明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(580)ビキニ環礁水爆実験を問い直す(下)の1

2012年11月14日 22時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121114 22:00)

11月11日に全国で脱原発行動が取り組まれました。あいにくの雨でしたが、首相官邸前がたくさんの方の傘で埋まったほか、各地でいろいろな取り組みがなされたようです。雨の中、行動に参加されたみなさま、本当にご苦労様でした。

すでにお知らせしたように、僕はこの日に京都市内の醍醐で行われた「母親大会」に参加して、講演させていただきました。今回は、『放射線を浴びたX年後』の文字起こしなどにより、この母親大会が行われた1950年代のことを調べ、当時、非常に大きな反核運動が行われたこと、そのアウトラインをお話しました。今に直接につながる大きなものがそこにあるからと思ったからです。
連載「ビキニ環礁水爆実験を問い直す」の(下)、最終稿はこのことを記しておきたいと思います。なお論考が長くなったで、1と2の2回に分けます。


1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁において、水爆ブラボーの爆発実験を行いました。広島原爆の1000倍の威力をもった水爆でした。このとき周辺の島々に住んでいた250名近い人々や、近くで操業していた第五福竜丸をはじめとする日本の多くの漁船が被ばくしました。
しかしアメリカは、第五福竜丸が焼津の港に戻った3月14日以降も引き続いて核実験を強行、5月までに6回もの連続した実験を行っています。続けて行われのは「ロメオ」3月27日、以下、「クーン」4月7日、「ユニオン」4月26日、「ヤンキー」5月5日、「ネクター」5月14日でした。これらにより、日本の漁船の被ばくは1000隻近くもが被ばくしてしまいました。

この相次ぐ核実験の強行とマグロ漁船の被ばくの中で、私たちの国の中から非常に大きな反核運動が沸き上がりました。運動を始めたのは、放射能が撒き散らされ、子どもたちが被曝することを憂いた女性たち。発火点になったのは東京杉並区の魚屋さんでした。
まず4月15日に、杉並の魚屋、菅原トミ子が、杉並区立公民館の婦人週間講演で発言。核実験の廃絶を訴えました。これを受けて4月17日に杉並区議会が水爆禁止決議を採択。さらに水爆禁止を求める署名運動開始が検討され、5月9日に「水爆禁止署名運動杉並協議会」結成。人々の集いの場であった杉並公民館長の安井郁が議長になり「杉並アピール」が採択されます。
少し長いですが、アピール全文をここに引用しますので、ぜひ、文面から当時の雰囲気をつかみとってください。

***

全日本国民の署名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう

広島長崎の悲劇についで、こんどのビキニ事件により、私たち日本国民は三たびまで原水爆のひどい被害をうけました。死の灰をかぶった漁夫たちは世にもおそろしい原子病におかされ、魚類関係の多数の業者は生活を脅かされて苦しんでいます。魚類を大切な栄養のもとにしている一般国民の不安も、まことに深刻なものがあります。
水爆の実験だけでもこのような有様ですから、原子戦争がおこった場合のおそろしさは想像にあまりあります。たった四発の水爆が落とされただけでも、日本全土は焦土になるということです。アインシュタイン博士をはじめ世界の科学者たちは、原子戦争によって人類は滅びると警告しています。
この重大な聞きに際して、さきに国会で水爆禁止の決議がおこなわれ、地方議会でも同じような決議がおこなわれるとともに、各地で水爆禁止の署名運動が勧められています。しかしせっかくの署名運動も別々におこなわれていては、その力は弱いものです。ぜひこれを全国民の署名運動に統合しなければなりません。
杉並区では区民を代表する区議会が四月十七日に水爆禁止を決議しました。これに続いて杉並区を中心に水爆禁止の署名運動をおこし、これをさらに全国民の署名運動にまで発展させましょう。そしてこの署名にはっきりと示された全国民の決意にもとづいて、水爆そのほか一切の原子兵器の製造・使用、実験の禁止を全世界に訴えましょう。
この署名運動は特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動であります。またこの署名運動によって私たちが訴える相手は、特定の国家ではなく、全世界のすべての国家の政府および国民と、国際連合そのほかの国際機関および国際会議であります。
このような全日本国民の署名運動で水爆禁止を真剣に訴えるとき、私たちの声は全世界の人々の良心をゆりうごかし、人類の生命と幸福を守る方向へ一歩を進めることができると信じます。

1954年5月 水爆禁止署名運動杉並協議会 議長 安井郁

***

署名は5月13日に開始され、瞬く間に広がりだしました。6月20日、259,508名、6月24日、265,124名を記録し、当時の杉並区民人口約39万人のうちの7割近くとなりました。二重署名を自戒し、細やかにカウントしながらの丁寧な運動でした。
こうした成果を受けて、杉並協議会は、6月24日に署名の全国化を決定。8月8日に有田八郎(元外相)、植村環(日本YWCA会長)らが発起人となって「原水爆禁止署名運動全国協議会」を結成。安井郁杉並公民館館長が初代事務局長となり、杉並区立公民館館長室が事務所となりました。

このとき署名内容が「水爆禁止」から「原水爆禁止」へと変わりました。このことには大きな意味があります。
というのは署名は当初から原水爆の惨禍を訴えていたものの、そもそもアメリカの占領が解除された1952年までは、広島・長崎の被爆の一切が占領軍の軍事機密に指定され、触れることが許されていませんでした。そのため運動を盛り上げるためにあえてビキニ環礁の水爆実験に対象をしぼる配慮が当初は必要と考えられたのでした。
しかし署名が杉並区から全国へと拡大される中で、この「戒め」が破られ、はじめて日本全土に「原水爆を許すな」という声を響き渡らせる運動が始まったのです。

(なおこれらの内容については杉並区の公式サイト「すぎなみ学倶楽部」に大きく教えられました。アドレスを記しておきます。http://www.suginamigaku.org/content_disp.php?c=45c7e9833bafe&n=1

こうした中で、9月23日に、第五福竜丸無線長・久保山愛吉が急性放射能症で死去。署名運動はさらに拡大していきました。どこでも署名の先頭を担ったのは女性たちでした。保守・革新を問わず、ありとあらゆる組織が参加したのも大きな特徴でした。インターネットも携帯電話もなく、顔と顔をつき合わせての運動が問われたこの時期に、署名はどこまでも拡大していきました。
1955年になると女性たちは6月7日から9日に、第一回母親大会を開催。世界の女性に行動を呼びかけていきます。このもとに7月7日から10日、スイス・ローザンヌで第1回世界母親大会が広かれ、68カ国1060名が参加しました。命を守るために世界の女性たちが手をつないで実現した成果でした。

女性たちの活躍に牽引されつつ、国内ではさらに8月に被爆地広島で第1回原水爆禁止世界大会が行われ、杉並から生まれた「原水爆禁止署名運動全国協議会」は「原水爆禁止日本協議会」へと発展的に解消しました。
署名数自身はこの間にもどんどん伸び続け、11月の最終集約までになんと32,590,907名分が集まりました。日本の人口の3割にもおよぶ大署名が実現されたのです。

被爆国日本でのこの熱い運動は世界の共感を呼び起こしました。こうした共感には核実験の繰り返しで、被曝への危機感が高まったことも反映していました。とくにアメリカでは、ネバタ砂漠での実験の繰り返しによって、ニューヨークで売られている牛乳からも死の灰が検出されるにいたり、危機感が大きく高まりました。
これに対して核実験の一方の当事者であったソ連が、一方的に核実験の停止を宣言したことなどもあり、アメリカも核実験の抑制に進まざるを得ず、ついに1963年に「部分的核実験禁止条約」(正式には「大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」)が締結されました。大気圏内での核実験が全面的に中止されるにいたったのです。

続く

 

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明日に向けて(579)【詩作】「イノチ」「人・間」「明日のために」

2012年11月12日 17時30分00秒 | 詩作

守田です。(20121112 17:30)

詩を三編、ご紹介します。
最初の「イノチ」は、11月3日に大阪で行われた「イノチコア」さんたちの反原発反放射能パレードで歩きながらか考えたことをまとめたものです。

*****

イノチ

イノチのために
街を歩く
イノチのために
声を上げる

人のイノチ
獣のイノチ
虫のイノチ
木々のイノチ

放射線は
イノチを切断する
外から内から
イノチを切り刻む

しかも放射線は
イノチに呻く間も与えない
誰にも何にも見えないところで
破壊が実行される

傷つけられるイノチの多くは
自らの声を持たない
抗議もできなければ
仕返しもできない

しかしイノチたちは
他の多くのイノチたちを支えている
一つのつながりとしてあるイノチの傷は
痛みと哀しみの連鎖をもたらす

例えば山の木々が潰えたら
誰が私たちに
豊かで穏やかな水を
与えてくれるのか

例えば鳥たちが鳴かなくなったら
誰が私たちの心に
柔らかな潤いを
もたらしてくれるのか

今、私たちは
イマジネーションの力で
すべてのイノチの痛みを
聴きとる必要がある

それは私たちの
非有機的な身体(からだ)の痛みであり
まだ感じるにはいたらなくとも
私たち自身の痛みだ

山を見よう
木々を見よう
虫のことを鳥のことを獣のことを
想像しよう

被曝を止め
痛みを癒す道を見つけたい
すべてのイノチのため
私たちのこのイノチのため

20121112


人・間

私の言葉は
あなたがあって初めて存在する
だから言葉は
あなたと私の間にある

言葉によって辿られる
私の思考も同じだ
思考は問いかける相手があって
初めて思考足りうる

さらに問い詰めてみるならば
この「私」自身も同じ存在者だ
私はあなたがあって初めて成り立ち
あなたとの間に存在するのだ

私が私であるのは
あなたとの間に反照があるから
私が私足り得るのは
あなたとの間に差異があるから

だから私の言葉たちも
私の思考も
私そのものも
あなたとの間にあり続ける

人と人の間にある私たちは
互が自らの構成要素だ
他者の喜びは己を楽しませ
苦しみは心を痛くする

あなたがあなたの喜びを膨らませ
苦しみを減らしたいなら
他者を温めることこそ
近道に違いない

人と人の間に熱を!
あなたが
あなたのやりかたで
人・間を温めてください

20121112


明日のために

僕はこれまで
幾度も詩を綴り
言葉たちを
磨き抜いて
紙に書き留める
訓練をしてきた

僕の中にあるものを
できるだけ正確に
相手に伝え
できることならば
人の心の中に
染みとおっていくだけの術を
身につけたいと
欲してきたからだ

だが今は
少し違う
僕が目指すのは
僕らが共有する何かを
揺り動かすこと
伝えるのではなく
共振・共鳴し
心の中から
想いをともに
溢れさせていくことだ

それは恐らくは
生への共感であり
愛の共有であり
平和への感謝であり
希望や勇気
労りと慈しみ
喜びと笑い
だから感動だ

感動は僕らのうちに
共同で分けもたれており
僕らの中にともに
眠っているものでもある
感動の中には
僕らのまだ知らぬ
可能性すらがある

我らの心を揺り動かし
目覚めさせるために
言葉を磨き
発していくのだと
するならば
素晴らしいことだと言っても
良いのではないだろうか


君も
同志にならないか
言葉を一緒に磨かないか


明日のために

2000年頃作成 詳細不明
20121112校正

 

