守田です。(20130218 23:30)
昨日(17日)に、丹波市開催されたフォーラムで、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」代表の佐藤幸子さんのお話を聞き、続けてパネスディスカッションでコーディネータを務めました。自分の出来不出来は別として、全体としてとてもよく企画内容が練られていて、素晴らしい場が作られたのではないかと思います。
パネラーの方の発言の一つ一つもとても印象深かったのですが、やはり圧巻だったのは佐藤さんのお話でした。
佐藤さんはもともと自然農を営まれてきた方です。もう少し正確に言うと、はじめは普通に行われている「慣行農業」から始められ、もっと身体にいいものを作りたいと「有機農業」に進まれましたが、それもまた「自然に優しいとは言えない」のではと感じ始め、「自然農」へと転身されたのです。
この過程のことは、共著である『自然農への道』の中で詳しく書かれています。自然農とは何かを知りたい方、とくに有機農業と自然農がどう違うのかを知りたい方にお勧めの一冊です。
しかし耕す農業から、耕さない農の営みに転じられ、何年もかけて生き物の楽園となったその佐藤さんの畑にも、放射能が撒かれてしまいました。以来、佐藤さんは放射能から子どもたちを、人々を守るために走り出されました。その中で、今のこの社会のありようを変えるには教育を変えなくてはダメだと痛感したそうです。とくに文科省との交渉ではっきりそれを悟ったといいます。
それだけでなく、医療も何もかも自分たちの手で作り直さなくてはいけない。みんな下から作り変えることが必要だと思うと語られました。僕が講演会の後で、「佐藤さん、ようするに革命が必要だということですよね」と言ったら、「そうです。革命を起こさないとダメですよ」と首を強く縦にふられました。「ああ、いいな」と強く思いました。
そんな佐藤さんの話は、一から十まで迫力と緊張感に溢れていたのですが、中でも圧巻だったこと、まずみなさんにお伝えしたいことは、福島第一原発事故があったときの佐藤さんの行動です。
佐藤さんは1980年代に結婚し、就農し、お子さんを生まれましたが、1986年のチェルノブイリ原発事故のときは、放射能に関してはたいした知識がなかったそうです。そのときご長男が4歳、二人目のお子さんがお腹の中にいましたが、日本も被曝し、放射能が来ていることなどあまり分からず、有効な防護策を取れなかった。
その猛反省からその後に原発問題を懸命に学習。放射能の恐ろしさと、被曝を防ぐ術を学びました。その結果として、「もし福島原発で事故があったら、子どもを100キロ以上遠くの山形に逃がす」と心に決めていたそうです。
事故当日の2011年3月11日にも即刻行動を開始。まず動きを確保するために2台の車のガソリンを満タンにしました。そして5人いるお子さんのうち、東京で働いていた長男をのぞき、福島県内にいた4人をすぐに福島市内に集めました。うち3人は13日朝8時に早くも山形へと脱出。もうひとりの娘さんは、お連れ合いが職場をすぐに休めず13日には出発できなかったのですが、周りの方も交渉などしてくれて、14日午前10時に山形へと脱出したそうです。
福島市に最初の放射能が到達したのはそのわずか2時間後だったとか。見事な脱出劇でした。原発事故をあらかじめシミュレーションしておくことの大切さのお手本です!
