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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

松嶋(まつしま)神社 in 鳥取市嶋

2017年03月21日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市嶋に鎮座される「松嶋(まつしま)神社」。御祭神は『国常立尊・木花開耶姫尊・瓊々杵尊』

創始不詳、古来より「松上大明神」と称し、明治初年に「松嶋神社」と改称。入母屋造平入、正面に千鳥破風、向拝に唐破風を備えた八棟造の美しい本殿。

御本殿廻縁の左右より神域を守護されるのは笏谷石の神殿狛犬さん一対。福井県の神社では良く見かけますが、鳥取県ではおそらく初めてではないかと思われます。

本殿向拝木鼻には獅子と獏

頭貫の木鼻には鳳凰・・本当にそうだろうか(^^;) 今ひとつ自信がない。

拝殿はごく普通の佇まい、注連縄と下げ緒が無ければそれと気づかないかも・・

拝殿前左右より神域を守護されるのは出雲丹後系の狛犬さん一対。「明治四十三年(1910)七月日」の刻。

阿形さんの下唇から顎にかけての異常な太さは、おそらく風雪等によって落ちてしまった部分を補修結合したものと思われます。顔立ちはかなりユニークになりましたが、こうして大切に補修されているのを見せて頂くと、ただ素直に嬉しく有難い。

拝殿右、安産にご利益があるとされた松の巨木が大切に祀られる「大松舎」。

境内の向こうに広がるのどかな風景、真っ赤な藪椿の可憐さ

御祭神の『木花開耶姫』の化身とされる桜の参道、山陰の春はまだもう暫くこの地にとどまり、美しい花景色を見せています。

参拝日:2012年4月15日

 

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桷間(かくま)神社 in 鳥取市大桷

2017年03月20日 09時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市大桷に鎮座される「桷間(かくま)神社」。御祭神は『素戔嗚尊』

創始は不詳、古来より「牛頭天王」と称し、明治元年(1868)に桷間神社と改称。

もはや諦めの境地に達しそうな(笑)石段、また石段の参道をひたすら登り、境内へ。社殿の後方に見えるのは緑の木々、その奥にさらに深く緑の木々・・平地の多くない山間では山の一画を切り開いて境内とするのは、至極普通の成り行きなのです。

拝殿前に奉納された石灯篭、年代は確認し忘れましたが特に笠の部分など、とても凝った意匠。

香立てが置かれ、狛犬さんは三段の台石の上に。その労力を考えると神への崇敬、おらが村の鎮守の神様・・の想いがひしひしと伝わってくる気がします。

妻入り拝殿の前左右より神域を守護されるのは、明治三十一年(1898)九月奉納の出雲丹後の構え狛犬さん一対。世話人:谷口直十郎・砂田定次郎・花田勝蔵の刻。

阿吽の目線を合わせてしまうとまるで睨み合っている印象ですが、いえいえ、決してそんな事はありません。阿吽を逆にしてみると「こっそりと悪戯の相談をする”まぶだち”」みたいに見えてきませんか(^▽^)

すっきりと切れ上がった端正な後姿。石工名が無いのが惜しまれます。

参拝日:2012年4月15日

 

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野坂(のさか)神社 in 鳥取市野坂

2017年03月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

「森林公園とっとり出会いの森」近く、鳥取市野坂に鎮座される「野坂(のさか)神社」。満開の桜につい気を許したのですが、これがとんでもない間違いだったと気付くのはもう暫く後の話(^^;)

行けども行けども、登れども登れども、延々と続く石段。止せばいいのに上を向いてはため息(^^;) ここまで来たのに今更・・・もう意識の90%は意地。意地だけが足を動かしている(-"-)

心折れかけたタイミングで登場する、大正十二年(1923)十一月九日建立の出雲丹後の狛犬さん一対。

「おいお前 ちっこい癖に根性あるなぁ~」・・・って、あんたみたいにお子ちゃまに言われたくないわよ!٩(๑`^´๑)۶

「坊や~、人間の子をからこうたらいけんよ~」「お前、そげんな事より 顎がおらんが? どがいした?」・・・現実逃避を試みる脳が勝手に会話を再生中(-"-)

顎がいないって・・・勝手にどっかに行ったらホラーですやん(-"-)。ハイハイ、ここに落ちてますよ。・・・「何ちゅう会話をしてるんや」とご亭主殿のツッコミでやっと正気に(笑)

狛犬さんにからかわれた所でやっと見えてきた社殿。

御祭神も由緒も一切不明。ここまで不明なのも珍しい・・

流造の御本殿

何故か御本殿の足元で神域を守護される小さな神狐さん一対。という事は鎮座されるのは稲荷神??

