守田です。(20141202 22:00)
ICRPの考察を続けます。
前回は第二次世界大戦後の「放射線防護活動」が、核戦略を中心とするアメリカの全米放射線防護委員会(NCRP)などにリードされていたこと、広島・長崎の事実上のアメリカ軍による調査がベースにされていったことを書きました。これらの中心にはマンハッタン計画からそのままスライドしたアメリカ原子力委員会がありました。
これに対してICRPにはアメリカ以外の国が参加していたため、世界の核兵器反対の声におされつつ、リスク受忍論の受け入れには積極的ではありませんでした。
しかしこの条件が1950年代に大きく変わっていきました。一つはイギリス・フランスなどが遅れて核保有国となったこと。また各国で原子力発電が開始され、ICRPがリスク受忍論により傾斜して行ったことです。
もう一つは核実験がより頻繁に行われる中で、ビキニ環礁での周辺住民の深刻な被曝が起こり、日本でも第五福竜丸などが被曝するに及んで、放射線被曝の危険性への国際的な関心が高まったことも大きな背景としてありました。
この中で核戦争体制を維持し、さらに原発を広げていくことが目指されたため、新たな「科学的な粉飾」を施した「放射線防護学」が求められました。
これらを背景としつつ、ICRPは1950年代から60年代に、勧告を塗り替えるたびに大きな変貌を遂げて行きました。
原子力発電に世界で最初に踏み切ったのは旧ソ連でした。1954年のことです。原子力部門で断然他国を引き離していると思っていたアメリカは大きなショックを受けました。
それまでアメリカは、軍部などが原子力部門の私的所有を認めたがりませんでした。軍事機密を保持するとともに核開発に関わる「優秀な」人材を独占したいからでした。
しかしソ連ショック以降、アメリカは急速に国内体制を転換し、商業用の原発技術の開発を目指していきます。重視されたのは長期運転を可能にするシステム作りで、コストを削減するための安全面の配慮の後景化が始まりました。
同時にこの年の3月にビキニ環礁で広島原発の威力を1000倍も上回る「ブラボーショット」などの核実験が繰り返され、ロンゲラップ島などマーシャル諸島住民や周辺にいた漁船多数に深刻な被曝が起きました。
アメリカの調査でもロンゲラップ島などでは「流産・死産の激増、マーシャル諸島の平均よりも異常に高い死亡率、生存者の多くをおそった甲状腺異常、とりわけ10歳以下の子どもたちは大半が甲状腺異常にかかり、切除や転移がんを免れなかった」(『同書』p71)とされています。
日本でも第五福竜丸ら多数の漁船が被曝。「第五福竜丸の23人の乗組員は、外部からのガンマ線だけでもおよそ200レム(2シーベルト)あび、その一人、久保山愛吉さんが死亡」(『同書』p72)するなどしました。この時被曝した漁船は1000隻もいたのではないかと言われています。
これに対して杉並の母親たちによって原水爆実験禁止を求める署名運動がはじまり、瞬く間に全国に拡大して原水爆禁止署名運動全国協議会が誕生、短期間で2000万人もの署名が集まりました。
これを受けて翌1955年に原水爆禁止世界大会が初めて広島で行われました。それまで被爆者たちは、ABCCなどアメリカ軍の関与の下での調査の対象とされるばかりで厳しい監視下に置かれており、全国からの支援も行われていませんでしたが、ようやく独自の声が上がり始めました。
またアメリカ自身の内側でも、経費削減のためマーシャル諸島からネバダ砂漠に移して行われた核実験で被曝が多発し、ニューヨークの水道水で放射能汚染が確認されたことなどから核実験反対の声が上がり始めました。これらの運動はいずれの放射線被曝による遺伝的影響への不安をバックボーンとしていました。
放射線被曝がこのように大きな社会的問題になると、必ず学術界が第三者のような顔をして登場してくるのですが、その史上最初の例が、このときのアメリカの「原子放射線の生物学的影響に関する委員会」でした。通称をベアー(BEAR)委員会といいます。
委員会を財政的にバックアップしたのは、マンハッタン計画のときから原子力産業に参画してきたロックフェラー財団でした。元理事長のジョン・ダレスが国務長官となっていましたが、この財団がアメリカ政府や軍関係者が表立つことよりも学術界が矢面に立つ方が良いと判断し、多額の資金を投入しました。
このもとで放射線の遺伝的影響とともに、病理学的影響、気象学的影響、海洋と漁業への影響、農業と食糧供給への影響、核廃棄物の処理処分に関する委員会の計六委員会が設置され、それぞれの報告が行われていくようになりました。
BEAR委員会の報告は早くも1956年6月に発表されました。焦点はやはり遺伝学的影響についてでした。以下、同書より引用します。なお単位にレムとシーベルトが使われていますがシーベルトのみを記載します。
「遺伝学見地からは、放射線の利用は可能な限り低くすべきであるが、医療、原子力発電、核実験のフォールアウト、核科学実験からの放射線被曝を減少させることは、世界のおけるアメリカの地位をひどく弱めるかもしれないので、合理的な被曝はやむをえないと考える。」
「遺伝的影響を倍加する線量は50から1500ミリシーベルトの間にあると考えられるが、動物実験によると300から800ミリシーベルトの間にありそうなので、
合理的な線量として労働者の場合は30歳までに生殖器に500ミリシーベルト以下、40歳までにさらに500ミリシーベルト以下とするように、また公衆の場合は30歳までに生殖器に100ミリシーベルト以下とするように勧告する」(『同書』p79)
この報告は大きな位置を持っていました。それまでマンハッタン計画から生まれたアメリカ原子力委員会が公衆への許容線量の設定に抵抗していたためです。