ただしご本人は障がい者支援施設を運営するNPOの代表を務めていたため、続いて利用者さんやスタッフのケアに周り、脱出されたのは17日になってからだったそうです。15日に最も濃度の高い放射能が福島市周辺にもやってきてしまいましたが、何ら知らされなかったため、「屋外で動きまわってしまった」と悔しそうに語られていました。
それでも原発事故を想定していた佐藤さんは、合羽を着込み、マスクを厳重にするなど、可能な限りの防護体制をとって動いていて、やがて17日には脱出したわけですが、福島市内、その周辺市町村の大半の人々は何も知らされないままでした。しかも悪いことに15日は県立高校の受験発表の日と重なっていて、多くの受験生が、放射能の雪の降る中、発表を見に出かけてしまいました。
地震の影響で断水し、市役所が給水車を出したために、多くの人々が、雪の中、子どもさんの手を連れて何時間も給水を待っていました。僕もそこに立っていた女性たちから、「どうしてせめて屋内にいるようにと伝えてくれなかったのか。悔しい」と涙ながらの憤りを聞いたことが何回かあります。
この時、飛散した放射能の中には大量のヨウ素が含まれていました。そして今、子どもの発症が100万人に1人といわれる甲状腺がんが、福島だけでもう3人も見つかってしまいました。すでに手術を受けたそうなので間違いないことです。また7人が「濃厚な疑い」(8割もの確率)と伝えられています。佐藤さんは放射能の到来を何も伝えなかったことを「殺人行為としか考えられない」と語られました。
実はこのお話は、上梓されたばかりの佐藤さんの本、『福島の空の下で』(創森社)の冒頭にも書かれています。この数十ページの記録を読むだけでも価値があります。なんと2013年2月19日第1刷発行で、僕も会場で買ったのですが、その冒頭には次のように記されています。少しく引用します。
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ついに来るべきときが来た
「お母さんは、この日のために今までの人生があったような気がする」
2011年3月13日に山形県の友人宅に避難した子どもたちより4日遅れて避難した私は、3月17日、子どもたちにそう話しました。
「原発がなくなっても、石油がなくなっても、食料が輸入されなくなっても生き残る。その技術と知恵を自分が習得して、そのすべてを子どもたちに伝えていくのが自分の使命だ」
そう思って、自給農の暮らしを30年間やってきました。「今、そのときが来たから、あなたたちはどこに行っても生きていけると話しました。」(同書P16)
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この冒頭の数行を読んで、本当に深く共感しました。なんというか、僕もあの大事故の直後に、似たような思いを抱いたからです。もっとも僕の場合、生き残る知恵や技術を習得してきたわけではありませんが、それまでいろいろな仕事をしたり、社会運動に参加する中で、どこか僕はいつか何かの時のための訓練を自分に施しているような気持ちがあったのでした。なので「ついに来るべきときが来た。このときのために僕は数々の訓練と経験を重ねてきた」とそう感じたのでした。
・・・それはともあれ、佐藤さんがこのとき感じたことは、本当に大事な教訓に溢れています。彼女は次のようにも書いています。
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自分で判断しなければ「いのち」は守れない
今回の原発事故で痛感したのは、即座に自分で判断しなければ「いのち」は守れないということでした。実際、早期に避難を決めた人たちは、テレビなどマスコミからの情報ではなく、インターネットからの情報で判断した人が多かったようです。
過去の公害問題を見て、「真実は隠される。企業を守るため、国民は捨てられる」ことを経験上知っていた人々は、政府の「大本営」発表しか発信しないマスコミを信じることはありませんでした。」(同書P27)
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これも本当に大事な点です。僕もこのとき、まったく同じように感じました。「事故はかなり深刻だ。しかし絶対に政府は人々を逃がしてくれないだろう。避難を呼びかけなくてはならない」と感じ、すぐに情報収集と、発信を始めました。
同時にとても大切なのは、「真実は隠される。企業を守るため、国民は捨てられる」という事実を経験上知っていたかどうかだと思います。それがいざというとき、生死を分ける。だから今、ぜひとも僕は多くの方に、今回の教訓としてこの点を心に留め置いて欲しいと思うのです。
実は僕は事故直後に、大変レベルの高い科学者でありながら、政府を信用しがちな敬愛する友人に、原田正純著『水俣病』(岩波新書)を送りました。なぜか。2011年3月から、私たちの国は、まるで全体が「水俣」になったような状況にあると思えたからです。同書を読んだことがない人はぜひ、手に入れて読んでみてください。
