車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大山祇(おおやまづみ)神社 in 愛媛県今治市大三島町

2020年11月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

今治市大三島町宮浦に鎮座される「大山祇(おおやまづみ)神社」。式内社(名神大社)で伊予国一宮。全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社とされます。

「鷲ヶ頭山(わしがとうざん)」を御神体山とし、御祭神は『大山積神(おおやまづみのかみ)』。寛文元年(1661)、松山藩主『松平定長』の寄進で造営された神門。

境内由緒「御祭神は「天照大神」の兄神に当り、天孫「瓊々杵尊」降臨の際、「木花開耶姫尊」を「瓊々杵尊」の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられる。同時に「和多志大神(わたしのおおかみ)」と称せられ、地神・海神兼備の霊神であり日本民族の総氏神として古来日本総鎮守とされた。大三島に御鎮座されたのは、「神武天皇」御東征のみぎり、祭神の子孫・「小千命」が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていたとき、芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮祭したことに始まる。本社は社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称せられ歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く奈良時代までに全国津々浦々に御分社が奉斎せられた。延喜式には名神大社に列し、伊予国一の宮に定められ、官制に依り国幣大社に列せられた四国唯一の大社である。全国に奉斎される大山祇神社・三島神社の総本社として、又数万点に及ぶ宝物類を蔵する国宝の島として四季を通して多数の参拝がある。」

鳥居の内より神域を守護されるのは、文政8年(1825)2月吉日建立の端正な顔立ちの狛犬さん。石の色が赤っぽいのは使われた石の材質に寄るものでしょうか?

2010年に造営された檜の香りも新しい総門前から神域を守護されるのは、昭和15年(1940)11月建立の狛犬さん。神殿狛犬のように端正な風貌です。

先の狛犬さんの前で神域を守護されるのは、文化13年(1816)4月吉日建立の狛犬さん。位置的に御祭神に近くなる所為か、心持ち胸を張ってエラソウ・・・😄

境内には、国の天然記念物にも指定された「御神木:乎千命(おちのみこと)御手植の楠」が驚くほどの生命力で枝を広げ葉を茂らせています。

推定樹齢は2600年、根元部分だけを見れば「もうダメなのでは・・」と思わせるほど洞が目立ちながら、頭上の濃い影は真夏の太陽でさえも遮ると思われる勢いで、まさにパワースポット!と噂される所以。

神池近くにある「能因法師雨乞いの樟」。今は枯死していますが、案内には「日本最古の楠(樹令三,000年)で御冷泉天皇の御世(九00年前)伊予の国守藤原範国は能因法師を使者とし祈雨の為参拝させた其の時 天の川 苗代水に せきくだせ あま下ります 神ならば神詠じ、祈請したところ伊予国中に3日3夜雨が降ったと伝えられる」

御神木の葉陰の下に見えるのは「十七神社」。御祭神は「諸山積神社と十六神社」。由緒によれば、正安年間(1299-1302)の創建とされ、社殿は永和4年(1378)の再建で、愛媛県指定有形文化財に指定されています。

「境内社:宇迦神社」。拝殿前より神域を守護されるのは、明治27年(1894)3月吉日建立の玉乗り狛犬さん。

よ~~く見ると、玉から出た紐が狛犬さんの体に巻きついているように思うのですが・・気のせいでしょうかね?

神門を入った左の回廊、いかにも貴族然とした貴人像は、今治造船が奉納した「中村晋也」作「隼人の舞(宮中の儀式用の歌舞)

弟の山幸彦さんに仕返しされて苦しむ海幸彦さんの姿を舞いうつしたものだそうで、そうであるなら、この『海幸彦さん』、随分と優雅に苦しんでおられます😅

裏参道鳥居より神域を守護されていたブロンズ製の狛犬さん。神殿狛犬に近い形ですが、特に大きな目を見開いて機嫌よく話しかけてくれてる風の阿形さんの顔が好印象でした。

境内入り口に見かけた「表忠碑」。乃木将軍が心中を托して創造した書である旨が記されています。「表(公)に忠(忠義)の志を、石(意思)の硬(堅)い心を以て家の定とする」渡邊明一氏)

