守田です(20161212 09:00台湾時間)
台湾での最後の日となりました。
昼過ぎの便で関空に向かいますが、その前にもう一つ、記事を投稿しておきたいと思います。
今回はアマミュージアムの開設式に参加する事を最大の目的にして台湾にやってきましたが、そこで二人の被害女性のおばあさんと会う事ができました。陳蓮花(チェンレンファ)アマと李容洙ハルモニです。二人ともお元気で私たちとの再開をとても喜んでくれました。
これには特別な理由があります。今回はレンファアマのこと、彼女と私たちのふれ合いのことをご紹介したいと思います。
レンファアマは今年で92歳ですが、もう少し若いとき、2006年に82歳で京都に訪問してくださいました。もう亡くなられた呉秀妹(ウーシュウメイ)アマと、イアン・アパイアマと3人揃っての訪問でした。私たちにとって初めての台湾からのおばあさんたちの招請でした。
このときアマはまだ公の場でのカムアウトをしたことがなくて、京都でも話をする予定はありませんでした。ところがシュウメイアマやアパイアマの証言と、それに対する会場のなんとも言えない温かくて親密な反応に触れたレンファアマは「私も話す」と決然と言い出してくれて、京都の地で初めての証言をしてくれたのでした。
レンファアマが日本軍につれていかれたのはフィリピンのセブ島の激戦地帯でした。アマを待っていたのは日本軍兵士にレイプされる過酷な日々に加えての米軍の猛攻撃でした。
フィリピンでは日本軍は多くの場合、直接に女性たちを連れ回していましたが、このため戦闘にもそのまま巻き込まれてしまったのでした。
マッカーサー将軍の威信をかけたフィリピン上陸作戦に向けて米軍は艦砲射撃(艦船からの砲撃)と空からの猛攻を加え、日本軍をボロボロ、ズタズタにしていきました。兵士たちの死傷率はおよそ95%。1万人の大隊のうち500人ぐらいしか生き残りがいないという戦闘というよりは空からの虐殺を受けていったのですが、なんとその最中にアマもいたのでした。
このときアマは20人の女性たちの中にいて日本軍と一緒に逃げなければならなかった。装備な粗末な日本兵とてヘルメットぐらいはあったでしょうが、もちろん女性たちにはそんなものはなにもなかった。それどころか、傷ついたり疲れて動けなくなった女性たちは日本兵に殺されてしまったのでした。
そのときの情景をアマは身振り手振りで説明しました。空からの攻撃を手でまねながら「パラパラパラ」とアマは叫んだ。続いて日本語ではっきりと「カンポウシャゲキ」とアマは連呼した。
ちなみにこのとき、アマの話す台湾語を話せる京都におられた台湾人の方が通訳をしてくださったのですが、彼女はこの言葉を理解できませんでした。それはそうでしょう。日本人だって若い人はもう知らない言葉です。
反対に言えば、この言葉をアマが連呼したことには、日本軍に連れ回された戦場での過酷な体験の信憑性が裏付けられてもいました。そうです。アマは艦砲射撃の中をすら逃げまわらなければならなかったのです。
その末にアマたちはたった二人になってしまいました。アマの親しい友達とでした。命がけの逃避行の末に二人は米軍キャンプに保護されました。ところがその場でともに手を取って逃げ合ったその友達が日本兵に殺されてしまったのでした。
このときのことをアマは号泣しながら話しました。ワーワーと声をあげてアマは泣いた。友だちの遺髪や爪を持ち帰った事を話しながら、アマはおいおいと声をあげました。今、思い返しても僕も涙がこみ上げてくる情景です。
鮮明に覚えているのは、このとき、アマに連れ添ってきて、その後に私たちの親友になった呉慧玲(ウーホエリン)さんが「よし、やった。これでいいのよ。泣く事が大切なのよ」と拳を握って話したことでした。
そうです。この場はアマの初めてのカムアウトの場なのでした。アマは60年以上も心の中に秘めていた悲しみを私たちの前で爆発させたのでした。爆発させてそれを思い切り外に発散させもした。
ホエリンさんたち台北市婦女援助会は、アマたちへの心理療法に取り組んできました。たくさんのプログラムを通じてアマの心身の痛みを和らげてきました。心の痛みに優しく入り込み、癒してきたのでした。
その過程をともにしてきたホエリンはアマたちが人前で声を上げて泣く事の重要性をとても良く知っていた。だから思わず拳を握ったのでした。
僕にとってもこの場は本当に忘れられない場でした。僕自身の何かがはじけた瞬間だったからでもあります。
実は僕はこれ以前にフィリピンの島々で戦ったおじいさんからも体験談の聞き取りを行っていました。そのためにセブ島の戦況も理解していて、だから一層、アマの叫びが胸の奥まで入ってきました。
アマは20人の女性たちの中のたった1人の生き残りになってしまったわけですが、それは日本軍兵士たちの死傷率とも不気味な形で一致しています。わずか5%しか生き延びられず、周りで仲間がバタバタと死んでいく地獄の中にアマはいたのでした。
そのアマのリアルな語り、叫びを聞いたとき、彼女の悲しみは僕の心の悲しみと一体化し、彼女のすべての体験は僕の体験となりました。いや正確にはなった気がしたのでした。その一瞬、僕は女性でも男性でもなく、台湾人でも日本人でもなかった。いやその全てであり同時にそのどれでもなかった。
それは僕が日本人男性としてこの問題にどう向かい合うのかを考え抜いてきた臨界点で体験した事でもありました。男性でも日本人でもある前に、僕は1人の人間としてアマの痛みに合流した。あのときの理屈を越えたところでの一体感、まるでアマに起こった全ての情景が見えたような感覚、そして悲しみの奥底での「解放感」とでもいうべきものが、今も僕を大きく支える力となっています。
そんな魂を揺り動かすような初めてのカムアウトを京都で行ってくれたレンファアマは、その後も各地で決然と発言するようになりました。しかも回を重ねるだけ、アマは堂々と語るようになっていった。80歳を超えて、どんどん成長していったアマの姿はとても感動的でした。
その間に、レンファアマをカムアウトへと誘ったたくさんの先輩アマたちが次々と亡くなっていき、そして今回、迎えたアマミュージアム開設式で、レンファアマはついに公式の場で発言できる最後のアマとしてテープカットに参加してくれました。とても感慨深いシーンでした。
レンファアマのこれまでのすべてに深く感謝したいです。
続く
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