境内左、一段高くに鎮座される中山造の境内社。これだけの社殿なのにやはり御祭神は不明。

狐につままれたような心持で元来た長い石段を引きかえし、境内入り口に句碑。   【 ひぐらしや  山の 明かりの  いつまでも 】

改めて見上げる石段参道・・我ながらよく頑張ったと思う(ーー゛);

参拝日:2012年4月15日

 

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小冠(おかんむり)神社 in 鳥取市大塚

2017年03月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市大塚に鎮座される「小冠(おかんむり)神社」。御祭神は『天津彦火瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)・猿田彦命・大山祇命・菅原道真』

鳥居をくぐり、前方に見える小高い丘の上を目指して、一直線に延びる参道を歩きます。明るい日差しの下だからそれほど苦にもなりませんが、夜なら絶対に「ごめんなさい」・・こう見えて私 お化けとか幽霊とか真剣に怖いんです(^^;)

緑に包まれた林の斜面に沿った石段の参道を進むと随身門、その先に更に急な石段。

更に急な石段参道を登りやっと境内。それにしてもご亭主殿にお聞きしたいのですが・・何で山の上の神社ばかり選んだんですか? ご亭主殿曰く「場所で選んでません、そこに良い狛犬がいるから!」(  ̄_ ̄)

「創始は不詳。古来「岡森大明神」と称し、明治5年(1872)に「用瀬三角神社」を勧請。さらに「清水神社(山王さん)」・「北野神社」を合祀し、「小冠神社」と改称。」神獣事始めより

流造の御本殿。階段の下左右より更に奥深く神域を守護されるのは神殿狛犬独特の貴公子然とした石造り狛犬さん一対。阿形さんの巻き髪、吽形さんのストレート、どちらも個性的。特に吽形さんの端正な顔立ちが美しいです (^^♪

入母屋妻入の拝殿。赤瓦の所為か全体的に明るい雰囲気は、山間の神社参拝では何故かホッとする(((((^_^;)

拝殿前左右より神域を守護されるのは「大正十一年(1922)十月吉日」の出雲丹後の狛犬さん一対。気難しそうな顔の吽形さん。妙にハイテンション顔の阿形さん。足元には可愛い仔狛。

可愛い仔狛(笑)

「ねぇねぇお前さん この子ったらさぁ、今日一人でモグラを捕まえたんだよ!」「なんでぇ、モグラごときで・・だがまぁ、うん良くやったな。流石は俺の息子だ!」恒例のおしゃべりタイム(笑)

深い緑に包まれた境内には巨木と呼ぶにふさわしい「スダジイ」の木がたくさん見られます。見られるのに何故か写真にはない(笑)よくある事です。

参拝日:2012年4月15日

 

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今在家(いまざいけ)神社 in 鳥取市西今在家

2017年03月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市西今在家に鎮座される「今在家(いまざいけ)神社」。御祭神は『素盞嗚命』合祀『菅原道真公・保食神』

段数はたじろぐほど多くありませんが山間に有る為、段差はそれなりに急。

創建等は不明。流造銅板葺きの御本殿は集落を見下す山側に鎮座されており、地域の氏神として崇拝されている様子。

拝殿に揚げられた御神名を見る限りでは、菅原道真公・保食神は、後に合祀されたものと想像されます。

参道突き当りに拝殿。

その左右より神域を守護されるのは建立年不明の出雲丹後の狛犬さん一対。阿形さんは足の間に仔狛を抱いています。

顔に負けないくらい大きな毬を手に足の間に機嫌よく居座る仔狛さん。保護者に密着していると本能的に安全だと思うのか、我が家のお猫様もよくこんな顔をしていました。

こうしてならべると、本当に仲の良い親子の風情。阿吽ともに出雲丹後とは思えない穏やかで優しい表情。

細身の燈籠には、桜花紋と「陸軍伍長・凱旋記念」の刻。

狛犬さんの足元に、石灯籠の周り一面に散り敷く椿の赤

こんなにも花弁が密集した水仙は見た事がない。こんな山間の境内に誰が植えたのだろう・・・

参拝日:2012年4月15日

 

