明日に向けて

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明日に向けて(908)アヤソフィアの祈りを考える(加藤良太さんから)

2014年08月01日 09時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)
守田です。(20140801 09:00 イスタンブール時間)
 
イスタンブールのことを連投します。
昨日、ブルーモスクとアヤソフィア博物館のことを論じました。
FACEBOOKに関連する写真をアップしたのでご紹介しておきます。
 
 
さて、アヤソフィア博物館について論じたところ、友人でクリスチャンの加藤良太さんがこの深い歴史を持つ教会・寺院・博物館の歴史を詳しく紹介してくださいました。あの美しい場が「祈りの場として解放されていない」理由がよくわかる文章ですので、ぜひみなさんにも知っていただきたいと思い、加藤さんの了解を得て、転載することにしました。
 
僕はこうしたことをどんどん知っていくことが平和を築いていく礎になっていくと思うのです。以下、お読みください。
 
***** 

守田さんからも、早速イスタンブール滞在のご報告ありがとうございます。

早速、アヤソフィアの話が出てきましたので、一応、その筋(キリスト教)に「土地勘」のある者として、ちょっと補足を。

守田さんが、アヤソフィアが「博物館」になっていることに触れていますが、その理由として、第一次大戦後にトルコが「共和国」「世俗国家」になった後もくすぶり続ける、宗教的・民族的な緊張が背景にあることを知っておいていただければと思います。

アヤソフィアは、もともとローマ帝国時代以来のキリスト教の大聖堂で、
その一教派、東方正教会の首座にあたる「コンスタンチノープル総主教座」があった教会ですが、オスマン帝国の侵攻により、この建物がモスクになった後も、イスタンブールからキリスト教徒がいなくなったわけではありません。
コンスタンチノープル総主教座は、その場所をイスタンブール市内の元修道院「聖ゲオルギオス大聖堂」(現在も存在する)に移し、オスマン皇帝の許諾のもとに、オスマン帝国治下の正教会のキリスト教徒(地中海沿岸から中東にわたる幅広い領域に済む人々)に対して、聖俗一体の「共同体」として一定の統治権を行使する存在でした。それは、オスマン帝国が崩壊する第一次大戦まで続いたわけです。

しかし、第一次大戦の敗北により、多民族・多宗教国家であったオスマン帝国が崩壊、共和制・世俗国家だが「トルコ民族の国家」を標榜するトルコ共和国が成立し、すでに成立していたギリシャ共和国と領土紛争、境界画定が行なわれる中で、そもそもオスマン帝国の治下で混住していたムスリムとキリスト教徒が、ムスリムなら「トルコ人」、キリスト教徒なら「ギリシャ人」とされて、相互に「住民交換」という名の強制移住を強いられたことは、ご存知の方もおられるかと思います。

そのような中でも、トルコ国内にごく少数残ったキリスト教徒の人たちがおられて、その方々の共同体により、いまでもイスタンブールのコンスタンチノープル総主教座(聖ゲオルギオス大聖堂)は支えられ、コンスタンチノープル総主教も、その「ギリシャ系トルコ人キリスト教徒から選ばれています。(現在のコンスタンチノープル総主教バルトロメオス1世もそのような出自の方です)しかしその権威はキリスト教世界では大きなもので、カトリックのローマ教皇や、聖公会のカンタベリー大主教に匹敵する実力をもつ存在です。

トルコ国内では民族的・宗教的少数者でありながら、キリスト教世界で大きな権威をもつ、トルコ国内のギリシャ系キリスト教徒の共同体は、トルコ政府や多数派のトルコ人には「目障り」な存在で、今でもテロの対象になったり、政府から宗教活動への嫌がらせを有形無形に受けたりと、国内では苦しい立場に置かれています。
もちろん、彼らはアヤソフィアで祈りをささげたい、礼拝したいと願っているわけですが、(彼らだけではなく、全世界のキリスト教徒の宿願といっても過言ではないでしょう)このような状況では、トルコ政府は決して許諾しないでしょう。