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明日に向けて(578)ビニキ環礁水爆実験を問い直す(中)

2012年11月09日 19時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121109 19:00)

明日に向けて(576)に掲載した、南海放送制作の番組「放射線を浴びたX年後」の文字起こしの続きを紹介します。
長いので、今回は、文字起こし内容だけとし、次回の(下)でコメントしたいと思います。
以下、番組に続きの内容をご覧ください。

***********

放射線を浴びたX年後
ビキニ水爆実験、そして・・・

ナレーション
まぐろに激しく反応するガイガーカウンター。命がけで獲って来たマグロが目の前で廃棄処分される様子を、第二幸成丸の乗組員は呆然と見ているしかありませんでした。

乗組員
「放射能がかかった魚、全部、ここへ選別しましたね、ハシケ、積んでから。どの船もこういうかっとして捨てられたから」
他の乗組員
「かためてトラック積んで、どこへ捨てたかは知らんですわ。全部放棄ですよ」
さらに他の乗組員
「こんなばかげた話があるでしょうかいね。自分で、ろくに睡眠もとらんと働いて獲ってきた魚をね、捨てるなんて、考えられんでしょう」

ナレーション
「築地にまた放射能船」(新聞記事みだしをよみあげ)、第二幸成丸の被曝は新聞でも報じられました。「方向探知機から4192カウント」「乗組員の頭から224カウントの放射能反応が認められた」(記事よみあげ)」

乗組員
「私がガイガー管の測定に案内したんですよ。それで私がやられた頭で1500(カウント)いうていわれたの」
乗組員の妻 浜町霞
「俺らも調べられたいうて。私、そんときね、カウントね、放射線をあびちょったいうこと聞いてないしね」
乗組員
「ガイガー計数器いいますか。全員、やられたもんね。針がぷっと振り切れてますわね」

ナレーション
操業の様子や船の様子を細かく記録していた崎山船長。ところが日記には人体やマグロの線量は書きとめられていませんでした。そこにはある理由があったのです。

高知県室戸市の崎山宅
崎山船長の妻 崎山順子
「私たちもしゃべりとうないんですよ。こんなことしゃべったって、なんの何にもないづくで。漁協そのものは、それを公にせられると、漁協も成り立たん、魚も売れん。そうすると何じゅっぱいもの、あれ(漁船)を抱えているから、地域もなりたたにゃ、経済、補償をもらうことよりも、今日明日の生活をどう守るかということの方が、先やなかったんですか。だからその自分でいうたら、日本の国がやっと自分でつかまり立ちができるかというような情勢でしょ。
その柱は何かというと、石炭と魚ですき。あんたら思う感覚とは全然・・・。そんな中で私たちはこういう経験をしてきてるからね。で、あんたたちが考えたら、そりゃ崎山さん、おかしいやか、なんでそういうそのなにで。そりゃ、そんなもん、その当時は。そういうことをおかしいやないかいうてきづいちゅう人もあって、これは「船員に補償がなければいけん問題や」いうことは、思うた船員さんもおったかもしれませんけんど、そんなことを口に出して、いいでもしたら船に乗れません時代やありましたけ。それだけは言うちょきます」

ナレーション
水爆実験後、日本に迫る海洋汚染。日本近海の魚も被曝していました。その年、延べ992隻の船が被曝した魚を廃棄。6回におよぶ実験で、海の汚染は強まっていきます。ところが水爆実験からわずか7ヶ月。日本政府は突然、マグロの放射線検査を中止します。その4日後、次のような文章をアメリカと交わしています。

日米交換公文(昭和30年1月4日)
ビキニ被災事件の補償問題に関する日本側書簡
アメリカ合衆国政府は、日本国政府が、前記の二百万ドルの金額を受諾するときは、~すべての請求に対する完全な解決として、受諾するものと了解します

映像 ビキニ被災事件に関する慰謝料の配分について 昭和30年4月28日閣議決定

ナレーション
日本円で7億2千万円。政府は三分の二をマグロ関係者の損害にあて、残りは魚の廃棄に対する補償や、第五福竜丸乗組員の治療などに配分するとしています。日本政府は二百万ドルと引き換えに、事件に幕を引き、その後、すべてのマグロが食卓にあがったのです。
当時、口を閉ざすしかなかった乗組員たち。彼らはいったい、どれほどの放射線を浴びていたのでしょうか。

講演会映像「放射能から家族を守る食べ方の安全マニュアル」福島県福島市2011.12.9
「半減期の短いものは最初だけしっかり注意する。例えばヨウ素131であれば、最初の1ヶ月、2ヶ月。これはなんとしてでもね、被曝をしないようにしないといけません」日本大学専任講師 野口邦和

ナレーション
放射線防護学が専門で、現在、福島県二本松市のアドバイザーを務める野口邦和さんに、乗組員が浴びた放射線量の算出を依頼しました。

野口邦和
「これがクーンね、ロメオ、そしてセシウム137換算で・・・」

ナレーション
第二幸成丸から検出された4000カウントをもとに、乗組員が被曝した瞬間の放射線量を算出します。
映像 算出はGM-10ガイガーミューラカウンタノ線量率換算係数を利用しています

「かける4000。おお、とんでもない数字になりますね。方向探知機が、4000CPMの汚染があったと。これを3月27日のロメオ実験による汚染だとすると、時間あたり48.5ミリシーベルトになりますね。
ですから例えば10時間そこにいますとね、約485ミリシーベルト、約500ミリシーベルトですよね。500ミリシーベルトというと、白血球が減り始める、そういう線量に相当します。10時間いるだけでね。やはり相当な被曝、急性障害がおきてもおかしくない被曝があった可能性代ですよね、これね。」

ナレーション
第二幸成丸の乗組員22名。過酷な運命を背負った彼らは、40代、50代の若さで、次々と亡くなっていったのです。

映像 第二幸成丸死亡者(役職、没年齢、死亡原因)
甲板長 47 不明、機関長 53 心臓麻痺、機関員 54 肺ガン、機関員 54 心臓麻痺、機関員 59 血液のガン、船長 63 心臓発作、機関員 64 筋肉萎縮硬化症、漁労長 68 直腸ガン、甲板員 71 心臓麻痺、通信長 73 肺気腫、甲板員 不明 不明、甲板員 不明 肝硬変、機関員 不明 不明。

ナレーション
第二幸成丸の数少ない生存者の一人、有藤照雄さんは、現在、横須賀に住んでいます。偏見や差別を恐れ、長い間、口を閉ざしてきました。

有藤照雄
「(当時の手帳を見ながら)これ、終戦当時だから紙が悪いね。第二幸成丸の。その後、50年間、なんにも。私も自分だけに秘めて。こういう体験をしたということ、家族にも誰にも言わなかった、妹たちにも」

ナレーション
その後、有藤さんは自分の経験を妻に明かしました。

妻 有藤光江
「米軍だって、あれでしょう。そういう実験をして、人体実験みたいなもんだよねえ。主人が放射能を受けていたら、子どもが二人、生まれているじゃないですか。それでなんにも、子どもにね、具合が悪いとか、白血球が多いとか少ないとか、そういうことも全然でないし。だけどもこの子たち、父親のを遺伝して、こういうものをね、体のどっかにあるんじゃないかなあと思って、私は本当にこれ、死ぬまで心配だよね」

ナレーション
そもそも被曝したことを認められていない有藤さんたちは、国から医療費などの支援を受けることはできません。乗組員やその家族は、放射能の影響におびえながら生きていかなければならないのです。

2年前、南海放送が入手したアメリカ原子力委員会(現、アメリカエネルギー省)の機密文書。そこには6回の水爆実験によって生み出された放射性物質による汚染の実態が克明に記録されていました。
「5月初旬のヤンキーの実験の際、太平洋高気圧が強まり、日本には大量の放射性物質が降下した。多分、夏と初秋の実験では日本は最も放射能汚染されるであろう」

ナレーション
1954年3月1日、多くのマグロ漁船が操業するなか、アメリカ原子力委員会は、水爆ブラボーの実験を実施。放射性物質は東西に広がり、わずか一週間でアメリカ本土にまで達しています。
5月5日、5回目となる水爆ヤンキー。すると今度は日本が。徐々に日本列島をおびやかす汚染地図。そして5月17日、日本は放射性物質にすっぽりと覆いつくされたのです。
放射性物質の広がりを示す地図に第二幸成丸の航路を重ねて見ます。2月24日、第二幸成丸は日本を出港。3月1日、ブラボーが爆発。3月9日、第二幸成丸は放射能の領域に突入。3月11日、死の灰を浴びながら操業。そして3月27日、2回目となるロメオが爆発。新たな放射性物質が乗組員を襲います。操業を終えた第二幸成丸は4月1日、帰路につきます。
こうしてマグロ漁船の被曝は、当事者であるアメリカの機密文書によって裏付けられることになったのです。
さらに驚くべきことは実験の1年前、すでに122箇所の観測所が設置されていたことです。日本には三沢や東京など5箇所。被爆で苦しむ広島や長崎でも、アメリカは観測を行っていたのです。

