明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1187)台湾のおばあさんたちを訪ねて-2・・・陳蓮花アマのこと

2015年12月09日 19時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151209 19:00)

もう一月前になってしまいましたが、台湾での旧日本軍性奴隷問題被害者のおばあさんたちの訪問記の続きを書きます。
今回、ピントンの小桃アマの次に訪ねたのは台北在住の陳蓮花(チンレンファ)アマでした。

レンファアマと私たち京都グループは深い縁で結ばれています。それはアマが初めて人まで被害体験を証言したのが私たちが呼んだ京都での証言集会の時だったからです。
アマは来日するまではまだ初めての証言をする決意ができていなかった。しかし京都に来て、私たちと心を通わせる中で「私も話す」と起ちあがってくれたのでした。
この時のことを2006年に僕があるところに投稿した文章からご紹介したいと思います。アマが仏教大学で講演した時のもとです。ちなみにこのときアマはまだ陳蓮(チンホア)という仮名を使っていました。

*****

アマはフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。
私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。
 
陳樺(チンホア)アマは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していきました。
渦中にいたアマはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り、「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。
装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。

そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、そのキャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。
その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」。
「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。
すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。
そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。
私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。
陳樺アマの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。

残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。
こにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

*****

2006年・・・もう9年前です。私たち京都グループが初めて台湾のおばあさんたちを呼んだ時のことでした。一緒に呼んだのは呉秀妹(ウーシューメイ)アマと、タロコ族のイアン・アパイアマ。お二人とももう亡くなられてしまいました。
蓮花(レンファ)アマ自身は、この後、どんどん逞しくなっていかれた。どこででも背筋をピンと伸ばして、堂々と体験を語り、日本政府を批判するようになりました。お会いするたびに逞しくなっていくアマの姿は眩しいほどでした。
そうして気づけばアマは今生きておられる4人のアマのうちの一人となり、一番お元気な姿を見せて下さっています。昨年5月には映画『蘆葦之歌』の東京上映会のために最後の訪日もしてくださいました。

そのアマの家に訪れると、なんとアマはとてもきれいに着飾って待っていてくれました。オーダーメードのピンクのシックなチャイナドレスを着て、とても素敵な金のネックレスをかけ、バッチリメイクしてくれていました。
もともとおしゃれなアマですが、今まで見た中で一番きれいに決めてくれていたかもしれない。
みんなが「アマ、きれい」と歓声を上げると、素知らぬ顔をしながら日本語で「年とったよ。耳、聞こえないよ」とだけ返してくる。でも顔には嬉しそうな笑みがはじけています。

その後、買ってきた朝ご飯をみんなで食べました。これも台湾流です。台湾は屋台文化がとても発達しており、朝から開いているお店もとても多い。街中に行けばいつでもご飯が買える。
このため多くの人々が朝、家を出てから近くでご飯を買い、目的地に向かっていくのです。
もちろん、こうして買ったものはどこでもいつでも美味しい!この時も万頭やら豆乳やらが入った袋を幾つも下げてアマの家に入り、そのままわらわらと包みを開けてみんなでほうばりながらの会話が続きました。

アマは今年92歳。初めて京都に来た時は、一緒に金閣寺の境内を元気に歩いてくれましたが、もう足が悪いのだそうです。外出時は車イスを使っています。
それでも本当にとてもきれいにしてくれて、僕らを待ち、相変わらず背筋をピンと伸ばして応対してくれました。
アマにとって私たちの訪問が、こんな素敵な晴れ舞台になるのなら、何度でも訪ねて差し上げたいなと思いました。

その後、記念撮影。まずは起ちあがって手を振るアマを何台ものカメラが取り囲みます。アマはカメラ目線を順番に返してくれて完全にセレブ状態。
続いて僕がツーショットを撮らせてもらったら、みんなが「私も私も」となりホエリンなんかはアマに抱き付いてポーズ。
たくさんの写真を撮ってからお別れの時間となりました。

「またいらっしゃい!」と大きな声で私たちを見送るアマ。
「来るよ。必ず」とみんなで何度も応えながら、手を振って家を出ました。そう。必ずまた来ようと思いながら。

こうして今回のおばあさんたちの訪問を終えました。
あと何回、こういう出会いを重ねられるか分かりません。でもまだまだアマたちは命の炎を燃やしてくれています。そんなアマたちの横顔、「被害者」という言葉に収れんされない一人一人のアマの顔を伝え続けたいです。

続く

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明日に向けて(1184)空襲などの戦争犯罪に反対することこそ大切!世界の暴力化を止めよう-2

2015年12月05日 10時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151205 10:00)

昨夜の続きを書きます。

フランスやロシアが参戦する以前の7月末から空襲を開始したのがトルコでした。もともとISとはそれほどの敵対関係になかったトルコが参戦した理由は、ISとの戦闘の前線に立ったクルド人武装組織をアメリカなどが後押しししていたからです。
さらに国内事情も大きく絡みます。首相から大統領へと任期が長期化し、専横を強めていたエルドアン政権が6月の総選挙で敗北、単独で政権を作れなくなってしまいました。このとき大きく躍進したのが、クルド人を主体とした新たな政党でした。
この政党はクルド人の問題だけでなく、エルドアン大統領の反民主主義的な政策全体を批判したため、クルド人以外のトルコの人々の支持を集めることにも成功し、大きな躍進を遂げました。
これに対してエルドアン大統領は、国内の右派を糾合し、クルド人との対立を先鋭化するためにもクルド人武装勢力への攻撃を強めだしました。ISへの空襲はそのだしに使われたような感があり、攻撃の大半は対クルド人勢力に向けられました。

こうしたトルコの参戦に黙っていられなくなったのが、かつてこの地域を線引きして分割したロシアでした。ちなみにこの頃のロシアはその後の1917年に革命が起こり、ソ連邦へと変身を遂げました。革命政権はサイクス・ピコ秘密協定を暴露しました。
しかし一言で片づけるにはあまり大きな歴史ですが、このとき世界中の被抑圧民の団結を訴えたソ連邦はやがて内部対立から恐ろしい粛清国家に変わってしまい、周辺国を衛星国家化するあらたな抑圧者に変貌しました。
その旧連邦が倒れたのも、1979年からのアフガニスタンへの軍事介入故でした。アフガン戦争は20世紀の中で世界中からムスリムの武闘派が集まり、巨大権力と立ち向かう初めての戦場となったものでした。
このとき、ソ連邦との対立から、この「ジハード」のために集まったムスリム武闘派に武器を与え、訓練を施した国こそアメリカでした。こうしてムスリム武闘派はアメリカ流の軍事思想を身に着け、やがてアルカイダなどに成長していったのでした。


さてロシア自身は今回、ソ連邦崩壊の過程でアフガンから撤退して以降、自国やかつてのソ連圏内部にとどめていた軍事展開を大きく踏み越える戦闘に参加しだしました。
空襲には戦闘爆撃機だけでなくカスピ海に配備されている最新鋭艦からの巡航ミサイルの発射も含まれた猛烈なものとなりました。
なぜロシアが軍事介入したのか。直接的にはアサド政権に長らく批判的で、トルコに近い反政府武闘派をトルコ政府が支持しているからでした。そのトルコが軍事介入することでバランスが大きく崩れ出しました。
さらに大きいことはトルコの参戦がアメリカとの合意のもとに実現したことでした。ここにはトルコ軍によるクルド人勢力への攻撃の黙認も間違いなく存在しており、トルコ軍の参戦はアメリカのこの地域への支配力の伸長を物語るものでした。

もともとロシアはソ連時代からシリア政権と軍事的な協力関係を結んできました。中でも重要なのはシリアがロシアに軍港を提供していることでした。ロシアにとってこれは自由に地中海から大西洋へと出ていける唯一の港です。
さらにそもそもロシアはウクライナ情勢でも欧米との緊張関係を孕んでいます。2014年2月にクーデタによって成立した現ウクライナ政権は欧米よりです。
これに対してロシア軍はクリミアだけは渡さないと即座に軍事行動に移り、クリミアを占領してしまいました。ここにもロシアの軍港があること、またクリミアは長くトルコとロシアの奪い合いの地であり、「愛国心」を刺激する地であったためでした。
こうした一連の情勢の変化の中で、ロシアは自らの軍事的プレゼンスを大きく押し広げることを目指したのだと思われます。そのためにこれまで実戦で使ったことのなかった最新鋭兵器を次々と投入したのです。

これに対して巡航ミサイルも戦闘機も持っていなくて、トヨタのピックアップトラックに銃をつけて走り回っているだけのISは、各国の支持者に攻撃指令をだし、殺人作戦を始めました。それが唯一の反撃手段だからです。
10月3日にはバングラディッシュでなんと日本人が殺されてしまいました。十字軍に日本が参加したからだと言います。これはISにシンパシイを持つ団体の行動とされています。ISはさらにバングラディッシュでの日本人殺害を宣言しています。
さらに10月31日にはエジプトを発ったロシアの旅客機が空中爆発を起こして墜落しました。ISが実行声明を出しました。当初ロシアは否定していましたが、その後に何者かによる爆破であったことが否定できなくなりました。
そうして11月に入り、13日にパリで130名以上が殺害される大規模な攻撃がなされました。これもまた実行者が身体に爆弾をまいた特攻攻撃として行われました。

