守田です。(20140920 21:30)
今回も満蒙開拓平和記念館のお話の続きです。
(なお、前二回の記事においてこの記念館の名を「満蒙開拓記念館」と書いてしまいましたが、正しくは「満蒙開拓平和記念館」です。「平和」の文字は重要です。欠落させてしまい申し訳ありません。ブログ上の前2回の記事を訂正させていただきます)
これまで記念館の創設に尽力された寺沢秀文さんが、開拓団に参加されたお父さんが下伊那に帰還されて以降、寺沢さんに語られた反省を心のバネにされて尽力されてきたことを紹介してきました。
日本の歴史と向き合うことのできない一部の人々は、こうした反省を「自虐史観」と呼びますが、何が自虐なものか。過去の過ちを己の労苦を越えて捉え返し、素直に語ることができることはむしろ最も尊いことです。そこには人間的英知と真の強さ、優しさがあります。
私たちが享受してきた戦後日本の平和は、こうした人々の心根によってこそ維持されてきました。
今、この時に私たちは、戦争を繰り返してきた現代世界の中ではまれといってよい努力で自らの過ちとともにかつての悲劇を捉え返そうとしてきた営為に深く学ぶ必要があると思います。その点でもこの記念館の創設にいたる経緯には感嘆するものがあります。
すでにお伝えしたように、日本の国策としての満州国創設とそのものでの満蒙開拓団に、全国で最大の人員である33000人を送りこんだのが長野県であり、その中でも飯田・下伊那地区はその四分の1の8400人を送り込んだのでした。
戦後になって中国への侵略を捉え返し、痛みを和らげ、中国残留孤児の帰還を果たそうとの思いで、全国に数多くの日中友好協会が作られましたが、その中でも「活発な活動ぶりと会員数は全国屈指」であったのが長野県日中友好協会だったそうです。そしてその中心を担ってきたのが飯田日中友好協会でした。
これにはさらに深い経緯があります。というのは戦後しばらくして、中国側に残留孤児の帰還を求めたところ、「その前にやるべきことがあるはず」という答えが返ってきたのだとか。戦争中に日本に強制連行され、ダムや鉱山などで働かされた亡くなっていった中国人たちの遺骨収集、慰霊、送還が求められたのです。
飯伊地方でも天龍村の平岡ダム建設現場で、中国人が強制労働を強いられ80人が犠牲になっていました。この遺骨収集と慰霊を行うために組織されたのが飯田日中友好協会の前進の長野県日中友好協会下伊那支部だったのでした。
支部長になったのが、後年、記念館が建てられることになった阿智村の元村長であり阿智郷開拓団として満州にも渡られていた小笠原正賢さんでした。事務局長を務めたのがやはり後年「残留孤児の父」と呼ばれるにいたる阿智村長岳寺住職である山本慈昭さんでした。
山本さんもまた満州に渡っていました。学校教師であった彼が渡満を頼まれたのは1945年のこと。現地についたわずか3か月後にソ連軍侵攻のもとでの悲劇に巻き込まれ、逃避行の中でソ連軍につかまり、抑留されてしまいした。
2年後に帰国した山本さんを待っていたのは、妻と2人の娘が現地で亡くなったという知らせでした。さらに阿智郷開拓団215人のうち、帰国できたのは山本さんを含めてわずか13人という過酷な現実でした。この苛烈な体験をした人々がまず始めたのが強制連行された中国人労働者の遺骨収集と慰霊だったのです。
その深き思いに胸を馳せると思わず涙が出てきてしまいます・・・。
山本さんのこれらの体験は『望郷の鐘 中国残留孤児の父・山本慈昭』(和田登著)という書物にまとめられましたが、実は今、この本を題材とした映画製作が進められており、来春に公開を迎えようとしています。
公式サイトがあるのですが、この中の「物語・解説」の項を見るとあらすじが出てきます。これによると実は山本さんの娘の一人は亡くなってはおらず中国人に預けられていたことが後年になって分かったのだそうです。
中国人労働者の遺骨収集と慰霊、送還を終えたのちにこのことを知った山本さんは、以降、すべてを残留孤児の帰国事業に捧げられるようになり、たくさんの遺児の帰還に貢献されるとともに、晩年についにご自身の娘さんとの再会をも果たされました。
この山本さんの半生を描いたこの映画の公式サイトと監督によって書かれた「製作意図」をご紹介しておきます。製作意図も素晴らしいです。