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槻折(つきおり)神社 in 鳥取市生山

2017年03月16日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市生山に鎮座される因幡国 式内社「槻折(つきおり)神社」。御祭神は『大山祇命(おおやまつみのみこと)』

創建は不明、安永二年(1773)の造営とされ、江戸時代には「槻折大明神」と称しました。

境内石段参道脇より神域を守護されるのは、これ以上ない程典型的な、出雲丹後の狛犬さん一対。

耳をすませば何やら聞こえてくる阿形さんの愚痴

「阿:なぁ、ここにずっと座っとるのもこの頃飽きてきたが、どっか違うとこに行きたいがなぁ~」「吽:お前・・そんな事ばっかり言うとると、その内お山に捨てられっぞ!」「阿:いやっ!!そいつは勘弁じゃ!!」・・妄想です(笑)

本殿は覆い屋、雨避の囲いの中にありその姿は拝見できません。

境内に奉納される一対の神鹿。

御祭神は大山を統べる神ではありますが、そこに鹿がどのように絡んでいるのか。それとも単に奉納される方が鹿をお好きだったのか・・謎(^^;)

参拝日:2012年4月15日


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御神名一口メモ

『大山祇命(おおやまつみのみこと)』、霊峰:大山を司る神、山神。伊邪那岐によって斬り殺された迦具土神の頭から成った神。「五山祇(大山祇(頭)、中山祇(胴体)、麓山祇(手)、正勝山祇(腰)、䨄山祇(足))」の筆頭とされる。

 

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廣岡(ひろおか)神社 in 鳥取市広岡

2017年03月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市広岡、矢谷川の右岸近くに鎮座される「廣岡(ひろおか)神社」。御祭神は『速須佐之男命・保食神』

由緒「上津ノ井七社の一つで、古来「八大荒神」と称した。貞享二年(1685)社殿を建立。文政九年(1826)、本殿再建。明治初年に廣岡神社と改称。」

鳥居の内、左右より神域を守護されるのは建立年代不明の出雲構えの狛犬さん一対。真っ直ぐに立てた尾、瞼を深く隠す分厚い眉に耳まで裂けた口。

そんな風に描写すると「何だか怖いモノ」と誤解されそうですが、実際はとても愛嬌のある素敵な一対なのです(*´꒳`*ノノ゙

まるでダンスでも舞うように狛犬さんをカメラに収める御亭主殿。上から見ているとなんか可愛らしい(笑)

お顔の割に細くスラリと伸びた足。石工名も建立年も無く、刻まれているのは阿形さんの台座に橋尾氏五名。吽形さんに漆原氏三名と岡垣氏一名の奉納者名。

手摺りが設けられた長い石段の先に、覆い屋を兼ねた拝殿。

覆い屋の内に鎮まられる御本殿。

自然石を使った石灯籠、笠にはビロードのように苔が張り付いている。

参拝日:2012年4月15日

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上津ノ井七社

「意上奴(いがみぬ)神社」・「祢宜谷(ねぎだに)神社」・「紙小谷(かごだに)神社」・「船木(ふなき)神社」・「桂木(かつらぎ)神社」・「大平(おおひら)神社」・「廣岡(ひろおか)神社」

 

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白兎(はくと)神社 in 鳥取市白兎

2017年03月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市白兎、身干山(みぼしやま)に鎮座される「白兎(はくと)神社」。御祭神は『白兔神(はくとしん)』『保食神・豊玉比売』を合祀。

「身干山」とは読んで字の如く、因幡の白兎が身を乾かした山と伝えられている地。サメをだまして海を渡った白兎は、つい余計な一言を言ったばかりに皮を剥かれてしまいます。痛さに泣き苦しんでいる白兎を見た大国主命は「清き水で身を洗ったのち、蒲の穂綿にくるまりなさい」と教えてやり、兔は元の白兎に戻る事が出来ました。

前置きが長くなりました。神社由緒に「古事記に曰く淤岐ノ島に流された兎海の和邇を欺きて気多之前まで渡らむとせしが欺きを知りたる和邇により悉く衣服を剥がれ泣き悲しむ兎に八十神の命もちて海塩を浴みて風に当り伏せれば前にも増して痛みはげしく、ここに大穴牟遅神(大国主命)その兎に教へたまはく「今急くこの水門に往きて水もて汝が身を洗ひて、水門の蒲黄を取りて敷き散らしその上に輾転てば汝が身、本の膚の如必ず差えなむものぞ」と教へたまひき。かれ教の如せしかば、その身もとの如くなりき。~日本医療の発祥の地であり古来病気傷痍に霊験あらたかな神様である。往古兵乱に遭い社殿を焼失衰微すること久しかったが、慶長年中(1596~1615)鹿野城主亀井武蔵守茲矩が奇瑞の夢によって社殿を再興し、社領20石2斗を寄進。大正元年(1913)、気多ノ前の神ヶ岩にある「川下神社」を合祀。」