一方で、モスクとしてムスリムのための祈りの場になるかといえば、それも微妙です。トルコ政府は「アヤソフィア」に向けられる、全世界のキリスト教徒の複雑な視線をよく知っていますし、トルコ国内のギリシャ系キリスト教徒の境遇について、常に国際的な批判にさらされている現状もあります。
その中で、あからさまにアヤソフィアをモスクとして再使用することは、トルコの国際的な評価に関わり、かつ、国内の民族的・宗教的緊張を激化させることにもなりかねません。ですから、アヤソフィアはあくまで「博物館」であるわけです。

ケマル・アタテュルクによってアヤソフィアが博物館とされた時期は、上記のように、現在のトルコが成立する一方で、民族的・宗教的緊張が高まった時期でもありました。そのような背景を踏まえて、今でもアヤソフィアが「祈りの場」として開放されない理由を考えると、より理解しやすいのかな、と思います。

では、引き続き守田さんのご報告を楽しみにしています。
よき旅となりますよう、お祈りしています!

加 藤 良 太 

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明日に向けて(907)ボスポラス海峡から世界を思う

2014年08月01日 08時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)
守田です。(20140801 08:30イスタンブール時間)
 
再びイスタンブールのホテルからです。
 
昨日7月31日、プナールさんのご案内でボスポラス海峡の観光にいきました。ここは黒海とマルマラ海をつなぐ幅3キロ、全長30キロの海峡です。黒海を出た船はこの海峡を通り、イスタンブールの南にあたるマルマラ海に出て、そこからダーダネルス海峡を通って地中海に出ます。さらにジブラルタル海峡を経て、大西洋に出れるのです。
 
この海峡は戦略上の要衝でもあり、古代から今日までさまざまなことが起こりました。そのため海峡には東ローマ帝国時代からオスマン・トルコ帝国にいたるまで各種の城壁も建てられてきました。今もトルコ軍の監視ポイントがあります。その前を時にロシアの黒海艦隊が通り過ぎたりする訳です。
 
このためこの海峡への支配権そのものが長らく争いの対象になってきました。とくに船舶が巨大化し、軍艦が増えた19世紀以降、ロシアの南下を押さえたいイギリスが国際条約で軍艦を通過させなくさせ、ロシア黒海艦隊を封じ込めるなどしましたが、第二次世界大戦後は、自然にできた海峡は国際的なものであり、どこの国のいかなる艦船も自由に通航できることになっています。
 
しかしトルコにとってはイスタンブールのそばを各国軍隊が自由に通過することは不安や危険性を伴うことでもあります。実際、東西冷戦が活発なころは、この海峡周辺でアメリカと旧ソ連の艦艇がにらみ合ってもおり、軍事衝突があった場合、トルコはすぐさま巻き込まれかねない位置にありました。
 
実際、旧ソ連海軍黒海艦隊は、有事には即座にボスポラス海峡からマルマラ海、ダーダネルス海峡を制圧するために、海軍陸兵隊や海軍航空隊も配備していたのであり、トルコの不安には十分な理由がありました。また近年ではますます船舶が巨大化し、大型のタンカーが行き交う中で、接触事故なども増えるにいたり、トルコには自由な航行を懸念する十分な理由があると言えます。
 
このためトルコは現在にいたるまで、第二次世界大戦前の1936年に締結されたモントルー条約を尊重する立場にありあす。これはこの2つの海峡、およびその間のマルマラ海の通航制度を定めたもので、商船の航行の自由を保障しつつ、一方で航空母艦の通航や8インチ以上の口径の主砲を持つ軍艦の航行を禁じたものでした。航空機の海峡上空の通過にも制限を加えました。
 
この条約の存在が大きく浮上する事件が近年ありました。ソ連海軍時代に建造された空母ヴァリャーグの中国への売却です。もともとこの空母はソ連末期に完成間近になりながら、ソ連崩壊後に放置されていた船です。新設されたロシア艦隊に、完成させる資金がなかったためです。
またウクライナが旧ソ連から独立して以降は、黒海艦隊の拠点だったクリミア半島の旧ソ連軍基地そのものの存在が不安定になってしまいました。このことが現在のウクライナ紛争の原因の一つでもありますが、ヴァリャーグもこれらのためウクライナ海軍に所属が移りながら、完成をみないままでした。
 