翌日からフランスが報復爆撃を開始。空母シャルル・ドゴールまでもが投入されました。旅客機墜落を爆破によるものと認めたロシアもさらなる猛爆撃を開始。戦略爆撃機Tu160(欧米での呼び名はブラックジャック)を投入しました。
この際には爆撃機から空中発射される最新鋭型の巡航ミサイルKh-101も投入されました。かつてアフガン戦争、イラク戦争はアメリカの武器の「見本市」などとも言われましたが、ロシアもこれ見よがしに戦闘力を誇示した攻撃を拡大しました。
これに黙っていられなくなったのがトルコでした。ロシア軍機が領空侵犯を繰り返したことに対し、24日にトルコ軍がF16戦闘機を発進。わずか10秒程度の侵犯を行ったとされるロシアのTu24戦闘爆撃機を撃墜してしまいました。
これにロシアが猛反発。矢継ぎ早に経済制裁を発動し、トルコに謝罪を迫ると同時に、そもそもトルコがISから石油を密輸しているという大批判を開始。証拠として多数のタンクローリーの衛星写真を公開しています。

さて前後しますが、こうした中でトルコでも10月10日に反戦集会の場で爆弾攻撃が行われ、集会参加者100名以上が殺されてしまいました。
この事件には不可解なことがたくさんあります。集会がトルコ政府を批判し、クルド人武装勢力とトルコ政府の和解を求める平和的なものだったからです。
トルコ政府はただちにISの攻撃と断定し、実行者の遺体を回収したと発表し、クルド人の関与まで匂わせましたが、100人が殺害された特攻攻撃で遺体がそんな形で残っているのでしょうか。また「戦果」を必ず誇るISが声明を出していません。
これらのことからトルコの中では、政府がこの爆破を仕組んだのではないかと言う強い批判が飛び交っています。その後の再選挙でエルドアン政権側が勝利したため一層、疑惑が深まっています。

このように見てきた中で特筆すべきことは、どこでも殺されているのは圧倒的に市民であり、住民であり、非戦闘員だということです。空襲ではもっぱら女性、子ども、老人が犠牲になります。
ロシアは1500キロも離れたカスピ海や空中から100発以上の巡航ミサイルを放っていますが、そんな遠くから機敏に攻撃をかわしているISをピンポイントで殺害できるのでしょうか。できるわけなどない。殺されている過半は逃げ場のない市民です。
繰り返しますが、「地上軍投入でなけれなISをやっつけられない」ということは、空襲で殺されるものの多くが戦闘員ではないうことです。この虐殺を一刻も早くやめさせなければなりません。
これに加わっているのはアメリカ、トルコ、ロシア、フランスとシリア周辺国です。さらに12月3日からはイギリス軍までが加わってしまいました。その上、ドイツまでもが派兵を表明しています。

この軍事攻撃でかりにISが掃討できたとしても、ISにかつてのフセイン政権下のイラク軍人が多数参加していると言われるように、また新たな武闘派が台頭するだけでしょう。
そもそもフセインの旧イラク軍も、もともとはアメリカがイラン革命の影響をおさえるために背後から支え、育て、地域覇権勢力として伸長させたものだったのでした。
今もアメリカはアサド政権と戦う武闘派を「反体制派」と銘打って援助していますが、それがいつ「イスラム過激派」に転化するか分からない。「イスラム過激派」とはアメリカに牙を向けるようになったイスラム武闘派を指す言葉です。
同時に見ておくべきことは、こうした武闘派が多くの場合、アメリカの直接的・間接的な関与のもとで生まれてきたことです。だからそれは伝統的なイスラム主義から生まれたのではない。むしろ欧米化したムスリムこそがもっとも過激なのです。

問われているのはこの流れに逆行するムーブメントを世界各地から広げることです。そのために空襲は民衆を巻き込み、それどころか日本空襲でも明らかなようにもっぱら民衆を殺りくするものであり、明確な戦争犯罪だということを告発することが大切です。
全ての国に、即刻戦争犯罪を止めることを訴えていきましょう。そのためにアフガン戦争、イラク戦争の侵略性、非人道性を再度、クローズアップしていく必要があります。
その上で、すべての戦争の犠牲者を悼み、報復では何も解決しないこと、軍事戦闘こそが、絶え間ない暴力の拡大を作り出している元凶であることを訴えましょう。
平和のための行動を強化しましょう。そのためにこそ戦争法に反対し、抵抗し、沖縄の人々を支え、辺野古を守りましょう。その努力の一つ一つが暴力化の逆の風を吹かせて行くものになると僕は信じています。

終わり

以下は講演情報です。

戦争法について
講師 守田敏也

12月5日午後6時から8時
場所 西成民主診療所
〒557-0034 大阪府大阪市西成区松2丁目1?7
http://byoinnavi.jp/clinic/54611

主催 たちばな9条の会

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明日に向けて(1183)パリで大量殺りく、トルコ軍が露軍機撃墜、世界の暴力化を止めよう-1

2015年12月04日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151204 23:30)

明日に向けて(1173)(1174)(1178)でシリアをめぐる国際情勢を分析し、「今こそ平和の声を」と題した連載を行いました。
その後、僕は台湾訪問の旅に出ましたが、その間にパリで130人以上が殺害されるとんでもない事件が起こりました。フランス軍がただちにISに対する報復爆撃を行いました。
さらに10月31日にあったロシアの旅客機墜落事件もまた爆破によるものであり、ISが声明を出していることからロシアがISに対するさらなる猛爆撃を始めました。
ところがこうした中で24日に領空侵犯を理由にトルコ軍機がロシアの戦闘爆撃機を撃墜。トルコとロシアの間が険悪化しています。

世界の暴力化がますます進んでいます。世界のあちこちから、すでにこれは第三次世界大戦の始まりではないかとの指摘がなされているほどです。
なんとかこの流れを食い止めたい。そのために今、何が起こっているのかを的確に分析し続けていくことが必要です。
僕は明日5日、大阪市西成区で「戦争法」についてお話しするので、同時に今、起こっている戦争についてお話したいと考え、今までスライドを作っていました。
そこでまとめたことを押さえておきたいと思います。

まずこれまでも述べてきたことですが、情勢分析にあたって僕が徹底して避けている言葉があります。「テロ」です。フランスの事件も僕は「テロ」とは呼ばず、攻撃と書いています。同じ意味で「犯行」とも「犯人」「実行犯」とも書きません。
もちろんこうした殺人攻撃に僕は強い怒りを持っています。いかなる意味でも自らの政治思想を貫くための殺人を僕は認めません。ではどうして「テロ」と呼ばないのかと言うと、この言葉は欧米ないし日本からの一方的な言葉だからです。
つまり「テロ」という言葉の使い方には、強い政治性があるのです。いや政治の世界では多くの言葉がそのように使われています。このため一たび客観的な視点に立つためにはこの強烈に価値化された言葉の外に立つ必要があります。
もちろん「それでは伝わりにくいから」ということで「テロ」という言葉を使うこともあり得るとは思いますが、それなら「テロ」を明確に定義づけるべきです。

少し考察すると分かることなのですが、もともと「恐怖」を意味するテラーから派生しているこの言葉には非常に悪いイメージが付加されています。非道で卑劣、人を殺すことをなんとも思わないイメージ、殺人鬼など冷酷ないイメージが連想させます。
しかし一度、欧米に繰り返し侵略され、植民地支配され、攻撃を仕掛けられてきたイスラム圏の人々の立場から考えてみると、これらはすべて欧米のやってきたことに当てはまります。
いや何もそんな遠いところの人々の立場に身をおかずとも、広島・長崎への原爆投下や、東京大空襲を初めとした主要都市への空襲、沖縄地上戦などを思い起こせば、アメリカこそが世界の中でもっとも殺人を犯してきたテロ国家であることが痛感されます。
何せアメリカはこれらの蛮行、明白たる戦争犯罪をただの一度も謝ったことがないのですから。日本で右翼を自称する人々のほとんどが、中国や韓国のことばかり騒ぎ立てますが、アメリカを批判できないことこそ強烈な自虐史観ではないでしょうか。

欧米社会は積年に渡る己の暴力をなんら振り返らないまま、「テロ」への怒りをかきたてています。そして報復の空襲を敢行しています。
ぜひイメージを膨らませて考えて欲しいのは、パリのこの事件が「カミカゼ」と呼称されていることです。旧日本軍の体当たり攻撃とイメージがダブっているのです。
その先にあったものこそ、日本本土への猛爆撃であり、沖縄上陸戦であり、原爆投下だったのです。「カミカゼどもを根絶やしにしてやる」とばかりに。しかしその攻撃で殺された圧倒的多数は子どもであり、女性であり、老人でした。
今日、広島市内の死者の中で群を抜いて多かったのが12才、13才ぐらいのこどもであったことが明らかになっています。「カミカゼ」などに動員された成年男子は、ほとんど町に残っていなかったからです。


さてこのことをしっかり踏まえて今、起きていることを大きく規定していることを見ていきましょう。なんといってもそれはシリアからの膨大な難民の発生です。
これは2011年ぐらいから拡大してきました。直接的にはシリアのアサド政権と反政府派の武装闘争の中で、アサド政権が樽爆弾などによる住宅地への空襲を開始し、人々が戦乱に巻き込まれる中で拡大してきたことです。
この上に、2003年から行われた英米によるイラク侵略戦争の結果、イラク社会が荒廃を極め、その中からIS(「イスラム国」・・・この呼称も問題を孕んでいます。他者に通じる言葉としてここではISを使用します)が台頭したことが重なりました。
その点で大きく中東・アジアという視点に立ち、アフガンをも見据えるならば、2001年911事件以降の米英によるアフガン戦争、イラク戦争こそがこの地域の不安定化、暴力化を作り出してきた大元であることを見ておくべきです。