同じく公式HP:先代宮司の考察として「白兎とは、神話時代にこの地方を治め兎の如くおだやかで信望の高かった一族のことだろう。航海を業とする一族は、沿海を脅かす「わに」と呼ばれる賊と淤岐之島付近で戦い、最後の一戦で負傷してしまった。その時「大国主命」に助けられ、共に協力して「わに」を討伐してこの地方を治め、大穴牟遅命には八上比売を嫁とらせた。その事もあり、縁故の深い此の山に宮居を定めるに至り、後世までも白兎神として崇敬される様になったものであろう」画像左「気多ノ前」、右に「淤岐之島」

参道の石段右手に【鰐の背に 似たる岩見ゆ蒲ならぬ 波の花散る気多の岬に 北里闌(たけし)】

歌碑の後方に「蒲」

石段左手に『大国主命と八上比売』、見守る『白兔』の大きな砂像。『大国主』に助けられた兎は、『八上姫』との婚姻を取り持つのですが、このことから「縁結びの神」として信仰されるようになりました。また『白兔神』に願えば、「遠国にいても早く国に帰れる」とも言い伝えられています。

参道二の鳥居

参道右手の「御身洗池」は『大国主』に教えられて、白兎が傷口を洗い治療したといわれる池。古来よりどんな旱天・豪雨の時でも水位の増減がなく、「不増不減(ふぞうふげん)の池」と呼ばれています。

はるか古代の昔、海はこの池の近くまで迫っていたと云われています。神話が教える不思議は、遥かな時代を超えて、なお今も確かに息づき、私たちに様々な不思議を語り掛けてきます。

境内入ってすぐより神域を守護されるのは建立年代不明の出雲丹後構えの狛犬さん一対。阿吽ともに高くお尻を上げ、大きな目で参拝者を出迎えてくれます。

拝殿・紋幕には「亀甲に剣花角」の御神紋。

明治29年(1896)建立の御本殿・幣殿・拝殿。画像は2012年4月参拝時で、この翌月5月の強風で、千木・外壁が損傷してしまい、屋根葺替の修理がなされました。

2016年12月の参拝。御本殿の屋根は綺麗に修復が施されています

御本殿を支える菊座石。「本殿を支える土台石に菊の紋章が彫刻(二十八弁)してあります。 近郷の社は、全国的にも珍しく、神社創設が皇室と何らかの関係があったものと云われています。」公式HPより

「白兎海岸に浮かぶ淤岐之島。因幡の白兎と大国主命」絵馬

一の鳥居から二の鳥居までの石段に建立された石造灯篭。その上でとんだり跳ねたり、佇んだりと可愛らしいウサギ像。ウサギの足元に積まれた白い石は「良縁・子宝・繁盛・飛躍・健康」の5縁を示す「結び石」。鳥居に乗せて、願い事が叶うように祈ったり、ウサギの足元に、願いを込めて置いたり・・・

参拝日:2012年4月17日&2016年10月21日

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2012年4月の車泊旅ではこちらの道の駅で車中泊をさせて頂きました。店内にはお土産に最適な商品も沢山揃えられており、楽しい時間を過ごす事が出来ました。マスコットの「ウサギの駅長:命(みこと)くん」。本物なので触る事は出来ませんがモフモフが可愛い!!

車で旅をするものにとってこのような道の駅は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その節は有難うございました。

 

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仁風閣(じんぷうかく) in 鳥取市東町

2017年03月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市東町2丁目、鳥取城址:久松公園内に佇む白亜の洋館「仁風閣(じんぷうかく)」。

「仁風閣がこの位置に建てられたのは、明治40年(1907)5月。池田家14代当主池田仲博侯爵が、宮内省匠頭であった 『片山東熊(とうくま)』に池田家の別邸として設計を依頼。鳥取市出身の『橋本平蔵』の監督で建てられました。」公式HPより

