車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

阿沼美(あぬみ)神社 in 愛媛県松山市

2020年11月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市平田町に鎮座される「式内社:阿沼美(あぬみ)神社」。御祭神は『大山祇神(おおやまつみのかみ)、月讀神(つくよみのかみ)、高靇神(たかおかみのかみ)、雷神(いかづちのかみ)』

由緒「延喜式神名帖に伊予国温泉郡阿沼美神名神大とある社なり。武国凝別の皇子及十城別王の裔は此に阿沼美の神を奉祀し深く尊崇、河野氏は三島の神を併せ奉り阿沼美三島大明神と称へ社領三百二十余町を寄進、三島新宮とも称したが天保五年旧号に復し明治四年郷社に列す。」愛媛県神社庁

〆鳥居を潜った先に二の鳥居、そこから更に石段を登るとやっと境内が見えてきます。このあたりの神社はいずれも小高い場所に位置しておられる為、足に自信の無い者には少々難儀な参拝。

境内入り口より神域を守護されるのは、天保14年(1843)11月吉日建立の玉乗り狛犬さん。阿吽共にとても大きな玉で、まるで運動会の父兄参加競技で頑張るお父さん。で、この表情からすると、勝ったのは阿形さんですね😆

境内には他にも摂社・末社が鎮座されていたのですが、降ったり止んだりの雨に急かされて思うように身動きが取れません。こういう時は潔く諦めるのも大事な心得なのです😔

拝殿右手に建立されているのは「阿沼美宮得石額之碑」。天保四年に社前御幸橋を修理したとき地中から石額が出土したそうで、拝殿内に写真が架けられていましたが、暗くて撮影は失敗。

拝殿額の上に架けられていた「誠天道誠人思道」の文字額。誠は天の道なり   之れを誠にするは人の道なり・・・

同じ場所に架けられていた奉納絵馬。龍と戦っておられるのは雷神でしょうか?

木鼻の獅子は全体に丸みをおびた柔らかい線で彫られており、非常に穏やかな印象を受けます。一般的に目に玉が入れられるときつい印象になるのですが、こちらではその目ゆえに、更に優しさが増してあどけなくさえ感じられます。

「折敷に波三文字」の御神紋の上で飛び跳ねるのは、拝殿の留蓋獅子。雨にも負けずに飛び跳ねる阿吽の一対の表情が二者二様で。

冷たい雨の下で静かに佇む地元出身者方々の慰霊碑。今こうしていられるこの場所に立てる幸せを心から感謝し、境内を後にしました。

参拝日:2011年6月12日

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ふらり~道後の町歩き in 愛媛県松山市

2020年11月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

伊予鉄道:路面電車の駅で、道後温泉の最寄駅となる「道後温泉駅&坊ちゃん電車」

路上絵のように両方は写せませんが、しっとりと雨にぬれた道後温泉の駅舎。駅舎は明治44年(1911)に建築された旧駅舎の外観を損なわないように復元されたもの。で、その同じ駅舎も・・・

青空の下だと・・・こんなに晴々、いや晴れてるんですけど😆

時間が合えば「坊っちゃん列車」を見る事も出来たのに、タイミングがずれて空振り・・・それ、雨とか関係ないんじゃ?・・・?。

でもお天気が良いと~「坊っちゃん列車」は待機場所で私たちを待ってくれているし、写真を撮っていたら手まで振ってくれました。

商店街では浴衣姿の観光客がいたりして、ああ、温泉街に来たんだなと実感。その事が妙にくすぐったいような嬉しさを感じさせるのも、やっぱり旅の魔法。

商店街から西にのびる「熱田津(にきたつ)の道」は、道沿いに小川が流れる、風情のある通り。雨の所為で若干足元が悪いのですが、ここでは雨も情緒を増す小道具となります。熱田津の名称は、「額田王」が詠んだ熟田津に 舟乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でなに由来しているとか。

雨の中でちらっと見かけた「松山東雲学園」の表門。明治19年に『二宮邦次郎牧師』により、「私立松山女学校」として創立されたものだそうです。

中世の伊予国守護河野氏の居城で、地形を利用して作られた平山城跡に作られた「国史跡:湯築城跡」

二重の堀と土塁を設け、城内に居住区も有するという近世城郭の構造を、安土城より40年も早く築き上げていた湯築城。戦国時代中頃の大規模な堀や土塁が良好に残る稀な遺構として歴史的価値も非常に高く、日本百名城に選定。