大三島藤公園にひっそりと佇むのは、大山祇神社の大宮司『大祝安用 (おおほうりやすもち)』の娘『鶴姫』。周防大内氏の侵攻に際し、僅か16歳で陣代として出陣し敵の武将を討ち取った鶴姫。

しかし敗北に業を煮やした大内氏は更に攻め寄せ、この戦で鶴姫は兄と恋人を失います。残存の兵力を集結させ必死の勝利を収めた鶴姫は、自らの引き際として、母の形見の鈴を持ち18歳で入水。
・・・今もその辺りからは、小さな鈴の音が聞こえると・・云い伝えられています🙏。

参拝日:2014年3月25日

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ご当地マンホール in 愛媛県旧大三島町(今治市)

2020年11月09日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧越智郡大三島町(おおみしまちょう)は瀬戸内海の中央部、県の最北端に位置した町です。越智郡上浦町に、また海上を隔てて越智郡関前村・吉海町。さらに県を跨いで広島県竹原市・豊田郡木江町・東野町に隣接。島のほぼ中央にある鷲ヶ頭山に連なる山嶺の麓に開かれた急傾斜地と沖積平坦地で形成。神武天皇のころ小千命が祖神、大山積の神を大三島にまつり、伊予一の宮として、河野、村上水軍らの豪族の信仰を受け栄えてきました。温州みかん、柑橘栽培が盛んで、大山祇神社や大三島美術館を中心に多くの観光客が訪れます。「町の木:楠」「町の花:ミカンの花」「町の鳥:白鷺」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡鏡村 、宮浦村 、岡山村が発足。

1955年、鏡村と宮浦村が合併、町制を施行し越智郡大三島町が発足。

1956年、大三島町が越智郡岡山村を編入。

2005年、今治市、菊間町、大西町、玉川町、朝倉村、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、波方町、関前村と合併して今治市大三島町となりました。

マンホールには町の名産「みかん」と、「町の花:みかんの花」がデザインされています。

カラー仕切弁・空気弁・量水器にも「みかん」と「町の花:みかんの花」がデザインされています。

昭和36年7月7日制定の町章は「大の字三つを円内に組合せ図案化したもので、大三島を表すと同時に合併前の鏡、宮浦、岡山の三ヶ村が手をとり合い、町の限りない発展を象徴しています。」合併協議会資料より

撮影日:2014年3月25日

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砥鹿(とが)神社 in 愛媛県今治市菊間町(旧菊間町)

2020年11月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

今治市菊間町田之尻、砥鹿山トンネルの出入り口側に鎮座される「砥鹿(とが)神社」。御祭神は『大穴牟遅命(おおなむぢのみこと)、少名彦命』

「砥鹿神社の名称神社は全国でも数社しかなく、本社は愛知県三河国の一之宮である。当社には、本社と同じような地名が残り、当社の南方の山頂を(古砥鹿)と呼ぶ、馬の背などの地名もあり、その地より現地へ奉遷したものと思われる。三河国一之宮砥鹿神社と伊予国当社の関係は、未詳である。子育ての守護神として中予地区、東予地区にわたって崇敬者が多い。」愛媛県神社庁より

鳥居の内より神域を守護されるのは、瓦の町に相応しく、菊間瓦材で焼かれた狛犬一対。「焼元:土井繁 製作:光野亀太郎 昭和19年(1944)建立」の銘。 石を削って作る狛犬さんは勿論ステキですが、こうした焼き物の狛犬さんも大好き!焼き物の名産地にある神社では、数は少ないですがこうした狛犬さんに出会うことも出来ます。

境内の片隅にいた後ろ姿の先代狛犬さん・・・相方も居なくなってしまって満身創痍。それでもこうして大切に置かれている事が、狛犬ファンの心を鷲掴みにし、そうしてますます狛犬が好きになる。

拝殿よりには、「石工:桧垣清三 大正3年(1914)1月吉日建立」の銘が刻まれた石の玉乗り狛犬さん。阿吽共にがっちりと玉を抑えているのですが、実は吽形さんの前足には、小っちゃな子狛さんがしがみ付いているんですよ。

仔狛君、その大きな玉が欲しいのかな?それとも、玉よりも僕と遊んでの催促かな?