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『望郷の鐘』-満蒙開拓の落日
http://www.gendaipro.com/bokyonokane/
「製作意図」 映画監督 山田 火砂子
この作品は、平成26度には完成し上映致します。何故今、満蒙開拓団の映画かと申しますと、日本が昭和二十年八月十五日に第二次世界大戦に負けた事は、ほとんどの方が知っていると思います。
東京他、都市という都市は昭和二十年三月十日の東京大空襲以後空襲によって壊滅状態になり、おまけに八月六日・九日と広島・長崎と原子爆弾を落とされ、戦争に負けました。
なのにその昭和二十年五月一日長野県より、東京は六月末に、その他の県からも中国大陸の一部の満州に疎開と称して出かける日本民族…知らないという事は恐ろしい事です。
満州に行けば平和がまっているという話に乗せられて出かけていきました。その行った方々ほとんどの方々は亡くなりました。死ぬために出かけていく死の旅に…知っていたら行く人はいません。
福島の原発も絶対安全と言ってますが、本当に安全なのでしょうか?しっかり自分の目を開いて、自分の子や孫に迷惑がかからないようにと思ってます。
又「遠くの親戚より近くの他人」という昔からある言葉のように、近くの中国とは仲良くして頂きたいと思い、この映画を製作致します。今満州に疎開したと言ったら笑い話です。原発は、安全だと信じたのよ。と言って、五十年後に笑い話にならないようにと思います。
この映画製作の基金の為に協力券や以前に作ったDVDを販売しております。ご協力をお願い致します。
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そうです。私たちの国では今、福島原発事故で同じようなことが繰り返されつつあります。いや、絶対にこのまま繰り返しで終わらせてはならない!そのためにも私たちは満蒙開拓団の悲劇とその捉え返しのすべてを主体的に学ぶ必要があるのです。その中で私たちの英知が磨かれるからです。
満蒙開拓平和記念館の設立過程に話を戻しましょう。前回、満蒙開拓団に関する資料館がこれまで作られてこなかった根拠を寺沢さんが述べている個所を引用しました。悲劇でありながら侵略の一環でもあった満蒙開拓を捉え返すのは「パンドラの箱」を開ける側面があったことがその理由の柱でした。
実際に設立にあたっても、「当時の人々は国策に従い、大変な苦労をしたのだから、一概に責めることはどうか」という意見が多く寄せられたそうです。
他方で記念館が、旧満州や満蒙開拓を美化したり正当化する施設になってしまうのではないかという懸念も寄せられました。また実際にそのような声はなかったそうですが「自虐史観だ」という批判が来る可能性も懸念しなければなりませんでした。
寺沢さんはこうした様々な意見に応対しつつ、記念館創設の意義を以下のようにまとめておられます。
「私たちは、旧満州の地に散った人々のことを否定したり、非難したり等するものではなく、国策に翻弄されながらもそこに懸命に生きた人々があったという史実をきちんと語り継ぐと共に、
同時に残念ながら、その満蒙開拓自体は歴史的には誤りであったという事実、現地中国の人々を始め多くの犠牲を強いた上でのものであったという事実をきちんと受け止め、二度とあのような不幸な犠牲者を出さないようにと語り継いでいくことが、旧満州の地に散った多くの犠牲者に対する鎮魂であると思う。」
(引用は論文「語り継ぐ『満蒙開拓』の史実」 雑誌『信濃』第65巻第3号 p213より)
また記念館の設立にあっては、中国側の反応へも深い配慮が重ねられました。とくに思案のまととなったのは「満蒙開拓」という名を冠することに関してでした。
繰り返し述べてきたように、「満蒙開拓」の実際は侵略行為でしかありませんでした。農地の略奪を「開拓」と置き換え、送り込む人々をも騙して強行された侵略でした。そのため中国側では「開拓」という言い方にも反感が持ちあがるかもしれない。
実際、中国では「満州国」も認められておらず「偽満」と呼称されているのだそうです。そのため「満蒙移民」に置き換えるなどの案も検討されたそうです。