現在は、忠実に復元された武家屋敷や資料館が整備され、自由に見学することが出来ます。館内には当時の生活を思わせる模擬展示、文献等も併せて公開されており充分に楽しむことが出来ました。 こうしてみると、本当に合理的に暮らしていたのだなと先人たちの知恵に学ぶことも一杯。

道後の町歩き、ラストは、偶然見つけた句碑の紹介😊。
放生園 【伊予とまうす 国あたたかに いで湯わく】森盲天外

同じく放生園【春風や ふね伊豫に寄りて 道後の湯】 柳原極堂

建立場所不明【雨降りや  お湯に通う  宿の傘】作者不明

道後公園北口【ふゆ枯や 鏡にうつる 雲の影】正岡子規 【半鐘と 並んで高き 冬木哉】夏目漱石

道後公園北口【寝ころんで 蝶泊らせる 外湯哉】小林一茶

訪問日:2011年6月12日&2013年3月28日

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「坂之上の雲」と「坊ちゃん」 in 愛媛県松山市

2020年11月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

明治から近代にかけて・・・歴史好きには絶対に外せない場所が松山にはあります。日露戦争において、圧倒的な国力の違いを跳ね返し、日本を勝利へと導いた秋山兄弟。 某TV局のスペシャルドラマとして、多くの歴史好きを誕生させた「坂の上の雲」。その物語の主人公となったあの秋山兄弟の生家があるという事で訪ねてみました。

入口から見えた兄弟の銅像、馬上に姿勢を正すのは「日本騎兵の父」と云われた「兄:秋山好古(よしふる)」

陸軍騎兵学校参観に来日したフランス軍人に「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るというただ一点に尽きている」と賞された人です。

端正な横顔の胸像は、連合艦隊参謀として日本海海戦に大きく関わり、「東郷平八郎」より「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)」と作戦立案能力を評価された「弟:秋山真之」。

日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。ドラマでは特にクローズアップされた場面です。

生家そのものは復元と言うこともあり、外観だけで満足😊。

その秋山兄弟と、秋山真之の親友でも会った「正岡子規」。こんなキャラになって松山ロープウェー駅舎の前で三人仲良く愛想を振りまいています。

日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治を代表する文学者「正岡子規」。松山市内では色々な場所で子規の句碑を目にすることができます。

【夏の月 提灯多き ちまた哉】【石手寺へ まはれば春の 日暮れたり】

【秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛】【正月や 橙投げる 屋敷町】

で上記三人の隣にはこんな面々がいたのですが、勿論誰だかわかりますよね。「うらなり・山あらし・たぬき」

「坊ちゃん・マドンナ・赤シャツ」と並べば・・そう「夏目漱石」が生み出した松山の永久不滅キャラ😆

ちなみに坊ちゃんとマドンナのツーショット、松山の観光地では定番ですが、小説の中では「マドンナ」は「うらなり」の婚約者で、坊ちゃんとは言葉も交わしていないのです。それが何故かこうなって

・・・さらにこんな風になって・・・

なんと、道後温泉本館の振鷺閣をモチーフにつくられた、華やかなからくり時計の登場人物になってしまいました。文字盤が動いてマドンナが、横の戸からは赤シャツに野だいこ、うらなりもいます。
せり上がってきた階で騒いでいるのは、ヤマアラシと、生意気な生徒たち😆

大好きなばあやを連れて坊ちゃんが登場したところで、からくりはクライマックス。一番下には、道後温泉を楽しむ湯治客。陽気な鼻歌が聞こえてきそう。

からくり時計のビフォーアフター。ここは足湯が側にある事も有り、結構な数の観光客を集める人気のスポットです。

そして大団円😃 いや、ケンカするのも仲が良い証拠(多分)、みんな揃ってハッピー♪・・・って、若干一名、関係者以外の怪しい人物が・・😲

訪問日:2011年6月12日&2013年3月28日

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土砂降りと晴天の松山城 in 愛媛県松山市勝山

2020年11月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市の中心部、勝山(城山)山頂に本丸、西南麓に二之丸・三之丸を構える「松山城」。日本三大平山城にも数えられ、別名「金亀城(きんきじょう)」とも呼ばれます。

