明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(984)アメリカ軍が主導した被曝影響研究(ICRPの考察-2)

2014年12月01日 00時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141130 23:30)

『放射線被曝の歴史』を参考とした国際放射線防護委員会(ICRP)の考察の続きを書きたいと思います。

前回の最後に結成直後にICRPが出した「1950年勧告」では「被曝を可能な最低レベルまで引き下げるあらゆる努力を払うべきである」と述べていたことをご紹介しました。
アメリカ放射線防護委員会=NCRPが提唱する放射線被曝の「リスクを受忍せよ」という考えを受け入れなかったのですが、その理由にあるのは被曝による遺伝的影響への恐れでした。同書はこう指摘しています。
 「核兵器の開発と結びついた放射線に関する研究にたずさわった科学者たちが何よりも恐れ、対処すべき難題の第一のものと考えたのも、放射線被曝による人類の緩慢な死に対する人々の恐怖が広がることであった」(『同書』p50)

このため当時、核開発を独占的にリードしていたアメリカは、いかにこの恐怖を鎮めていくのかに最も力を注いでいくことになりました。
当時、アメリカが行っていた主要な研究は次の二つでした。一つは原爆投下後の広島・長崎で行った被爆者調査。もう一つはマンハッタン計画の下で放射線研究を担ってきたオークリッジ国立研究所での動物実験です。
このうち広島・長崎での調査は原爆を落とした加害者である米軍が、被害者である被爆者を占領状態で調査したものでした。このためこの調査がどのように行われたのかを振り返っていく必要があります。

アメリカの広島・長崎での遺伝的影響の調査の中心を担ったのは原爆傷害調査委員会(ABCC)でした。1946年11月26日にトルーマン大統領が全米科学アカデミー・学術会議に設置を指令し、翌年1月に設置されたとされる機関です。
あたかも学術的な団体であるかのようなカモフラージュがなされましたが、実態は戦後直後に原爆の人体への殺傷力を調査したアメリカ陸軍および海軍の各軍医総監が、原爆製造計画段階から密接な関係にあった全米科学アカデミー・学術会議に要請して作った組織でした。
目的は原爆の後障害、ないし放射線の晩発的影響や遺伝的影響の調査でした。なお「後障害」とは被ばく直後におきた「急性障害」がおさまってからも続いた被ばくの影響を指す言葉です。

ABCCは日本占領直後に米軍が組織した「日米合同調査団」の後を受けたものでした。「日米合同調査団」は広島・長崎に9月に入り、主に原爆の殺傷力の調査を行いました。
その頃、すでに最重症の被爆者の方達は亡くなっており、重症の方も半分が亡くなっていましたが、米軍の調査は大きく二つの狙いを持っていました。
一つには原爆の殺傷力を知ることで今後の核戦略の基礎データとすること。モスクワを攻撃するには何発の原爆が必要なのかなどを編み出すこと。同時に原爆を受けたときに兵士たちがどれだけ生き残り、反撃できるかを調べることでした。

ここで1991年に書かれた『放射線被曝の歴史』を一度離れて、その後に明らかになった事実からこの時期のことを掘り下げて行きたいと思います。
その際の最も有力な参考となるのは2010年夏にNHKが放送した『封印された原爆報告書』です。
放映されたのは、米軍が日本を占領する前に実は日本陸軍の調査隊が被災地に入って綿密な調査を行っていたことでした。驚愕の事実が幾つもありました。

僕はこの番組を2011年夏に再放送でみて深いショックを受け、何としてもこれを多くの方に伝えねばと録画を手に入れて文字起こししました。その記事をご紹介しておきます。
 明日に向けて(285)封印された原爆報告 20111007
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/ddac9fad8987f13e69ab7562da0a07f2

ネットに番組そのものがあがっていたのでそれもご紹介しておきます。  
 『封印された原爆報告書』
 http://www.dailymotion.com/video/xkca1f_%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8_news

詳しくはこの記事をご覧になっていただきたいのですが、敗戦が決定的になるや陸軍は、中国大陸での731部隊による人体実験をはじめ、数々の戦争犯罪がアメリカに把握され、訴追されることを最も恐れました。
そのため書類の焼却や施設の破壊など、証拠隠滅を図りましたが、同時にアメリカの訴追を免れる有力な「カード」として、原爆の被害調査を行い、自ら英訳し、占領軍が到来するや否や差し出したのでした。
これを受け取ったアメリカ軍は大変、喜んだといいます。のどから手が出るほど欲しい情報だったからです。