しかし現にあったことを伝えるためには、当時、問題のあった呼称をあえてそのまま使う必要がある。ただし「満蒙開拓を美化している」という誤解を避けるためにも「平和」の言葉をいれようとのことで、今の名に落ち着いたのだそうです。
ちなみに今回の記事の冒頭にも書きましたが、僕はこの記念館の名を決めるに際してのこうした検討事項を十分に読み解けなかったこともあって、前二回の記事で「満蒙開拓記念館」と「平和」を抜かして紹介してしまいました。
記念館の創設に尽力した方々に申し訳ないことでした。ここであらためてお詫びして訂正させていただきます。前2回の記事では説明は入れず、本日、訂正を入れたことのみを記しておきます。
また「平和」を冠するなら、記念ではなく祈念とした方が良いのではという意見もあったそうですが、あくまでも史実に学ぶことを主軸とするため、「記念」とされたことも付記しておきます。
設立にいたる経緯とさまざまな配慮に関して、短くまとめて説明せざるを得なかったので、お時間のある方は、ぜひ寺沢さんご本人の論文にあたられてください。
さて記念館をめぐるこの記事をそろそろ締めたいと思いますが、終わりに寺沢さんの論文の「最後に」と題された章の中の言葉を引用しておきます。記念館設立のために苦労を重ねられ、会社に泊まり込んで深夜一人で資料作成などをしているときに沸々と涌いてきた思いだそうです。
「国策で進められた満蒙開拓であるのに、何故、民間人である我々が、無償ボランティアで、夜も眠れず、家にも帰れずにこうして時間を割かなくてはならないのか。開拓団を送りだした国は行政や教育界は一体何をしているんだ。」
寺沢さんはそれを「義憤にも似た怒り、やるせなさであった」と述懐されています。しかしそれでも記念館設立に関わられた人々から一度も「もう止めよう」という言葉はでなかった。そうしてついに開館にこぎつけたのでした。
寺沢さんは以下のようにこの論文を結ばれています。「開館の暁には、これまでの体験等も活かし、小さくともキラリと光る記念館として、この伊那谷の地から世界に向けて平和を発信していこうとスタッフ一同思いを新たにしているところである。開館の暁にはどうか多くの方々にご来館頂きたいところである。」(p222)
安倍政権は今、かつての侵略の歴史のもみ消しにやっきになっています。「慰安婦問題」=旧日本軍性奴隷問題を、朝日新聞の一部の誤報にかこつけて、あたかも全く無かったかのようにしようとしています。
侵略の事実の隠蔽が伴うのは、その侵略に騙されて動員され、塗炭の苦しみを受けた私たちの国の民の苦しみや悲しみのもみ消しでもあります。しかも安倍政権は、この苦難を本当に深いところから捉え返し、その中でこそ真の平和を模索しようとしてきたこの国の人々の尊い営為をも踏みにじろうとしているのです。
僕は思います。「そんなに簡単に踏みつぶされてたまるか!」と。「誠実に真剣に血のにじむような努力の上に重ねられてきた歴史の振り返りの力をなめるんじゃない!」とも。とても強く思います。
「慰安婦」問題だけではない。満蒙開拓の過ちもしっかりと歴史の中に記されてきたのです。そしてその中から私たちは平和力とも言えるべきものを培ってきたのです。過去の過ちを捉え返してきたこうした奇跡を僕はとても誇らしく思います。山本さんや寺沢さんのような人々こそが世界に平和を与えてきてくれたのです。
その想いが中国の多くの人々とも深く重ねられてきたことを私たちはしっかりとつかみとっておきたいと思います。何より侵略を受けた中国の人々が各地で日本人残留孤児をかばい、匿い、育ててくれた歴史が横たわっています。
互いが受けた戦争による痛みをシェアする営為がすでにして両国の庶民の間でたくさん積み重ねられてきたのです。そのほんの一部が『大地の子』などに表現されてきました。
こうした日中双方の人々によって重ねられてきた真の友好の歴史を踏みにじらんとする安倍政権の姿勢は天に唾する行為です。人々の真心を踏みにじるこの政権の横暴を、歴史の重みにかけて打ち破っていきましょう。満蒙の地に散ったすべての国の犠牲者の魂がきっと私たちの味方をしてくれるはずです。
みなさん。どうか伊那谷を訪れたときはぜひ「満蒙開拓平和記念館」にお立ち寄りください。また映画『望郷の鐘』をぜひ観覧しましょう。たくさん流された汗と、血と、涙を受け止めて、平和の道を歩んでいきましょう!
「満蒙開拓平和記念館」に関する連載を終わります!