明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1567)隠された原爆被害と核をめぐる日本の現状(ナルボンヌ講演から)−2

2018年08月14日 08時30分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20180814 08:30)

ナルボンヌ講演の続きです。

6、大気中核実験は食い止めたけれども“Atoms for peace”に騙された!

もっとも核実験が行われた時期に多くの人々が立ちあがりました。日本では1954年ビキニ環礁で行われた水爆実験で漁船が被曝したことから大きな運動が起こりました。この運動をけん引したのは女性たちでした。東京の魚屋さんのお母さんが呼び掛けた署名運動がまたたく間に広がり、この年の秋までに日本国内でだけで3500万人分も集まりました。これが世界中に広まり、署名は5億人を超えたと言われています。

「魚の汚染を許すな」と叫んだデモが行われ、原水爆実験を批判する「ゴジラ」という映画がヒットしました。

実は私もこのころのことを覚えています。私は1959年の生まれですが、子どものころ母に「雨にあたってはいけない。放射能で頭がはげる」と言われました。母のアドバイスのおかげで、まだ私の頭には髪の毛が残っていますが、ともあれ私の年代は多くがこうした記憶を持っています。日本中の女性たちが子どもたちを守るために奮闘していたのでした。

これにアメリカは大きく追い詰められ、ソ連、イギリスとの間に1963年までに大気中核実験を中止する条約を締結しました。同時にアメリカは“Atoms for peace”と言い出しました。核エネルギーは戦争による殺戮という暗い過去を背負っている。しかしこれからは原子力を平和に使おうというのです。

このもとで原子力発電の普及が叫ばれ始めましたが、残念なことに核実験に反対した日本の人々はこれに騙されてしまいました。その典型は私の尊敬する日本のマンガ作者の手塚治虫さんです。彼は自分のロボットアニメの主人公に「アトム」という名を付けました。彼の妹はウラン。お兄さんはコバルト。放射性物質一家なのです。

あるいはみなさんは日本のアニメの「ドラえもん」をご存じでしょうか。このドラえもんもまた原子炉で動いているとされていて、解剖図巻に原子炉が載っています。ただしここは福島原発事故後に削除されました。

このように広島・長崎の被曝を受けた日本民衆は、核実験には猛烈に反対したけれども“Atoms for peace”にはすっかり騙されてしまったのです。この時も低線量内部被曝の危険性があまりに低く評価されていたことが大きな要因をなしました。

実はこれはアメリカが狙ったことでした。アメリカはヒバクシャがたくさんいる日本でこそ、“Atoms for peace”が浸透し、原子力発電所が増えることをのぞみ、そのことで核戦略の生き残りを図りました。日本民衆はすっかり騙され国内に50基以上の原発が作られてしまいました。 

7、福島原発事故後の被曝被害

この状況が大きく変わったのは2011年の福島原発事故によってでした。それまでチェルノブイリ原発事故後の数年をのぞいて日本の原発反対運動は停滞していました。しかし福島事故後に大きな運動が起こっています。

この原因の一つは被曝の深刻な影響があちこちで出たことです。その一例として東京小平市で内科医院を開いていた三田茂医師の調査をご紹介します。三田医師は放射線を扱う業務に携わる人が「電離放射線検診」を受けてきたことに着目しました。放射線を浴びると白血球の数が減るからです。三田さんはこの検査を東京の子どもたち3000人に試みました。すると白血球の中の好中球に端的な変化が出ていました。

一例を示します。三田さんの住んでいた東京の小平市(都心から西より)では2011年から2012年まではそれほどの影響が出ていませんでしたが、このころから都心である東京の東側、東京オリンピックの会場になる地帯では子どもたちの好中球が大きく平均を下回ってしまいました。

中には好中球がゼロになってしまった子どももいました。三田さんは命の危機を感じ、お母さんに西日本への移住を勧め、母子での即座の移住が実現されました。すると好中球の値はV字回復しました。

三田さんはさらにたくさんの福島原発事故による新しい被爆者の治療を進める中で、被曝によってホルモンバランスの異常が起こり、免疫力が落ち、さまざまな能力が減退する「能力減退症」が起きることを突き止め、「新ヒバクシャの能力減退症」という論文を書きました。英文のペーパーもあります。私が属するグループのホームページにリンクを貼り付けますので興味のある方はお読み下さい。なお三田さんは東京に住んでいる危険性を感じ、自ら西日本の岡山県に避難移住されています。

もちろん三田さんの見解を日本の医学界はまったく受け付けていません。アメリカが作った放射線防護学の影響が強いからです。このため革新政党を含めて日本のどの政党も福島原発事故当初から今日まで、広域避難を呼びかけたことがありません。いまも原発に反対している人々の中ですら被曝に関する評価は大きく分かれています。

しかし「何か深刻なことが東日本で起こっている」という実感を持っている人々はどんどん増えていて、その力もあって日本ではこれまでなかったような持続的な原発反対運動が継続されています。