抜けるような青空の下、満開のサクラ・・・いうまでも無く2013年のリベンジ訪問の画像 *。☆ヾ(´∀`)(´∀`)ノ☆。*゚

苦手なロープウェイからの景色も、今日は特別出演・・と言ってもカメラに収めたのは当然ですがご亭主殿。私なんぞ、リフトに乗った人を見ただけで顔面蒼白。手には冷や汗😱

でもってロープウェイを降りた所で、まずは「松山城へようこそ」と賑やかな顔ハメのお出迎え。これがあると「ああ、観光地なんだ」と何故か実感 😊

☂二年前は、叩きつける雨が巻き上げる飛沫で、先に進むごとに視界がかすんでいましたが・・・・

🌞二年後は、降り向けば春景色の中、後方から来る観光客の姿もはっきりと見えます😆

ここまで来たからには・・・そんな悲壮な思いでひたすら歩き続けて辿りついた「乾門」。ほんの一瞬の小降りを狙って残した一枚☂。

ここまで来るともはや別世界、ご亭主殿は鼻歌まじり、当然足取りも軽くなり、足取りが軽くなると、多分・・お財布の紐も軽くなります😍

城壁に沿って黙々と歩いていると、ズボンの裾が水を含んで足首にまとわり付き、滲みこんだ水は膝まで這い上がって、さらに雨にぬれた体を冷やし続け・・・😭

☂横殴りの風が嘲笑うかのように吹き付け、時折見える下界は灰色のもやの中・・

天守閣に上がったところで何も見えないだろう・・もういいや・・と登城を断念☂☂。

が!!、二年後の私たちは一味違います! どうです、桜の海に浮かび上がる「松山城」。木肌の色まで鮮やかな「小天守」😍😍。

そして!!桜の花越しに見る松山の町並。

何と、今回は大天守の天辺まで登ってきました!!。そもそも足に若干の問題がある私、お城に行っても滅多に上まで行くことは無いのですが、この時ばかりは二年前のリベンジということもあって、かなり頑張りました😄

ありきたりといえばそうなのだけど、展示物も見て鎧着用体験もして、知らない小さなお友達と一緒に記念写真を撮って・・久しぶりに普通の観光客気分に浸りました。

お手軽に立ち寄れた「天神櫓」はもと具足櫓だったもの。後に本壇の鬼門にあたるため、久松松平氏の祖先神「天神(菅原道真)」を祭った事から、その名がつけられました。

あの日、雨に打たれて、捨てられた子犬か子猫のように、トボトボと車に向かって歩いた広場😭。

今回は名物の伊予柑ソフトなんぞも買ってもらって、しっかりと春の松山城を楽しみました。

ああ、そう言えば二年前に館内から大砲が見えたので、デジカメに残しておいたのですが・・・

今回は館外にある『加藤嘉明公』の銅像とのツーショット。ご機嫌なご亭主殿の顔をお見せできないのが残念(幸い)ですが、とにかく目にする者、耳に入る物何でもが嬉しく感じられた松山城訪問でした。

訪問日:2011年6月12日&2013年3月28日

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萬翠荘(ばんすいそう) in 愛媛県松山市

2020年11月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市一番町、松山城の城山の南麓に位置する「萬翠荘(ばんすいそう)」。大正11年(1922)、旧松山藩主の子孫『久松 定謨(ひさまつ さだこと)伯爵』が、別邸として建設。坂道に続く石の門を入ると、左手にこじんまりとした「旧萬翠荘守衛所」が見えて来ました。

萬翠荘までは比較的なだらかな道ですが、雨で滑りやすくなっており、足に力を入れなければ前に進みません。それでも前方に見えてきた建物の美しさが、早く早くと手招きし、背中を押してくれます。

「陸軍駐在武官としてフランス生活が長かった定謨伯爵好みの、純フランス風の建物は、当時最高の社交の場として各界名士が集まり、皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたところであります。また、裕仁親王(後の昭和天皇)の松山訪問に合わせ、完成を急がせたとも伝えられております。萬翠荘は戦禍を免れ、建築当時の様子をそのまま残す貴重な建築物として、昭和60年に愛媛県指定有形文化財に。その後、2011年11月29日に萬翠荘本館と管理人舎の2棟が国重要文化財に指定されています。」萬翠荘HPより

何処を切り取っても絵になる美しさ。悔しいかな下から見上げるアングルでは思うように建物が写せません。帰宅後、ブログ用に画像修正しまくって😅何とか「らしく」見えるように頑張りました。

 

