明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(996)ICRPが総力で隠してきた内部被曝の危険性(ICRPの考察-7)

2014年12月13日 14時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141213 14:00)

ICRPの考察の7回目です。今回で一つの区切りをつけます。総選挙前日ですが、執念をもって被曝隠しの歴史の検証を続けたいと思います。
これまでの6回の考察において、僕が全面的に依拠してきたのは中川保雄さんの名著『放射線被曝の歴史』でした。
本書が出版されたのは1991年9月。奇しくもこの年の5月、IAEAが発足させたチェルノブイリ原発事故をめぐる国際諮問委員会(IAC)が、ウィーンで報告会を行いました。
内容は「汚染地帯の住民には放射能による健康影響は認められない、むしろ『放射能恐怖症』による精神的ストレスの方が問題である」というもので、被曝影響を全面否定したものでした。

この委員会を率いたのは、ABCCの日本側代表を務め、後継組織として1975年に発足した放射線影響研究所の理事長となった故重松逸造氏でした。
その後、事故で被災したたくさんの子どもから甲状腺がんが発症したこと、事故処理にあたったリクビダートルの人々から白血病が発症したことなどを国際機関が認めたため、同報告が間違っていたことが明らかになりました。
もちろん国際機関がしぶしぶ認めたのが小児甲状腺がんと白血病、および白内障であるのにすぎないのであって、実際の被害は心筋梗塞や脳血管障害、免疫不全など、もっと多岐にわたっています。
しかし中川さんが研究を重ねていたころは、まだチェルノブイリ原発事故の被害が一切認められていない時期であり、その時代にこれだけの追及を重ねた功績にはとても大きいものがあると思います。

中川さんが明らかにしたのは、放射線防護学がもともとマンハッタン計画を引き継いだアメリカ原子力委員会や全米放射線防護委員会(NCRP)などによって、核戦略を擁護するために生まれ、発展してきたものだということでした。
その際、核政策推進派が一貫して考慮してきたのは放射線による遺伝的障害の危険性に対する多くの人々の危機感をすり抜けて核政策をさらに進めることでした。
核政策推進派は遺伝的障害の発生を動物実験などで認め、人間にも発生する可能性を十分に認めつつ、しかしそれが極めて高い線量でしか起こらないとして、低線量被曝を安全なものと描こうとしてきました。
遺伝的障害の問題が初めにクローズアップされたのは、原爆開発以前からマラーら遺伝学者による実験によって、放射線が生物の遺伝子に破壊的影響があることが分かっていたからでした。

さらにその後、放射線障害によってがんや白血病が引き起こされることも明らかになり、遺伝障害のみならず晩発性障害発生への懸念も高まり、核政策推進派にはこれらと鎮めることが問われました。
このためもっとも活用されたのがABCCのもとで作成された広島・長崎の被爆者のデータでした。それらはアメリカによって一元管理され、恣意的に被害が小さくなるように評価されたものだったからでした。
しかし次第に放射線の危険性を追及する科学者たちから、低線量被曝でさまざまな被害が発生することが他のデータから明らかにされるにいたり、ICRPら核政策推進派は医学的生物学的な論争ではますます規制を厳しくせざるを得ないと考えて路線転換をはかります。
それがリスク・ベネフィット論やコスト・ベネフィット論への移行でした。放射線障害の発生が抑えられないことを認めた上で、それよりも社会的利益が上回れば良いという説得方法に転換していったのでした。

さらに放射線の害を抑えるためのコストの計算を始め、それが社会的利益を上回ってはならないという金勘定が導入されるにいたりました。
このことでICRPや国際機関は、放射線防護学のもともとの主旨である放射線の人体への影響の考察に、まったく異質な「社会的経済的要因」を持ちこみ、科学からどんどん遊離していきました。
これらの過程を中川さんはICRP勧告の変遷や、第三者を装った国連科学委員会、BEAR委員会、BEIR委員会などの発足とそれぞれからの報告書の特徴を読み解きながら明らかにしていきました。
中川さんはこの本の執筆に命を燃やし、本の完成とともに亡くなられました。心身を削って本書を編まれたのだと思います。そのご努力に心からの感謝を捧げたいと思います。

その上でここから先は中川さんが検討されたことの先に明らかにされなければならないことを論じていきたいと思います。中川さんの書物に足りないものという意味ではなく、これだけの成果があって初めて明らかにできる点です。
それは何よりもCRPをはじめとした国際機関が、低線量被曝の危険性を隠すために、一貫して内部被曝を隠してきたことです。
その手法として行われてきたのは、一つに広島・長崎の被爆者の被害の中に内部被曝を一切認めた来なかったことと、二つに内部被曝が非常に過小評価される放射線学を体系化させたことでした。
僕が知る限り、この点を中川さんの書に続いて初めて明らかにしたのが、琉球大学名誉教授矢ヶ崎克馬さんの著書『隠された内部被曝』(新日本出版社)でした。中川さんの書物の出版から約20年を経て2010年に出版されました。

