「阿邪訶根神社」となり現在に至る」境内由緒より
清々しい緑に覆われた参道
拝殿横に掲揚された日の丸が殊のほか清々しく、おのずと背筋がしゃんと伸びる😊。
木の陰で全体が見えませんが、本殿は平入りの八幡造に近い構造をしており、前後の社殿を繋ぐ合いの間を長くとられている様式が特徴的と説明されています。
拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和八年七月吉日奉納の狛犬さん一対。吽形さんは仔狛を、阿形さんは毬を手にしています。
上の画像で見ると、拳固を貰う寸前で首をすくめる仔狛さん。でもって親狛さんは、絶妙な寸止め😅
福島型ですが、立体的な螺髪や横に広い顔立ち、更に仔狛の扱い等、石工の個性が光る一対。
境内の一画、覆い屋の下に納められた県指定重要文化財「法華曼荼羅供養塔」。「源頼義、義家が奥羽平定をしたあとの治暦3年(1067)に建立したとも、奥羽平定後、敵、味方の戦死者の霊をとむらうために建てられたともいわれている。 供養塔は高さ2.43メートル厚さ30センチ、碑の表は風化が進んでいるが、仏の姿を表す梵字(ぼんじ)などを配置した曼荼羅が刻まれている。」現地案内より
境内西、道路に面して建立されていた板碑三基。拝殿側より「月夜見命」「山神」「湯殿山」。
東日本大震災により倒壊した「西参道鳥居」。柱の下方に几号水準点の「不」が刻まれているそうですが、胸にこみ上げる物を抑えるのが精一杯で・・確認はできませんでした。(几号水準点は、明治初期に高低測量を行うために設置された基準となる測量点。イギリス式の測量法に従い、漢字の「不」に似た記号を不朽物に刻印したり、「不」を彫った標石を埋めて水準点としたもの)
この日私たちが目にしたのは、境内の隅々まで、体を擦りつけるように屈みこんで除染作業をされておられた方々。未曽有の災害の後、このように遠方から参拝に詣でる事が出来たのは、皆様方のお陰である事を決して忘れません。私たちに出来る事はたかが知れていますが、それでも精一杯のエールを送り続けようと、さらに思いを強くした場面でした。
未曾有の災害を経てもなお、全ての命を慈しむかのごとく、空に枝を広げる御神木の清々しき緑・・見上げて、もう一度深く一礼をして・・境内を後にします。
参拝日:2015年6月25日
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御神名一口メモ
『平忠通(たいらの ただみち)公』、平安時代中期の武将。清和源氏の棟梁・源頼光に仕え、弓の名手として剛勇を鳴らした。三浦氏・鎌倉氏の祖。
おぉ!ほんとうだぁ!
毬をもっていますねww
面白い。
更に叩かれそうな子狛犬
首をすくめて怒られる様子が可愛いですね。
狛犬が持つ玉も、色々と種類があるんですよ。
今回は登場しませんが、
透かし彫りの飾り毬は、
その技量に度肝を抜かれること間違いなしです😊
狛犬さんかわいいですね。私は
幼い頃は怖がったそうです。
あ、狛犬さん。うん、狛犬さん。と言って遊んだ記憶があります。
どんな風に遊ばれたのでしょう?
とても興味あります
民俗学の祖である「柳田國男氏」は子供の頃
近所の氏神様の狛犬さんに乗って遊んだそうで
兵庫県福崎町にある「鈴ノ森神社」には
今もその狛犬さんが鎮座されています😊