こうして不安定化を深めるこの地帯のさらなる暴力化のアクセルを踏んだのもアメリカであり2014年夏からのISに対する空襲の拡大です。
当初から言われていたことですが、軍事的に言って空襲ではISを壊滅することは難しいというのが世界の常識でした。地上軍を用い、直接にISを攻撃しないと、巧みに攻撃を避けられてしまうからです。
実は報道の多くが触れないこの先にこそ問題があります。軍事武装集団であるISが容易に逃げられることに対して、IS支配地域に住んでいる人々はそんなに簡単に逃げられない。空襲ではこうした人々こそが犠牲になるのです。
そしてそのことが世界中のムスリムの間にさまざまなルートから伝わっていきます。民衆がアサド政権やISのみならず、圧倒的に欧米によって虐殺されていることがです。

このことが世界中でISに惹きつけられる若者が生み出される根拠となっています。
欧米社会が憎しみをこめてISの戦闘員を「テロリスト」と呼ぶように、彼ら彼女らは積年の憎しみを込めて欧米の殺りく部隊を「十字軍」と呼び、これに抵抗する「聖戦」=ジハードを呼びかけているのです。
しかもその戦法の軸にあるのはそれこそ自らの生還を顧みない「特攻作戦」です。これに対して「神風特攻隊は相手の軍を狙ったのであって市民を狙った攻撃とは違う」という反論が日本の一部からあるようですが、問題はそこにあるのではありません。
日本軍が徴兵社会で成り立っていたことに対し、ISへの各国からの陸続たる参加は主に自主的なものです。背景はさまざまあったとしても、自ら命を捨てる覚悟で参加しているのです。

ここに見られるのは空襲では何も解決しないということです。では地上軍投入なのか。もちろんそうではありません。そもそも今のイラクの惨状やISの登場はアメリカを中心とする有志連合軍の地上軍投入によるフセイン政権打倒の結果です。
繰り返し語られてきたシンプルな道理ですが、憎しみは憎しみをしか生まないのです。軍事で平和な世の中を作り出すことはできません。それがこの2000年代を振り返っただけでも見えてくることです。
にもかかわらずアメリカは軍事攻撃を止めない。軍産複合体としての戦争国家である所以でもありますが、それ以上に世界の多くの人々が、まだまだ軍事に解決を委ねているがゆえに繰り返される過ちだと僕は思います。
だからこそこの流れの逆を歩む必要がある。即時停戦、空襲の中止、欧米による中東侵略への謝罪と補償の実現。それが誠意をもってなされたときにこそ、ISは支持を失うのです。アルカイダもそうです。すべての武闘派がそうです。

にもかかわらず正反対の方向を強めるから事態がどんどん悪化しています。まずフランスについて言えば、9月27日よりシリア空襲=IS攻撃に参加しました。
ちなみにISはイラクとシリアの国境線の無効を主張しています。なぜか。この定規でひかれた国境は、第一次世界大戦でこの周辺一体を支配していた超大国、オスマントルコが倒れたときに、イギリスとロシアとフランスの密約でひかれたものだからです。
この密約を「サイクス・ピコ協定」といいます。1916年5月に結ばれたものでした。ちなみにイギリスはこの他に、中東のアラブ民族の独立を認めたフサイン=マクマホン協定と、パレスチナへのユダヤ人国家建設を認めたバルフォア宣言を結んでいました。
いわゆる三枚舌外交であり、このことが20世紀全般にわたってこの地域が戦乱にまみれる出発点となったのでした。その中心国の一つであり、植民地支配者だったフランスが空襲を開始したというわけです。

続く

以下は講演情報です。

戦争法について
講師 守田敏也

12月5日午後6時から8時

場所 西成民主診療所
〒557-0034 大阪府大阪市西成区松2丁目1−7
http://byoinnavi.jp/clinic/54611

主催 たちばな9条の会

 

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明日に向けて(1182)台湾のおばあさんたちを訪ねて-1

2015年12月02日 15時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151202 15:00)

すでにお知らせしたように、11月13日から19日にかけて台湾を訪問してきました。旧日本軍性奴隷問題被害者のおばあさんたちを訪ね、同時に台湾の反核運動に参加してくるのが目的でした。
このうちのおばあさんたちへの訪問についてご報告したいと思います。

今回は2人のおばあさんを訪ねました。台湾ではカムアウトしたおばあさんたちのうち、今も生き残っておられるのはたったの4人になってしまいましたから、そのうちのお二方への訪問です。
初めに訪ねたのは陳桃アマ。小桃アマと呼ばれているアマです。高雄よりももっと南の屏東(ピントン)に住んでいて、長く青果市場でヤシの実を売って生計を立ててこられました。
今は随分と身体が弱くなり、施設に入所していてそこから病院に入られていました。

台北に到着してアマたちを支え続けてきた呉慧玲(ウーホエリンさん)に会うと、アマはだいぶ調子が悪いと言う。「秀妹(シュウメイ)アマの最期の時みたい」とも。
呉秀妹アマは、台湾のおばあさんたちの中でも、特に私たち夫妻が仲よくしていただいたおばあさんで、2012年秋に亡くなられた方です。
ドキッとしました。悲しい思いになりました。覚悟を固めてアマのもとに行くことにしました。

台北から小桃アマにお会いするにはまず新幹線にのって高雄まで行かなくてはなりません。正確には終着駅の一つ前の左営という駅までいきます。
新幹線の乗車時間は1時間半。日本と同じ車両を使っていて快適です。そこから在来線に乗り換えて屏東(ピントン)駅へ。全部で2時間ぐらいの旅だったでしょうか。
駅前からは歩き。今回は翌日、高雄空港から金門島に行く旅を予定していたので、重い荷物を背負っての旅となりました。

病院についてアマの病室にいくと、ちょうど清掃時間にあたっていて、アマがベッドに横たわったまま廊下に出ていました。
そこに私たちが一行ががやがやと辿りつきました。台北のホエリンを先頭に、長らく台湾のおばあさん達をささえてきた東京の柴洋子さん、同じく東京で各国のおばあさんたちを支えてきたWAM(女たちの戦争と平和資料館)の渡辺美奈さん。
同じく東京で長らくおばあさんたちを支えるなど、さまざまな戦後補償問題に関わり続け、今は台北に移住して暮らしている田崎敏孝さん、京都で運動をしてきた僕の連れ合いの浅井桐子さんと僕という一行でした。

今回の訪問目的はアマの92回目の誕生日を祝うことでしたが、アマは最初、私たちをいぶかしげに見上げました。みんなで声をかけても反応が薄い。
それでもしばらくして「日本から来たの?」としっかりした日本語で聞いてくれました。「アマ、お誕生日のお祝いで来たよ」と語りかけますが、アマは「今日は違うよ」という。旧暦なのでしょうか、違う日を示します。
意識がはっきりしていないのではとも考えて、みんなが一番アマのところに通い続けてきた柴さんを指さして「アマ、誰だか分かる?」と聞くと、「柴さん。忘れるわけないよ」と答えてくれました。みんなの顔がほころびました。

「アマ、誕生日のお祝いをしよう」と、屏東駅前で買ってきたケーキを取り出しました。病院の廊下でしかも部屋で清掃作業を行っているあわただしい場ですが、そんなことおかまいなしに自分たちの場を作ってしまうのが台湾流です。
ケーキをアマの前に出して、プラスチック製のナイフを渡して「ケーキカット、ケーキカット」と言うと、アマはベッドに横たわったまま、ケーキにナイフを入れてくれる。
こういう時、台湾のおばあさんたちはみんなサービス精神旺盛で、必ず応えてくれる。それでカットしたケーキをみんなで頬張りました。と言ってもアマは食事制限があって食べられないのですが。一つのセレモニーみたいなものということで。

みんなが用意してきたプレゼントを渡しました。WAMの美奈さんが何時間もかけて作ったと言う手製のアルバムをプレゼント。蛇腹のように開く仕掛けになっていて、アマたちがたくさんで東京に訪ねてきた時の写真が貼られていました。
写っていたのは呉秀妹アマ、タロコ族のイアン・アパイアマ、陳アマ、アマ、そして小桃アマと、今回訪ねたもう一人の陳蓮華(チンレンファ)アマでした。すでに4人がお亡くなりになっています。
アマは興味深そうに何度もアルバムをひっくり返し、蛇腹を開けたり閉じたりしては写真を見つめていました。亡くなったアマたちの名前を呼んでいました。素敵なプレゼントでした。

浅井さんからはミッフィーちゃんという白いウサギの縫いぐるみが渡されました。アマには食べ物を渡しても食べられない。それならば身近において慰めになるものをと思ってのことでしたが、嬉しそうにギュッと抱えてくれました。
この縫いぐるみ、抱き心地もいい。淋しい病室の中ではそういうものの価値が高いんだなと思わせる一瞬でした。
この頃にはアマの意識ももっとしっかりしてきて、みんなの声掛けにいろいろと答えてくれます。いつもながらアマの日本語はとても流暢です。

やがて清掃も終わって病室に戻れましたが、アマが少しずつ疲れてきたのが察せられたので、そろそろお暇することにしました。
「アマ、また来るよ。元気でね」とみんなが来ると、アマは「うん、うん」とうなづいてくれました。死を前にした秀妹アマの時は、柴さんが「アマ、また来るからね。」と言っても「その時は私はもういないよ」と言ったのでなんだかホッとしました。
アマのまだこの世の中にいようという意志が伝わってきた気がしたからです。実際、病状を尋ねると、肺に水が溜まって入院したものの、その後がよく、もう少しで退院して施設に戻れるとのことでした。


戦後70年。あの戦争で犠牲になった方たちは今、70~90代となっています。その中でも年配のアマたちは次々と亡くなってしまっています。韓国のハルモニたちもそう。フィリピンのロラたち、中国のダーニャンたちもそうです。
日本帝国主義がかつて行った非人道的な戦争犯罪を毅然と告発してきたおばあさんたち。そのおばあさんたちがどの国の方でも必ず語ったのは「もう二度と若い人たちがあんな思いをしてはならない・・・」でした。
このおばあさんたちの思い、切実な願いを日本政府は踏みにじり続けています。中でも最も悪質な対応を繰り返してきたのが現首相の安倍晋三議員です。何度もおばあさんたちの訴えを踏みにじる蛮行が繰り返されてきました。なんたることでしょうか。

そしてその安倍首相のもとで、この国はかつての侵略戦争への反省を忘れたかのように、戦争への道を再度辿りだしています。これこそがおばあさんたちが食い止めようとした流れです。
なんとしても止めなければと僕は思います。その中でこそおばあさんたちの尊厳を取り戻さなくてはいけない。おばあさんたちの姿、被害だけでなくそれと立ち向かい、毅然と生きた姿を歴史にきちんと刻印しなくてはなりません。
・・・ベッドの上で小さな手を一生懸命振って私たちを見送ってくれたアマの顔を思い出しつつ、そんな思いを新たにしました・・・。

続く

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明日に向けて(1181)政治を活性化するために!