野口邦和
「アメリカは世界的規模で汚染するということは、分かっていたはずですよね。というのはあのレポートを見れば、120箇所か、130箇所ぐらいに測定地点を設けて、本当に世界的な規模で、フォールアウトの影響を調べていますから。ということは世界的な規模で水爆実験をやれば、汚染は広がるということは承知していたんだと思うのですよね」

ナレーション
広島市立大学の高橋博子さんは、当時、アメリカがある想定をしていたことをつきとめました。」

広島市立大学平和研究所講師 高橋博子
「これは私が核実験当局者である原子力委員会の資料から入手してきた文書なのですけれども、なんでも影響があったかという、それを示す地図です。・・・さきほどの地図を、今度はワシントンDCを爆心地としておきかえたものがこちらの地図なのですけれども・・・」

ナレーション
原子力委員会は、水爆ブラボーがアメリカ本土で爆発したと想定し、どのような被害がでるかを検証していたのです。爆心地はワシントンDC。被害想定は、およそ200キロ離れたフィラデルフィア

高橋
「屋外にいた場合は100%が被ばくして、死亡率が50%。すべての人が何らかの病気になると、そういうことが述べられています」

ナレーション
久保山愛吉さんが亡くなった第五福竜丸が被曝した位置が、ちょうど、フィラデルフィアの位置にあたります。

水爆実験の映像
レッドウイング作戦 1956.5~7
核爆弾フラットヘッド 1956.6
核爆弾テワ 1956.7
ドミニク作戦 1962.4~11

ナレーション
アメリカは第五福竜丸事件からわずか2年後、核実験を再開。日本の漁船は汚染の続くその海でマグロ漁を続けたのです。そしてアメリカは世界最強の核兵器を手に入れたのです。

岡を登っていく映像
「ああしんど。もう登れんようになった」

ナレーション
高知県宿毛市。ここに生存者わずか2名という船がありました。

「おおようやっときた。じいさん。ようかきました」

ナレーション
11年前のこと。岡本豊子さんが自宅に帰ると、夫の清美さんが玄関先に倒れて死んでいました。

新生丸乗組員の妻 岡本豊子
「今日は一人やないでねえ。いっつも一人やけん。昨日きて、長いことお話しちょるけ」

ナレーション
6人の仲間たちとこの高地からマグロ船に乗り込んだ夫、清美さん。マグロ船、新生丸もまた、死の灰を被った船です。次々と死んでいく仲間を見送り、自らも病と闘った末になくなった清美さん。
闘病生活を支えた清美さんは、果たすことの出来なかった夫の無念を知っています。
事件から34年が過ぎた1988年。救済を求め、全国初となる被災船員の会が、高知県に発足します。

映像 高知県ビキニ被災船員の会が発足 1988年5月11日

代表世話人となった清美さん。議会に働きかけ、医師と連携し、自分たちで健康調査を実現しました。被曝の事実を国に認めさせたい。しかし夫は生前、妻の前で意外な言葉をもらしていました。

岡本豊子
「絶対にこれは成功せんね、言いよりました。」
-これは成功せんとは、どういう?-
「これは成功せんでしょう。これは国があいてやけん。自分らのあれ(力)ではできんことやもんねえ。ねえ、そうやかね。国相手にね、自分らがどう思うちょっても、なかなか。まあ元気におっただけ幸せよ。じきに亡くなった人もおるしね」

ナレーション
被災船員の会は、その後、会員の死亡が相次ぎ、解散を余儀なくされたのです。
新生丸乗組員の墓は、港を見下ろす、小高い岡に並んでいました。

「ここです。昭和58年の5月の28日か。61歳で書いちゅう。61歳。」
「(違う墓をさして)昭和58年6月の16日。52歳。この人もガンやった」

ナレーション
被曝の事実を認められないまま、亡くなっていった乗組員。新生丸に乗った男たちは19名。すでに17名が死亡しています。

映像 高知県太平洋核実験被災者支援センター 山下正寿さん(67歳) 東京で

ナレーション
調査を始めたころ、40歳の現役教師だった山下さん。ビキニ環礁での被曝事件を解明し、被災者を救済したいと、今も活動を続けています。

映像 全日本海員組合を訪問
「(海員しんぶんをさして)週1回でよったんですか」
「この当時は週1回。今は月3回です」

ナレーション
現在は被災した乗組員たちが被爆者健康手帳を公布されるように働きかけています。

山下
「広島・長崎以外にも、明らかにビキニ被災で影響を受けた人間に、原爆手帳を申請してくれと。こういうことはほとんど人に知られていないので、やっぱりぜひ、海員組合としても引き続き、取り上げてもらったらと思うのですけれども」
「そうですね」

映像 高知県教職員組合青年部での講演
「第五福竜丸ほどではないですけれども、火の玉をみた、爆発を見たという人が十数人いました」
ナレーション
事件から58年。残された時間はありません。

映像 山下の宿舎にて
-こんなにしんどい思いをして、変わりますかねえ
「それはやってみないと分からないから。そんなに急に変わる思うてはじまる思うちゃせんよ。ちょっとずつ、コツコツ、穴をあけるようにせないけん。谷川でね、カニがねえ、穴をあける。赤い子のカニが。それが堰を切るときがあるんだよ。
セメントで固めたものにね、カニが穴を開けていくんだよ。赤い子がおったらいかん言うて、赤い子がセメントを破って穴をあけるいうて。ま、そんな気持ちよ」
-じゃあ、先生は赤い子ですか
「赤い親じゃけど・・・。何か、いずれ変わる時が来るやろうと思うてやらんと、しんどうてできんわね」

ナレーション
日本中を放射性物質が覆った日からおよそ60年。またこの日本に放射性物質が降り注ぎました。

第二幸成丸船長の妻 崎山順子
「そりゃ今でもそうやか。あの、ほかの出しゆうあの、(福島原発事故の)記者会見じゃらで言うもんも、私らが知りたいことと、あの人らが言うことは違うように私は思うけんど。だから私らがなんぼそんな話(ビキニの話)をしたって、そんなの(誰も)知らんことやきに、いつの時代にも弱いものにしわ寄せがくるということは、いつの時代も一緒。うん、いつの時代も一緒や」

ナレーション
被曝したことを認めらず、原因さえ分からないまま死んでいった多くの乗組員たち。事件から58年。彼らは自らの死を通して、無言のメッセージを送り続けています。


ナレーター 鈴木省吾
朗読    保持卓一郎
シリーズ題字 柿沼康二
撮影    伊藤英朗
音声    山内登美子
ミキサー  山口誠
音効    番匠祐司
写真提供  朝日新聞社 毎日新聞社
ディレクター 伊藤英朗
プロデューサー 大西康司
製作著作  南海放送

 

番組は以上。記事は(下)に続きます。

 

 

 

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明日に向けて(577)同志社大学(13日)、ライトハウス(13日)、広島でお話します(16~18日)

2012年11月08日 18時00分00秒 | 講演予定一覧

守田です。(20121108 18:00)

来週の予定をお知らせしておきます。

11月13日、同志社大学の授業でお話します。同時にピースプロジェクトの一環なので、一般参加も可能です。
同志社大学新町校舎尋真館21番教室で、午前10時45分から12時15分まで。

「放射能時代を生きぬく」というタイトルで、今の放射線被曝の現実と、その中をいかに生き抜くのかのお話をします。
とくに若い方たち、学生さんたちに考えて欲しいことを強調したいと思います。

同日、午後6時半から、京都ライトハウスでお話します。民主青年同盟佛教大学班の主催です。
場所は京都市北区千本北大路下ルです。

学生さんたちの要望で、原発の矛盾を経済面からも説明して欲しいとのことなので、燃料棒を中心と放射性廃棄物の処理方法が未確立であるため予算がきちんとは経常されていないこと。未来世代に天文学的な金額が押し付けられようとしていること、これを隠して「安さ」が演出されていることなどをお話しようと思います。
その際、文科省が、学校教材として作った「あとみん」というインターネットに掲載されていたページを使います。
このページ、おそらくは文科省のお役人ではなく、原子力村の「イノセント」な住民たちが作ったもので、かなりあけすけに原子力政策の矛盾が書かれていました。というか「裏読み」するといろいろなことが見えてくる興味深いものだったのです。しかし残念なことに昨年の福島原発事故以降、閉鎖されてしまいました。ここからダウンロードしておいた貴重な資料を使ってお話します。
後半は同志社でもお話する、放射能時代をいかに生きるのかの知恵です。ここでもとくに若い方に聞いて欲しい内容を強調したいと思います。

1月15日京都市 グアテマラ・マヤ民族の女性の講演

11月15日は、僕の講演ではないのですが、グアテマラ・マヤ民族の女性が来京されますので、その講演会にスタッフとして参加します。
「グアテマラ・マヤ 先住民族女性の声 アナ・アリシアさん講演 沈黙を破って」という企画です。

中米・グアテマラでは1996年まで36年間続いた内戦のもとに、マヤ先住民族に過酷な弾圧が繰り返され、多くの女性たちが性暴力を受けました。
その彼女たちが、尊厳の回復を果たすべく、加害責任の追及に立ち上がっています。アナ・アリシアさんはその女性たちを支える現地NGOのメンバーです。
このグアテマラの女性たちの運動は、アジア各国における日本軍性奴隷問題被害女性たちの運動に大きく刺激されて始まったものです。
そうしたつながりもあって、台湾の阿媽たち、韓国のハルモニたち、フィリピンのロラたちなどなどとつながってきた私たちも、毎回、この運動に協力してきました。
グアテマラの女性たちの奮闘も、暴力の時代を全地球的に終わらせていくための重要な一環です。ぜひみなさんに注目していただきたいです。