こうした佐藤さんの経験から、原発事故に対する備えとして大事なことを導き出すことができます。一つは、常々、提案してきていることですが、事故が起こったらどうするか、あらかじめシミュレーションしておくことです。佐藤さんの場合、行く先の友人宅も決めてあった。すぐにお友だちから電話が来たことが記されていますが、この点もとても大事です。
まずは個人間で防災協定を結んでおく。どちらかにいざという事態が起こったら、他方がすぐに受け入れ準備を開始する。こうした関係を、きるだけたくさんの人がたくさん作っておくといい。それだけで私たちの国の防災態勢は格段にアップします。
第二に「真実は隠される。企業を守るため、国民は捨てられる」ことを肝に銘じておくことです。もちろん、その歴史を繰り返させないための行動は大事です。福島の人々はそのために「福島原発告訴団」を結成して起ち上がっている。国民、住民を捨てた人々を、後々のために社会的に懲らしめなくてはいけません。
しかしまだそれがなされていない以上、同じことは必ず繰り返されます。何せ膨大な放射能をばら撒いたことに責任のある人びと、さらにはすぐにも始まっていたメルトダウンを人々に伝えず、放射能の到来も教えなかった人々のうち、まだただの一人の逮捕もされていないからです。
だからこのままでは歴史は繰り返します。だからこそ、これまでどのような歴史的事実があったのかを知っておくことが大事なのです。そこから同じ歴史を繰り返させない知恵も生まれます。そのために私たちは広島・長崎の被爆者の方たちや、水俣病被害者の方たちが辿った苦難の歴史に学ばなくてはいけない。
いや、それだけではありません。まさに現在進行形の、この福島原発事故を、克明に記録しながら歩まなくてはいけません。望むべくはその記録が、悪者とたちを懲らしめるとともに、放射能の被害をできるだけ小さく食い止め、あるいは被曝の苦しみの中を超えるたくさんの実践が生まれ、未来が開けた記録となって欲しいし、そこにむけて私たちは歩んでいく必要があります。
そのために、まさしく明日に向けて、僕は佐藤幸子さんの経験をみんなでシェアすることが大切だと思います。僕自身、まだ本の初めしか読んでいないので、昨日の講演を思い出しながらじっくりとページを繰り、佐藤さんが体現されている福島の人々の格闘、福島原発事故と闘ってきた福島の方たちの歴史を、己のものにしていきたいと思います。
佐藤さんはこれからも精力的にあちこちで講演されると思います。どうかみなさん、お近くに彼女がきたときはぜひお出かけください。福島の現実を知るためでもありますが、きっとあなたにとっての英知、未来への励ましが得られると思います。
最後に、佐藤さんとの出会いの場を与えてくださった、「どろんこキャラバン☆たんば」実行委員会のみなさんにお礼を申し上げて、この報告を閉じます。
なお丹波・篠山には21日にもうかがいます!企画案内を貼り付けておきます。
ちなみに会場のナチュラルバックヤードさんは、素敵な木造りおもちゃのお店。ご自分のお子さんに安全なおもちゃを作ってあげようと取り組みだしたことが、仕事にまで発展したのだそうです。
昨年、積み木セットをいただき、岩手県大槌町の保育園(幼稚園かも・・・)に寄贈することができました。今回はそのときの写真もお見せします!
以下、案内を貼り付けます。
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守田敏也さんを囲んで聞きたい放題の会 パート2
昨年12月に行われたこの会。好評だったので、守田さんにお願いしてPart 2を企画しました!
今回は、大気汚染のことなどもお話しして下さるとのこと。心配事が尽きない社会ですが、不安なことをすこしでも解消し、守るべきものを守れるように備えたいですよね。
今回は午前中♩お母さん方が出やすいのでは?と思いこの時間にしてみました(^O^) もちろん「お母さん」じゃなくも シングル、メンズ、ハーフ ok !
お待ちしています!
託児も用意できるように調整中です♡
日時 : 2/21(木) 10時〜12時
場所 : ナチュラルバックヤードさん
住所 : 篠山市二階町89-1
(駐車場がないため、市民センター又は近くの駐車場にお願いします)
参加費:カンパ制
守田敏也さんのプロフィール
1959年生まれ。京都市在住。「市民と科学者の内部被曝問題研究会」常任理事。
今年から篠山市原子力防災対策委員会委員に就任する。
同志社大学社会的共通資本研究センター客員フェローなどを経て、現在フリーライターとして取材活動を続け、社会的共通資本に関する研究を進めている。
原発関係の著作に、『内部被曝』(矢ケ崎克馬氏との共著、岩波ブックレット2012年)があり、雑誌『世界』などで、肥田舜太郎医師へのインタビューを行ったり、福島第一原発事故での市民の取り組みや内部被曝問題についての取材報告をして話題になっている。
東日本大震災以降、インターネットではブログ「明日に向けて」で発信を続けている。
主催: 放射能から子どもを守る丹波ネットワーク
つなぎ村子どもプロジェクト