物性物理学を専門とする矢ヶ崎さんが内部被曝に関する研究を始められたのは、米軍が1998年に沖縄で劣化ウラン弾の誤射事件を起こしたこと、これに抗議しつつ放射性物質としての劣化ウランの危険性を明らかにしたことに端を発しています。
その後、2003年に原爆症認定訴訟の熊本訴訟団からの要請を受けて、全国の裁判に共通する内部被曝に関する証言を行うこととなり、広島・長崎の被曝実態の分析を行われました。
「原爆症認定訴訟」とは、被爆後、長い年月の後に次々と人々に発症した病を、原爆の放射線由来のもの=原爆症だと認めさせる裁判でした。実に多くの被爆者が病になりながら、放射線被曝との関連性を否定され、苦しみ続けていたのでした。
政府による被爆者への冷酷な仕打ちを覆すための裁判に参加し、基礎文献としての広島・長崎の放射線量評価の体系であるDS86=「放射線量評価体系1986」の第6章を読んだとき、矢ヶ崎さんは怒りで三日三晩眠れなかったと言います。

中川さんの書物の精読の中ですでにお伝えしてきましたが、DS86は1970年代後半から80年代にかけて、広島・長崎のデータに大きな誤りがあること、放射線の害が小さく見積もられていることが他のデータによって明らかになる中で、改編を迫られて作られたものでした。
他のデータとはアメリカ国内のハンフォード核施設で働いていた労働者たちの死亡率が過剰に高いことを示したものでした。これを解析したトーマス・マンキューソが、放射線のリスクは従来のICRPの見解よりも10倍高いという見解を発表しました。
同時期、アメリカ軍が中性子爆弾を開発しており、その際に必要となった広島・長崎原爆から放出された放射線のスペクトル分析からも、広島・長崎での放射線放出が過大評価されているという結果が出されました。
放射線放出量が過大に評価されていたということは、被爆者に起こった病は、実際にはこれまでの評価よりもずっと低い放射線量で起こったことを意味しており、修正を余儀なくされて新たに作成されたのがDS86だったのでした。

『隠された被曝』の冒頭部分で矢ヶ崎さんはアメリカがICRPなどにより、いかに被曝実態の極端な過小評価を行ってきたのかを次のように指摘されています。
 「(1)占領下で原爆情報を徹底して秘密管理し、被爆者をモルモット扱いにする手法で、被曝実態を調査し、被曝の実相を隠しました。『原爆傷害調査委員会(ABCC、後に放射線影響研究所)』により内部被曝が隠され偽った放射線被害が報告されました」
 (2)国際放射線防護委員会(ICRP)基準から内部被曝を排除し、被曝の実態が見えないようにしました。
 (3)DS86等の原爆放射線量評価体系によって、放射線のうちの放射性降下物の影響を一切消し去りました。放射性降下物は埃ですので体内に入り、内部被曝をもたらしました。しかし埃であるがゆえに放射能環境は雨風で洗い清められています。
DS86は台風で『塵』が一掃された後で採取した放射線測定値を利用して、内部被曝の原因物質である放射性降下物を隠蔽したのです。DS86では放射性被曝は初期放射線と中性子誘導放射化原子によるものだけに限定されました」(『同書』p16)

DS86による内部被曝の隠蔽の方法は実は単純でした。被爆後の広島・長崎に同年9月17日に戦後の三大台風と呼ばれる「枕崎台風」が襲来し大洪水を起こしました。橋の多くが流されるなど被爆直後の両市に甚大な被害がもたらされました。
同時に猛烈な勢いでもたらされた雨風は、広島・長崎に降り注いだ膨大な放射性物質を海へと押し流しましたが、アメリカはその後に放射線測定を行ったにも関わらず、その値を原爆で両市にもたらされた放射性物質の量の推定に代えてしまったのでした。
このために台風前には確実に土壌にも存在していて、呼吸や飲食を通じて人々の体内に繰り返し取り込まれていた放射性物質がほとんどなかったことにされてしまったのでした。
DS86第6章では当初はこのことに配慮するかのような記述を行いながら、途中から論理をすり替え、台風襲来後のほとんど測定されない放射性物質の量を、被曝後の広島・長崎の状態としてしまっていました。

矢ヶ崎さんが三日三晩も寝れなくなってしまったのは、こんなに単純なからくりで内部被曝隠しが行われたことへの怒り、どうしてこれほどにでたらめな報告書が「科学」の名のもとに通用してきてしまったのかということへの驚き、情けなさが原因であったと言います。
さらに「どうして自分はこれまでこれを読もうとしなかったのか」と科学者としての痛恨の思いがこみ上げてきたそうです。何よりそれが矢ヶ崎さんをして眠れなくさせてしまったのでした。
矢ヶ崎さんの専門は物性物理学。核物理学は専門外なので「専門家に委ねてきた」のでしたが、実際にDS86を矢ヶ崎さんが読んでみたところ、核物理学など知らなくとも純粋科学一般のトレーニングを受けているものなら、容易に読み解ける「詐欺的」行為がなされていたのでした。
『隠された被曝』は、「DS86に触れることなく過ごしてきたことで、被爆者の痛みの解消に貢献してこれなかった」という科学者としての矢ヶ崎さんの、心の痛みをベースに編み上げられた怒りの書でした。