さまざまな経緯を経ながら、結局、これらのウクライナの帰属となった大型艦船は、ロシアからのガスの購入費分としてロシアに買い戻されていき、その上でロシアが中国への売却を決めたのです。ところがトルコがモントルー条約にこだわる限り、空母であるヴァリャーグはボスポラス海峡を通過できません。そのためなんとこの船は大型のカジノ船に回収するという名目のもとにこの海峡を通過することになりました。
 
時のトルコ首相、エルドアンはそれでも難色を示しましたが、中国がトルコへの中国への観光客の大幅増を約束し、そのもとでどうみたって空母そのもののヴァリャーグがボスポラスを通過していきました。この話を教えてくれたプナールさんは実際に通過するのを見たそうですが、あまりに巨大すぎて対岸が見えないほどだったそうです。ヴァリャーグはその後、遼寧と名を変え、中国初めての航空母艦として2012年に就航しています。
 
それやこれやたくさんの経緯のあるこの海峡ですが、現状では観光のメッカであり、たくさんの遊覧船が航行しています。海峡の至る所に中継地点があり、何度も寄港して人を昇降させてまた次への向かいます。時折タンカーなどの商業船も通過していきます。観光客を含めて、常時、世界のあらゆる国の人々が通過しているところではないでしょうか。
 
こうしたところを観光目的の船でゆったりと通過していると、世界の紛争が最後的に終わる日の到来を心の底から願わずにはおれない気持ちになります。船から見えるたくさんの城壁が、人々が常に他者を警戒し、その到来を恐れなければならなかった時代の思いを伝えているようで、私たち人類の暴力に彩られてきた前史が垣間見えるようです。その暴力の巨大化の権化の一つとしてヴァリャーグ=遼寧もここを通過していったのではないでしょうか。
 
でも今、ここには各国の人々が集ってきて、それらの歴史の遺物も含めて見物し、観光を楽しんでいます。ぜひこのことだけが世界の姿になる日が訪れてほしい。そう思います。
ただ一方でプナールさんは戦争だけではなくて巨大開発の問題もここに押し寄せてきていることを教えてくれました。全長30キロの海峡の中に二つの巨大な橋がかかっています。橋がかかることで周辺が開発され、美しい山野が切り崩されて都市開発されてしまっているのです。
 
今、イスタンブールはものすごい経済発展の途上にあり、人口がどんどん増えているそうです。だからこの海峡の周りにもどんどん人が押し寄せてきている。でも多くの経済学者が、トルコ経済は実態としては発展しておらず、キャッシュカードの使用制限を大幅に緩和するなどしてバブルを形成し、見かけ上の発展が作られているだけだと指摘しています。
 
にもかかわらず人口が膨張する中で海峡の周りの美しい場がどんどん都市開発されている。海峡を渡る大橋はそれを促進している訳ですが、一本目はアメリカが作り、二本目は日本の三菱重工が作ったのだそうです。ちなみに三菱はシノップへの原発輸出を行なおうとしているメーカーです。
さらに黒海への出口のちょうどその場に、第三の橋が建設途中でした。ここはトルコ政府主体で、エルドアンの一族が周辺の土地や利権を押さえて建設が進行中なのだとか。
 
戦争をなくすのは非常に重要なことですが、同時にこうした開発行政もとめていかなくてはならない。それはまた必ず開発利権を生み出し、結果的に貧富の差を生み出すものとしても作用しています。その総体を止めていくことが問われている。
 
一見それは難しいことのように思えますが、しかしトルコの実態経済がけっして発展しているとは言えないことにもあらわれているように、現在の開発政策が、大多数の人々の幸せなどもたらしてないことは明らかです。その事実を、諦めずに繰り返し喧伝することで、僕はこの流れをいつか逆転できると信じています。そもそも今の流れには未来がない。もちろん正義がない。だからそれは歴史の審判に耐えられないとも思うからです。
 
そんな、戦争だけでなく巨大開発をも止めていくための一歩としても、シノップへの原発建設を止めたいです。トルコの方達、また世界のいろいろな国々の方達とともに努力を傾けていく決意を、僕はボスポラスで得てきました。
この素敵な旅をコーディネートしてくださったプナールさんに心からの感謝の念を捧げます。
 
さてこの旅の途中で撮った写真をFACEBOOKにアップしたのでご紹介しておきます。以下をご覧ください。僕が写っている写真の向こうに開けているのが黒海です。建設途上の橋もご覧になれます。
 
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