15日の京都講演については詳しくは以下のチラシをご覧ください。東山区のいきき市民活動センターで18時半からです!
http://www.jca.apc.org/recom/2012-13/2012speaking-kyoto

なおスピーキングツアーは全国で開催されます。
はじめは11日日曜日東京です。以下、12日神奈川、14日京都・同志社今出川キャンパス、15日京都・東山いきいき市民活動センター、17日広島、18日広島、20日札幌、21日札幌、23日福岡、25日久留米と連続して行われます。
これらを記した、日本ラテンアメリカ協力ネットワークのページを紹介しておきますので、みなさま、ぜひお近くに会場に足を運んでください。原発という巨大な暴力との関連もきっと見えてくるのではないかと思います。
http://recomblog.blog92.fc2.com/


11月17,18日尾道市、広島市

17,18日にかけて広島市を訪れます。17日は広島市内で、18日の企画の主催者の方たちや、広島の反核・反原発市民運動を担われている方たちと交流の予定です。
18日には広島市内の世界平和記念聖堂(幟町カトリック教会)でお話します。午後2時からです。

カトリック教会の方にお招きを受けるのは、京都で3回、大阪で1回につぐ5度目のことになります。
そのはじめ、昨年6月25日に、カトリック正義と平和京都協議会に三条カトリック教会にお呼びいただいたときに、記事を書きました。
前ローマ法王のヨハネ・パウロ2世が広島を訪れられ、「平和アピール」を出されたこと、またその法王と、僕の師の一人である
宇沢弘文さんが、素敵な交流をなされたことです。

今回、カトリック平和と正義広島協議会のみなさんにお呼びいただくことに際して、再度、この記事をご紹介しておきたいと思います。

明日に向けて(135) カトリックと正義と平和と社会的共通資本
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/3d224921a0eb57e19cddc1e2374b2c36


以上、お近くの方、ぜひお越しください。

僕の講演会の案内を貼り付けておきます。


************

11月13日京都市
 
同志社大学にて講演
時間 10:45~12:15

同志社新町キャンパス尋真館21番教室
終了後、学生さんたちと、バザールカフェでランチの予定です!
 
***
 
11月13日京都市
 
京都ライトハウスにて講演
時間 18:30より

北区千本北大路下ル
 
主催 民青同盟佛教大学班
 
***
 
11月18日広島市
 
守田敏也講演会
「福島の現状と内部被曝の危険性について」
 
京都在住のフリーライター守田敏也さんの講演会を開催します。
昨年に引き続きカトリック教会では脱原発学習会を計画しました。
その一環として、守田敏也さんをお呼びして取材活動を通しての
福島の現状、内部被曝についてお話をお聞きします。
 
日時 11月18日(日)
14:00~16:00
 
場所 世界平和記念聖堂(幟町カトリック教会)
 
資料代 500円
 
問い合わせ カトリック正義と平和広島協議会
090-7997-1855(牧山)
 
主催 広島地区平和推進チーム・カトリック正義と平和広島協議会

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明日に向けて(576)ビキニ環礁水爆実験を問い直す(上)

2012年11月07日 21時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121107 21:00)

昨日、11月11日に参加する京都市醍醐母親大会との関連で、ビキニ環礁核実験と第五福竜丸の被曝などを再度、捉え直すべきことを書きましたが、今回はそれをさらに一歩、進めるために、昨日も紹介した番組を取り上げようと思います。
番組名は『放射線を浴びたX年後』。愛知県松山市の南海放送が8年間にわたって作成したものです。これに映像を追加したものが各地で劇場公開されています。詳しくは以下をご覧ください。
http://x311.info/

映画の紹介のチラシには以下のように書かれています。

***

1954年アメリカが行ったビキニ水爆実験。当時、多くの日本の漁船が同じ海で操業していた。にもかかわらず、第五福龍丸以外の「被ばく」は、人々の記憶、そして歴史からもなぜか消し去られていった。闇に葬られようとしていたその重大事件に光をあてたのは、高知県の港町で地道な調査を続けた教師や高校生たちだった。
その足跡を丹念にたどったあるローカル局のTVマンの8年にわたる長期取材のなかで、次々に明らかになっていく船員たちの衝撃的なその後…。そして、ついにたどり着いた、 "機密文書"…そこには、日本にも及んだ深刻な汚染の記録があった―
 
南海放送(愛媛県松山市)では約8年にわたり、これまであまり知られることのなかった「もうひとつのビキニ事件」の実態を描いてきた。地元の被災漁民に聞き取りをする高知県の調査団との出会いがきっかけだった。
制作した番組は「地方の時代映像祭 グランプリ」「民間放送連盟賞 優秀賞」「早稲田ジャーナリズム大賞 大賞」など、多数受賞。2012年1月に「NNNドキュメント」(日本テレビ系列)で全国放送され反響を呼んだ『放射線を浴びたX年後』に新たな映像を加えた映画化。

***

この2012年1月に放送されたものを、僕は録画していて、最近見て、感銘を受けました。同時に、広島・長崎のことだけではなく、この核実験での被曝の問題をもっときちんと押さえなくてはいけないという思いを強めました。
ビキニ環礁の核実験は、1954年3月から5月に6回も行われました。その規模はどれも広島原爆を1000倍もするもの。従って、そこで放出された放射能も、広島・長崎原爆で振りまかれたものとは桁違いでした。
例えば僕の親友のある女性は1954年4月の生まれです。彼女が最近、同窓会であった7人の女性のうち、なんと6人がすでにガンを経験していたという。これにはこのときの実験の影響があるのではないか。つまりこの事件は、私たちの今に大きくつながっているのではないかと思えるのです。

したがってまた私たちは、広島・長崎、ビキニ、そしてスリーマイル、チェルノブイリ、福島、あるいはまた劣化ウラン弾の降り注がれたイラクやコソボなど、あらゆる「被曝」をひとつの系で見ていく必要があるし、その中から未来に向けた重大な何かをつかみだせるのではないかと思うのです。

そのために今回はこの番組の内容をノートテークしてみなさんにお伝えしようと思いたちました。映画については紹介が遅れたために、すでに上映が終わってしまったところも多いようで残念ですが、ぜひお近くの劇場での公開見つけたときには、駆けつけてご覧になってください。
以下、文字起こしをお送りします。

*********

ナレーション
2011年3月、原子炉から放出された放射性物質がばらまかれました。一般市民に向けられる線量計。繰り返される直ちに健康に影響はないという言葉。目に見えぬ放射能の恐怖に人々は不安を抱いたままです。
しかし今から58年前、同じこの日本で線量計が人々に向けられたことは知られていません。そして日本全土が、放射性物質ですっぽりと覆われたことも。
救済されることなく死んでいった多くの人々がいることも。

タイトル
放射線を浴びたX年後
ビキニ水爆実験、そして・・・

ナレーション
元高校教師の山下正寿さん(67)は、かつてアメリカが太平洋で行った水爆実験による被害を、27年にわたり調査してきました。

山下 フィルムをさしながら
「水爆を見た人・・・」

ナレーション
撮影されたフィルムには被曝した漁師たちの証言が記録されています。

映像に写っている漁民たちの言葉
「ピカーンときたがや。目をとられるば。ピカーンと。おおっとこれはどういうやろうと。しょったところ、真っ赤になって・・・」
「ピカッときのこ雲が出て、水平線から水平線までいったもん。ざーっと」

「亡くなった方は分かりますか」
「タケダトヨジ、タケダトヨキチ、この人らはほとんどもうガンですね」

1954年3月1日水爆ブラボーの映像

ナレーション
1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験。広島型原爆の1000倍の破壊力を持つ水爆が、マグロ漁船、第五福竜丸を襲います。吹き上げられた珊瑚の粉に、放射性物質が付着したいわゆる死の灰によって、乗組員が被曝。
6ヵ月後、通信長の久保山愛吉さんが、急性放射能症のため死亡(9月23日)。いわゆる第五福竜丸事件です。

南太平洋でのマグロ漁(1950年代)の映像

ナレーション
しかし放射能で汚染された死の海にいたのは、この船だけではありませんでした。

第二幸成丸乗組員
「全部、ガイガー計数器いいますか、これ全部こうみんな、全員やられたもんね。針がプッと振り切れてますわね」
他の同船乗組員
「それで私がやられた頭で1500(カウント)と言われたの」
他の同船乗組員
「ガイガー測定器、メーターを振り切ったねえ。体いったい、どこもかしこもね」

ナレーション
キャッスル作戦と名づけられた水爆実験は、3ヶ月の間に6回行われました。

映像
①ブラボー 1954.3.1 
②ロメオ       3.27
③クーン       4.7
④ユニオン      4.26
⑤ヤンキー      5.5
⑥ネクター      5.14

ナレーション
セシウム、ヨウ素、ストロンチウム、プルトニウムなどが海を汚染。さらに上空に吹き上げられた多量の放射性物質が漁船を襲いました。やがて多くの乗組員たちが次々と死んでいきます。

新生丸乗組員の妻
「窓を開けて、血をポッタリと吐いてね、死んでおったがです」
新生丸乗組員
「その船にのっちょった人間がどんどん、50代、60代で亡いようになって」
新生丸乗組員の別の妻
「もう、みんな若くしてね、ほとんど亡くなってしまったから、みんなが。ほとんど亡くなりましたね」
新生丸乗組員のさらに別の妻
「バタバタバタバターって亡くなってったんだよね」
第八昇栄丸乗組員
「みなもう、はよう死んでもうたわ」