2015年11月27日 23時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151127 23:00)

みなさま。
台湾から帰国してから「明日に向けて」の更新を怠ってしまいました。
その間にも世界ではとめどなく暴力的な事態が広がり、ああ、分析を出さねば、平和の訴えを、同時に可能性を論じなければとやきもきしているのですが、身体がついてきませんでした。
台湾に行くから強まりだしていた腹痛のためです。(というかこの間、持病化していました)

それで連れ合いや知人の気功師さんの勧めもあり、病院で胃カメラ検査とピロリ菌検査を受けました。何度か繰り返しているそこそこの大きさの十二指腸潰瘍が一つ、小さめの胃潰瘍が二つできていることが分かりました。
ピロリ菌も発見されたのでこれが潰瘍の大きな要因だろうとのことです。潰瘍治療とピロリ菌除去を薬物で行うことにしました。

同時にこうした病はやはり私の身体への労わりを欠いた仕事のスタイルが招いているわけですから、その点を深く、真面目に、真摯に反省し、生活改善に取り組むことにしました。
一日に一度は散歩なども含めて身体を動かしに外に出ること。夜更かしをしないこと。仕事で根を詰めすぎないことなどが課題です。お酒も控えます。
これまでもたびたび起こる腹痛のため、一緒におられる方にしばしばご迷惑をおかけしてしまいました。せっかくの食事がぼそぼそとしか食べられず、同行者の楽しみを減らしてしまうこともありました。
本当に反省しかりです。お詫び申し上げます。

今一度、肥田舜太郎さんが訴えられた大事な点を思い起こしています。
「みなさんは『自分はちっぽけでとるに足りない人間だ。どうせ自分なんて・・・』などとは夢にも思ってはいけない。一人一人がかけがえのない命なのです。その命を大事にして、少しでも長らえるように努力することが大切なのです」。
その通り。原発から、放射線から、命を守ることを訴えている僕は健康でなくっちゃいけない。またいつまでも健康で、元気で、未来のために働きたいです。
だからしっかり養生します。まずは腹痛を根治し、少しずつ体力をアップさせていこうと思います。


さてそんな状態で執筆を控え、身体を休めて力が宿ってきたので、土日は少しく頑張って、幾つかの企画を駆け巡ります。

今日の記事のタイトルに「政治を活性化するために」と書きましたが、京都の市政をめぐる行動、企画が二つ。滋賀での「くらしとせいじカフェ」への参加が一つあるのでこう書きました。

時系列に沿ってお知らせすると、まずは明日28日のお昼過ぎ、12時半から「憲法いきる京都市政を 憲法市政みらいネット事務所開き」に参加して一言挨拶します。
場所は四条堀川です。以下のチラシをご覧下さい。
 https://www.facebook.com/2016honda.kumiko/photos/a.136781176672757.1073741828.135040210180187/168999370117604/?type=3&theater


その後、午後1時半からすでにお知らせしたようにカライモブックスで『原発からの命の守り方』についてお話します。
 第31回カライモ学校「守田敏也さん『原発からの命の守り方』出版記念講演会」
 http://karaimo.exblog.jp/24881671/

KARAIMO BOOKS カライモブックス
京都市上京区大宮通芦山寺上がる西入る社横町301
Tel/Fax 075-203-1845

夜は「京都の今を考える」という企画に参加します。
 ★京都の今を考える-来年2月は市長選挙!-
 https://www.facebook.com/events/1656381111307592/

これにも深い思いがあります。
というのは京都市政は現門川市長のもとで、ものすごく、むちゃくちゃに、ひどくなっているからです。
京都を愛し、京都の文化、歴史、宗教の研究を行ってきた一人としてもう本当に許せません。

例えば世界遺産に指定されている下鴨神社の一部が切り売りされてなんとマンションが建設されようとしています。そのため神社の霊気をまとった木々の伐採が狙われています。
同じように梨木神社の一部もすでに切り売りされ、木々が切られて、マンションが建ってしまいました。
門川市長はあまりにも不信心です。
人々が長い歴史の中でさまざまな思いで祈りを捧げてきた場、心のこもった場を、一時の金儲けのために切り刻むこのあり方はあまりにひどすぎます。

そればかりではありません。教育がどんどん劣化し、格差が拡大してしまっています。
小学校の統廃合が行われ、使用されなくなった学校敷地がなんとホテル経営をめざす外資に売り渡されたりしている。
そもそも京都の小学校は、番組小学校と言って、明治の初めに町衆が自らカンパを集めて作り出したものです。明治政府よりも早く、従って日本中で一番早くにです。
リードしたのは、同志社大学の創始者、山本覚馬でした。大河ドラマの主人公になった山本八重のお兄さんです。(もっとも大河ではこうした偉業の意義にあまりに浅くしか触れられていませんでしたが)

覚馬は「教育は政府の手でやらせてはならない。町衆たちこそが担い手になり、自主的に作り出さなければならない」と人々を説いて回り、お金を集め、みんなで学校を建てたのです。これは同志社創建に先立つことです。
ところが旧小泉政権の時に京都市の教育長になり、小泉改革に腰ぎんちゃくのように寄り添って教育の不平等化を進めた門川現市長の下で、この歴史遺産が次々と、見るも無残に食いつぶされてきています。
僕はなんとしてもこの流れを止めたい。

その点では僕は京都においては純正保守であると言いたいです。門川市長、自民党、公明党などに、この町の伝統を愛し、守り、育む心持はまったくありません。京都を壊すばかりです。お金儲けのためにです。
先人から受け継がれてきたよきもののすべてを切り売りし、教育の不平等を拡大するこの市政のあり方と対決していきたいです。それでこの夜の企画に参加します。
僕の発話はここでも原発です。福井原発群が事故を起こしたら1200年続いてきたこの都を私たちは放棄しなくてはならなくなる。どこの土地だって被曝されていいわけはないのはもちろんですが、しかし僕は京都の歴史遺産を何としても未来に手渡したいです。
そんな思いのもとに心を込めて発言します。なお、朝の「憲法市政みらいネット事務所開き」とこの夜の企画で京都市政の改革にチャレンジする本田久美子さんとご一緒します。

*****

明後日29日には午前中に滋賀県近江八幡市を訪れて「くらしとせいじカフェ」に参加します。
 くらしとせいじカフェ〜福島みずほさんを迎えて
 https://www.facebook.com/events/1686531971583271/

これは市民の側に政治を取り戻すというか、くらしの場からせいじへの通り道を作り出していくと言うか、そんな感じで、しがの方たち、とくにしがのかあちゃんたちによって続けられてきた企画です。
この間は彦根・長浜・米原などで行われていて、民主党国会議員の田島一成さんも参加され、2カ月に一度、みんなでわいわいと論議してきました。
僕にとっても民主党の国会議員の方を交えながら、定期的にみなさんと会って政治を語り合う場は初めての体験で、今まで知らなかったものをずいぶんと教わることができました。
なんというかそんなことのつながりが色々な形でこの国の政治のあり方を変えていっているように感じています。

今回の近江八幡での会合は、田島さんではなく、社民党元党首の福島みずほさん、民主党の徳永ひさしさん、共産党の宮本たけしさんを呼んでの企画だそうで、僕もこの間の参加の延長で加わらせてもらうことにしました。
その際、明確な目的が一つあります。僕がインターネットで購入して保有している安定ヨウ素剤をお分けすることです。
各政党の議員さんに、もはや安定ヨウ素剤は常時持つべきものなのだと言う感覚を持っていただきたいからです。同時にそれを周りの議員の方にも見せていただきたいからです。
そのことも含めて、3人のお話に期待して近江八幡までいきます。


さてこれが終わってから、時間的には微妙なのですが、可能なら京都に戻って、以下の企画に参加したいと思っています。
 まろんが分析!<<仮面を脱いだロクローとココペリの関係>>
 https://www.facebook.com/events/608957492575265/

これは今年の京都市会議員選挙への挑戦のあとに、うつ状態になってしまった広海ロクローさんをケアしたホメオパスの栗乃まろんさんによる公開講座です。
彼女はクラシックホメオパシーを学ばれ、実践されています。
ホメオパシーについてはまた機会を改めてご紹介したいと思いますが、僕も何冊か書物を読んでその可能性に注目しています。
放射能被曝によって、今後、確実に被害がもっと深刻に表面化してくる。その際、人々をケアする対抗手段の一つになるのではと思いつつ、今はその体系に学んでいるところです。
参加無料だそうです。興味のある方、ご参加下さい。

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明日に向けて(1179)映画『小さき声のカノン』を観よう!観た人はもう一度!