ちなみに銅版葺きの屋根に付けられた避雷針の先端には松山藩の大判・小判が使われているんだそうです。まさかそのままの形で使われているはずも無いのに、つい凝視してしまうあたりが・・・庶民なんです😓

それにしても・・・何時になったら建物の中に入るんでしょう。 もう小一時間あまり、デジカメもってウロウロしているような気がします。

あの植え込みの片隅にあるのは藩政時代の井戸。ここはかって松山藩の家老屋敷があった場所で、夏目漱石が松山中学の英語の教師として赴任した折に下宿をした「愛松亭」があった所。この井戸水、夏目漱石も愛飲したんだって・・と際限なく、見つけては駆けよる歴史の足跡。

いや・・・・もう本当にいい加減に建物内に入らないと、時間切れになったらどうするんですか!? と急かされてやっと建物内に・・・足を踏み入れた瞬間、・゚*。☆ヾ(´∀`)(´∀`)ノ☆。*゚思わず死蔵していた顔文字を駆使したくなるほどス・テ・キ~♪

何もかもが贅沢な造りで、ステキ過ぎて実感が湧きません・・・?まぁ・・実感も何も、庶民の私たちには縁が無い世界なのは確か。

帰りかけて目にした土蔵、これだって結構凄いと思うのですが、ここまで華麗な建物の側だと、脚光を浴びることは少ないみたいですね。

「夏目漱石の書簡碑と愛松亭跡」

誰の句か確認し忘れてしまった句碑😔

訪問日:2011年6月12日

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道後温泉本館 in 愛媛県松山市

2020年11月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市の観光地と言って一番最初に思い浮かぶのは、何と言っても「道後温泉」「松山城」。私たちが愛媛県行きの計画を立てた時、まず最初に目的地に選んだのもこの二ヶ所。

古く3000年もの歴史を持ち日本三古湯の一つとされる「道後温泉」。そのランドマーク的存在ともいえるのが上記の路上絵にも描かれた「道後温泉本館」。 明治27年(1894)、城大工『坂本又八郎』によって建築された三層楼の建物は、観光の表看板であり、国の重要文化財にも指定されています。

見てください!どんなに待っても人の姿が途切れる事無く続いて、建物だけの写真なんて撮れやしません😓 やっぱり観光地の有名な場所はどこもこんな感じですよね。

と言ってる側から登場する、妙に閑散とした「道後温泉本館」・・・😅 別に早朝を選んだわけではないのですが、この日は生憎の雨ふりで、温泉目当ての人はそそくさと入館してしまうし、呑気に観光する人など(私たちを除いて)殆ど見られません。

実は私たち、2011年6月の松山では目一杯雨に祟られ、楽しみにしていた二大観光地はアウト! 😣 で、2013年の春、無事リベンジ訪問を果たした次第。と言うことで、二種類の画像を使って、道後温泉の紹介です。

道後温泉の顔ともいえる看板は、松山出身の画家『村田英鳳氏』によって描かれたもの。・・・雨の中でこれを写すのはデジカメ命の私にはかなり勇気がいりました😥

本館三層楼の屋上には、これも道後温泉館の目玉「振鷺閣」が、風雅な佇まいを見せています。広さ約1坪、銅板葺きの屋根に、赤いギヤマンを嵌めこんだ障子という非常に斬新な設計。夜には天井の釣ランプに灯が入り、それが赤いギヤマンに反射して、とても幻想的なんだそうです。

どうです?お天気が良いと天辺の白鷺ものびのびと羽を伸ばしているように見えるでしょう😊

白鷺といえば、道後温泉を発見したのは足を痛めた白鷺だそうですが・・・もしかして白鷺って温泉探索の達人(鳥)なんでしょうか。古くに開湯された温泉には常に白鷺の影が・・・😅

もう一つ、温泉開湯に付いて回るのが『小彦名命』の伝説。「遠く神話の時代、大国主命と少彦名命が出雲の国から伊予の国へとやってきました。伊予に着いた時、少彦名命が急病で苦しみ出したので、大国主命は海底に管を通し、大分の「速見の湯」を道後へと導き、小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めました。するとたちまち元気を取り戻し、喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしました。」『小彦名命』が舞ったという石は、命の足跡を残したお湯掛け祈願の「玉の石」として、大切に祀られています。

玉の石を横目に裏手に回ると、千鳥破風と唐破風を組み合わせた東向きの玄関が見えてきます。道後温泉には日本で唯一の皇室専用浴室、「又(ゆう)新殿」があり、ここはその専用入り口に当たります。