ラストは留蓋瓦の獅子一対。かわら館の展示狛犬も最高でしたが、自然の景色の中で頑張る神獣たちには特に「ガンバレ!」

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旧越智郡菊間町(きくまちょう)は愛媛県の東予地方、今治市の最西端に位置した町です。北条市、越智郡大西町・玉川町に隣接。堀川天皇寛治4年(1090)に京都上賀茂神社の神領地にあてられ、菊万庄、佐方保として文献にその名が登場します。藩政時代には松山藩に属し、野間郡西月番所によって所管されました。町域に急峻な山はなく、丘陵地はみかんの果樹園や里山等として利用。主要集落は海岸に沿って走る国道196号や、菊間川とその支流の中下流域に開かれており、古くから菊間瓦の生産で知られてきました。「町の木:松」「町の花:菊」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、野間郡菊間村・歌仙村・亀岡村が発足。
1897年、郡制の施行により、野間郡が越智郡に統合される。
1908年、菊間村が町制を施行、越智郡菊間町が発足。
1925年、菊間町が歌仙村を編入。
1955年、菊間町が亀岡村を編入。
2005年、今治市、越智郡玉川町、大西町、波方町、吉海町、宮窪町、伯方町、大三島町、上浦町、朝倉村、関前村と合併、今治市菊間町となりました。

鬼が大切に守っている菊間町章。「菊間町の「キクマ」を図案化したもので、円は町民の和を象徴したものである。(制定年月日不明)」旧公式HPより。

旧菊間町域では上下水道、いずれのマンホールも見つける事が出来ませんでした。

参拝日:2011年6月11日

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菊間瓦の町・かわら館 in 愛媛県今治市菊間町

2020年11月07日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

750年の歴史を持つ「菊間瓦」の生産で知られる菊間町。国道196号沿線には瓦工場が林立し、そこかしこに思わず目を引き、足を止めさせる細工瓦が並べられています。特に龍の首根っこに食いついているようにも見える海鷂魚(エイ)」の構図は、初見と言う事もありますが秀逸。

目を引き、足を止めさせた「錦松工房」さんの巨大な鬼瓦!菊間の町・・瓦好きの二人の期待に充分応えてくれそう。

瓦に興味のある人なら、菊間は本当に!見所満載の町。たとえば菊間に訪れて最初に目にするであろう町の玄関「菊間駅」。白漆喰の壁に菊間瓦をふんだんに使った贅沢な作りが来訪者の心を鷲づかみにしてくれます😊

町の隅から隅まで見て歩くのも「アリ」かもしれませんが、流石にそれは時間を要しすぎると言うことで、菊間を代表する施設「瓦のふるさと公園 ・かわら館」にやってきました。

駐車場からエントランスを見てまずは感動!驚嘆!😲、暫くは移動できそうにありません。 「菊間瓦の歴史と伝統を紹介、瓦の技を体感」
HPのサブタイトルの言葉ですが、それはこの「熨斗瓦」を見ただけで実感。竹林の猛虎も、羽ばたく鷹も今にもノッスリと動き出しそう、空高く飛んでいきそう!!