同じ船に乗っていた夫と兄、そして義理の兄を相次いで亡くした女性がいます。

映像
兄 三木善喜さん 頸部のガン 享年63歳
夫 尾野竹重さん すい臓ガン 享年63歳
義兄 山村政光さん 心臓発作 享年65歳

尾野スミエ
「私の兄と、姉婿と、乗っていたみんながつらつらーっとのうなってしもうた。私の兄と一週間違いでのうなってしもうた、うちのお父さんがね。それから2年ぐらい先に姉婿がのうなったからね。
病院の上、下に部屋をとってね、(夫は)背中が痛い、言い出してね。それから病院に検査にいったらもう手遅れでね。すい臓も肝臓もガンで侵されちょってね」

ナレーション
高知県、土佐清水市に放置されていたマグロ漁船、住吉丸。かつてあの第五福竜丸と同じ海で操業していました。見つけたのは高知県で教師を務める山下さんと生徒たちでした。住吉丸は本当に被曝したのか。残留放射線の測定を試みます。

「どういうこと?」「なぜ?」

事件から35年が過ぎているにもかかわらず、船体からセシウム137、ストロンチウム90などが検出されました。調べてみると、乗組員11名のうち8名がガンで亡くなっていたのです。(胃ガン5名、肺ガン3名)
山下さんは50代の人間が何人も亡くなっていることを知り、衝撃を受けます。

山下
「教師になって帰ってきて、この事件にぶつかりましたから、第五福竜丸だけのはずなのに、おかしい。しかも自分の身近なところにいる人も関係しているということは、すごく緊張感がありましたからね。人の問題ですから。しかも救済はどこもしないですから。誰かがやらなければいけないことですよね」

ナレーション
山下さんは仲間の教師や高校生とともに被災者の聞き取り調査をはじめました。救済されることもなく、口を閉ざしてきた漁師たち。高校生の懸命な姿が生存者や遺族の心を開いていきました。被曝した魚を水揚げした船は東北から九州まで全国にわたっていました。
そのうち高知県の船が三分の一。3年にわたる調査のうち、高知県内で消息の分かった乗組員は241名。被曝から34年。すでに三分の一が死亡していたのです。(死亡者77名 32% うちガンなどの病死者61名)

調査用紙に残された生々しい証言。

第八順光丸乗組員
「実験直後、めまい、やけどあり。歯茎から出血。」
第七大丸乗組員
「白血球少ない」
第一徳寿丸乗組員
「きのこ雲を目撃。二週間後、脱毛が起こり、顔が真っ黒くなる。
第八順光丸乗組員
「だるさ、脱毛」
第二幸成丸乗組員
「29歳で被災、脱毛が起こった」
第七長久丸乗組員
「水爆との関係は不明だが、機関長は2年くらい前に胃ガンで死亡。甲板長は30歳で胃ガンで死亡した」
新生丸乗組員
「大腸ガン死、肺病死、口頭ガン死」

漁師たちの無念をはらしたい。山下さんの活動は高校教師を辞めたあとも続いていました。

映像
長崎県南島原市口之津町の故林三義宅を山下さんが訪問

山下
「おはようございます。平さん、よろしいですかね。先に三義さんにお線香をあげたいんですが」「あら、そうですか」

ナレーション
当時、ビキニ海域にいたのは、まぐろ漁船だけではありませんでした。貨物船弥彦丸の乗組員、平三義さん(享年71歳)は、40歳のとき、岡山大学付属病院で放射性物質による白血球減少症の疑と診断を受け、被爆者健康手帳の交付を求めます。
しかし広島、長崎の被爆者ではないという理由だけで、申請は却下されたといいます。

山下
「体がだるいゆうて、よく言われていたようですね」
林チミ(三義妻)
「そうですね。もうきついきついっていうてからですね、寝たり起きたり、寝たり起きたり」
山下
「もうちょっと早ければ良かったのですけれど、今からでも調べたいと思っていますので」

「もうこっち(口之津)には(生存者)おられないですものね。口之津には、3人、4人いられたのですよね」
山下
「でも大変でしたね、ずっとそうやって、看病したり病院にいったりせないかんのはね」

「運命って思わにゃ、仕方ないですね。苦労しました。そっちこっちにね、病院通いばっかりじゃったですよ。」


山下
「漁民の体を通して、ガンとか心臓発作とかそういう病気を通して、『なぜ俺はこんな目にあって死ななきゃいけないのか』という思いをずっと積み重ねているわけですからね。そのときに初めて明らかになるという。そういう意味で怖いですよね。
何十年も経たないと明らかにならないという。何十年経ってやっと、漁船員の死を通して立証されようとしているということですから。」

ナレーション
調査中、山下さんは被曝の実態解明にいたる、重要な手がかりに出会います。

映像
第二幸成丸船長の妻 崎山順子さんと漁業日記を調査

山下
「(日記を読みながら)「引き続き続行中」。非常に風が吹いたんですね」

ナレーション
それは第二幸成丸船長の崎山秀雄さんの残した漁業日記でした。通常、航海が終わると廃棄される漁業日記。偶然発見されたこのノートから、船の位置や操業の様子。被害の実態をたどることができたのです」
(日記)「2月24日晴れ。14時30分、浦賀出港。一路、マーシャルへ。」

紙テープで彩られた浦賀港。航海の無事と豊漁を願ってかけつけた家族に見送られ、第二幸成丸は二週間をかけ、南太平洋を目指します。
(日記)「3月1日、連日、向かい風強く、引き続き、続行中。東経154度57分5秒、北緯28度24分」

出港して六日目。3月1日アメリカは一回目の実験となる水爆ブラボーを爆発させます。第二幸成丸の通信長、山下昇一さんは無線を傍受。第五福竜丸が死の灰を浴びた・・・

第二幸成丸山下通信長の妻 山下尚子さん
「自分が無線でツーツーやっているでしょう。トンツートンツーいいますか、あれで。そのときに分かったらしいのですの。第五福竜丸が(死の灰を)被ったいうことが。
あれらがやられたということを自分が無線で聞いたらしいです。灰を被ったということを。自分が一番近くにいるということがわかるでしょ。それで船員には伝えたらしいです」
第二幸成丸乗組員 有藤照雄さん
通信長は、「静岡の船が空から灰のようなものが降ってきて、珍しい、皆、拾ったらしい」と聞いたのですよ。


ナレーション
第五福竜丸が死の灰を浴びて帰路を急いでいたころ、第二幸成丸は船を進めていました。アメリカが定めた危険区域を避け、3月11日からマグロ漁をはじめます。操業中の3月27日、アメリカは2回目に水爆ロメオを爆発させます。33キロメートルの上空に吹き上げられた放射性物質が、第二幸成丸にも降り注ぎました。

山下尚子さん
「雲といいますか、あれはね、遠くから見たそうです。それでやっぱり離れちょったけれど、かぶっちょったらしいんですねえ。」


第二幸成丸乗組員 桑野浩
「日中に食堂に行き時に一番気がつきます」

ナレーション
第二幸成丸の生存者の一人、桑野浩さんは最年少の19歳。当時、被っていた帽子が自分の身を守ってくれたと考えています。

桑野
「鮮明に覚えているのは、飯の鐘がなるでしょう。若い衆から、タッタッターと、トモ言うんですけどねえ。船尾の方に走っていきますわねえ。そのときにパラパラと降っていることが何回もあったんですわ。生存されている方は、私の同僚では、やっぱり私と同じようにね、ピシッと帽子を被ってね、合羽を着て、防護をある程度、してましたね。まともに灰を体に入れた人は、早死にしていますね。」

ナレーション
松野繁樹さんは、知らず知らずのうちに、除染をしていました。

第二幸成丸乗組員松野繁樹
「ブリッジの上とか、マストとか、煙突ね、それから漁具をおいてあるところね。そこなんか水をかけたけれどね。やっぱり、水に流されてね、水のはけ口にたまっておったんですわね。それが覚えてますわ」

ナレーション
乗組員たちは、放射能で汚染されたマグロを食べ、海水を浴び、死の灰の積もった船で、30日間を過ごしました。4月25日9時30分、浦賀にひとまず入港。15時、東京魚河岸に係留。ただちに原子カウント検査。
第二幸成丸を待っていたのは、カメラのフラッシュと、ガイガーカウンターのけたたましい音。港は騒然としていました。

続く

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明日に向けて(575)汚点紫=しみむらさき(8日)、醍醐母親大会(11日)でお話します!

2012年11月06日 22時00分00秒 | 講演予定一覧

守田です。(20121106 22:00)

当面の講演の予定です。8日と11日のものの詳細をお伝えします。

まず明後日11月8日に、京都市の北大路堀川交差点北西のお店、汚点紫(しみむらさき)のライブの途中でお話することになりました。以下のように案内されています。

***

京都@汚点紫20:00〜入場無料・投げ銭制(要オーダー)[出演]pigs in a straw house/坂本純/守田敏也(トーク)/AUX/江沢野々海/銀ちゃん

***

実は僕自身、このお店のことがよく分かっていません。ネットで調べたら、次のような紹介記事がありました。町家を改装したカフェギャラリーだとのことです。
http://kyoto.hiho.jp/7kyoto-simi.html

pigs in a straw house&坂本純さんのことも知らないので調べてみたら、次のような紹介があり、僕のことも既に載せていただいていました。

PIGS IN A STRAW HOUSE
牧島竜也(ボーカル・ギター)、上田真寿夫(マンドリン)、山下道生(ギター)によるユニット。ブルース、カントリー等を基調としたプロテストソングを歌う。

坂本純
山口県岩国市在住のサーフ・シンガーソングライター。独特の渋い歌声でフォーク、ブルースを歌う。

・・・とのことです。
http://d.hatena.ne.jp/simimurasaki/20121029/p2

こんな映像もみつけました。

PIGS IN A STRAW HOUSE
http://www.youtube.com/watch?v=bALsTVGgMP4
http://www.facebook.com/pigs.strawhouse?v=info#!/photo.php?v=1934414045971&set=vb.144402265609229&type=3&theater