雨の日の鶴は、広げた翼さえも冷たそうに震えて見えますが・・・・・

お天気が良いと今にも飛び立ちそうな勢いに見えるから、人間の目って不思議なものです。

和風建築の粋が集約された建物の総工費は、当時の小学校教員の初任給が八円といわれた時代の「十三万五千円」! ただお風呂に入って「ああ、いいお湯だわ」だけでは勿体無い、見所満歳の建物なのです。そりゃ~翼竜だってえらそうにしてる筈です😆

さて、今はこれほどの賑わいを見せている「道後温泉」ですが、「道後湯之町・初代町長『伊佐庭如矢』」の存在が無ければ、この道後の今は無かったといわれています。町長としての報酬を全て投げ出し、絶大な反対運動に命を脅かされながらも町の未来のためにと成し遂げた業績。
耳の奥で、♪~風の中の昴~砂の中の銀河~♪の一節が響き始めました😊

温泉街から少し外れた道後公園には、愛媛県重要文化財に指定された「日本最古の湯釜」が残されています。湯釜とは円筒形をした温泉の湧出口の事で、大きさは、直径166cm、高さ157cm。
奈良時代に作られたもので、道後温泉本館が出来る迄の約1,150年間、絶える事無く湯を噴出し続け、別名「湯釜薬師」とも呼ばれています

実はこの湯釜のレプリカが「放生園足湯」として人気なのですが、何しろ屋根の無い広場、「いいお湯だけどね~」と、ご亭主殿。いくら良いお湯でもこんな雨の中で足湯を楽しむほどの根性は持ち合わせていませんよ!!

 もちろん、二度目の来訪ではしっかり堪能させて頂きました😊

おや、漱石先生もお風呂にいらしてたんですか? お湯加減は如何でした?そうですか良いお湯でしたか それは何よりでしたね 😊

訪問日:2011年6月12日&2013年3月28日

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伊佐爾波(いさにわ)神社 in 愛媛県松山市

2020年11月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市桜谷町、道後山山腹に鎮座される「式内社:伊佐爾波(いさにわ)神社」。御祭神は『譽田別尊、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、三柱姫大神』

「創建について詳細は不明ですが、神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられたといわれ、すでに延喜年間につくられた延喜式に載っている古社で1000年以上前から信仰を集めていたことが窺えます。一時期は湯月八幡宮とも、さらには道後八幡とも呼ばれました。当初は道後公園山麓に御鎮座していたと推定され、建武年間(14紀前半)頃、河野氏が湯月城築城に際して今の地に遷し、道後七郡(野間、風速、和気、温泉、久米、伊予、浮穴)総守護と称えました。」公式HPより

寛文7年(1667)造営の「八幡造」の本殿。後殿・前殿の2棟の社殿が前後につながった形式で、後殿は祭神の夜の座所、前殿は昼の座所とされます。透かし塀と共に、国重要文化財の指定。

社殿正面に位置する入母屋造の楼門は、本瓦葺で初層正面を唐破風とし、本殿等の社殿を囲む回廊と共に、同じく国重要文化財の指定。京都の石清水八幡宮を模したと言われ、大分の宇佐神宮と並び全国に三例しかないといわれています。


生憎の雨の中ですが朱塗りの社殿に施された鮮やかな社殿彫刻の数々は、まさしく眼福。どれを取り上げてどれを外すのか、心底迷っしまう素晴らしいものばかり!

とは言え、見られる程度に写せたものはほんの僅かしかなく、従って迷うほどでもないのです😓

そんな中でも特にお気に入りがこの「高砂の尉(じょう)と姥(うば)」。色んな場所で目にするお二方は、私達夫婦の将来の理想の姿なのです😊

重要文化財の回廊も歩いたし、奉納された美しい絵馬の数々も見たし・・でも外は雨だから、そんなにみっちりと外から内側を見るには些かデジカメさんに危険だし・・・😓

名残惜しくはありますが、今から135段の石段を降りて道後の町へと向うことに。雨でぬれた石段は滑るし、傘に片手は取られているし・・本当に大丈夫か?わたし😣

石段の途中で、神域を守護されている狛犬さんを発見。大きな玉を抱いた姿勢で参拝者の行き来を見守っています。
ねぇ、狛犬さんたち、その手にした大きな玉、決して落とさないでくださいね。

