守田です。(20140919 08:30) (20140920 19:00訂正)
大鹿村を含む伊那谷への訪問の続きです。今回も「満蒙開拓平和記念館」について書きたいと思います。
前回、この記念館が作っているホームページをご紹介しましたが、今回はその中に掲載されている読みごたえのある論文をご紹介したいと思います。
信濃史学会が発行している『信濃』第65巻第3号に掲載された、『語り継ぐ「満蒙開拓」の史実―「満蒙開拓平和記念館」の建設実現まで―』です。この事業に構想立ち上げから参加し、論文執筆時に専務理事をされていた寺沢秀文さんの手によるものです。
http://www.manmoukinenkan.com/ご利用案内/建設事業の経緯/
語り継ぐ満蒙開拓の史実 (満蒙開拓平和記念館の建設実現まで)
寺沢さんのご両親も満蒙開拓団員として大変な苦労をされました。子どもの頃よりそれらを聞かされる中での事業への参加で、そのため記念館開設までに20年間の間に20回も満州地域へ自費で調査旅行をされたそうです。
寺沢さんはお父さんからの聞き取りの中から、「現地での開拓団の生活等」についてこのようなことを書かれています。
「父は応募前、先遣隊の人たちの帰国時の話し等から『家も畑ももうある』と聞いており、それは『先遣隊は日本軍が切り開いたもの』と思っていたそうで、現地に行ってみて、それが中国の人々から半ば強引に買い上げたものと聞いて、内心『これはまずいな』と思ったそうである。」(p203)
また逃避行の悲劇については次のように記されています。
「守るべき軍隊も無く、逃げるべき鉄道も鉄橋も破壊され、女、子供、老人ばかりの開拓団の逃避行は悲惨そのものであり、『生きて虜囚の辱めを受けず』との戦前教育の下、集団自決を選ぶ開拓団も少なくなかった。
また、昼は山に隠れ、夜に逃避行を続ける中で、子供が泣くと敵に見つかるから殺せと言われ、やむなく手に掛けた人、あるいは『足手まといになるから置いていってくれ』と増水した川の手前で自ら残った老人達、多くの悲しい犠牲があった。」(p204)
寺沢さんはご両親のご苦労についてもこう書かれています。
「父が徴兵され、開拓団に残っていた母はソ連軍侵攻と共に他の開拓団員らと共に水曲柳を逃げ出し、どうにか長春の避難民収容所までたどり着き、ここで終戦の冬の厳しい越冬生活を過ごす。
水曲柳開拓団は結束力が固く、個々の所持金等を全て集めて共同管理、共同生活を実践したと言う。しかし、劣悪な生活環境と極寒の中で多くの犠牲者を出し、当方の長兄もここで流行病により僅か一歳の幼い命を落としている。
軍閥関係者や開拓団以外の民間人等の多くは終戦と同時に帰国を果たしている中で、開拓団のほとんどは現地で越冬せざるを得ず、この越冬時に栄養失調や流行病等で亡くなった人の方がソ連侵攻時の犠牲者よりも遥かに多い。母たちがようやく日本の土を踏めたのは翌21年7月のことであった。」(p204、205)
お母さんはその後、お父さんがシベリアで抑留されていることを知り、それならばと現在の下伊那郡松川町大島の「増野」開拓地に入植。開墾しながら帰りを待たれ、昭和23年、1948年に再会を果たします。お父さんはこの時の開墾生活を子どもの寺沢さんに次のように語られたそうです。
「ここに再入植し、今度こそ本当の開墾の苦労をする中で、改めて、自分たちの大切な畑や家を日本人に奪われた現地の中国人たちの悲しみ、悔しさがよく分かった。あの戦争は日本の間違いであった。中国の人たちには本当に申し訳ないことをした」(p206)
寺沢さんの記述を長々と紹介してきましたが、僕は満蒙開拓団に関するエッセンスがここに詰まっているように感じました。せめてここだけでも多くの人に読んで欲しいと思い、紹介しました。
満蒙開拓団は明らかに侵略政策の一環の位置を持ち、現地の人々を苦しめた政策でした。しかしそこに動員されたのもまた、国内の不況にあえぎ、大日本帝国政府を信じて、国策を担いつつ地主になることを目指した貧しい人々でした。