2015年11月11日 14時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151111 14:00)

福島原発事故で放出された放射能から身を守るための人々の懸命な取り組みを追いかけたドキュメンタリー映画、『小さき声のカノン』が全国の劇場をほぼ一巡し、各地で自主上映会が始まっています。
注目されながらお見逃しの方、ぜひこの機会をご利用ください。一度は観られた方も、ぜひもう一度、じっくりご覧になって欲しいと思います。
公式サイトをお知らせしておきます。

 『小さき声のカノン』公式サイト
 http://kamanaka.com/canon/

昨年11月24日に、「アースデーしが」に招いていただいたときに、鎌仲ひとみさんと対談させていただき、公開目前だった映画の内容についてお話しました。
いまから読み返してみると、公開前よりも映画に込められたものがより深く伝わってくるように思えました。映画を観られたかたは特にそうではないでしょうか。
ぜひこれから観られる方も、すでに観られた方も、以下の対談をお読み下さい。読んだ上で、今度は自主上映会の場に足を運ばれてください。

 明日に向けて(986)映画『小さき声のカノン』に込められた思い(鎌仲ひとみさんとの対談から)-1
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/f41e9bfbde577d0adb442e2d26389a59

 明日に向けて(987)映画『小さき声のカノン』に込められた思い(鎌仲ひとみさんとの対談から)-2
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/01d1195e60eb02ebfcaede8f01c0e536

この映画は先々、この国の歴史の中に必ず残っていく映画です。
原発事故に対して人々が、とくに「普通の」人々が、どのように立ち向かっていったかの記録だからです。
最初は何も分からなかった。その後に放射能の危険性が見えだしておろおろした。しかしうろたえる中から次第に目覚め、立ち上り、行動が始まった・・・。その貴重な記録です。
同時にこれは全国で放射能被曝と格闘しているすべての方へのエールです。励まし合いの映画でもあります。だからこそ、何度も観る価値があります。

なお僕が住まう京都では11月15日に京田辺市で上映会と監督の鎌仲さんのトークがありますので、スケジュールを貼り付けておきます。
詳しくはFacebookのイベントページをご覧下さい。

 『小さき声のカノン』上映会&鎌仲監督トークライブin京田辺
 タイム テーブル (上映時入替え制)
 ①10:00~12:00 映画上映 (開場9:30)  12:30~13:30 監督トーク (飲食/お子様連れOK)
 ②14:00~16:00 映画上映        16:15~17:15 監督トーク
 ③18:00~20:00 映画上映
 https://www.facebook.com/events/569184423235717/

僕自身はこの時期、台湾を訪問中でこの上映会には参加できませんが、鎌仲さんからお預かりしたこの映画と『ヒバクシャ』『六ケ所ラプソディー』『ミツバチの羽音と地球の回転』の英語版を携えて行き、台湾の反原発団体に紹介してきます!
ぜひ原発のあるすべての国、いや原発を建てられてしまう恐れのあるすべての国、地域で見て欲しいからです。

なお我をと思う方はぜひ自主上映を担われてください。
 自主上映についてのご案内
 http://kamanaka.com/selfscreening/

全国でこれから行われる自主上映会のスケジュールの一覧も掲載しておきます。
今度の土日からほぼ毎週、どこかで上映されています。上映場所などの詳細情報はHPをご覧下さい。
僕はこの映画を広げる中でこそ、避難の権利の獲得・拡大の可能性が強まると思っています。それは私たち全体の人権のレベルアップに確実につながります。
ぜひともご観覧を!!何度でも!!

 『小さき声のカノン』
 自主上映スケジュール
 http://kamanaka.com/theater/

11月14日
東京都国立市 千葉県成田市

11月15日
京都府京田辺市 山梨県都留市 長野県信濃町 北海道札幌

11月20日
愛知県岡崎市 愛知県名古屋市

11月21日
岩手県盛岡市 岩手県柴波町

11月22日
山梨県北杜市 長野県諏訪市

11月23日
山梨県甲府市 東京都日野市

11月27日
東京都練馬区

11月29日
神奈川県横須賀市 東京都三鷹市 東京都江戸川区 香川県高松市

12月4日
大阪府和泉市

12月5日
兵庫県加古川市

12月6日
新潟県村上市 広島県東広島市

12月7日
広島県東広島市

12月8日
神奈川県海老名市

12月14日
宮城県仙台市

12月20日
東京都新宿区 神奈川県厚木市

2016年
1月23日
埼玉県所沢市

1月30日・31日
熊本県熊本市

2月7日
鳥取県鳥取市

 

 

 

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明日に向けて(1178)トルコとロシアが対IS戦争に参加し混乱が拡大! 今こそ平和の声を!-3

2015年11月10日 17時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151110 17:00)

明日に向けて(1173)(1174)で、シリア難民問題を扱いました。それに続いてシリアの内戦、IS(イスラム国、以下はISのみの表記とします)との各国の戦争について論じようと思っていましたが、この間にも新たな事態が発生しました。
10月31日未明にエジプト東部シナイ半島最南端のシャルムエルシェイクを離陸し、ロシア西部サンクトペテルブルクへ向かっていたロシアの旅客機が、離陸から22分後に高度約9450メートルで交信が途絶え、同半島北部の山岳地帯に墜落しました。

乗客乗員は全員死亡。ほとんどがロシア人でした。すぐにISが「我々が墜落させた」と声明を出しましたが、当初、エジプトとロシア当局がこれを否定しました。

ところがその後の分析の中で、旅客機は内部からの爆発によって墜落したこと、しかも4回もの爆破があったことが判明し、何者かが持ち込んだ爆弾によって爆破され墜落した可能性が濃厚となりました。
こうなると当初から「われわれが墜落させた」と語っているISの攻撃である可能性が高いと言え、そうなると10月にロシアが開始したISへの攻撃、とくにカスピ海からの巡行ミサイルの撃ちこみなどの攻撃への報復であったと考えられます。
世界はますます暴力化している。多くの人々がどんどん戦火に巻き込まれ、命を落としているのです。これは本当に重大で深刻な事態です。

この間、起きていることを時系列に沿ってみて行きましょう。
シリアの内戦が激化し始めたのは2011年のこと。アサド政権は反体制派の展開地域に無差別爆撃を加えました。現在のシリア難民問題のもっとも大きな引き金は、自国民を無差別に殺害しているアサド政権に大きな責任があります。
一方でこうした事態の中で、イラクとシリアをまたがる地帯に新たな武装集団としてISが台頭。一気に展開力をアップしてきました。ISはネットなどを通じ、世界中の若者をリクルート、どんどん勢いを増してきました。
ISを登場させた責任はもっぱらアメリカ・イギリスによる何らの正義性のないイラク侵略戦争の遂行にあります。このことでイラク社会は根底から崩れてしまい戦乱の泥沼に落ち込んでしまいました。その中で登場したのがISでした。

そのISは、シリアではアサド政権と敵対関係にあるものの、主要目的をアサド政権打倒においているわけではなく、同政権とはそれほど交戦せずにイラク・シリアにまたがって支配地域を広めてきました。
ISの伸長に対してアメリカが2014年8月に全面介入を始め、ISを対象とした激しい空爆を開始しました。空爆はイラク、シリア両国にまたがって行われましたが、ISは拠点を変えながら展開を続け、空爆は住民の被害の方を拡大するばかりでした。
アメリカによる攻撃の全面化はISの暴力性を際立たせただけで何らの実効的な効力を持たないばかりでなく、ますます混乱が拡大されていきました。

これに対してアメリカは、シリアにおける反アサド勢力や、シリアからトルコ、イラク、イランにまたがって居住しているクルド人の武装勢力と軍事的連携を強めました。
アメリカはシリアにおいてアサド政権打倒の武装闘争を行っている人々は「イスラム過激派」ではなく「反体制派」と呼称して支援し、他方でISとぶつかっているクルド人の武装勢力も「過激派」とは呼ばずに支援を強めました。
アメリカによる空爆だけでなく、シリアの反アサド派、クルド人勢力へのテコ入れが周辺国を大きく刺激し、事態はさらに混乱の中への進みだしました。

今年の夏になって大きく態度を変えたのがシリアの隣国のトルコでした。トルコはそれまでシリアやイラクの事態への積極的な介入をためらってきました。トルコはもともとアサド政権に批判的でしたがISに対する軍事衝突は避けようとしてきました。
むしろISに参加しようと世界中から集まってきた人々は、トルコを通過してシリアからISの支配地域へ向かったとも言われ、「トルコ政府はISに甘い」などという批判も受けていました。
トルコ政府としてはよりアサド政権への批判的観点の方が強かったこと、またISと正面衝突した場合、シリアとの国境線が900キロもあり、ISメンバーの同国への越境を防ぎきれないために、爆弾攻撃を避けたい思惑もあったのでしょう。

ところが事態を大きく変えたのが、長年、トルコ政府と軍事衝突を繰り返してきたクルド人武装勢力にアメリカが大きく加担し、ISと戦うクルド人に脚光を浴びせ始めたことでした。
トルコ政府とクルド人武装勢力との関係は、長年の激しい戦闘を経ながらも、近年になって和平プロセスが強まっていました。トルコ国内ではクルド人よりの政党がようやく合法化され、積年の対立の平和的解消の展望も見えつつありました。
しかしこのバランスが大きく崩れてしまい、トルコ軍とクルド人武装勢力との衝突が再び始まってしまいました。こうした事態の中でトルコが対ISの参戦に踏み切りました。

