守田です。(20121114 22:00)
11月11日に全国で脱原発行動が取り組まれました。あいにくの雨でしたが、首相官邸前がたくさんの方の傘で埋まったほか、各地でいろいろな取り組みがなされたようです。雨の中、行動に参加されたみなさま、本当にご苦労様でした。
すでにお知らせしたように、僕はこの日に京都市内の醍醐で行われた「母親大会」に参加して、講演させていただきました。今回は、『放射線を浴びたX年後』の文字起こしなどにより、この母親大会が行われた1950年代のことを調べ、当時、非常に大きな反核運動が行われたこと、そのアウトラインをお話しました。今に直接につながる大きなものがそこにあるからと思ったからです。
連載「ビキニ環礁水爆実験を問い直す」の(下)、最終稿はこのことを記しておきたいと思います。なお論考が長くなったで、1と2の2回に分けます。
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁において、水爆ブラボーの爆発実験を行いました。広島原爆の1000倍の威力をもった水爆でした。このとき周辺の島々に住んでいた250名近い人々や、近くで操業していた第五福竜丸をはじめとする日本の多くの漁船が被ばくしました。
しかしアメリカは、第五福竜丸が焼津の港に戻った3月14日以降も引き続いて核実験を強行、5月までに6回もの連続した実験を行っています。続けて行われのは「ロメオ」3月27日、以下、「クーン」4月7日、「ユニオン」4月26日、「ヤンキー」5月5日、「ネクター」5月14日でした。これらにより、日本の漁船の被ばくは1000隻近くもが被ばくしてしまいました。
この相次ぐ核実験の強行とマグロ漁船の被ばくの中で、私たちの国の中から非常に大きな反核運動が沸き上がりました。運動を始めたのは、放射能が撒き散らされ、子どもたちが被曝することを憂いた女性たち。発火点になったのは東京杉並区の魚屋さんでした。
まず4月15日に、杉並の魚屋、菅原トミ子が、杉並区立公民館の婦人週間講演で発言。核実験の廃絶を訴えました。これを受けて4月17日に杉並区議会が水爆禁止決議を採択。さらに水爆禁止を求める署名運動開始が検討され、5月9日に「水爆禁止署名運動杉並協議会」結成。人々の集いの場であった杉並公民館長の安井郁が議長になり「杉並アピール」が採択されます。
少し長いですが、アピール全文をここに引用しますので、ぜひ、文面から当時の雰囲気をつかみとってください。
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全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう
広島長崎の悲劇についで、こんどのビキニ事件により、私たち日本国民は三たびまで原水爆のひどい被害をうけました。死の灰をかぶった漁夫たちは世にもおそろしい原子病におかされ、魚類関係の多数の業者は生活を脅かされて苦しんでいます。魚類を大切な栄養のもとにしている一般国民の不安も、まことに深刻なものがあります。
水爆の実験だけでもこのような有様ですから、原子戦争がおこった場合のおそろしさは想像にあまりあります。たった四発の水爆が落とされただけでも、日本全土は焦土になるということです。アインシュタイン博士をはじめ世界の科学者たちは、原子戦争によって人類は滅びると警告しています。
この重大な聞きに際して、さきに国会で水爆禁止の決議がおこなわれ、地方議会でも同じような決議がおこなわれるとともに、各地で水爆禁止の署名運動が勧められています。しかしせっかくの署名運動も別々におこなわれていては、その力は弱いものです。ぜひこれを全国民の署名運動に統合しなければなりません。
杉並区では区民を代表する区議会が四月十七日に水爆禁止を決議しました。これに続いて杉並区を中心に水爆禁止の署名運動をおこし、これをさらに全国民の署名運動にまで発展させましょう。そしてこの署名にはっきりと示された全国民の決意にもとづいて、水爆そのほか一切の原子兵器の製造・使用、実験の禁止を全世界に訴えましょう。
この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動であります。またこの署名運動によって私たちが訴える相手は、特定の国家ではなく、全世界のすべての国家の政府および国民と、国際連合そのほかの国際機関および国際会議であります。
このような全日本国民の署名運動で水爆禁止を真剣に訴えるとき、私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし、人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます。
1954年5月 水爆禁止署名運動杉並協議会 議長 安井郁
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署名は5月13日に開始され、瞬く間に広がりだしました。6月20日、259,508名、6月24日、265,124名を記録し、当時の杉並区民人口約39万人のうちの7割近くとなりました。二重署名を自戒し、細やかにカウントしながらの丁寧な運動でした。
こうした成果を受けて、杉並協議会は、6月24日に署名の全国化を決定。8月8日に有田八郎(元外相)、植村環(日本YWCA会長)らが発起人となって「原水爆禁止署名運動全国協議会」を結成。安井郁杉並公民館館長が初代事務局長となり、杉並区立公民館館長室が事務所となりました。
このとき署名内容が「水爆禁止」から「原水爆禁止」へと変わりました。このことには大きな意味があります。
というのは署名は当初から原水爆の惨禍を訴えていたものの、そもそもアメリカの占領が解除された1952年までは、広島・長崎の被爆の一切が占領軍の軍事機密に指定され、触れることが許されていませんでした。そのため運動を盛り上げるためにあえてビキニ環礁の水爆実験に対象をしぼる配慮が当初は必要と考えられたのでした。
しかし署名が杉並区から全国へと拡大される中で、この「戒め」が破られ、はじめて日本全土に「原水爆を許すな」という声を響き渡らせる運動が始まったのです。
(なおこれらの内容については杉並区の公式サイト「すぎなみ学倶楽部」に大きく教えられました。アドレスを記しておきます。http://www.suginamigaku.org/content_disp.php?c=45c7e9833bafe&n=1)
こうした中で、9月23日に、第五福竜丸無線長・久保山愛吉が急性放射能症で死去。署名運動はさらに拡大していきました。どこでも署名の先頭を担ったのは女性たちでした。保守・革新を問わず、ありとあらゆる組織が参加したのも大きな特徴でした。インターネットも携帯電話もなく、顔と顔をつき合わせての運動が問われたこの時期に、署名はどこまでも拡大していきました。
1955年になると女性たちは6月7日から9日に、第一回母親大会を開催。世界の女性に行動を呼びかけていきます。このもとに7月7日から10日、スイス・ローザンヌで第1回世界母親大会が広かれ、68カ国1060名が参加しました。命を守るために世界の女性たちが手をつないで実現した成果でした。
女性たちの活躍に牽引されつつ、国内ではさらに8月に被爆地広島で第1回原水爆禁止世界大会が行われ、杉並から生まれた「原水爆禁止署名運動全国協議会」は「原水爆禁止日本協議会」へと発展的に解消しました。
署名数自身はこの間にもどんどん伸び続け、11月の最終集約までになんと32,590,907名分が集まりました。日本の人口の3割にもおよぶ大署名が実現されたのです。
被爆国日本でのこの熱い運動は世界の共感を呼び起こしました。こうした共感には核実験の繰り返しで、被曝への危機感が高まったことも反映していました。とくにアメリカでは、ネバタ砂漠での実験の繰り返しによって、ニューヨークで売られている牛乳からも死の灰が検出されるにいたり、危機感が大きく高まりました。
これに対して核実験の一方の当事者であったソ連が、一方的に核実験の停止を宣言したことなどもあり、アメリカも核実験の抑制に進まざるを得ず、ついに1963年に「部分的核実験禁止条約」(正式には「大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」)が締結されました。大気圏内での核実験が全面的に中止されるにいたったのです。
続く