坂本純
http://www.youtube.com/watch?v=vYg7hZ_uyLg

・・・僕は聴いてみていいなあと思いました。
ともあれこのブルース調のミュージック?に合わせて、内部被曝のお話をします。お近くの方、お越しください。

*****

続いて11月11日に醍醐の母親大会に参加します。僕は、母親大会には、京都の各地でもう何度か参加させていただいています。
この「母親大会」は1954年3月1日にアメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、広範な領域に死の灰を降らせる中で、第5福竜丸をはじめ、多くのマグロ漁船などが被曝をしたことに対し、日本各地で母親たち、女性たちが立ち上がったことを出発点としています。

その後、運動は世界に波及。1956年にスイスで世界大会が開かれ、日本からも14人が参加したそうです。以来、「母親 それは母性をもつすべての女性を対象にした呼び名 生命(いのち)を生みだす母親は 生命を育て 生命を守ることをのぞみます」を合言葉に運動が重ねられてきました。
今日でも継続しているのは残念ながら日本だけだそうですが、この運動が、ビキニ環礁での水爆実験への怒り、放射能から生命を守ろうとした思いから出発してきたことを思うとき、今日、その意義はますます大きくなっていると思います。

とくに私たちは、もう一度今、ビキニ環礁水爆実験とはなんだったのか。そこで被曝した人々はその後どうなったのか、そのことに思いを寄せる必要があります。その点で、ぜひみなさんに見ていただきたいのはドキュメント映画『放射線を浴びたX年後』です。
これは地方放送である南海放送が8年の歳月をかけて作った、「ビキニ環礁X年後」の記録です。番組は数々のジャーナリズム賞を受けた後、2012年1月にNNNドキュメントで全国放送されて反響を浴びましたが、これに新たな映像を加えた劇場版の公開が、すでに全国で始まっています。

実は僕も録画してあったこの番組を最近になってみましたが、大変な衝撃を得ました。僕は先に「そこで被曝した人々はどうなったのか」と書きましたが、そこで被曝したのは実は日本人全体なのです!いや世界中の多くの人々が激しく被曝してしまった。
そしてその中の最も激しい被曝を受けたのが、漁船に乗っていた人々、周辺の島々に住んでいる人々なのでした。その方たちはその後、ガンなどでどんどん若くして亡くなっていきました。映像はそれらを追いかけているのですが、それはこの核実験での被曝した人々のいわば代表だと思えます。

実際には、例えば僕の両親も被曝していたに違いありません。いやそれだけではありません。僕は1959年生まれなので、僕より少し年上の方たちの多くが、幼少時に被曝しているのです。胎児のときに被曝している可能性もある。
いや被曝ということで言えば、核実験はその後も続けられたので、僕も被曝しているだろうし、中国の核実験を考えればもっと多くの世代に被曝は広がっているでしょう。

そして今、私たちの国はガン大国になっています。何か医療が発達して、他の疾病が抑えられるようになったからガンが増えているようないい方もされていますが、そんなもの、まったく勝手な推論でしかありません。程度の差こそあれ、被曝は確実にあった問題です。
実際、私たちの周りには本当にガンが多い。とくに僕よりも少し上の年代の人たちに聞くと、あちこちでガンの話を聞きます。確かに医療が素晴らしく進歩したおかげでその多くが死にいたる病ではなくなり、治癒が可能になりました。しかしこんなにガンが多いのが自然な姿なのでしょうか。

そうではない。放射能を浴びたX年後の影響が、まさに今、激しく出ているのではないか?今、私たちはその問を大きく掲げなければならないように思います。そのことを考えるときに、母親大会がはじまってから今日にいたる私たちの国、いや世界における被曝との格闘の軌跡を振り返る必要を感じます。
こう書くのは、同時に、この母親たちがはじめた反核兵器運動の大きなうねりを抑え込む位置から始められたのが、原子力発電の日本への導入だったという見解に最近、行き当たったからでもあります。

これが書いてあったのは『戦後史の正体』孫崎 享という本です。まだ全体を読んでないので、本書の評価はできませんが、そこに日本における核実験反対運動の高揚に困り果てた日米両政府が、「毒をもって毒を制す」作戦として、原発の日本導入を決めた経緯が書かれています。
実際にそうなのかもしれない。その意味で、原発は、ビキニ環礁水爆実験と第5福竜丸などの被曝の延長上で日本に次々と建てられた可能性があります。そうしたことも視野に入れて、この過程を振り返る必要があります。

今回の醍醐母親大会で、僕は少しくこの経緯に触れるところから話を始めさせていただこうと思っています。この間の講演でははじめて触れる内容になります。そこから現在の福島事故の問題に入っていきます。このように見ることで、原爆・原発・福島事故がひとつの線でつながってみえてくると思うのです。
そして後半で、この放射能との「共存」時代、誰もが被曝から自由ではありえないこの社会の中で、私たちがいかに生きていけばよいのか、いかにすれば活路が開けるのかのお話をしたいと思います。お近くの方、ぜひご参加ください。

***

いのちを生み出す母親はいのちを育ていのちを守ることをのぞみます
第25回醍醐母親大会
 
11月11日(日)13:30~16:00
醍醐交流会館(ダイゴロー)第2会議室
 
放射線被曝の真実
~こどもたちを放射能汚染から守るために内部被曝と食べ物の安全について学ぼう~
 
どなたでも気軽にご参加ください。
 
13:15 受付
13:30 おはなし
15:00 被災者の方から
15:20 質問など
 
原発事故による不安や疑問を出し合いましょう
 
参加協力券 200円(飲み物付き)
 
醍醐母親大会実行委員会
 
連絡先 久保
電話 075-571-4422 FAX 075-571-4450

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明日に向けて(574)台湾の呉秀妹阿媽が逝去されました・・・。

2012年11月05日 23時00分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121105 23:00)
 
みなさま。10月始めに危篤になり、一時期、小康状態を取り戻していてくれた呉秀妹阿媽が、11月3日にとうとうご逝去されました。阿媽のご冥福を心からお祈りしたいと思います。
 
すでにお伝えしたように、僕は阿媽が危篤に陥った時に、逝去されたとの誤報を出してしまいました。そのとき涙を流しながら追悼文を書いたのですが、今もう一度それを、リライトしています。
あのほがらかだった阿媽がもうこの世にいないというのは、本当に淋しいことです。でもつくづく阿媽は、私たちにたくさんのことを残してくれたとの思いを強めています。何よりも人間の尊厳を示して生き抜いてくれたました。人間にどれだけの力があるのかを示してくれました。彼女は頑張って、頑張って、生き抜いてくれたのです。本当にそのことに感謝あるのみです。
 
今、僕の前にはアマアと一緒に撮ったたくさんの写真があります。どの写真でもアマアは楽しそうに笑っています。一つ一つから思い出が蘇ってきます。例えば目に入ってくるのは京都訪問の際に、事前に大阪城にお連れしたときのこと。長い石段を「加油(ガユ)加油(ガユ)=頑張れ、頑張れ」といいながら登っていたアマア。
ちなみにガユは台湾語。北京語ではジャーヨウという感じでしょうか。そうやって、いつでも楽しそうに、「頑張れ、頑張れ」を自分に繰り返すアマアでした。
あるいは京都でのウエルカムパーティーで、みんなが用意したピンクのドレスに身を包んで、本当に可愛らしく笑っている写真があります。あのとき阿媽は本当に喜んでくれました。それで私たちも本当に嬉しかったのでした。アマアはいつでもなんでも喜び、楽しんでくれて、それで私たちを喜ばす名人でした。

アマア。本当にたくさんのことをどうもありがとう。どうか、安らかに寝てください。もう何も心配する必要はありません。もう何にも苦しまなくていいのです。どうか静かに、寝てください。
思いは私たちが十分に引き継ぎました。アマアは若い人がもう二度と、あんな思いをしてはいけないとそう思っていたのですよね。だから何度も辛い過去を話してくれました。もう二度と若い人があんな思いを味わってはいけないと、心を込めて語ってくれました。必ず思いをつなげます。
 

僕が9月に台湾に行き、アマアのお宅にうかがったとき、アマアは車椅子に座って、ただうつむいているだけでしたね。もう笑う力も残っていなかったのでした。でも僕の名前はしっかりと言ってくれました。みんなの名前も間違えずに言ってくれました。
 
僕たちがプレゼントに買っていった羽毛の布団をみて、一言、「高いよ」と日本語で言いました。「ああ、こんなに高いものを買ってきてしまって」ときっとそう言いたかったのでしょう。小さいときからお金で苦労したアマア。だから金銭感覚がとても鋭くて、プレゼントをすると必ず何かで返そうとしてしたくれましたね。
京都で行ったウエルカムパーティーのこともずっと覚えていてくれて、「あれにはたくさんお金がかかったはずだ」と気にもし続けてくれたアマアでした。
でもアマアはその後にすぐに入院されてしまいました。だからあの布団、アマアは一度も使えなかったかもしれませんね。アマアはもったいないと思っているかもしれない。でもそんなこと、ぜんぜん気にしなくていいのですよ。
 
実はあのとき、アマアの姿をみて、僕は正直言うと、ショックを受けてしまいました。笑わないアマアを見たのは初めてでした。僕はアマアの笑顔が見たかった。待っていてくれて笑ってくれると思っていた。
そのために日本に帰って、僕は身悶えしてしまいました。もっと早く行けば良かった。アマアが「ああ守田さん」と言って、ニッコリ笑えるうちにいけば良かった。どうしてそうしなかったのだろうと、僕は子どものようにポロポロと涙を流しました。
 
でもアマア、今はそれは甘えだったと反省しています。だって1年以上、いけなかったのは仕方がなかった。僕は放射線防護で走ったのでした。いつもアマアのことが気にかかってはいたけれども、僕はそれを選択したのでした。
 
それに対してアマアは、僕たちが再度、行けるようになる日まで、頑張って、生きていてくれたのでした。しかも僕らが行くときに、病院から出てきてくれたのでした。それで最後の力を振り絞って、アマアの家で僕らの前に姿をあらわしてくれたのでした。今はそれが奇跡だったことがよく分かります。
 