瓦と言えば「鬼瓦」。建物の大屋根を守るのは俺様以外に居ないとばかりに睨みを利かせ、来館者を見守る「大鬼」。

こんなにステキな町なら、当然イメージキャラクターもいるのですが、普通に紹介したんでは面白くない!と・・思ったかどうか。壁一面に瓦をつなぎあわせて作成した『きくまるちゃん』 。髪の毛の菊は、菊間町の花。

瓦屋根の電話ボックス、定番の留蓋瓦の獅子・・次からつぎへと出現する瓦の面白さに我を忘れる二人、こんな調子だと、館内に入れるのはいつの事やら😓

よい加減で見切りをつけて館内に。最初に目に飛び込んできたのは「菊間加茂神社」で毎年開催される秋の祭礼「お供馬の走り込み」。もちろん菊間瓦で製作されたレリーフ。

早速チケット(大人:210円)を購入して館内へ😄 😃
素晴らしいだろうと予想はしていましたが、収蔵品はどれもこれも、ただ、ただ、ため息の出る作品ばかり。

特に二人の足を長く留めさせたのは「市指定文化財 遍照院:庫裏の鬼瓦」。満開の牡丹の花の中で戯れる二頭の唐獅子は、「天保四年(1833)桶屋 清兵衛」の作と、記録にも残されています。

この構図は人気があったのでしょうか? 館内照明だけで撮影した為に鮮明な画像が少ないのですが、上部の獅子が異なったものもありました。

これらは全て、個人の装飾品や芸術作品などではなく、誰もが普通に目にする建物の屋根にあり、当たり前に風雨に晒されてきたものです。よくぞこれほどに残して頂けたものと、その事に感謝したい気持ちです。

一風替わった題材の留蓋瓦、説明には「加茂神社旧拝殿に置かれていた装飾瓦の「サルとタカ」 その昔、サルが馬小屋の番をしていました。仲良しのタカは、馬が自由に遊べるようにサルを押さえつけている」瓦に秘められた物語・・これから瓦を見る目が違ってきそうです。

「常光寺:子供鬼立像(塀隅蓋)」、鬼の子供題材にしたものは非常に珍しくそれだけでも必見なのですが、そのしぐさ・表情が何とも優しく心を惹かれました。

瓦で作られた大狛犬は、愛知県高浜市の神社でも見て来ましたが、それでもこれほどの大作はそんなに多くは有りません。

ここに紹介したのはごく一部分のみ、それも全て、自分の趣味に特に叶ったものばかり😊。ですがこれを見て少しでも「良いな」と感じられたなら、是非とも現物を見てきてください。 きっと全部見終わる頃には、間違いなく鬼師が生み出す瓦のファンになっている筈です😊

金比羅社瓦灯籠(航海灯):文政九年作

訪問日:2011年6月11日

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熊野新宮神社&高野天満神社 in 愛媛県今治市玉川

2020年11月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

玉川町小鴨部に鎮座される「熊野新宮神社」。御祭神は『伊邪那美命(いざなみのみこと)速玉之男命(はやたまのおのみこと)』

「神亀5年(728)戊辰9月23日、小千国造命が本郡の総鎮守神として紀伊国熊野新宮大権現の御分霊を奉遷した。」愛媛県神社庁より

拝殿の鬼瓦、ここでも実に見事な「鬼」が高みより参拝者を見下ろしています。

鳥居の内より神域を守護されるのは、明治40年(1907)3月吉日建立の構え狛犬さん。吽形さんは大事そうに玉を抱え込み、紐を咥えて遊んでいます。阿形さんはまるでストレッチでもしているように体を屈伸させている最中。

沢山の末社は、神社庁のページに寄れば「飯成神社・一之宮神社・熊野久須毘神社・保食神社・大山祇神社・山之神社・他4社」と記載があります。

境内の御神木。苔むして尚更貫禄を増したその姿には、確かに木の神が宿っている・・・・。

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今治市玉川町高野に鎮座される「高野天満神社」。御祭神は 『菅原道真神(すがはらのみちのかみ)=菅原道真公』