8、 全国で毎週金曜日にデモが行われている

とくに福島原発事故以降になかったことが全国各地で毎週金曜日に原発反対行動が取り組まれていることです。中心になったのは東京の首相官邸前のデモでピーク時には20万人が集まりました。今でも毎週、数千人が集っています。その後、各地にこのデモが広がりだし、東京に集まるだけでなく、全国の主要な鉄道に駅や電力会社の本店・支店前などでの行動が行われていて、その多くがいま300回を越えています。

ここにお見せするのはドイツ・デーベルンで行われた反核サマーキャンプのときに250回を越えた西日本の姫路市の前の金曜行動です。あれから1年経ってこの行動も最近300回を越えました。私が住んでいる京都市でも同様の行動が続けられています。京都駅のすぐ近くにある関西電力京都支店前に毎週100人ほどが集まり、多い時には何倍かになります。私もときどき参加しています。 

9、核の灯を消すために

このような私たちと世界のみなさんの行動により、いま原発産業は大きく後退しています。私たちのデモへの対応から規制当局がどこでも基準を上げざるを得なくなり、新規原発建設コストが倍になり、採算が合わない事態が続出しているからです。

その中で日本の原発メーカーの東芝が瓦解しました。フランスでもアレバが瓦解を深めています。そのアレバと日本の三菱がトルコ・シノップに原発を作ろうとしていますが、やはりコストが倍になって可能性が狭まり、日本の総合商社の伊藤忠が撤退しました。これはトルコのみなさんの熱い努力の成果です。

私たちは全世界で原発産業を追い詰めつつあります。しかしいまなお多くの国が核兵器をもち、被曝被害を軽く扱い続けています。そのもとでチェルノブイリや福島のヒバクシャは正しく扱われていません。

私たちはこの状態を変える必要があります。そのための一環として私は今回日本から始められている「ヒバクシャ国際署名」を持ってきました。まだ翻訳がないものはぜひ今日、ここに集まったみなさんで行っていただき、ともに全世界にこれを広めたいです。これも一つの手段としながら核の灯を止めましょう。今日、広島原爆投下73年目の日にみなさんとこの決意を共にしたいと思います。ありがとうございました。

終わり

*****
 
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明日に向けて(1566)隠された原爆被害と核をめぐる日本の現状(ナルボンヌ講演から)−1

2018年08月14日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1501~1700)

守田です(20180814 08:00 バルセロナ時間)

バルセロナのホテルからです。みなさま、いよいよ今回の旅の最終日を迎えました。一昨日の夜にナルボンヌから列車でバルセロナに移動し、一日を経て、今日、帰国の旅につきます。上海経由で明日15日の遅い時間に帰り着きます。

旅の報告の最後に、8月6日に今回のキャンプで行われたすべてのプレゼンのトップを飾ってお話させていだいた僕のスピーチの日本語原稿をお届けします。長いので2回に分けます。どうかお読みください。

*****

隠された原爆被害と核をめぐる日本の現状

私は日本の京都市在住のジャーナリストです。私の父は広島原爆のサバイバーの一人です。母は東京大空襲のサバイバーの一人です。そのため私は戦争と核兵器、核エネルギーが大嫌いです。そのため私は福島原発事故以降、人々を放射線から守るために奔走してきました。

1、広島・長崎原爆を振り返る

1945年8月6日、いまから73年前の朝8時15分、アメリカ軍が原子爆弾を広島に落としました。この攻撃で推定14万人の人々が1945年12月末までに殺されました。9日には長崎にも原爆が落とされました。やはり1945年末までに約7万4千人が殺されました。

被爆者はその後もさまざまな病で命を落としてきました。殺された総数はもっとずっと多いのです。しかもこの時、爆心地に最もたくさんいたのは子どもたちでした。死亡数と年齢を示したグラフには広島では13歳の子どもたちが最も殺されたことが分かります。

原爆はこの点だけからも無差別大量殺人であり戦争犯罪です。アメリカは謝罪すべきです。私はこのことを集まったみなさんと一緒に確認したい。アメリカの植民地政府である日本政府は一度も謝罪を要求していませんが、私は謝罪を求め続けます。 

2、原爆投下は人体実験だった。戦争犯罪だ!

みなさん。なぜ原爆は2個落とされたのか、理由をご存じですか?答えはアメリカが二つのタイプの原爆を作ったからです。一つは濃縮ウランで作った原爆、広島に落とされました。もう一つはプルトニウムで作った原爆、長崎に落とされました。アメリカは二つの計画を同時に走らせました。どちらがより有効か試す必要があったのです。その結果、二つのタイプができたのでどうしても二つ、落としたかったのです。

さらに広島への8時15分という投下時間に重い意味があります。この時間は広島の人々の通勤時間で、この時、広島市近郊からも中心部に人が集まってきていました。

しかも移動中だったので広島市内で最も多くの人々が建物の外にいました。アメリカ軍は投下前にたくさんの偵察機を飛ばして写真を撮り、この時間を割り出したのです。できるだけたくさんの人々に放射線と熱線と爆風を浴びせかけるためです。投下が夜中だったら被害はもっとずっと少なかったでしょう。