人々は政府に騙され、軍に裏切られ、ソ連軍の猛攻や暴徒化した現地の人々の襲撃も受けた。極寒の中で子どもを失い、高齢者を失い、自ら倒れた人もたくさんいた。その中で帰国しても国は何の面倒をみてくれなかった。繰り返された苦境の末にお父さんは「中国の人たちには本当に申し訳ないことをした」と語られたのです。
僕はこれこそが戦後日本が、民衆の心の中で継承し続けてきた最も大事な心根なのではないかと思えます。この国の民は本当に何度も政府によって手酷い棄民を行われてきた。たくさんの人々が政府に騙され、ニセの正義に踊らされた。
しかし人々はそのことへの恨みよりも、自らの行動、闘いが正義ではなかったこと、心ならずも侵略に加担してしまったことをこそ捉えようとしてきたのでした。
いやこれはけして日本社会の多数派の心根であったとは言えないでしょう。そうであれば日本はもっと良い国になったことでしょう。しかしどれぐらいの割合かは分からないけれど、誠実な人々、優しき人々はこのように自らの歴史を捉えようとし、それを私たちに語り継いでくれたのでした。
寺沢さんもこうしたお父さんの心根を全面的に受け継ぎ、「満蒙開拓平和記念館」の創設のために奔走されてきましたが、当初はなかなか計画が進まずご苦労されたそうです。
とくに苦労されたのは「行政との絡み」や「信用力や事業実施能力」の担保であったとか。もともと国策で進めら得た開拓事業なのだから、本来は国立ないし県立で作られるべきだという思いにも悩まされつつ、他方で「その国策を結果として支持したのもまた国民であり」という視点から、民間での立ち上げを目指されました。
その中で寺沢さんは、なぜこれまで満蒙開拓事業に特化した記念館が一つも建てられたなかったのか、その事情を把握されていきます。圧巻であったのでこの点を再び引用したいと思います。
「(1)旧満州という外地でのことであり、また終戦時等の混乱の中から当時のことを物語る資料等が極めて少ないこと、(2)どうにか生還できた開拓者らは帰国後もまた再入植などの厳しい生活環境に置かれ満蒙開拓の残す資料館を建てられるような経済的余裕がなかったこと、
そして、これが最も大きな理由であろうと思われるのは(3)旧満州、そして満蒙開拓は開拓団を送りだした側、また旧満州現地から生還出来た人々にとっても余り振り返りたく無い不都合な史実であったということである。」(p210)
「旧満州関係者の中でも、終戦時、開拓団を置き去りにして一足先に日本へと戻った軍関係者や満州国政府関係者、あるいは開拓団以外の民間人等の中には、半植民地的国家だった旧満州、そして結果として置き去りにした開拓団に対する後ろめたさ等から、戦後、満州のことに触れることを余り喜ばない層も現実におられる。
また振り返りたくない史実であることは、開拓団員自体の多くにとっても同じであった。お国のためにと、あるいは20町歩の地主になれると渡満してみたものの、戦争に敗れ、結果として侵略に加担していたのだという事実に向き合い、それは不都合な史実として子や孫にも余り進んで語りたくはない話題であった。」(p211)
「満蒙開拓の歴史等を掘り起こすことは、一部の人たちにとっては開けてはならない『パンドラの箱』を開けることであった。しかし不都合な史実に目を背ける者は必ず同じ過ちを繰り返す。
だからこそ、二度と同じ過ちを繰り返すことの無きように、私たちは満蒙開拓の史実から学び、そのことを語り継ぐことによって平和を守ることこそ、日中双方含めての多くの犠牲者の皆さんへの慰霊であり鎮魂になることと思うのである。」(p211)
・・・全くその通りだと僕は思います。大変な勇気と努力を持ってパンドラの箱を開けられ、満蒙開拓平和記念館を創設された寺沢さんをはじめとする関係者の方々に、ただただ深い感謝を捧げたいと思います。
続く