こうしてトルコ空軍が、アメリカを中心とする「有志連合」に加わり、8月29日に初めて大規模な対IS空爆を行いました。
その後もトルコ軍は攻撃を繰り返してきましたが、実はこの作戦は対ISと対クルド人武装勢力の「二正面作戦」とうたわれつつ、よりクルド人勢力への攻撃性の強いものでした。
こうしたトルコの軍事介入を前にやはり大きく態度を変えたのがロシアでした。

なぜロシアが動き出したのか。トルコはもともとアサド政権に批判的です。またアメリカは反アサド政権派のシリアの武装闘争派への援助を強めてきました。
これに対してロシアは長年シリアと軍事協力関係を保ってきました。シリアにとっては中東最大の武装国家、イスラエルに対する防波堤としてロシアの軍事力を利用するためでした。
ロシアにとってはこの緊張関係の中でシリアの地中海側沿岸に海軍基地を保持してきたことに大きな位置がありました。ロシアにとっては唯一の南方の自由に大洋に出ていける海軍の軍事拠点だからです。アサド政権が倒れたらこれを失ってしまう。

ロシア軍は9月末からISに対する空爆を開始しましたが、その実、アメリカが支援する反アサド派に対する攻撃をより強め、アメリカなどの反発を呼び起こしました。
これに対して10月7日に、カスピ海に展開している4隻の最新鋭艦から巡航ミサイル26発を発射しました。それぞれ8発ずつの巡航ミサイルを搭載した艦船からの全面攻撃でしたが、同時にロシア海軍による巡航ミサイルの初の実戦使用でした。
ロシアはこのことで、アフガン戦争からの撤退以来、自国や旧ソ連圏内では相変わらず暴力を振るってきたものの、なんとかその内側にとどまっていた軍事力行使の殻を破り、再び世界に狂暴な勢力として踊り出してしまいました。

このようにIS攻撃はトルコやロシアの軍事介入の「大義名分」に使われた感がありますが、それでもISの側からすれば、アメリカ軍に加えて、トルコ軍機やロシア軍機、さらには巡航ミサイルの攻撃まで受けるにいたったことになります。
ISは世界の支持組織に「十字軍」や「無神論者」への反撃を呼びかけるようになりました。
その影響は東南アジアにも拡大し、10月3日にバングラディッシュで邦人がIS関連を名乗る組織によって殺害されてしまいました。

さらに10月10日にトルコでより深刻な事件が起こりました。トルコ軍とクルド人武装勢力の衝突の激化に対し、トルコ政府による攻撃を批判し両者の和解の促進を求めた首都アンカラでの平和集会が爆弾で襲われ、100名を越す死者が出たのでした。
不可解なことはこの事件に対してはどこからも声明が出ていないことです。誰があれだけの殺人をやってのけたのか判明していないのですが、事件直後からトルコ政府は「ISの犯行」と断定し、クルド人勢力の関与もにおわせました。
しかしISは多くの場合、攻撃を行なった直後に「戦果を誇る」ための声明を出しています。また集会には前回の選挙で大きく躍進したクルド人支持政党も参加しており、クルド人勢力がここを襲うことはまったく考えられません。

このためクルド人支持政党だけでなく、トルコの軍事行動を批判し、憂いている多くのトルコの人々が、この爆弾事件はトルコ政府が行ったのではないかと言う懸念の声、批判の声を上げています。
これを裏付ける証拠は・・・警備があまりに薄かったということ以外は・・・出ていませんが、反対に政府が一方的に発表しているIS説も明確な根拠があるとは言えません。
ただ誰が行ったにせよ言えることは、このトルコの歴史の中でも最悪の爆弾攻撃となった事態によってトルコ社会の中に疑心暗鬼がはびこり、社会の流動化が急速に進みだしていることです。

一方で冒頭にも述べたように10月31日にはロシアの旅客機が爆発によって墜落しました。先にも見たようにISがすぐに声明を出しています。
当初は爆弾事件であることを否定していたエジプト、ロシア当局も、だんだんに爆破によって墜落させられたことを認めざるを得なくなってきています。
ロシア政府は事件のあった空域のロシア旅客機の飛行禁止を声明。各国の航空会社もこの空域を避けることを表明しています。観光立国であるエジプトにとっても大打撃でしょう。

世界がますます暴力化している。しかもさらに深いドロ沼の中に入りつつある。
こんな状況になってくると、当事者間では誰が誰と闘い、誰がどの攻撃を仕掛けてきているのかが分からなくなってくる。そうなると兵士はすぐに銃の引き金を弾きます。誰もが敵に見えるからです。
どの国も事態を打開する決定打を持っていない。むしろ自国の権益を守るために首を突っ込み、かえって抜き差しならない事態に入りつつある。戦争という化け物が各国を飲み込みつつあるように見えます。

平和の声を高めなくてはいけない!もはや戦闘でこの事態を解決するのは無理です。
とくに空爆は、戦闘員と民間人を分けずに攻撃するものであり、明確な戦争犯罪です。1000キロ以上も離れたところから撃ちこまれる巡行ミサイルの使用など最も非人道的な攻撃です。
戦争犯罪を止めさせなくてはならない。戦乱に巻き込まれて毎日にように死んでいる人々をこそ救わなくてはいけない。

誰の子どもも殺させない!今こそ世界に向けてこの声を発していきましょう!

連載終わり

 


 

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明日に向けて(1175)11月3日午後1時「アベ政治を許さない」を掲げよう!

2015年11月02日 17時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151102 17:00)

澤地久枝さんから11月3日午後1時きっかりに全国で「アベ政治を許さない」を掲げようとの提案がなされています。

ご存知のように澤地さんはこの6月に「アベ政治を許さない」を7月18日に掲げようと提案されました。
金子兜太さんが「アベ政治を許さない」揮毫すると、この文言は瞬く間に全国の人々に広がり、プリントアウトされ、7月18日に、いやそれ以降も各地で掲げられ続けています。
その行動を再び11月3日から毎月3日に行おうとの提案ですが、澤地さん自身はこの日、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館前で掲げられるそうです。

なぜ満蒙開拓平和記念館前なのか。澤地さん自身が、終戦時に満州にいて1年間の難民生活を経たのちに帰国された体験を持っているからです。
その時、彼女は14歳。軍国少女だったそうです。帰国後に戦争反対に生涯を投じる女性へと変身されました。
この夏、満州からの帰還の体験を綴った『14歳<フォーティーン>満州開拓村からの帰還』を出版されました。8月15日に東京新聞が報じている記事をご紹介します。

 流されぬ人間になれ 14歳での敗戦記憶を本に 澤地 久枝さん(作家)
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2015081502000220.html

僕もこの日京都から阿智村まで行って、ここで「アベ政治を許さない」を掲げることにしました。
シリアで大変な数の難民が発生しているときに満蒙開拓平和記念館の前に立つことに意義を感じたこともありますが、それよりも京都からある方が駆けつけようとしていることを知って、どうしても行かなくてはと思ったからでした。

その方は村上敏明さん。81歳。京都駅前で毎週金曜日に行われている関西電力京都支店前行動に、初回より連続175回、途切れることなく参加中の方です。
京都の行動は盆暮れでも一度も休まずに続けてきているので全国でももっとも回数が多いそうなのですが、そのすべてに村上さんは参加されてきました。
もちろんそれだけでなく、京都で行われる戦争法反対のデモ、沖縄連帯のデモ、原発反対のデモのどこでもいつでも村上さんは歩いて来られました。

その村上さんに聞くと、この日の午前中に新幹線で名古屋まで行き、高速バスで阿智へ。滞在1時間ぐらいで再びバスと新幹線で夕方までに京都に戻るつもりだといいます。
これでは満蒙開拓平和記念館もほとんど見学することができません。
「村上さん、それなら僕が車を借り出します。ぜひ一緒に行きましょう。平和記念館も見学してください」ということになったのでした。

村上さんも戦時中に満州に在住していて11歳のときに苦難の末に引揚てこられてきた方です。
この10月31日に左京区で村上さんが講演されたのでお話を聞いてきましたが、それこそ涙無くして聞けないお話でした。
この日のタイトルは『81才、反対といえる幸せ』。サブタイトルに「誰の子や孫にも人殺しをさせない 戦争は民間人も巻き込んでしまう」とありました。

村上さんご一家が満州に移られたのは1939年のこと。お父さんは京都市職員から、満州の国際運輸の社員へと転身なされました。
1941年に小学校に入学し、42年四平という町に転じられ、終戦後までそこで過ごされました。
1945年、小学校5年生の時に芙美子さんという妹さんが生まれましたが、戦況悪化の中でお父さんは徴兵されてしまいました。

この頃の思い出として、村上さんが語られたのは一つに1940年に日本がでっち上げた国家であった満州国の首都、新京(現在の長春あたり)で突然の隔離を経験したことでした。
理由はペストの蔓延から子どもたちを守るためでしたが、この病の伝染は人為的なものでした。
日本陸軍の研究機関であった731部隊(正式名称は関東軍防疫給水部本部)がペストをはじめとした細菌兵器を開発し、実際に農村部で使用したのですが、そのペスト菌が「新京」にも感染してしまったのでした。

村上さんは淡々と語られました。父親がいつも非常に荒れていて、血みどろになってドアのガラスをたたき割ったこと。
自分自身も、近所の中国人の頭を石でたたいたり、学校で中国人の生徒に集団暴行を働いたりしたこと。「断れなくて仕方なく行ったのか、自発的だったのか覚えていないのですが」という言葉が添えられました。
その頃は学校の中でも教師の体罰が横行するとともに、子どもたちも始終殴り合い。しかもボスに命令されて他の子たちを殴ることなどが日常的に行われていたそうです。