このことを昨年、日本のNHKがドキュメントで初めて可視化しました。当日の55万7千人の行動データをCGで再現したのです。これをみなさんにお見せします。青い線が広島市の郊外からも中心部に集まってきていることが分かります。アメリカはこのように人々が一番多い時を狙って原爆を落としたのでした。

アメリカの原爆投下は明らかに人体実験でした。そもそも当時、日本軍の主力は壊滅状態で交戦能力もありませんでした。にもかかわらずアメリカは戦争をあえて続行し、原爆による人体実験を行ったのでした。

3、広島・長崎の被害報道をもみ消し、禁止したアメリカ

さて今日、みなさんとシェアしたい大きなポイントはさらにその次にあります。こうして行われた原爆投下による人体への影響、被曝による被害の実態がアメリカ軍によってかなり低く見積もられてきたという事実です。

原爆が投下され、15日に日本が降伏した後に、アメリカとイギリスの新聞記者が広島潜行ルポを行いました。『ニューヨーク・タイムズ』は「原子爆弾は、いまだに日に100人の割合で殺している」と、ロンドンの『デイリー・エクスプレス』は「広島では・・・人々は『原爆病』としか言いようのない未知の理由によって、いまだに不可解かつ悲惨にも亡くなり続けている」と書きました。1945年9月5日のことでした。

これに対してアメリカ軍はすぐにマンハッタン計画副責任者ファーレル准将に東京で記者会見させ、9月6日に「死すべき人は死んでしまい、九月上旬において、原爆で苦しんでいる者は皆無だ」と発表しました。実際には死者が続出していたのにです。

さらに1945年9月19日にはプレスコードによって原爆報道を全面的に禁止。すべての記者を追い出し「原爆被害の全資料を占領軍の管轄下におく」と声明しました。

アメリカが恐れたのは放射線被曝の大きな危険性が被爆地から世界に伝わることでした。そもそも被曝の危険性は1927年に生物学者のH・Jマラーが、ショウジョウバエに放射線を当てると遺伝子を傷つけ、次世代へ著しい影響が起きることを証明したことで知られていました。このため遺伝学者などから激しい批判が台頭し、ヨーロッパを中心に核兵器反対運動が起こりました。

アメリカは核兵器の精度をあげるための大気圏内核実験を繰り返していたため、科学者たちの声をおさえないと核戦略が維持できませんでした。そのため広島・長崎から報道陣を追い出し、厳重な支配下で都合のいい被曝被害調査を始めたのでした。

4、被曝影響を小さく見せるテクニック=内部被曝の無視

アメリカによる被曝被害隠しのテクニックはシンプルでした。被曝の影響を初期放射線(Initial radiation)だけに限ったのです。初期放射線とは原子爆弾が爆発した時に出た放射線のことで、主に中性子線とガンマ線です。身体の外からあたるので「外部被曝」と呼ばれます。アメリカは初期放射線の被害は爆心地から半径2キロ以内に限られていたと主張し、その外にいた人々の調査をあえてしませんでした。

しかし実際には人々は原爆が作りだした広範な死の灰によっても激しく被曝していました。原爆が作りだした原子雲は放射性物質の塊で、半径2キロ以内どころか、数十キロの地域の下に放射性物質を降らせました。人々はこれを身体の内側に取り込み、内部被曝をしましたが、アメリカはこの被害を一切、カウントしませんでした。

こうしてアメリカは内部被曝の影響をほとんど無視した「放射線防護学」を作りだしました。被爆者に対する嘘の調査を基礎データとしていました。今日、ICRPが出している勧告もこの虚構の上に作られています。

5、 内部被曝の影響を隠したままアメリカは核実験を繰り返した

アメリカは内部被曝隠しを行ったのは核戦略を守るためでした。アメリカは旧ソ連と核実験競争を繰り返したので放射線被曝の危険性を知られたくなかったのでした。

アメリカとソ連は戦後直後から大気圏内核実験を共に禁止した1963年までそれぞれ215回、219回も大気圏内核爆発を行い、たくさんの放射能を世界にばらまきました。イギリスもこの禁止条約に加わりましたが、それまで21回の大気圏内核実験を行いました。

フランスは1963年後も大気圏内核実験を続け、50回も放射能を世界に撒きました。中国も22回も大気圏内核実験を繰り返しました。

 

こうして作りだされた放射能の雲は日本、ヨーロッパやユーラシア大陸、アメリカ本土をも覆いました。放射能はあらゆる地域で命を被曝させました。

しかし残念ながら今日にいたるも世界中の多くの人々がこうした内部被曝の影響をほとんど無視した「放射線防護学」に騙されたままです。世界中が深刻な被曝をうけたことが隠され続けています。だから今日、私はこう言いたいのです。被爆者とは誰なのか。被爆2世3世とは誰か。それは私だけでなくここにいるみなさん全体なのだと。私たちはこれへの怒りを胸に核の灯を無くすために努力する必要があります。 

続く

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