僕にとってもこの本は天啓の書でした。福島原発事故が起こってた時、僕は「政府は絶対に人々に危険性を伝えず、逃がそうとしない。危険情報を流し、一人でも多くの人を被曝から守らなければならない」と感じて情報発信を開始しました。
そこまでは事故以前からシミュレーションしてきたことでもあり、「いよいよその時が来た。来てしまった」と思う中での行動でした。
しかしその頃の僕は、原発の危険性の基本構造はおさえていたけれども、放射線被曝に関する専門的知識は持ち合わせていませんでした。それでもすぐにも放射線の専門家たちが登場して、被曝の危険性を解説してくれるものだと思っていました。
ところが待てど暮らせど、そういう人物が出てこない。それどころかすぐにも政府よりの学者たちが登場してきて、「プルトニウムは何の害もありません」だとか、とんでもない安全論ばかりが流されました。

放射線被曝の根源的危険性、とくに内部被曝の危険性を訴えいたのは、被爆医師の肥田舜太郎さんなど、本当にごくわずかな人士だけでした。
正直なところ愕然たる思いがしました。今でこそ、放射線学の専門家の多くがICRP勧告をもとにした教科書によってトレーニングを受けてしまうため、内部被曝の危険性を専門家として語れる人士がいないことが分かるのですが、その頃は専門家が登場してこない理由が分からずに身悶えしました。
しかし何時までたっても出てこないので「放射線学までこちらがやらなければならないのか・・・。よしわかった。ならば踏み込もう」と考えて文献を漁り始めました。そうしてほどなく出会ったのが『隠された被曝』で、一読してしびれるような感動を味わいました。
同時に「この書は難しい。普及するためにもっと易しくしたい」。そう思いたって7月に京都に講演のために来られた矢ヶ崎さんのところに初めてお会いしに行き、失礼を承知で単刀直入に「この本を僕に”翻訳”させてください」と告げました。矢ヶ崎さんは一言、「そう言ってくれる人を待っていました」とおっしゃられました。

かくして編み上げたのが岩波ブックレット『内部被曝』でした。この中で僕の質問に答える形で、矢ヶ崎さんは内部被曝のメカニズムを話してくださり、さらにICRPによる内部被曝隠しを、被曝の具体的なあり方、現実的実態=具体性を捨象し「単純化」「平均化」することで行っている点を指摘してくださいました。
内部被曝の場合、放射線はごくごく限られた領域にあたります。それが内部被曝の実相です。ところがICRPはこれを当該の放射線が起こった臓器全体に起こったことに置き換えてしまいます。そうすると臓器のごく一部に激しく起こっていることが臓器全体に起こっているかのように平均化されてしまうので、影響が小さく評価されてしまうのです。
これらの点にここではこれ以上詳しくは触れませんが、いずれにせよDS86による広島・長崎に降下した放射性物質隠しとともに、ICRPは被曝の具体性を無視し、実際には違う状態と置き換えることで被曝の過小評価を行ってきたのでした。
『放射線被曝の歴史』に継ぐ書として『隠された被曝』と『内部被曝』をお読みいただき、この点をつかんでいただきたいと思います。

以上、今回は中川さんの名著をいかに継承していくのかを書きました。その際、書き足していくべき内容がICRPによる内部被曝隠しへの批判と、内部被曝の危険性であり、前二書がその役割を担っていることを明らかにできたと思います。
実は今、矢ヶ崎さんはさらに前に進んでいます。ICRPは、一貫して行ってきた放射線被曝の過小評価と、内部被曝隠しを進めるために、その勧告1990と2007の中でさらに大きな「進化」を遂げているのですが、その批判により深く挑んでいるのです。
最も重要なキーワードは、ICRPが使っている「組織加重係数」という用語です。臓器ごとの放射線の感受性を表す言葉なのですが、これを使いながら線量評価を行うロジックの中で、ICRPはまたも詐欺的なすり替えを行っているのです。
この点をきちんと批判することによりICRP体系のあやまりをより鮮明に指し示すことを矢ヶ崎さんは今、精力的に進めておられます。

実は数日前に直接お会いして、都合6時間も個人的にレクチャーを受け、僕もその内容の骨格部分をきちんと把握することができました。
なので僕もまた『内部被曝』での成果を引き継いで、矢ヶ崎さんによるICRP体系批判の内容を、より分かり易く普及していくお手伝いをしたいと思っています。そのことを考えると心の中が熱くなります。
世界中の国家権力の中に浸透している放射線被曝の過小評価のロジック、内部被曝隠しと対決することで、少しでも多くの被爆者の痛みを癒し、救いたい。人々を新たな被曝から守りたい。そのためにさらに奮闘するつもりです。
そのための最も重要な土台を『放射線被曝の歴史』の、命を削りながらの執筆で行ってくださった中川保雄さんに、再度、心からの感謝を記しつつ、この連載を閉じたいと思います。

連載終わり

 

 

 

 

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