やっとの思いで真っ直ぐな地面に到着😓。改めて見上げて思ったこと・・これ登りだったら絶対に途中で挫折したかも・・。上の駐車場から直接境内に入って参拝できるように調べてくれたご亭主殿に改めて感謝😄

参拝日:2011年6月12日

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愛媛県庁本館 in 愛媛県松山市

2020年11月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

松山市の歴史的な建造物は、道後温泉館以外にも沢山ありますが、まずは県庁所在地に敬意を表して「愛媛県庁本館」

昭和4年(1929)に完成した鉄筋コンクリート造り4階建ての建物は、大阪を拠点に多くの公共建築設計を手がけた『木子(きご)七郎氏』。総工費102万円は現在の価格に換算すると、100~120億円に相当するそうです。

正面玄関周りと1階部分は御影石張りで、上部の外壁は人造石洗い出し仕上げ。車寄せの柱は古代ギリシャ建築様式に倣い、アカンサスの葉が彫刻されています。

これほどの建物、内装はどんなに凄いだろうかと、足を踏み入れる前から期待でワクワク。が・・・日曜日だと言うのに、観光客はおろか、見学者の姿さえ見えないのです。雨のせいかなと軽く考えていたのですが、実は見学は土・日・祝を除いた、平日のみ!

折角来たのに・・・・物凄く楽しみにしていたのに・・・何で??何で??きっと守衛さんの目には、物凄く打ちひしがれて見えたのでしょう。どちらからと聞かれて、京都からと答えたその距離を考慮してくれたのかもしれません。
「ロビーだけなら見学しても良いですよ」と、特別に許可をくれたのです。所定の用紙に記入しながら、心は奈落の底から一気に天上に🙏🙏

黒白の大理石の床、デザインの美しさが重厚さを一段と引き立たせる天井照明。細部に渡って細かい装飾が施された壁、柱・・・何が凄いって、ここって現役で知事が執務を行う庁舎なんですよ!

当時のままの公衆電話、ステンドガラスの下で一際存在感を放つ飾り時計に入り口だけは昔のままだというエレベーター。何を見てもどこを見ても溜め息がこぼれるような美しさに、感動さえ覚えてしまいます。

何よりも嬉しかったのは、とかくお役所仕事といわれる職場にありながら、柔軟に対応してくださった職員の方の心配りです。本当に、本当に!!どんなに感謝しているか、愛媛県庁の姿勢が垣間見えたような気がして・・改めて深く御礼申し上げます🙏🙏

訪問日:2011年6月12日

三年後の松山訪問時、電車の窓から見た県庁本館の外観。変わらぬ美しさに当時の感動を思い出し、感無量です。

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ご当地マンホールとマンホールカード第3弾 in 愛媛県松山市

2020年11月12日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

松山市(まつやまし)は愛媛県の中部に位置する市です。東温市、今治市、伊予郡松前町・砥部町、上浮穴郡久万高原町、海を隔てて大洲市に。さらに県を跨いで山口県大島郡周防大島町、広島県呉市に隣接。市域は北西部の瀬戸内海に浮かぶ中島から高縄山系のすそ野の平野を経て、重信川と石手川により形成された松山平野へと広がっています。松山城を中心に発展して来た旧城下町で、道後温泉や、小説「坊っちゃん」「坂の上の雲」などで知られ、これら観光資源を背景として、「国際観光温泉文化都市」の指定を受けています。「市の花:ヤブ椿」を制定。

キャッチフレーズは「憧れ 誇り 日本一のまち 松山 「坂の上の雲をめざして」-みんなでつくろう、みんなの松山-」

明治22年(1889)、町村制の施行により、温泉郡の63町4村が合併、市制を施行、松山市が発足。

1908年~1940年、朝美村・雄群村・素鵞村・道後村・御幸村・三津浜町・和気村・久枝村・堀江村・潮見村・味生村・桑原村を編入。

1944年~1968年道後湯之町・生石村・垣生村・興居島村・余土村・久米村・湯山村・伊台村・五明村・浮穴村・小野村・石井村・久谷村を編入。

2005年、北条市、風早群中島町を編入。現在に至っています。

マンホールには、「市の花:ヤブツバキ」と、周囲には松山絣とも呼ばれる「伊予絣」がデザインされています。

上記と同じデザインで「みんなでつくろう 住みよい松山」のフレーズ入りです。

明治44年4月7日制定の市章は「 松山市出身の画家『下村為山(しもむらいざん)』の考案。松と山を図案化して「松山」を表現したものです。」 公式HPより

中央に温泉マークが入ったマンホールは、道後温泉の付近で見つけたものです。

「熟田津の道(にきたつのみち)」で見つけた路上タイル。どちらにも美しい松の絵が焼かれています。松山市には市の木は制定されていないので、市名にちなんだものと想像しました。