【年代未詳であるが、伊豫の国司河野氏が京都北野天満宮を勧請し、越智の十社を超える名天満社の一つであるという。】愛媛県神社庁より

鳥居の内より神域を守護されるのは、まるで大きく伸びをするような姿勢で構える阿形さん。吽形さんは後ろ足で紐緒のついた鈴を踏み、しっかりと口に咥えて所有権を誇示しています。

後ろ足の下に隠した大きな鈴

そしてここでもまた拝殿の留蓋瓦の獅子が、とっても楽しい仕草を見せてくれています。後ろ足で耳の後ろを掻く仕草、モデルは絶対に鬼師さんちの猫!!。

拝殿の左後方に奉られる境内社は「厳島神社・鷺神社・八幡神社・客原神社・平内神社・山神社・大己貴神社」

参拝日:2011年6月11日

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長谷三嶋神社 in 愛媛県今治市玉川

2020年11月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

今治市の神社巡り、最後は今治市玉川町長谷宮前に鎮座される「長谷三嶋神社」、主祭神は『大山積神(おほやまつみのかみ)』

【神亀5年8月聖武天皇の勅詔によって伊予国九十四郷に九十四社の大三島大明神の神霊を国司伊予守越智玉純が勧請した。産土神と号し地のご前と称え、国司の崇敬篤く神護寺を設け、国家繁栄を祈った社である。】愛媛県神社庁より

鳥居の内より神域を守護されるのは、「高野天満神社」の狛犬さんと同じく、後ろ足に鈴を踏み、紐の緒を咥えた吽形さん・・・そっくりだと思ったら同じ石工さんだとご亭主殿が教えてくれました d(-_^) 

こちらでは阿形さんの足元によじ登る子狛がいます。それがまぁ!可愛らしいことといったら(*^^*) 後ろ足に必死にすがり付いている姿を見ると思わずお尻を持ち上げてやりたくなります(笑)

恒例になりつつある拝殿の鬼瓦ですが、こちらもまぁ見事なこと、三嶋神社の社号表を捧げ持つ龍に始まって、御神紋を大切にお守りする「鳩」・・八幡様じゃないのに何で鳩なんだろう?(((((^_^;)

参拝を終えてふと気がついたこの石組み。実はこれ、明治40年に設けられた、長谷水力発電所の取水堰遺構なのです。

予期せぬ場所で、予期せぬ歴史的遺産に巡り合えるなんて、予期せぬ素敵!
旅の思い出に更に一花添えてくれた、予期せぬ出来事でした(*^^*)

参拝日:2011年6月11日

 

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ご当地マンホール in 愛媛県旧玉川町(今治市)

2020年11月04日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧越智郡玉川町(たまがわちょう)は愛媛県東予地方、高縄半島の中央部に位置した町です。今治市、松山市、東温市、西条市、越智郡大西町・菊間町・朝倉村に隣接。平安の中期頃から、伊勢皇太宮の所領「玉川の御厨」がこの地にあったといわれ、古くから繁栄していた事が地名の謂れとされます。町の中央部を今治市の上水道としての役割を担ってきた二級河川の蒼社川が貫流。この両岸沿いに集落・農用地が広がり、砂質土壌の排水可良な肥沃地で、水稲・野菜・果樹等いろいろな作物が栽培されています。「町の木:ヒノキ」「町の花:桜」を制定。

旧キャッチフレーズは「自然が美味しい町 玉川」

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡鈍川村・九和村・鴨部村 ・竜岡村が発足。

1954年、鈍川村、九和村、鴨部村、竜岡村が合併、越智郡玉川村が発足。

1962年、玉川村が町制を施行、越智郡玉川町が発足。

2005年、今治市、越智郡菊間町、大西町、波方町、吉海町、宮窪町、伯方町、大三島町、上浦町、朝倉村、関前村と合併し、今治市玉川町となりました。

マンホールには町章を中心に下に「九和 汚水」、全体に「町の花:サクラ」が美しくデザインされています。

昭和41年(1966)4月1日制定の町章は「「玉川」を図案化し、円形は町民の融和と団結による地域連帯性を表わし、将来の躍進と発展を象徴しています。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月11日