BEARがこれに対し第三者の装いで登場し、原子力委員会に許容線量設定を認めさせ、労働者への被曝許容線量も従来の3分の1に下げることで、何よりも核実験反対の声を鎮めることが狙われました。
全米放射線防護委員会(NCRP)はさらにこれを加工し「職業人に対しては・・・3か月30ミリシーベルトの線量率を残した上で、50ミリシーベルト×(年齢-18歳)を生涯での集積線量として採用する」としました。
また「公衆に対しては医療被曝を含む人口放射線からの被曝量を、胎児から30歳までで~一人当たり50ミリシーベルトとする」との案をまとめました。(『同書』p81)
これがICRPに持ち込まれましたが、このころICRP参加各国が核武装や原子力発電への着手に踏み切っていたためBEAR報告を加工したNCRPの1956年勧告がそのまま適用され、ICRP1958年勧告が出されることとなりました。
このときICRPはリスク・ベネフィット論を受け入れ「原子力の実際上の応用を拡大することから生じると思われる利益を考えると、容認され正当化されてよい」と述べられ、放射線防護が緩和されていくようになりました。
「1950年勧告では『可能な最低レベルまで(to the lowest possible level)』とされていたのが、1958年勧告では『実行可能な限り低く(as low as practicable:ALAP)』と緩められた」のでした。(『同書』p86)
アメリカはこの動きをさらに国際化していくことを目指していき、この時期に生まれた二つの国際組織への関与を深めて行きます。
その一つが「原子力の平和利用」の名の下の原子力発電の推進の中で1955年におこなわれた「原子力平和利用会議」を継承した「国際原子力機関(IAEA)」でした。
一方で核実験に対する批判の高まりの中で国連の中に生まれたのが「原子放射線の影響に関する科学委員会(UNSCER)」でした。「科学」の名が冠されているものの、実際には参加国の代表によって構成されました。
UNSCERは拡大版ICRPとも言えるもので、アメリカ、イギリス、カナダ、スウェーデン、フランス、オーストラリア、ベルギー、日本、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、インド、エジプト、ソ連、チェコスロヴァキアの15か国が参加しました。
ソ連や社会主義国、第三世界が参加したことに特徴があり、当初、核実験の降下物への評価が真っ二つに割れました。ソ連とチェコスロヴァキアは核実験反対を表明、これに対してアメリカ、イギリスが共同戦線を張りました。被爆国として参加した日本はアメリカに追従し、なんと核実験即時停止に反対しました。
こうしてUNSCER報告をめぐる争いはICRP陣営の勝利に終わり、その後、同委員会はICRPと共同歩調の道を歩んでいくことになりました。
こうして世界の「放射線防護」のための機関は、その実、核兵器と原子力発電の推進派に牛耳られるようになってしまいました。
この動きを一貫してリードしたのはアメリカ原子力委員会と全米放射線防護委員会(NCRP)でしたが、今はこのもとにICRP、IAEA、UNSCERがアメリカ核戦略よりの機関として存在しています。
アメリカはさらにこれらの国際機関を通じつつ、放射線の遺伝的影響の考察の徹底排除をもくろみ、放射線の危険性にしきい値がないという見解をなんとかくつがえすことを目指しました。
しかしこのアメリカの動きを大きく阻むものがありました。世界中でより一層、高まっていった核実験反対運動でした。アメリカはBAER委員会など科学的な粉飾を凝らした組織を登場させることで国際委員会を籠絡していったものの、世界の民衆の声を封じ込めることはできなかったのです。
この動きをみたソ連が1958年1月に一方的に核実験停止を宣言。追い込まれたアメリカのアイゼンハワー政権は翌1959年に核実験を一時停止すると声明しました。民衆の力が国際機関など跳ね除けて、核実験の停止をアメリカに約束させたのでした。
しかしこのためにアメリカは1958年に停止前の駆け込み実験を多数強行。その数は1950年代前半の数倍にものぼりました。このため1959年にはアメリカ全土での死の灰の降下が急増しました。各地でストロンチウム90の濃度が上がっていることが確認されました。
世界を覆うこの核実験反対の声に対しアメリカはさらにリスク・ベネフィット論を進化することで対応をはかり、NCRPに1959年勧告を出させました。以下、勧告の考え方を要約した点を本書から引用します。
「核兵器・原子力開発から得られる利益を受けようとすると、その開発に伴うなんらかの放射線被曝による生物学的リスクを受け入れることが求められる。許容線量値を、その利益とリスクのバランスがとれるように定めることが必要である。
社会的・経済的な利益と生物学的な放射線のリスクとのバランスをとることは、目下のところ限られた知識からは正確にはできないが、しかし欠陥は欠陥として認めるなら、現時点での最良の判断を下すことは可能である」(『同書』p116)
これらの総仕上げとして出されたのがICRP1965年勧告でした。勧告には「経済的および社会的な考慮を計算に入れたうえ、すべての線量を容易に達成できる限り低く保つべきである(as low as readily achievable:ALARA)」という文言が入りました。
ようするにアメリカの主導のもとにICRPは医学的、科学的に安全論を争っていてはもはや勝てないと判断し、「経済的および社会的な考慮」を持ち込むことで政治的に押し切る方向性に大きく舵を切ったのでした。
こうして世界の放射線学に、本来、放射線という科学的物質とはまったく関係のない政治・経済的要因が持ち込まれ、その上でいかなる放射線量を許容すべきなのかと言う考察が重ねられていくこととなったのでした。言い換えれば1964年にICRPは最後的に科学から遊離していったのでした。
続く