備忘録みたいなものです。
今年1月に母がなくなりました。もう高齢でしたので大往生といっていいと思います。でもなかなかそのあとのイベントが色々とあって、なかなか。
写真のように今は仮の墓が置かれています。白い墓石は何もない小さなつるんとしたもの。年末になって右上にある父の墓石に並んで戒名を彫り刻んでもらうことになります。右奥のものは私のおじいちゃんとおばあちゃんの墓石です。また仏壇の位牌も白木の仮のものから父のものに並んで書き添えられ、そしてやっと一周忌を迎えることになるそうです。
このように手間をかけながら進行するのは同じ真言宗のなかでも近隣だけ、もしかしたら私たちの菩提寺である栄福寺(ようふくじ)の檀家だけなのかもしれません。他宗派である家内の実家などでは四十九日を過ぎればすぐに墓に納骨されますからね(浄土真宗などは位牌そのものがないそうですね)
この理由を住職が教えてくれたのですが、今ひとつ理解できませんでした。昔は亡くなると土葬されており、私たちの檀家は土葬する所と墓地が異なるところにありました。そしてなくなって一年ほどたって、土葬した付近の土を採取し、墓石の下に葬っていたそうです。もちろん今は火葬となっていますので、すぐに墓石の下に祀ることはできますが、過去の風習から仮墓を墓地内に置き、一年後に墓石の下に骨壺を移動するようなお話であったと思います(正式な名称は忘れました)
父が亡くなったのはもう30年近く前になりますが、田舎で母親をひとりで暮らさせることはいけないような気がして、大学病院を辞めて、一年ほどブランクがありましたが診療所の再開のような形をとり現在まで続いています。
その間、ずっと未亡人となった母親を見ながら過ごしてきました。もちろん口にはしませんでしたが寂しかったと思います。そして亡くなった後ももう半年以上仮の墓の下に遺骨がおかれています。けれど、この度の初盆にはひとりで家に帰ってきましたが、送るときには送り火をたいて先祖の方たちと一緒にあちらへ戻って行ったはず。やっとこれからは母のことを父に任せられるような安心感を感じています。
あちらの世界はどのようなものかわかりませんが、私は過去の人みんなに会えるところだと思っています。そういうように考えれば「死」というものはさほど怖いものではないような気もしてきますし、そのように思わせるそれが宗教なのでしょうね。