守田です。(20141209 20:30)
ICRPの考察の続きです。
医学や生物学と密接な関係にある放射線防護学の領域では、放射線の危険性をめぐる論争に次々と敗れてどんどん線量評価を厳しくしなければならないことを熟知したICRPが、1977年勧告においてコスト・ベネフィット論にシフトしたことをこれまで見てきました。
ところがその後に大きな問題が持ち上がりました。ICRPが依拠してきた広島・長崎を調査したABCC(原爆傷害調査委員会)による原爆線量評価に大きな間違いがあることが浮上してきたことでした。
ICRPをはじめとした国際機関がABCCのデータに固執してきたのは、このデータがアメリカ原子力委員会によって独占的に集められ、解析されてきたもので、原子力推進派にとって都合が良いものだからでした。
ABCCデータの信頼性が崩れだしたのは、前回に述べたイギリスのスチュアート、アメリカのゴフマン、タンプリンの批判などの影響によるものでしたが、1974年に新たな批判が付け加わりました。
ワシントン州の人口研究班の医師であったサミュエル・ミラムが1950年から1971年にワシントン州で死亡した307828人を調査し、州内のハンフォード核施設で働いたことのある労働者の死亡率が25%も高いことを見出したことでした。
さらに続いて原子力委員会からのハンフォードに関する委託研究を行っていたトーマス・マンキューソから、28000人の調査によって放射線のリスクがICRPが主張していた従来の見解の10倍も高いという研究結果が報告されました。
同時に中性子爆弾の開発を行っていた米軍からも新たなデータが提出されました。
この爆弾の殺傷能力を知るには、広島・長崎のデータを利用する必要があり、その洗い直しに結果したのですが、ロスアラモスで開発されたコンピューター・コードを使って解析したところ、原爆の放射線、とりわけ中性子のスペクトルが従来の推定値と大きく違っていることが分かったというのです。
広島・長崎の被爆者は、これまでABCCが主張していたよりもずっと少ない放射線被曝で重篤な傷害を受けていたことが判明しました。この結果ICRPが依拠してきた「T65D(Tentative Dosimetry System 1965=1965年暫定被曝推定線量)」と呼ばれてきた体系の権威が大きく揺らぎ出しました。
T65Dに誤りが見つかったことは、原子力推進派にとって大きな危機でした。これまでの放射線防護体系がすべてT65Dを根拠に行われてきたためです。
このためマンキューソの研究結果が広く知られる前に中性子爆弾の開発で得られた軍事機密情報を意図的にリークし、あたかも国際機関の側から積極的な線量基準の見直しがなされ、安全性が追及されているかのような粉飾が施されました。
アメリカは他国が中性子爆弾の製造に踏み切った時に、いずれにせよこのデータが明るみに出ることも考慮に入れて、こうしてリーク戦術に踏み切ったのでした。
こうして新たな線量体系として1986年に確定され、翌年に発表されたのが「DS86(Dosimetry System 1986=1986年線量推定方式)」でした。
ちなみに後年、矢ヶ崎さんが内部被曝の影響についての研究を開始し、初めてこの「DS86」に触れたとき、そのあまりの非科学性に唖然となったそうです。余りに非科学的な報告が被爆者の被曝線量データとして容認されていることに立腹するとともに、なぜゆえに誰も体系的な批判を試みなかったのかと身もだえし、3日間眠れなかったといいます。
矢ヶ崎さんのICRPへの批判については稿をあらためて紹介しますが、ともあれ原子力推進派は、原爆の被害データを大急ぎで修正して、マンキューソが明らかにしたハンフォードの労働者の被害と辻褄をあわせようとしたのでした。
DS86の新たな策定の動きに合わせつつ、ICRPは1985年にパリ会議を開き、公衆の放射線防護基準を従来の5分の1とし、1年間に1ミリシーベルトとしました。現在も適用されている基準です。
同時にICRPの防護基準は、被曝をより少なくする精神に貫かれたものであるとの宣伝を行いました。これらのもと、1977年勧告で進化したコスト・ベネフィット論の各国の受け入れ・浸透もが図られました。
しかもパリ声明では同時に次の文言が付け加えられました。「1年につき5ミリシーベルトという補助的線量限度を数年にわたって用いることが許される」。要するに実際には1ミリシーベルトを守らなくてよいという言葉もが埋め込まれていたのでした。
こうしたICRPの一見すると基準を強化しつつあるかのように見える動きは、1979年のアメリカ・スリーマイル島原発事故に対する反原発運動の高まりにも対応したものでした。そしてここで埋め込まれた「補助的線量限度」という文言は、早速、チェルノブイリ原発事故に際して効力を発揮しました。
1986年に起きた同事故で、100万人に及ぶ人々が避難を余儀なくされましたが、その基準は生涯で350ミリシーベルトに達するかどうか、生涯を70年とみて年間5ミリシーベルトに達するか否かに置かれました。
つまり年間5ミリシーベルトもの被曝が「数年にわたって」どころか生涯にわたって続くことが認められたのでした。ICRPら国際機関はこの旧ソ連の決定は国際的な放射線防護政策に一致していると声明し、強く支持しました。
『放射線被曝の歴史』からこの点のまとめを引用します。