やがて戦争末期にソ連が参戦。官僚の家族などが真っ先に日本に逃げていきましたが、多くの人々は逃げられませんでした。
8月15日の敗戦の知らせで、四平駅に人々が押し寄せたものの、結局、その場に足止め。日本軍が塹壕を掘って抗戦を主張するうちにソ連軍が進駐してきて、町には砲火が鳴り響きました。
8月26日には東京の大本営が「満鮮に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす」と発表。要するに「ここからは日本国籍を離れて勝手に生きろ」と棄民を宣言したのでした。 

四平ではどんどん戦乱が強くなっていきました。第二次世界大戦終結とともに再度起こった中国の国民党軍と共産党軍との内戦が激しくなったからでした。
1946年3月にソ連軍が撤収。代わって中国共産党軍(八路軍)が入ってきましたが、これに国民党軍が攻撃。5月に国民党の支配が確立しました。
この間、村上さんは戦火の中で日々を過ごしました。砲弾の破片が頭をかすめ、そばにいたおばさんに当たって失明してしまったことも。戦火に巻き込まれて亡くなった級友もいました。

やがて四平の人たちの「内地」への引揚が決定しますが、病弱だったやっと1歳になった妹さんが「足手まとい」だと言われてしまいます。
その妹さんに村上さんは大人たちに手渡された水薬を与えました。妹さんは村上さんを黒い瞳で見つめたまま絶命されたとのこと。村上さんはこの前後の記憶を無くされています。
村上さんのスライドにはこう書かれてありました。
「7月上旬 妹1歳の死(殺める)家の近くに土葬」

7月7日に無蓋貨物車で四平を発ちました。お母さんは車内で「フミコが、フミコが」とつぶやいていたそうです。
途中、葫蘆島付近で収容所生活を送りましたが、お母さんが衰弱して病院へ。
8月上旬、またしても村上さんは医師たちに渡された薬をお母さんに与えました。同じく村上さんのスライドの記述です。
「母の死(安楽死?・いつもと薬が違うと思った。飲ましたら泡を吹いて死亡)・弟二人と三人の通夜・泣かなかった。そして土葬 スグ、船で日本へ 8月下旬・佐世保へ」

村上さんは京都までなんとか引き揚げてきましたが、そこでお祖母さんと再会。なんと彼女の夢に村上さんのお母さんが現れ、「後を頼む」と村上さん兄弟のことを託されたのだとか。
やがてお父さんも引き揚げてきて、一緒に逃げのびてきた弟さんたちとお父さんとの生活が再開されました。

村上さんのスライドは次のように締めくくられていました。

 今、僕に呼びかけている母とフミコ
 
 八紘一宇・‥アジアの人々への圧政だったのね。
 これからは、アジアの人々と仲良くね
 あんな加害行為もやめようね
 私たちの命の分も生きて!! 
 あなたの子や孫、私の孫や曾孫。
 いつまでも豊かに、平和に暮らせるよう!! あなたは努力して!

11歳で過酷な体験をくぐり抜けられた村上さんは、結びの言葉に、満州国をはじめ各地で日本が行ったことがアジアの人々への圧政だったことを一番に書いています。
そうして「これからは、アジアの人々と仲良くね。あんな加害行為もやめようね。私たちの命の分の生きて!!」とつづられています。
僕にはその言葉は、あの時、中国大陸で亡くなった本当にたくさんの日本の方たちが発している言葉のように思えました。お母様と芙美子さんの向こうに無数の人々の顔が見える思いが今もしています。

この講演の途中で村上さんは、「岸信介・・満洲の中枢として僕らの暮らしを支配」というタイトルで満州国に深く関わっていたのが岸信介であることを指摘されました。
どこまでも温厚な村上さんが珍しく「この方は憎いです」と強い語気で語られました。
周知のごとく安倍首相は満州国に君臨していた岸信介の孫です。もちろん孫であることに罪があるわけではありません。中国と日本の巨万の民衆に塗炭の苦しみを味合わせたこの人物を理想化し、あがめ、近づこうとしていることが悪すぎるのです。
戦乱の中で苦しみ、もがき、命を落としていったすべての人々に対する冒とくであり、私たちと未来の命への許すことのできない攻撃です。

11月3日、澤地久枝さんの呼びかけに応え、村上敏明さんと共に、満蒙開拓平和記念館の前で「アベ政治を許さない」を掲げます。
みなさんもどうか各地で掲げて下さい。平和への歩みをさらに強めましょう!

*****

澤地久枝のよびかけ
https://sites.google.com/site/hisaesawachi/

アベ政治を許さない!!
同じポスターを全国一斉にかかげよう
11月3日(火・祝)午後1時きっかり

◆◆全国一斉行動 再開のお知らせ◆◆
7月18日午後1時の「掲げる会」にご協力ありがとうございました。
8月、9月と体調をくずしていましたが、政治のあまりのひどさに、また「アベ政治を許さない」を掲げようと思い、よびかけます。

再開第一回目の11月3日(火・文化の日・憲法公布記念日)私はこの日長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」前に立ちます。(国会前には、有志が立ちます。)
そして、毎月3日午後1時にくりかえします。
それぞれの場で、おなじ抗議ポスターを、おなじ時間に掲げます。
 現在の政治のありかたに対する、私たちのギリギリの意思表明です。
ファックスやネットでも広げてゆきましょう。

2015年10月 澤地久枝

 

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明日に向けて(1174)レバノン民衆も懸命に難民を受け入れている!・・・今こそ平和の声を-2

2015年11月01日 22時30分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151101 22:30)

今回も前回の続きですが、先に誤りを訂正したいと思います。僕はトルコ政府と軍事的衝突関係に入っているクルディスタン労働者党をKKPと書いてしまいましたが、正しくはPKKでした。
クルド語の表記で、正確には”Partiya Karkeren Kurdistan”です。訂正しお詫びします。なおブログとHPではすでに訂正してあります。

さて昨日より、この間世界で、とにくシリアやイラクで起こっていることのフォローを始めましたが、これに対して、友人で、アラブ文学研究者であり、パレスチナ問題をはじめ中東の苦しみに心を寄せ続けている岡真理さんがコメントをくれました。
ポイントは、難民に対して国境を閉ざしたハンガリーなどに対しトルコの人々が200万人もの難民の流入を受け止め、必死にケアしていることに前回触れたわけですが、より必死で難民を受け入れているのがレバノンの人々であるという点です。
レバノンが受け入れている難民の数は9月末でおよそ100万7千人。トルコの半分の数ですが、トルコは面積が日本の2倍、総人口7千万。一方レバノンはなんと岐阜県程度で人口500万人。それで100万人を受け入れているというのです。

僕はこのことを知らなかったことをなんだか恥ずかしく思えました。シリアやイラクを観るとどうしても戦乱の方にばかり目が行ってしまいますが、しかしトルコで、さらにはレバノンで、多くの人々がシリアの人々の苦しみを受け止めているのです。
日本に住まう私たちは余りに狭い情報にしか触れていない。世界でこんなにも多くの人々が困窮していることをなかなかつかめないし、レバノンでこれだけ寛容なケアがなされていることもマスコミにもほとんど載っていません。
こうしたことをもっと正確につかみ、世界の人々が実践してる平和への試みと連携していく必要を強く感じます。世界各地にかっこたる平和力がある!

同時に人口2400万人のシリアという国から、国内外も人口の半分近くの1000万人を越す難民が発生しているという前代未聞の事態がありながら、それがあまりに正確に伝わっていないこの国の状態を反省的に捉え返していく必要があります。
こうした中で「積極的平和主義」を掲げる安倍政権が、この数百万人のうち日本への難民として認めたのはたったの3人です。岐阜県ぐらいの大きさの国が人口の2割にも相当する100万人を受け入れているにも関わらずです。
国連の常任理事国入りを切望するような国が、数百万人の難民のうち3人しか引き受けないなんてあり得ないほどに恥ずかしく愚かな話です。

今回は難民を懸命に支えている各国の人々のことに学ぶために、岡さんのコメントをそのままみなさんに紹介したいと思います。
ご本人の承諾を得ましたが、僕の配信に対して、必要な点を即座に、大づかみで教えてくれたものであることにご留意ください。

*****

おかです。
守田さん、重要な視点ですね、論考、どうもありがとうございます。

シリア難民問題は、2011年からまる4年、ずっと存在していました。
報道もなかったわけではありませんが、それは、あくまでも、中東の難民問題であり、世界に数多ある問題のひとつ、だった。
それが、ここにきて、ヨーロッパ、とくにドイツに、難民が大量に流入するようになり、シリアの難民問題が、「ヨーロッパの難民問題」になったとたん、日本でもぐっと報道量が増え(夏は連日、報道していました)、そして、報道のスタンスも、にわかに、他人事から我が事に変わったように思います。
報道の量が増えるのも、報道のスタンスが、我が事としてとらえるのに変わるのも、歓迎すべきことではありますが、中東で、シリア人(その大半はムスリム)が難民になったり、地中海で溺れ死んだり、殺されているあいだは、他人ごとで、ヨーロッパの問題となったとたんに我が事になる、そのところに孕まれている問題についても、自覚的でありたいと思います。