「フレンチ・ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺2階建て。正面はセグメンタルぺディメント(櫛形(くしがた)破風)の棟飾りを主要モチーフとしたつくりになっており、建物の随所にはスクロール(巻軸模様)を配しています。寄棟造りの瓦屋根には、ルネッサンス様式にみられるクラウン(王冠)型の棟飾りと6つの煙突、円形の換気窓が変化を与えています。さらにゴシック風の八角尖塔(階段室)が建物全体に安定感を与え洋風の印象を強める効果となっています。」

あの悲嘆にくれた日から四年と半年。2016年10月のこの日、私たちは門の内側に立ってこの美しい建物を見ています(〃∇〃) 今回はいつもの車泊友達Jさんも一緒。

中国屈指の明治洋風建築として名高く、国の重要文化財に指定されている「仁風閣」。ああ、この日をどんなに待ち望んでいた事か。敷地内から見上げる鳥取城址の石垣の何と整然と美しい事。もう立ち位置が変わると何でも絶賛の対象になってしまいます(笑)

「仁風閣」の館名は、当時皇太子であった『大正天皇』の、山陰行啓時の宿泊施設とされたおり、行啓に随行した元帥海軍大将『東郷平八郎』が命したもので、館内には直筆の額も残されています。

再び公式HPより引用「各室は、「御座所」「謁見所」など、皇太子が宿舎として使われた当時の名称で呼ばれています。室内の構造・装飾にも意が払われ素晴らしい技術の結集を見ることができます。各部屋のマントルピース(暖炉飾り)、カーテンボックスには和洋折衷の技術が見られ、職人達のすぐれた工夫と技術が見られます。」

全てが洋風のしつらえの中で、このお部屋だけが畳敷き。きっと和服で過ごされる方のために用意されたのだろう。壁に取り付けられた暖炉は鳥取の寒い冬には欠かせない調度だったに違いない。

和洋折衷の技術が駆使されたカーテンボックス

カーテンボックス

さらに、「そのなかでも仁風閣の奥に鎮座している「らせん階段」の構造・職人技には息をのみます。階段には支柱が無く、硬いケヤキを彫った厚板(ささらげた)で支えています。高さ4mの曲線美はまさに芸術品です。」

何もかもが上品で美しく、ドが付く庶民の私たちにはまるで夢の世界。上を見てはため息・・

壁を見ては溜息、調度を見ては溜息・・・

ついでにこんなものを発見して・・(ノ∇≦、)ノ彡☆ ・・・・・

白い格子の二階窓から見る鳥取城址・・

池田家の美しい四姉妹もこの景色を見ていたのだろうか?

建物を出て裏手に。背面は、1・2階ともベランダが設けられており、宝隆院庭園が一望できるようになっています。

この位置からだと「八角尖塔(階段室)」もはっきりと見える。

芝生に置かれたチェアーで優雅に寛ぐ二人・・ご亭主殿カメラを向けながら一言「似合わん・・・・」(´-`)

久松山を背景とする山裾の台地に設けられた「宝隆院庭園」は、第12代鳥取藩主『池田慶徳』が、若くして未亡人となった先代夫人『宝隆院(ほうりゅういん)』を慰めるために「扇御殿」と共に文久3年(1863)に造営した池泉回遊式の庭園。

濃い緑の中に映り込む空の白さが、秋の日の短さをそっと告げている。

立ち去りがたい思いを抱いて私たちは次の目的地に向かうべくここを後にする。いつかまたこの美しい景色に出会える事があるだろうか・・だって何時だって私たちの旅は貪欲で、同じ場所を巡る余裕なんて無いのだもの・・

訪問日:2016年10月20日

 

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鳥取城跡:久松(きゅうしょう)公園 in 鳥取市東町

2017年03月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市東町、県内有数の桜の名所として知られ、鳥取市街地を一望できる城跡公園「鳥取城跡:久松(きゅうしょう)公園」。「日本さくら名所100選」に選ばれた園内、約230本の桜が春の城址を彩ります。

麓に残る石垣、手前には今日の主目的「仁風閣」。今すぐこの堀を飛び越えたい誘惑をグッと抑えて・・ だって私カ・ナ・ヅ・チ・(問題はそこじゃない!)