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旧越智郡大西町(おおにしちょう)は四国の北西、高縄半島の西北部に位置した町です。今治市・越智郡菊間町・玉川町・波方町に隣接。山系が東西に延び、平野は概ね北部に広がり、斎灘に面し、海岸線の土質は概ね花崗岩の急傾斜地帯。重茂山から平坦部に、山林、果樹園が多く、扇状形に広がる平坦部は田畑であり、海岸線中央部は造船・工場群並びに住宅地が形成されています。

「町の木:ヒノキ」「町の花:ツツジ」「町の鳥:」を制定。

旧キャッチフレーズは「海と緑の大西」

1889年、町村制の施行により、野間郡小西村が発足。
1897年、野間郡が越智郡に統合され越智郡小西村となる。
1955年、越智郡大井村と合併、越智郡大西町が発足。
2005年、今治市・越智郡11か町村の合併により今治市大西となりました。

昭和46年9月27日制定の町章は「大西町の「大」の字を図案化したもので、 円はみかんを、三角は産業の中心である船 を象徴し、町民が互いに手を取り合い未来 に向かって飛躍する姿を表している。」合併協議会資料より

(※)旧越智郡大西町は未訪問の為、ご当地マンホールの有無は未確認です。

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潮早(しおはや)神社 in 愛媛県今治市波方町

2020年11月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

今治市波方町樋口に鎮座される「潮早(しおはや)神社」。御祭神は『猿田彦命・原氏霊 』

由緒「弘安7年猿田彦命を奉祀し、潮早稲荷大明神と称したが、天正16年に湊山城主原四郎兵衛尉通孝の命により、来島城主来島出雲守を合祀して、潮早大明神と称し、その後、潮早神社と改めた。」愛媛神社庁より

田んぼの中を突っ切るように伸びる参道を進むと、突き当たりに一の鳥居と〆鳥居が見えてきます。

鳥居の両脇より神域を守護されるのは、孔雀の尾羽のように尾を一杯に広げた狛犬さん一対。阿形は後ろ足で玉を踏み抑え、吽形は両の前足でしっかりと玉を抱いています。広島の玉乗り狛犬とも違う・・面白い構図です。

雨にぬれた拝殿はしっとりと黒く沈み、実はとても綺麗に見えるのです。
が、見えるのと、画像にしてくっきりと言うのとは、これは随分違います。
何よりもデジカメを上に向けると雨に濡らしてしまうという恐怖が付きまといます。私のへそくりの大半は、デジカメ購入に消えてしまっているので、デジカメ撮影に、雨はもっとも恐るべき強敵なのです。

とぼやきながらもデジカメが離せないのは、すべてこの拝殿の鬼瓦の所為!。流れるような牡丹の花の中央にあるのは「折敷に縮三文字」の御神紋。

その下の鬼瓦は、二頭の竜に抱かれた社号額という構図。こういうのを見ると、それだけで雨にも負けずに来た甲斐があったというものですよ♪

参拝日:2011年6月11日

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ご当地マンホール in 愛媛県旧波方町&旧朝倉村(今治市)

2020年11月02日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧越智郡波方町(なみかたちょう)は愛媛県の最北端、高縄半島の先端に位置した町です。今治市、越智郡大西町・吉海町・関前村に隣接。かっては来島水軍の根拠地として栄え、近世以降は全国でも有数の海運の町として発展。幕末から明治初期にかけて、菊間瓦の原料となる粘土の運搬から海運業が起こり、東・西・北の三方を海に囲まれた地勢を活かし、瀬戸内海の交通の要衝として発展してきました。明治30年代前半に今治から綿ネル工場が進出し、主力産業の一つとなるも、大正時代後半にはタオル工場へと転換。タオルと海運の町としての骨格が形作られていきました。「町の木:ヤマモモ」「町の花:ツツジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「海運と生涯スポーツの町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、野間郡波方村(はがたむら)が発足。