松山城築城400年祭を盛大に祝福すべく誕生した、松山城マスコットキャラクター『よしあきくん』。松山城の初代城主『加藤嘉明(よしあき)』にちなんで名付けられました。

松山市三町に本拠地を置く「Jリーグ・愛媛FC」のマスコットキャラクター『オ〜レくん・たま媛ちゃん・伊予柑太くん』。ミカンを擬人化したので、口元に果汁が付着しているのはご愛嬌と言うことで😅

松山市消防局マスコットキャラクター『防災カバーくん』。流石に消防局の敷地内でこの写真を写すのは根性がいりました😆

お遍路さんの安全をカバーしてくれる「お遍路カバーくん」のバージョンもあります。

撮影日:2011年6月11日&2013年3月28日

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マンホールカード、頂きました

2016年12月3日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「松山市」のマンホールカードは、「坂の上の雲ミュージアム」でいただけます。

1998年に設置開始されたマンホールには「ヤブツバキ」と「井桁文様」がデザインされています。

「法興6年(596年)、道後に来浴した聖徳太子は、椿が生い茂る温泉郷の壮観なさまを見て、これを称える言葉を書き残したと伝えられています。 古くから松山の人びとに愛されてきた「椿=ヤブツバキ」は、昭和47年、市の花に選定されました。 本マンホールの蓋のデザインは赤や薄紅のヤブツバキを描き、花の周りには、日本三大絣(かすり)のひとつ「伊予かすり」の井桁文様をあしらっています。 制作は市政百周年記念事業(1989年)の一環として進められ、1991年に意匠の一部を修正して今に至ります。 松山市は歴史の深いまちで、小説『坂の上の雲』の舞台にもなっています。 マンホール蓋とともに史跡めぐりなどもお楽しみください。」

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ご当地マンホール in 愛媛県旧吉海町&旧上浦町(今治市)

2020年11月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧越智群吉海町(よしうみちょう)は瀬戸内海中央部:芸予諸島の最南端に位置した町です。越智郡宮窪町に、海上または橋により越智郡伯方町・上浦町・大三島町・波方町に隣接。大島の南西方面を占めており、三方海に囲まれ中央部に平坦地があり、町役場を中心に商工業集落を形成し、海岸周辺に農漁業集落が散在。地質は大部分が花崗岩組成で表面は砂質壌土で、米・果樹・野菜などの栽培に適しています。「町の木:松」「町の花:ツツジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「海と島に 来島大橋映えるまち よしうみ」

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡津倉村、亀山村、大山村が発足。同年7月、亀山村から渦浦村が分立。

1954年、津倉村、亀山村、渦浦村、大山村福田・泊・田浦地区が合併、越智郡吉海町となる。

2005年、今治市、菊間町、大西町、玉川町、朝倉村、上浦町、宮窪町、伯方町、大三島町、波方町、関前村と合併して今治市吉海町となりました。

マンホールには「YOSHIUMI-TOWN」の文字と「町の花:ツツジ」「来島海峡大橋と来島海峡の急潮」がデザインされています。

昭和43年7月制定の町章は「吉海を端的に表現するために、上に吉の字 を下に海の字を図案化した。町の円満なる 発展を祈念して円形に。」合併協議会資料より

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旧越智郡上浦町(かみうらちょう)は愛媛県の最北端、大三島の東部に位置した町です。越智郡大三島町に。海上または橋により越智郡伯方町・吉海町・宮窪町。さらに県を跨いで広島県竹原市・三原市・豊田郡瀬戸田町に隣接。基幹産業は、農業で柑きつ栽培がほとんどですが、トマト、いちご、花き栽培にも取り組み、水産業ではタイ、ヒラメなどの高級魚の養殖も手がけています。また大三島などの瀬戸内海の島々へサツマイモを広めた『下見吉十郎秀譽(あさみ きちじゅうろう ひでたか)』の出身地としても知られます。「町の木:松」「町の花:ツツジ」「町の鳥:鳩」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡瀬戸崎村、盛口村が発足。