例えば17000人の小学生の死亡記録があります。各小学校別に生徒数と死亡数を割り出し、それぞれが爆心地からどれほどの距離にあったのかを記したものです。
このもとに出来上がった爆心地からの距離と死亡数を記したグラフの曲線が「死亡曲線」と言われました。アメリカはこれで1発の原爆でどれほどの人間を殺せるかを知り、先に述べたようにソ連の各都市を攻めるのに何発の原爆が必要なのかを編み出していったのです。
アメリカ調査団の生き残りはNHKのインタビューに「革命的な報告だった」と語っていますが、兵士たちに特攻や「万歳突撃」をさせた軍部は、同胞の殺戮被害報告書をアメリカのために作って差し出したのです。なんとひどいことでしょうか。

「日米合同調査団」の名は、こうしてアメリカ軍のもとにすぐさま馳せ参じた陸軍調査団をアメリカ軍がすぐさま吸収して作られたもので、さらに日本側の協力を引き出すための方便としてつけられた名前でしかありませんでした。
事実、アメリカでの正式名称は「日本において原爆の効果を調査するための軍合同調査団」でした。合同とはあくまでもアメリカの陸軍、海軍、進駐軍などの合同を意味していたのです。
その意味でABCCによるその後の調査は、実質的にはアメリカ軍によるものであり、これに全面協力を申し入れた旧軍部をはじめとした日本政府の追従のもとに成り立っていました。

ABCCは遺伝的影響の調査としてはどのようなことを行ったのでしょうか。『放射線被曝の歴史』によると7万人の妊娠例を追跡調査し、遺伝的影響として次の5項目が調べられました。
(1)致死、突然変異による流産、(2)新生児死亡、(3)低体重児の増加、(4)異常や奇形の増加、(5)性比の増加(もし影響があるなら母親が被ばくした場合には男子数が減少し、父親が被ばくした場合には男子数が増加する)。
調査は1948年から1953年にかけて行われましたが(5)をのぞいては統計的に有意な事実は確認されず、その(5)も1954年から58年の再調査でやはり有意であるとは確認されませんでした。

しかし当のABCCの中でももともとこの調査では有意な値は出ないのではないかと疑問視されていたといいます。その理由として同書は次の点を指摘しています。
 「ABCCが追跡調査した妊娠例はおよそ7万例であったが、100レントゲン(守田注 1シーベルト)以上をあびたと推定される父親の数はおよそ1400人、母親の数もおよそ2500人にすぎず、圧倒的大部分が低い線量の被爆例であったからである」(『同書』p56)
低線量の場合はもっとたくさんの人数を調べないと結果が得られない。ようするに調査人口が少なかったのです。しかも実際にABCCが追跡できたのは7万人のうちの3分の1に過ぎませんでした。調査結果はこのため「遺伝的影響があるともないとも言えない」というものでしたがABCCは「遺伝的影響はなかった」と大々的に宣伝しました。

一方でオークリッジ国立研究所では動物実験が行われていました。マウスを使った実験で高線量で遺伝的影響が現れることが確認されるとともに、自然状態での突然変異の発生率の倍になる被曝線量=倍化線量が探られました。
得られた値は30~80レム(300~800ミリシーベルト)でした。このためアメリカの遺伝学者の多くは、80レム(800ミリシーベルト)を倍化線量の上限値と捉えるようになりました。
これらから人体における遺伝的影響は確認されないとされたものの、動物においては明確に倍化線量があることを踏まえた上で、では公衆の被曝量限度をどの値に設定するのかということが論議されていくようになりました。

この議論の舞台となったのがICRPでした。この頃までにアメリカはかつては被曝の危険性を訴える先鋒にたっていた遺伝学者のマラーを政府の側に抱きこんでしまっていました。さらにアメリカはICRPを構成する各国に「リスク受忍論」を受け入れさせようとしました。
具体的にはマラーによって、倍化線量実験の上限値800ミリシーベルトをもとに、「子どもを生める期間」の被曝量限度をその4分の1の200ミリシーベルトにするべきだと主張させました。
しかしイギリス代表はこれに反対し、30年間で3レム=30ミリシーベルトを主張しました。1年間では1ミリシーベルトになります。これをスウェーデンが高すぎると批判。結局、1952年の会議で折衷案として30年間に10レム=100ミリシーベルトという値が出されて合意が作られました。

こうした論争を反映して1954年のICRP勧告では、許容線量について次のように声明されることとなりました。
 「許容線量とは『自然のレベルよりも上のあらゆる放射線被曝は絶対的に安全とみなすことはできないが、無視しうるリスクをともなう』線量」だというのです。(『同書』p61)
放射線のリスクを受忍せよというアメリカの主張が完全には通りませんでしたが、「無視しうるリスク」という文言が入ることにより、ICRPはアメリカ寄りに立場を移行させ始めることとなりました。

続く

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