もうアマアは笑えなかったけれど、でも今、思います。会えて本当に良かった。アマアは待っていてくれたのでした。そう、最後の気力で待っていてくれた。本当に感謝あるのみです。アマアは笑っていなかったのではけしてない。ただ顔の筋肉が疲れて、笑みを表すことができなかっただけですよね。
 
アマアは最後に、小さな声で、多謝(トウシャ)と言ってくれました。笑えなくても、御礼の言葉だけは絞り出してくれたのですね。たくさんの思いを込めて僕らにこの言葉を贈ってくれたのですね。


しかもアマアはその後に危篤になってからもう一度、持ち直し、たくさんの人がお別れに来る時間すら作ってくれたのでした。僕は行けなかったけれど、東京からも本当に長い間、アマアたちと一緒に生きてきた柴さんが駆けつけてくださいました。
柴さんの前で、アマアは訪れる色々な人に、ただただ、お礼を述べていたそうですね。日本人の柴さんには「ありがとう」と日本語で。台湾の人には、あるときは「多謝(トウシャ)」と台湾語で。またあるときは「謝謝(シエシエ)」と北京語で。繰り返し繰り返し、述べていたそうですね。

柴さんはこうも述べています。
「私が帰る前日、『私はもうすぐ死ぬよ』といい、『もう一度元気になって家へ帰ろうよ』という私に静かに首を横に振りました」・・・・・。

アマアは、自分が旅立つ日が近いことを分かっていたのですね。いや、もう旅たつ間際にいるのに、少しだけ踏みとどまってたくさんの人にお礼を述べてくれたのですね。それが秀妹阿媽なのですね。いつも人の恩には必ず報いようとした。親切には必ず愛で返そうとした。
だからアマアは危篤になってすぐに去るわけにはいかなかったのでしょう。たくさん、たくさんお礼を述べなければ、旅立つことができなかったのでしょう。
そうして一ヶ月、アマアは最後の命を燃やしてくれました。出会った人々に最後の最後まで感謝を捧げ抜いて、そうしてアマアは静かに旅立たれました。
 

「私は今が一番幸せです。日本に来て素晴らしい人たちと会えた。守田さんたちと会えた」。2008年の京都で証言集会のときに語ってくれたアマアのあの言葉が今、耳に聞こえてきます。

あの日の発言で、アマアはこんな風に語ってくれたのでした。
「被害を名乗り出て、婦援会に会って、私の人生は変った。それまでは辛いことばかりだった。日本軍にひどいめに会い、そのために子どもを産めない身体になってしまった。結婚をしたけれど、子どもを産めないことを責められて不仲だった。あまりに淋しいので、養女を育てたけれども、それほど仲が良くなかった。
ところが婦援会に出会い、何かが変り出した。仲間ができて、こうして日本にも来ることができた。そして守田さんや桐子やみなさんに会えて、こんなにも、優しくしてもらえた。私は自分の人生は不幸ばかりだと思っていた。でも最近になってそうではなくて、最後に幸せがやってきたと思うようになった。今が一番幸せです」。

そうしてあの笑顔、たくさん見せてくれた笑顔。それが次から次へとまぶたに浮かびます。

 
アマア。僕もあたなと会えて、本当に幸せでした。あなたの晩年のほんの一部を一緒に過ごさせていただいて、たくさんのものをもらいました。僕はこの先、何度もあなたのことを思い出すでしょう。そうしてそのたびに、心が温かくなるでしょう。アマア。さようなら。ゆっくりしてください。先に行ったアマアたちとも会って、みんなで楽しく過ごしてね。
 
僕はまだこの世で走ります。人間の世に光あれと念じながら。アマアたちのことを胸に抱きながら。そうしていつしか僕も走れなくなり、アマアたちのいるところに行くことになったら、またアマアをお訪ねします。そのときはあの笑顔をまた見せてくださいね。
 
それまでさようなら。たくさんの愛をありがとうございました。
 
合掌

 

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明日に向けて(573)平智之衆議院議員と対談します。(11月4日)

2012年11月02日 09時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121102 09:30)

11月4日に、大飯原発再稼働に反対して民主党を飛び出した衆議院議員、平智之さんと対談することになりました。

平さんは民主党にあって、「原発事故収束対策プロジェクトチーム」事務局次長として「禁原発」を訴えてきた方です。「禁原発」とは、「脱原発」といいながら、何年後には原発を止めるとかの時間稼ぎばかりを画策している他の議員たちの姿勢に対し、「即時廃炉」を明確にするための言葉。
このため野田首相による大飯原発再稼働強行決定に対して、二日後の6月18日に離党届けを提出。禁原発の意志を貫きました。

この時の思いを平さんは次のように語られています。
「再稼働に至り、もう私自身の一貫性が保てないと判断しました。党内で何を言っても、”ガス抜き”に使われるだけだと気がついたのです」
「これまで原発利権に巣くっていた政・官・財の『鉄のトライアングル』が原子力政策の変更を許さず、野田首相もこれに屈して続行を宣言したということ。これで、政権交代の意味はすべてなくなりましたね」(週刊金曜日20120803号)

そんな平議員が、京都から選出されている方であるということもあって、京都で放射線防護で奮闘してきたある友人から、この禁原発の思いに共感している、僕にも話をしてみてほしいとの話が舞い込みました。
それでともあれお時間を作っていただき、お会いすることになり、京都の平さんの事務所をおたずねしました。

しかしどんな話になったかというと、はじめはあまりかみ合いませんでした。平さんは国会でいかに原発を食い止めていく法律を作るかを考えていらっしゃいます。
僕はそれはそれで大事なことだとは思うけれども、正直なところ、国会の中のことは僕にはできることがないし、申し訳ないけれどもそれほど関心がありません。
すべての原発の即時廃炉を求めている点、また低線量被曝の危険性をしっかりと認識し、徹底した放射線防護を推し進めようとの方向性ではまったく違いがないものの、そこに向かうスタンスがあまりに違うように思えたのです。

その思いは、今もすべてが解消したわけではありません。そもそも僕には国会という場がよく分からない。なんというか、あまりに遠いい場だというのが正直なところです。とくにそこでの多数派形成ということに胡散臭さばかりを感じます。

漠然とした言い方ですが、どうも僕には、国会には、パワー崇拝が支配しているように思えてならない。「正しいことを言っていても、少数派であるかぎりはダメだ」とか言って、多数派を目指すうちにどんどん志が曲がっていく。
それは志よりもパワーに価値をおいているからではないか。その考えは、強ければいい、力があればいい、だから原発も持ちたい・・・と戦後日本が走ってきた考えと根っこを同じにしているのではないか。それがこびりついているのが国会なのではないかと思えてならないのです。

ただそれだけ言っていたら、国会議員という存在を全否定してしまうことになるし、そこで志を貫こうとする行為も全否定してしまうことになる。
それではあまりに傲慢だということはわかっています。でもそれでは国会の場で人はどう行動すればいいのか僕にはよく見えない。少数派でもいいではないか。志を曲げなければそれでいいではないかと思うのだけれど、それで議員を続けられるのかどうか僕にはわかりません。

そんな思いがあり、話の方向をどこに持っていったら良いのか、おそらくお互いに困っていた時間があったと思うのですが、あるところからピタッと一致する見解が得られました。それは今の世の中、この日本の状態が、私たち、男性が中心になっていることによってもたらされてるのではないかという点です。

平さんは言います。女性はダメなものはダメ、危ないものは危ないと発想する。男性は、ダメかもしれないけれども、電力はどうするのかとか、危ないかもしれなけれども、代替するものはあるかとか、そういう理屈(実は屁理屈)を持ってこられると、どうもそれにはまってしまう傾向がある。
それで官僚は、論議の本質からすれば枝葉のところに議論をずらし、細かい点に話をもっていこうとするのだけれど、男性はこれにはまりやすい。その挙句にダメなことはダメだと言い切れずに押し切られてしまうのだというのです。これを変えなければいけないとも。

「え、そう考えるのですか?それはいい。そういう考えなら何か一緒にできますね」と僕は説得されてしまった。ああ、なんだかこの人は僕がイメージしている「国会議員」っぽくないなと思いました。「禁原発」=ダメなものはダメ!それには共感するなあと思ったのです。

でも今になってもやはり僕には国会はかなり胡散臭い場に思えるし、そこで志を曲げずにどう動いていけばいいのかさっぱり分からない。多数派を目指し、「嫌な人たち」と組んでしまうことはないのか、その道しかなくなってしまうことはないのか、そのとき平さんはどうするのかという懸念もあります。
しかしだからといって国会なんか放り出してしまえとも言えず、ウーム・・・といううなりが僕にはある。

それで4日はこの思いそのものを平さんに聞いてみようという気になっています。
そもそも国会というところが分からないので、議員をされてきた平さんに謙虚に学んでみよう、その中で市民が国会に対して何かできるのか、そんなことを僕なりに考えてみようと思います。

そのため対談と言っても、僕が話をお聞きする場になってしまうかもしれませんが、その中から何か、私たち全体にとって有益なものを探しあてていきたいと思います。

というわけで、どのような結論にいたるのか、僕にも見えないところがありますが、どうかみなさんと一緒に、国会とは何か、そこに市民はいかなる影響を与えらるのか検討してみたいと思います。ともに考える場にぜひお越しください。

なお対談に先立って、それぞれに講演を行います。
平さんの演題は「電気は足りている。科学に基づいた禁原発論」です。
同じ内容になるかどうかわかりませんが、平さんの主張は以下の毎日新聞インタビューで読むことができます。
http://mainichi.jp/select/news/20120924mog00m040019000c.html

僕の演題は「大飯げんぱつ事故想定の際の避難訓練と心構え」です。
先日、同志社大学の寮で話した内容などをコンパクトにまとめてお話します。
記事を記しておきます。

明日に向けて(556)(569)(571)原発災害に対する心得(上、中、下)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/a276d3555af84468c1db19966b59cf16
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/0fd8fbc4681c2a073c73e4a0f95896bf
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/ed69f6466c0d72c16f70a371e599df31

順番では僕が先にお話し、次に平さん。休憩をはさんでトークセッションになります。
詳しい案内を以下に記しておきます!