1964年、瀬戸崎村、盛口村が合併し町制を施行、越智郡上浦町が発足。

2005年、今治市、菊間町、大西町、玉川町、朝倉村、吉海町、宮窪町、伯方町、大三島町、波方町、関前村と合併して今治市上浦町となりました。

マンホールには「町の花:ツツジ」と「多々羅大橋」、右下に「町章」がデザインされています。

ご当地ポスト「多々羅大橋」と「多々羅大橋開通記念切手」

昭和40年4月制定の町章は「町民の和が保たれるようにという希望と、ミ カンの町の象徴として、上浦という文字をミ カンの形に図案化したもの。」合併協議会資料より

撮影日:2014年3月25日

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2014年のしまなみ海道の旅では「道の駅・多々良しまなみ公園」にて車中泊をさせていただきました。おみやげに購入した「でこたん」と「きよみ」ジュースの美味しかったこと!!ケースで買っておけばよかったと、ご亭主殿と二人、嘆くことしきり。

車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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旧越智郡関前村(せきぜんむら)は愛媛県の東予地方に位置した村です。すべて海上により、越智郡波方町・大三島町、また県を跨いで広島県豊田郡豊町・木江町に隣接。江戸時代、宮浦村、里浦村を併せて岡村と改称、大下村とともに松山藩に属し、村域は芸予諸島の岡村島、大下島、小大下島の3島とその属島の無人島群からなる離島の村です。「村の木:ヤマモモ」「村の花:みかんの花」「村の鳥:メジロ」「村の魚:サワラ」「村の昆虫:クロツバメシジミチョウ」を制定。

旧キャッチフレーズは「みかんと潮風のふるさと」

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡關前村が発足。
2005年、今治市・越智郡11か町村の合併により今治市関前となりました。

昭和53年9月制定の村章は「円形は「セキゼン」のセキを図案化したもので 融和と強調を、円内の山型は三島の団結と躍 進を表し、関前村の将来の発展を象徴してい る。」合併協議会資料より

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旧越智郡宮窪町(みやくぼちょう)は今治市の東北海上約4kmに位置した町です。越智郡吉海町、海上を隔てて伯方町・上浦町・上島町・今治市・西条市・新居浜市に隣接。町域は大島の東北半面を占め、三方海に面して北東に横長く、北方海上1kmのところにある能島は、かつて村上水軍の根拠地として国指定の史跡となっています。温州みかん、晩柑類の栽培を主にした農業、瀬戸内海の急流による高級漁を産し、又地域の資源を活かした花崗岩採掘は地場産業を支える重要産業であり、墓石、高級建材として使用されており「大島石」として有名です。「町の木:松」「町の花:桜」を制定。

旧キャッチフレーズは「能登水軍 ロマンの里「宮窪」」

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡宮窪村・大山村が発足。
1952年、宮窪村が町制を施行、越智郡宮窪町となる。
1954年、大山村早川・余所国を編入。
大山村の残部福田,泊,田浦は他村と合併して吉海町を新設。
2005年、今治市・越智郡11か町村の合併により今治市宮窪町となりました。

昭和49年3月14日制定の町章は「宮窪の「宮」を円形に意匠化したもので、円は町の円満な発展と町民協和を、縦の線により将来への飛躍発展を象徴している。」合併協議会資料より

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旧越智郡伯方町(はかたちょう)は多島海国立公園「瀬戸内海」の中央部にあり、今治市と広島県尾道市とのほぼ中間に位置した町です。「しまなみ海道」により越智郡上浦町・宮窪町・上島町、県を跨いで広島県豊田郡瀬戸田町に隣接。瀬戸内海に浮かぶ伯方島1島で1町を成し、造船、海運、みかん、くるまえび養殖、縫製業が盛んです。「町の木:くすのき」「町の花:サツキ」を制定。

旧キャッチフレーズは「マリンオアシス 伯方」

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡東伯方村、西伯方村が発足。
1940年、東伯方村が町制を施行、越智郡伯方町(第一次)が発足。
1955年、伯方町が西伯方村と合併、越智郡伯方町(第二次)が発足。
2005年、今治市・越智郡11か町村の合併により今治市伯方町となりました。

昭和36年制定の町章は「カタカナの「ハカタ」の文字を丸く整形し たもの。 町の円満と発展を象徴している。」合併協議会資料より

(※)旧越智郡関前村・宮窪町・伯方町は未訪問の為、ご当地マンホールの有無は未確認です。

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