ほかにもいろいろ書きたいことがありますが、いまは、さしあたって、以下のことだけ。
守田さんの今回の論考のなかに、

>さて難民は国境を接しているトルコに入り込み、ヨーロッパ各地を目指していますが、見ておくべきことは難民に対してもっとも寛容な態度を示しているのはトルコの人々だということです。
>すでに200万を越える人々が流入しています。これに対して他国にありがちな移民排斥などは起こっていません。トルコの人々は戦乱に苦しんでいるシリアの人々に手を差し延べているのです。それでなければとても200万人なんて受け入れられない。

というくだりがあります。
それに対して、異論反論というのではなく、以下のことを補足したいと思います。

シリアのお隣のレバノンもまた、この4年間、シリア難民を受入れ続けています。
今年9月末の段階で、その数は、100万7千。
トルコのちょうど半分です。

トルコは国土面積が日本の2倍、総人口は7千万。
それに対し、レバノンは、岐阜県程度の大きさ、人口は500万です。
(縦に細長い国ですが、北の国境から南の国境まで、車で2時間ちょいです。)

人口500万の岐阜県程度の大きさの国が、100万の難民を受け入れているのです。
日本の人口比に換算すると、2500万人の難民を受け入れている勘定になります。
トルコは、日本の人口比に換算すると、400万弱です。
また、レバノンのGDPは443億ドル(2013年)、トルコは8221億ドル、約20倍の開きがあります。
(ちなみに、レバノンは国内産業がほとんどないので、海外からの送金が大きな比重を占めています。)

しかも、レバノンの500万の人口の10分の1(50万)が、パレスチナ難民であり、そのうちの半分以上が、難民キャンプ生活です。
レバノンは、イスラーム(スンニ派、シーア派)、キリスト教(マロン派)、ドルーズ、その他、いろいろなセクトがモザイクのようにあって、そのため、1975年から1990年まで16年にわたり内戦をしていました。
いまでも、内戦が再発しないよう、危ういバランスの上で、どうにか、国家の体を保っているという状況です。
そこに、人口の5分の1にあたる難民たちが流入しています。
シリアの難民たちも、レバノン人(とくに下層の人たち)、そして、パレスチナ難民たち・・・みな、想像もつかない困難な状況に置かれています。

レバノンが、ISの侵入を許していないのは、これが来たら、再び内戦の悪夢がよみがえることをみな、分かっているからです。
とにかく、レバノンが国家として持ちこたえていることが、奇跡としか、いいようがありません。
トルコは、IS問題に政治的に絡んでくるので、メディアから注目されますが、レバノンの場合、そうではありません。
内戦当事国であるシリアはもちろんのこと、トルコだけでなく、レバノンも、いま、ものすごく大変な状況にあることを(下手をすると内戦になる)、そのなかで、必死に闘っている人たちがいることを、ぜひ、知っていただけたら、うれしいです。

続く

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明日に向けて(1173)世界が暴力化している・・・今こそ平和の声を!-1

2015年10月31日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151031 23:30)

『原発からの命の守り方』を10月27日付で上梓しましたが、大変、売れ行き好調です。みなさんに感謝したいです。
このためこの間、注文受付、発送などに追われていました。
しかしその間にも世界でどんどんいろいろなことが起きて気が気ではありませんでした。今宵はこの数か月のことを振り返っておきたいと思います。

世界が暴力化しています。あちこちで戦乱が拡大しています。
かなり深刻です!

この間、アフガニスタンにおけるアメリカ軍による国境なき医師団の病院への意図的な攻撃についての批難の記事を何度か書いてきましたが、今度はイエメンで国境なき医師団の病院が空襲されました。
犯人はサウジアラビアを中心とする「連合軍」のようですが、あまりにひどい。戦闘地域での病院への攻撃が常態化しつつあります。
これについても分析を深めねばと思っていますが、正直なところこのイエメンでの戦闘について僕はまだ十分な分析ができていません。情報収集と解析に努めたいと思います。

 イエメンで「国境なき医師団」病院空爆、国連総長が連合軍非難
 http://news.livedoor.com/article/detail/10760853/?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

ご存知のように理不尽な暴力の発動はこれにとどまりません。とくに滅茶苦茶な様相を呈しているのがシリア・イラク情勢です。
関与者が多すぎてこれもまた僕自身、十分に分析できているとは思えないのですが、ざっくりと起きていることをみなさんと一緒につかんでおきたいと思います。
これは、今、目の前で振るわれている暴力に麻痺しないためです。そのために一つ一つの関係性を分析的に把握するのです。もちろんすべては分析しきれないかもしれない。しかしこちら側で事態を追いかけていく座標を作っていく必要があるのです。
そうでないと、あちらでもこちらでも暴力が多発することによって追いかけていく気力を失ってしまう。暴力に麻痺させられてしまう。それではいけない!暴力に立ち向かうためにはまずはしつこく分析を行っていくことが大事です。

さて、まずは世界中の多くの人々が胸を痛めているシリア難民問題についておさえておきましょう。
シリア・イラク情勢を観るとき、どうしてもIS(イスラム国)に意識を奪われがちですが、もともとこれは主にアサド政権とこれに反対する「反政府勢力」の間の内戦によって発生したものです。
その後に、IS(イスラミック・ステート)が第三の勢力として台頭してきたわけですが、難民はそれ以前から発生していたことを注視しておくことが必要です。
さらにこの間、一気に難民が拡大しているのも、周辺各国が戦闘に参加し、各地で市民を巻き込んだ空爆が繰り広げられているからです。

そもそも空爆に「誤爆」は「つきもの」です。空から正確に戦闘員だけを攻撃することなどできるわけはない。だから空爆そのものが戦争犯罪なのです!なんの罪もない民間人を巻き込むことを前提にした作戦だからです。
今、発生している難民はアサド政権も含んだ紛争当事者たちによる空爆や民間人を巻き込んだ戦闘という戦争犯罪によってこそ拡大していることを見ておく必要があります。
もちろんこれに支配地域で極めて残虐な行為を行い、それで恐怖をあおることを一つの戦略にしているISがさらに難民発生を後押ししていることも間違いありませんが、問題はISを除去すればそれでいいということではないことに着目せねばなりません。

さて難民は国境を接しているトルコに入り込み、ヨーロッパ各地を目指していますが、見ておくべきことは難民に対してもっとも寛容な態度を示しているのはトルコの人々だということです。
すでに200万を越える人々が流入しています。これに対して他国にありがちな移民排斥などは起こっていません。トルコの人々は戦乱に苦しんでいるシリアの人々に手を差し延べているのです。それでなければとても200万人なんて受け入れられない。
そのトルコからヨーロッパに向かう難民に対して、各国が国境を閉鎖し始めましたが、トルコはそうはしていない。その点で私たちはシリアの人々の苦しみをシェアしようとしているトルコの人たちに学ぶ必要があります。

しかし政府の動きは全く別です。トルコ政府はもともとシリアのアサド政権を批判してきたので、難民を拒否できない面があるのだと思われますが、一方でISに対しては一定の距離をたもって静観してきた感がありました。
これにはさまざまな理由があるように思えます。もっとも大きいことはトルコとシリアの国境が700キロもあり、とてもではないけれどシリア側から入ってくる人々をチェックしきれないこと、そのためISがトルコにかなり多数入り込んでいることです。
このためトルコ政府がISと正面からぶつかると、国内での自爆攻撃を受けてしまう可能性がある。そのためISを敵にまわしたくない面があるように思えます。

さらにより大きいことはトルコ政府が長年、軍事的に敵対してきたトルコ北部からシリア、イラク北部などに広範囲に存在しているクルドの人々がISとの衝突の最前線に立ち、アメリカなどが武器供与することに警戒を強めてきた点です。
トルコ政府はクルドの人々、とくに左翼思想に依拠し、武装闘争を繰り返してきたクルディスタン労働者党(Partiya Karkerên Kurdistan=PKK)と繰り返し軍事的に衝突してきたことから、ISとの戦闘でPKKなどクルドの人々に国際的な注目が当たることを良しとしてなかったのです。
およそこれらのことを背景に7月にトルコは対IS参戦を宣言し、空爆を開始しました。しかし実際にはPKKなど、クルドの人々に対する空爆との二正面作戦であり、しかも圧倒的にクルドの人々への攻撃に傾斜した「二正面作戦」でした。

アメリカはどうかというと、アサド政権に対して反旗を翻している武装勢力に援助を行ってきました。これらの諸グループはISとも戦闘をしています。先にものべたようにアメリカはクルドの武装グループも支援しています。
ちなみにアメリカは自分たちの戦略に位置づけられるときは、これらの人々を「反政府派」と呼びます。しかし一度、アメリカに反旗を翻すと「イスラム過激派」などと呼ぶのです。
その点で「過激派」という言葉もかなり恣意的に使われていることに留意する必要があります。

その点では「テロ」も同じです。「テロ」はもともと恐怖政治を意味する言葉ですが、昨今では「卑怯」「卑劣」「非合法」などのイメージが付与されています。
しかし、国連決議もまったく無視してパレスチナ・ガザ地区の住宅街に、これまた国際的に使用を禁止されている黄燐弾などを白昼堂々と撃ちこむイスラエルに対してはけして「テロ」という言葉は使われません。
さらに「卑怯」「卑劣」「非合法」な戦争犯罪なら、広島・長崎への原爆投下をはじめ、最もたくさん行ってきた国こそアメリカです。そのためアメリカの軍事攻撃こそが「国家テロ」と呼ばれなければなりませんが、もちろんほとんどの人々はそうはいわない。

この点から僕は自らの論稿の中で「テロ」という言葉を使わないことにしています。同時にさまざまな呼称について、それが誰がどのような価値観から名付けているものなのかを分析してし続けています。
実はこんなことに、現代世界を読み解く重要なポイントがあるのです。

続く

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