*******
 
げんぱつ震災を生き延びる為の緊急対談
「わてら爆発しますえ、助けとくりゃす。地震来る前に止めとくりゃす。」byげんぱつ
 
講師 平 智之(衆議院議員)
   守田敏也(フリーライター)
 
11月4日(日)18:00開場 18:15~20:30(予約不要)
 
ひとまち交流館・京都 第5会議室(定員80名)カンパ制(500円程度)
 
託児アリ 2歳以上6歳まで(未就学児)
(8日前迄に要予約・10名程度 託児1000円)
 
問い合わせ 託児は要予約 :ママパパ&放射能バスターズ京都
kyoto.kodomo.inochi@gmail.com
 
プログラム
 
18:15~18:45
「大飯げんぱつ事故想定の際の避難訓練と心構え」:守田敏也
18:45~19:15
「電気は足りている。科学に基づいた禁原発論」:平智之
19:20~20:20
平智之さん&守田敏也さん トークセッション
20:20~20:45
質疑応答など
○プログラム内容は告知無く変更になる場合もございます。
 
平智之さん プロフィール
昭和34年京都市中京区生まれ、京都育ち。洛南高校・京都大学工学部卒業
米国UCLA大学院修了。KBS京都・関西TV「モーレツ科学教室」等タレント活動
喫茶店マスター、政策シンクタンク等を経て、現在、衆議院議員(京都1区)
同志社大学嘱託講師。平成24年7月3日に大飯原発再稼働に反対して民主党を離党
現在「禁原発」を唱える「平安党」の発足に尽力。
http://www.t-taira.net/
 
○ご参加のみなさまに講演をしっかりと聴いて頂きたいので、
18:10までにご着席ください!

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明日に向けて(572)11月3日イノチアクションでお話します。

2012年11月01日 23時30分00秒 | 明日に向けて(501)~(600)

守田です。(20121101 23:30)

このところ少しく疲れが出て、「明日に向けて」の更新が滞りがちで申し訳ないと思っています。
体調を整えて、また情報発信を続けていきますので、よろしくお願いします。

さて今週末に二つのイベントに参加します。一つは11月3日大阪で行われる「イノチアクション」です。主催は「イノチコア」さんです。「関東からの避難者と避難を希望する関東在住者が中心となり発足したグループ」である点に特徴があります。

反原発と反放射能をはっきりと掲げており、震災遺物(がれき)焼却にも当然にも反対ですが、できるだけ多くの人と、ゆったり、おおらかにつながりたいと思われています。そんな思いや配慮は、HPやチラシをみるとよく分かります。
とくに「がれき」の問題で、政府による「放射能は怖くないキャンペーン」の中で、まだ問題がよく見えていない人ともつながりたい、話のきっかけを作りたい、そのためにはどんな形で企画をすすめるといいのか悩まれてきました。

そんな折に、たまたまメンバーが、京都の自然食レストラン、キッチン・ハリーナを訪れ、そのときに食事に行っていた僕との出会いがあって、内部被曝のことを現場で話して欲しいということになりました。
僕も、「イノチコア」さんたちが、多くの、さまざまな人たちとの、おおらかなつながりのもとで、反原発・反放射能のアクションを広げていきたい、そのためにも、アーティスティックな催しにしたいという思いに共感し、お話をさせていただくことにしました。

企画は二部に分かれています。15時から17時までパレード。続いて、17時から19時がお祭りです。僕はこのお祭りの冒頭で30分話をさせていただきます。もちろんパレードから参加します。
大阪のみなさん、関西のみなさん、イノチコアさんたちの新たな取り組みにぜひご注目ください。どうかご参加を!

以下、案内を貼り付けておきます。
下の方にある、「瓦礫焼却に反対の方々へ」もぜひお読みください!

(なおもう一つは11月4日の平智之衆議院議員との対談ですが、これについては次回、詳報を載せます!)

*********

反原発・反放射能デモパレードin大阪
11.3イノチアクション
http://inochicore.web.fc2.com/index.html

2012年11月3日 雨天決行
集合場所 大阪・西梅田公園

主催 イノチコア
協力 ゼロベクレルリンク、おかんとおとんの原発いらん宣言2011
   Twit No Nukes大阪、NO NUKES SPINNER'S ACTION
Special thanks/怒りのドラムデモ、イルコモンズ、アトミックサイト

私もあなたも一つのイノチ
芸術家も 宗教家も 農家も 漁師も 母も 父も 子も
教師も 医者も 政治家も 役人も 電力会社の人も
それらである前に一つのイノチ
山も 空も 花も 草木も 虫も 鳥も 獣も 大地も 水も 風も
私たちのイノチ
花咲かず虫這わぬ大地 魚泳がぬ水 鳥飛ばぬ空
そのような世界では人も生きられません
私たちは何者なのかを考えよう 私たちに何ができるのかを考えよう
いま イノチを見つめ すべてのイノチと生きるために

子どもも大人もみんなで歩こう、アートデモ!!
 
イノチの視点から放射能と原発に向き合えば、むずかしい議論などなくたって「放射能いらない、原発いらない」に決まっています。
言葉より直感、それがアートの力。 すべての人が表現者となれば世界は変わる、それが〈イノチコア〉のヴィジョン!
 
原発事故は、福島や東日本だけの問題ではありません。食品、瓦礫、肥料、飼料などで全国に拡散される放射能は、日本中すべての人にとっての大、大、大問題です。
関東から関西への避難者たちの呼びかけからこのアクションは始まりました。さまざまな地域や立場や感性の私たちが繋がることで、かならず大きな希望と力が生まれます。

しゃべれない動物に変わり声をあげ、動けない草木に変わり歩こう。大地の鼓動で太鼓を叩こう。あらゆるしがらみから自由になってカッコよく楽しく、子どももお年寄りも男も女も、イノチと歩こう! イノチと踊ろう!


「11.3イノチアクション」は、パレードとおまつりの二部制です
14:00
<集合>
★ドラム隊リズム合わせ
★コールの練習
★隊列を組む(当日にお好きなブロックにご参加頂けますが、14:30を過ぎると希望のブロックへ入れない可能性がありますのでお早めにお越し下さい。)

15:00~17:00
<一部> パレード
★途中入り途中抜けご自由にどうぞ。
★16:00ごろから公園で「おまつり」の出店を開きますので、そちらでパレードの到着をお待ち頂けます。

17:00~19:00
<二部> おまつり
★パレードの到着により、開始時間が遅れる可能性があります。
★ドラムサークル、ベクレルフリー屋台、バザー、など
★叩いたり踊ったり、食べたり交流したりとご自由にお楽しみ下さい。
★守田敏也さんによる放射能と内部被曝のミニ講演決定!

 

瓦礫焼却に反対の方々へ

イノチコアは瓦礫焼却反対です。
広域処理の是非以前にアスベストや放射性物質の付着する瓦礫焼却の安全性に疑問を持ちますので、関西であろうと東北であろうと焼却自体に反対致します。

イノチコアは関東からの避難者と避難を希望する関東在住者が中心となり発足したグループです。関東から避難した、または避難を希望する私たちは当然低線量被曝も危険との認識であり、避難先で瓦礫が焼却されるなどとは悪夢に他なりません。コアスタッフの中には、瓦礫が焼かれたら大阪から離れると話す者もいるくらいです。
しかし、私どもの主催する「イノチアクション」は反原発・反放射能の裾野を広げることに専心しており、その方向性を崩すことは出来ません。いったいイノチアクションで瓦礫問題をどう扱えるのか扱うべきか悩んでおりました。

そのような矢先に「市民と科学者の内部被曝問題研究会」常任理事であり、矢ヶ克馬さんと『内部被曝』共著されている守田敏也さんと知り合う縁に恵まれ、デモパレード後のミニ講演をお引き受け頂けました。
瓦礫焼却では、大気中に拡散された放射性物質を吸込んでの内部被曝が懸念されています。内部被曝の危険性を知れば瓦礫焼却の安全性について疑問を持つ方もいると思います。

大阪市での瓦礫試験焼却が11月に予定されていることを多くの人は知りません。突然、瓦礫焼却の問題点を並べたてて「瓦礫焼却に一緒に反対しよう」と詰め寄っても良い返事は得られないでしょう。切羽詰まった態度を見せれば見せるほど、敬遠される経験は皆さまもおありと思います。「11.3イノチアクション」では、あくまでも冷静に「瓦礫問題を周知させる」にお留め下さい。

実は、瓦礫焼却反対の方々数名よりご連絡頂きました。「反放射能を名乗るなら瓦礫焼却に反対しろ」「バッシングだろうが自由にやらせるべきだ」などのメールもございました。私どもの慎重な姿勢はそのような現状があってとご理解下さい。イノチコアとしては、以下を予定しています。

 (1)試験焼却が迫っている旨と、瓦礫焼却反対行動の案内をイノチコアの方からアナウンス致します。
 (2)守田敏也さんの内部被曝についてのミニ講演会時に、イノチコアおすすめの瓦礫焼却についてのチラシを配布します。

< ご注意 >
人それぞれの考えはあるとは存じますが、イノチコア主催の場においては私どもの考えを尊重して下さい。それが守れない方のご参加はご遠慮願います。
 
★資料・チラシの配布をされる方は、「11.3イノチアクション」という場や対象をご考慮下さるようお願いします。内容によっては配布をご遠慮頂く場合がございます。バッシング、揶揄、下品なものは例外無くお断りします。その判断はイノチコアが行い、理由は説明致しません。
 
★誰が相手であっても、感情に任せたヒステリックな態度や攻撃的な態度は絶対におやめ下さい。善意のボランティアであるスタッフへ絡むのも厳禁です。
 
★バッシング、揶揄、下品な幟、プラカード、作り物、腕章、コール、スピーチ、チラシ配布などはご遠慮下さい
 

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