春の陽気に誘われて・・・とは言い難い薄曇りの中。公園入口からまっすぐ正面にはかって鳥取城があった久松山。その麓は柔らかな桜の薄ピンクに染められ、通路の両脇には派手な原色の露店。それにしてもお昼過ぎだというのに、何とも閑散とした雰囲気。やっぱり土日明けの月曜日と言うのは、行楽には向いていないのかもしれません。人の姿もまばらで、人混みが大嫌いなご亭主殿は至ってご機嫌(笑)

流石にこれだけ閑散としていると嫌な予感が・・・嫌な予感と言うのは存外と当たる物。というより今日が月曜日という時点で気が付くべきだった。

固く閉ざされた門扉、その向こうで取り澄ましたように優雅な姿を見せる白亜の洋館「仁風閣」

鳥取市の訪問、最大の目的の一つが「川六の狛犬」と、この「仁風閣」だっただけに、もうガッカリ感は半端なく (>_< )。門扉の隙間にしがみ付くように写してきた屋根の造形を見るたびに、あの時の切なさが蘇ってきます。

なんで予定を組む時に気が付いてくれなかったのと、ご亭主殿に八つ当たり(-"-) 駄々っ子みたいに門扉にしがみ付いていても開門される筈も無く(笑)、ここは諦めて花見を楽しもうというご亭主殿に促され「西坂下門」を潜り・・

デジカメを向けつつ、それでもやっぱりトボトボと石段を (ノ_-。)

ああ、すぐ目の下に「仁風閣」の建物が・・・

車寄せの屋根と玄関が・・

ついでに(ついでなのか?)鳥取の市街地が(笑)

私の嘆きなどどこ吹く風と、枝一杯に春の装いをこらす桜花。いい加減にダメなものはダメと割り切らなければ、折角の旅の一幕が台無しになってしまう。さぁ、深呼吸(笑)

久松山の山頂部には、中世期の城郭遺構である山上の丸などの貴重な遺構が残されており、山麓には慶長年間より明治に至るまでに整備された二の丸、三の丸などの遺構が残されています。

人混みの無い城址、少々別行動になってもはぐれる事はあるまいと、我が道を行くご亭主殿。気を取り直して、せっせと後を追う私(~_~;)

二の丸三階櫓跡の石垣に残る「お左近(さご)の手水鉢」。右手上方六段目に、穴の開いた石が見えるでしょうか?

「近世城郭としての鳥取城の基礎は、『池田長吉』の時代に築かれました。この時の工事にあたって『池田長幸』夫人の侍女「お左近(さご)」の活躍は目覚ましいものだったようで、このお左近の手水鉢を石垣に築き込んだところ、難工事であった三階櫓も無事完成したという伝説が残されています。昭和三十八年、この「手水鉢」と思われる石材が発見され、三階櫓石垣の修理に際して、元の位置に復元されました。」文化庁・鳥取市教育委員会

二ノ丸背後の山麓は、江戸期の改築時の石切場として用いられていたようで、当時の状況などが詳しく案内板に残されています。

城の石垣を築く為に最も経費が嵩むのは、切り出した石を運搬する為の費用。この打開策として用いられたのが、久松山の尾根を切り崩していく中で得られた石材を用いる事でした。

石切場のさらに奥に『経蔵坊(きょうぞうぼう)狐』を祀る「中坂神社」が鎮座しています。拝殿の奥を見ると確かに石段が続いているようですが、ご亭主殿の助言を聞いて引き返すことに。何事も「ほどほど」が肝心。

城址を後にして駐車場へ。振り返りながら見送るお濠の隅に頼りなさげな花筏が。

鳥取城正面入口に建つ『吉川経家(きっかわつねいえ)』・・・彼が見据えているのは在りし日の鳥取城でしょうか。その歴史の中で最も凄惨を極めた『羽柴秀吉』による天正9年(1581)の鳥取城攻略戦。後に「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれた戦略は、それが戦というものだと分かっていても凄惨すぎて目を覆う・・まさにこの世の地獄絵図であったと伝えられています。餓死するもの・・その死肉を食らうもの・・・当時の城主であった『吉川経家』は、自らの命と引き換えに城兵の助命を乞い、開城して戦の幕を引きました。

秀吉はこれより三年前、天正六年の三木城攻略のさいにも同様の兵糧攻めで勝利しています。殺すか殺されるか、生きるか死ぬかの戦いに「綺麗な戦」など有る筈もない。鳥取城陥落の後、秀吉は経家の助命を申し出ていたとも伝えられていますが、事の真偽は勝者が作り出す物。『吉川経家』は城明け渡しの後、切腹して果てた・・その事実のみが確かに残された真実なのです。

訪問日:2012年4月16日

 

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