1897年、郡制の施行により、野間郡が越智郡に統合される。

1960年、波方村が町制を施行、読みを変え波方町(なみかたちょう)となる。

2005年、今治市、菊間町、大西町、玉川町、朝倉村、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、大三島町、関前村と合併、今治市波方町となりました。

マンホールには町章を取り囲むように、幾何学的な図柄がデザインされています。

昭和25年7月1日制定の町章は「波方を八方(はがた)で現わし、太陽と操舵により、波方町の発展を円内に図案化したもので農業、水産業、海運業を意味しています。」合併協議会資料より

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旧越智郡朝倉村(あさくらむら)は愛媛県の東予地方に位置した村です。今治市、東予市、越智郡玉川町に隣接。三方を山に囲まれ北側は開けた盆地で、今治市に接しており、町域の大半は山岳地帯。村の中央を流れる頓田川は東予市に源を発し、今治市東部を流れて瀬戸内海に注ぎ、この川を中心として、沿岸に開ける平野に集落が散在します。 「村の木:クス」「町の花:ツツジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「水と緑と文化の里」

明治22年(1889)、町村制の施行により、越智郡上朝倉村・下朝倉村が発足。

1956年、上朝倉村、下朝倉村が合併、越智郡朝倉村が発足。

2005年、今治市、菊間町、大西町、玉川町、波方町、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、大三島町、関前村と合併して今治市朝倉町となりました。

マンホールには、朝倉と書かかれた団扇を持って走る、イチゴキャラがデザインされています。

昭和45年6月1日制定の町章は「朝倉の「朝」の文字を図案化したもので(車)の部分を中心に(月)でつつみ、全体の丸は平和と団結を意味しています。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月11日

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南光坊(なんこうぼう) in 愛媛県今治市別宮

2020年11月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

今治市別宮町、別宮大山祇神社に隣接する四国八十八箇所第55番札所。真言宗御室派寺院「別宮山 金剛院 南光坊(なんこうぼう)」『大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)』を本尊とします。

生憎のお天気にもかかわらず、沢山の善男善女が観光バスを連ねて参拝に見えていました。ちなみに四国霊場のうち「寺」ではなく「坊」がつき、更に四箇所に四天王を配置した山門を擁するのは、四国八十八箇所では唯一「南光坊」だけなんだそうです。

「推古天皇御代二年甲寅(594)に勅により大三島に造立される。其の後、越智玉澄公が文武天皇の勅を奉じて、大宝三年(703)風波のため祭祀がおろそかになるのを憂いて当地に勧請し、「日本総鎮守三島の地御前」と称して奉祭した。弘法大師は四国巡錫の時別館参拝し、坊で御法楽をあげられて四国霊場第五十五番札所と定めた。」公式HPより

境内に建つ「金毘羅堂」。金剛薩埵と摩利支天が脇仏で、本尊は権現像の姿であると言われていますが、住職もその姿を見たことが無いとされ、定かではありません。

この仏域を守護されるのは「別宮大山祇神社:境内社」の「奈良原神社」に居た狛犬さんと瓜二つ! 時代と場所を考えると、作者は同じ石工さんの手によるものかもしれません。

「金毘羅堂」の屋根から善男善女を見守るのは「鬼」と呼ぶのが気の毒なようなお顔立ち。

鬼瓦が楽しければ、留蓋の獅子だって負けじと愛嬌を振りまきつつ、それぞれが飾り鞠をもって思い思いに楽しんでいます。

山門の右にある池の中の小島に奉られる「弁天祠」。ここでもどこかで見た覚えのある狛犬さんが守護を任されています。

笑った口元がまるでエクボのように見えて、とにかく可愛いという言葉がぴったりなのです。

ご詠歌【このところ 三島に夢のさめぬれば 別宮(べつぐう)とても 同じ垂迹(すいじゃく)】

参拝日:2011年6月11日

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