降って来るもの

写真と散文とぽえむ

百の夢など

2017-04-21 06:32:05 | 随想

               百の夢など

 

 健全な精神を宿し続ける為の、ある種必要不可欠な要素になりつつあると思われる”ネット”に覆われつつある現代社会。否応なく参加を強要される部分も少なからず存在しているのも間違いのない所で、戦後直ぐ生まれの、いわゆる団塊の世代の僕にとっては、何とも息苦しくて彼方此方から軋み音が聞えたりもするのだが、それは又、”魔法の道具”であるというのも疑いを差し挟めない事実で、その複雑怪奇の中を泳ぐには感情や感覚を常に磨いておかなければ・・と、改めて思う。

 ネットの便利さや、出合いや、手軽さは確かに人類に福を齎しているのかも知れないが、使い方を誤らなければ、そんな風に福音になる要素は多く含まれていようが、けれどそれは、「何処でもドア」のように必ずしも百%の幸運へと導いてくれる代物ではない。用法や容量を誤れば何時どき不運が降りかかってくるかも知れぬ。

 きっとそれは、運不運、幸不幸の両刃の剣に違いない!と僕にはわかる。一つ一つ事例は挙げないけれど、良し悪しの判断はある程度以上の熟成期間を持たなければ、その正しい使い方など獲得できない種類のものかも知れない。

 期間の長短は、使う人間の質にも意図にも、その意志によっても変容するに違いないのだが、そこに必然的に生じるであろう緩みや侮りや安易さが落とし穴になる。蟻地獄になるかも知れないし、或いは命懸けの事態に遭遇する場合も存在するかもしれぬ。そのことで人生が破損したり狂ったりもきっと無きにしも非ずだろう。

 要するに自分の容量を越えないことだ。操作する手順を決して逸脱しないことだ。能力を過信したりネットが万能の神だなどと勘違いしないことだ。望みが百%の確率で叶えられることなど断じて起こり得ないのだから。もしも不遜にもそういう想いに陥ったときは必ず振り向いて自己の姿を確認する。歪んではいないか?影が薄まっていないか?現実を正しく亘っているか?と。

 百の夢など実現できないものだとの認識に至れば、種々の悪夢は噓の如くに霧散するだろう。

04/21 06:32:06 まんぼ

 

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二兎を

2017-04-21 05:45:05 | 随想

       二兎を

 

二兎を追う者は一兎をも得ず

と言うが、僕も然り。

夢中になってファインダーを覗いていると

或いは袈裟懸けのカメラを外したり掛けたりしていると

やっぱり気が拡散してしまって

その時その瞬間の天恵に関与できないようなのだ。

それは、物理的にも無理な相談なのかも知れぬが・・。

気の散漫がレシーブの瞬間を逸機してしまう。

左手にmemo帳を右手にカメラを持っては

いわゆる、二兎を追う者は・・になってしまう。

それで時々

農地の端に設置されたログの椅子に座っては

降って来たものの中で

記憶に残存している事柄を復唱し書き留め

それはそれでポケットにしまった後で

再びカメラを手にする!を繰り返すことになる。

書く事も撮る事も

何方も中途半端になる危険性が多分にあるので

その其其の行為ごとに

研ぎ澄ませた神経をMaxに使用するべく務めるのだ。

まあ、人生に置き換えても、そんな具合かも知れぬと

そこは、AB型本来の曖昧さで片を付けて

それから、何食わぬ顔で

今日という薄氷の時刻を慈しんでゆくのだ。

* 04/21 05:45:05

 

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