「このようにチェルノブイリ事故後は、原発重大事故が現実に起これば、年1ミリシーベルトの基準など適用されないこと、したがってICRPのパリ声明の「公衆の年被曝限度1ミリシーベルト」が一般人の被曝線量の実質的な引き下げを意味するものではないことが、事実で示されているのである」(『同書』p195)
このことはチェルノブイリ原発事故だけではなく、福島原発事故ではもっと激しく適用されてしまいました。福島では5ミリシーベルトどころか20ミリシーベルトが避難基準とされてしまったからです。福島原発の被災者はチェルノブイリ周辺では強制移住の対象になる地域に多数が住まわされ、あるいは帰還が強制されようとしています。
しかもここで適用された「線量」は、1977年より持ち込まれた「実効線量当量」でした。これはコスト・ベネフィット論のもとに放射線被曝に金勘定という非科学的なものを持ちこんだもので、身体にあたる物理量を示したものではありません。
計算式も複雑化されていて非常にわかりにくいのですが、実際には物理量の被曝としてはICRP1977年勧告以前のものと比較した場合、むしろ多量になっているものが少なくなったように粉飾されるように設定されたものでした。
その点でICRPが放射線被曝基準を厳しくしたというのは全くのまやかしでした。
ICRPはこれらをICRP1990年勧告にまとめていきましたが、その際、原発事故などの「緊急時作業」においては引き下げどころかむしろ労働者への線量の引き上げを盛り込みました。
1977年勧告において100ミリシーベルトだった全身への被曝限度が新勧告では500ミリシーベルトまで引き上げられ、皮膚の線量限度は5シーベルトにまで拡大させられてしまいました。
要するにスリーマイル島事故やチェルノブイリ事故をもって、事故の終焉を目指すのではなく、むしろ次なる事故が起こりうることを想定して、その際の収束作業ができるような線量設定が行われたのでした。
こうして作成された1990年勧告のねらいを同書は以下のようにまとめています。
「第一に、放射線リスクを従来の三分の一に引き下げ、労働者の被曝線量限度も年間20ミリシーベルトへと1958年以来はじめて『引き下げた』とごまかし、ICRP1977年勧告で導入した、安全性よりも経済性を重視する「ALARA原則」を定着させ、チェルノブイリ後、いっそう経済的困難に直面している原子力産業に、放射線被曝面からの救いの手をさしのべることにある」
「第二に、反原発運動からのICRPとそのリスク評価、放射線防護基準への強い批判をかわし、あわよくば批判意見を分断するとともに、ICRP勧告を各国に導入するうえで最も大きな政治的発言権と行政的既得権をもつ放射線関係の諸組織、あるいはこれまで『ICRPの精神』を支持してきた学会や協会、放射線関連の労働組合組織などに、依然としてICRP支持路線を採用させることにある。
この目的からも新勧告は、現実に大量被曝している原発下請け労働者の被曝線量は引き下げないで、従来からも低い被曝線量下にある安定雇用の放射線作業従事者の被曝量を制限して、彼らの不安のみに応えようとしているのである」(『同書』p214、215)
「放射線防護基準への強い批判をかわし、あわよくば批判意見を分断する」とは実に鋭い指摘です。
事実、放射線被曝に関する視点、線量をいかに評価するのかという側面でのICRP批判の観点は、被爆者運動の中でも、反原発運動の中でも十分に深めてこれたとは言えませんでした。これは世界にも共通することがらです。
そのことがとりわけ日本では、福島原発事故以降の民衆運動の中でさまざまな矛盾を表してもいます。政府の原子力政策に批判的で、明確に民衆の側に立っている人の中にも、基本的な視点をICRP体系の上に置いて、放射線被曝を過小評価している方々がおられるからです。
このことが同時に、「福島エートス」的な動きが生じる根拠にもなっています。ICRP的な放射線被曝の過小評価のもとでは、高汚染地域の危険性を捉えることができず「そこで安心して生きていける道を探す」ことに流れやすいからです。
これらの結果、日本はチェルノブイリ事故後の旧ソ連がとった避難基準よりももっと格段に緩い基準しか適用されておらず、今なお、チェルノブイリの基準からいっても避難しなければならない地域に膨大な人々が暮らしています。
いや私たちが見ておかなければならないのは、このチェルノブイリ事故における避難基準とて、ICRPや原子力推進派自身が自身が認知した危険性からいっても、極めて緩い水準で適用されているのであって、本来、もっと厳しく人々を守らなければならないものなのだということです。
本書はすでに1990年の地点でこうした観点を私たちに提起してくれていました。今回、あらためて精読して大変先駆的な書物だと思いました。
著者の中川保雄さんは、病床の中でこの本を書かれ、1991年の出版と共に病に倒れられたのですが、彼が遺して下さった足跡は、福島原発事故の中でもがき苦しむ私たちに今、一本の大きな道筋を示してくれています。
中川さんの素晴らしい功績に心の底からの感謝を捧げつつ、次回に本書を継ぐ立場から私たちがおさえるべきものを明らかにして連載をまとめたいと思います。ポイントは矢ヶ崎さんが切り開いてきた「ICRPによる内部被曝隠しとの対決」をいかに深めていくかにあります。
続く