明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(994)集団的自衛権、ヨーロッパ・トルコ訪問についてお話します。(13日大阪、14日京都他)

2014年12月11日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141211 23:30)

選挙戦たけなわですが、講演を行いますのでスケジュールをお知らせします。
すでに一度掲載しましたが、明後日13日の土曜日に大阪市西成区で、たちばな9条の会のお招きでお話しします。
今回のお話では、日本がどれほどイスラム圏から強く慕ってもらえているか、集団的自衛権行使により日本がどれだけのものを失ってしまうのかについても触れたいと思います。
エジプトで流されている日本を紹介したビデオなども流します。
選挙前夜になりますが、お近くの方、ぜひお越しください。

選挙当日の14日には京都市中京区のハートピア京都でヨーロッパ・トルコ訪問報告会を行います。内部被曝のメカニズムについてもお話します。
この他、17日には京都被爆2世3世の会の総会で主に10月のポーランド訪問で学んだものに限定した報告を行います。
ヨーロッパ・トルコ訪問全体に関しては23日の午前中と夜間にもお話します。

年末には27日、28日とびわこ123キャンプでお話します。
ぜひ可能な会にお越しください。

以下、案内を貼り付けます。

*****

たちばな9条の会主催(平和を考えるシリーズ第2弾)

戦争への恐怖の3点セット
~NSC法(国家安全保障会議)・特定秘密保護法・集団的自衛権の行使容認~
(集団的自衛権とは何かを中心に)

日時:2014年12月13日(土) 17:30開場 18:00開始
講師:守田敏也(フリーライター、著書『内部被曝』岩波ブックレット。矢ケ崎克馬氏と共著)

会場: 参学寺「参究道場」 TEL 06-6658-8934
大阪市西成区橘1-7-6
参学寺ホームページhttp://www.sangakuji.com/
メールsangakuji@cwo.zaq.ne.jp

申込:西田靖弘携帯090-9610-8780 メールnishiyan0213@gmail.com
もしくは米澤清恵 電話090-5647-0922 米澤メールkiyoyonyon@hotmail.com

会費:500円 (講師代ほか)

***

ドイツ・ベラルーシ・トルコ・ポーランドで学んだこと
~チェルノブイリ原発事故による被ばくの現実やトルコへの原発輸出問題~
◇守田敏也報告会◇

本年2014年2月から3月にドイツ・ベラルーシ・トルコを訪れ、8月にトルコを再訪、さらに10月にポーランドに訪問してきたなかで学んできたことを報告します。
これらのなかで、放射線内部被曝のメカニズムと危険性についても触れます 。
例えばウクライナでは医師たちがたくさんの病が放射線の影響で起こっていることを告発しています。
今年の3回にわたる渡航で感じたことを、できるだけ分かりやすくお話しします。

福島原発事故、そして私たちの今に深くつながるヨーロッパ・トルコの話、内部被曝のメカニズムのお話をぜひ聞きに来てください!
なお報告会は3回行います。参加しやすい会にご参加ください。

12月14日(日)10時から12時。ハートピア京都第5会議室
12月23日(火・休日)10時から12時と18時から20時30分の2回 ひとまち交流館第4会議室
参加費 500円(可能な方はさらにカンパをお願いします!)

主催:子どもの給食を考える会・京都
連絡先:morita_sccrc@yahoo.co.jp(守田)

託児はありませんが、会場内にお子さんが過ごせるスペースやおもちゃ、絵本などを用意します。
ぜひお子さん連れでいらしてください。

***

12月の例会は、10月末にポーランドでの国際会議参加と視察をされてきた守田敏也さんの報告を聞く学習会とすることになりました。
日程等は以下の通りです。

日時  2014年12月17日(水)18:30~21:00
会場  ラボール京都4階・第9会議室
テーマ ポーランド訪問で学んだこと ~ユダヤ人をめぐる歴史の深層を踏まえつつ、チェルノブイリ原発事故による被ばくの現実を捉え返す~
今回はオープン企画として行なうことになりました。お知り合い等に広くお知らせいただき、たくさんの方にご参加いただくようお願いいたします。

守田敏也さんのブログ「明日に向けて」でポーランド訪問のことは詳しく紹介されていますが、その一つ、ポーランドのユダヤ人をめぐる歴史はとても奥深いものがあり、今日の東アジアに生きる私たちに大きな示唆を与えるものです。
また、放射能被ばくの世代を超えた影響は私たち被爆2世・3世にとって挑むべき基本的なテーマです。事故から28年を経過したチェルノブイリの実態から多くのことを学んでいきたいと思います。

***

びわこ123キャンプでお話します。
27日は集団的自衛権など戦争と平和に関するお話。子どもたちにお話します。
28日は高島市の方とともに原子力災害対策についてお話します。

12月27日(金)夕方より子どもたちに。マキノ高原民宿一二三館
12月28日(土)時間未定 詳細はびわこ123キャンプにお問い合わせください。

主催:びわこ123キャンプ

以下は今回のキャンプのご案内です。
http://cocokarapon.blog.fc2.com/blog-entry-291.html 

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明日に向けて(993)すべての票は命のこもった声だ!「死に票」という言葉に惑わされず投じに行こう!

2014年12月10日 22時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141210 22:00)

総選挙が終盤を迎えており「自民党圧勝か?」という報道が繰り返し流されています。
大手マスコミの論じていることを見ていると、あたかももはや勝敗の大勢が決したかのようです。
公正を欠いた報道だと僕は思いますが、みなさん、そんなことに惑わされずに投票に行きましょう。投票を通じて自分の意志を国と社会に表明しましょう。「投票に行こう」と最後まで訴え抜きましょう。

けして惑わされてはいけないのは、自分が投票した候補が勝利しなければその投票は無駄になるという言説です。「死に票」という言葉ですが、これにひっかかってはいけない!!
この言葉自身が実は小選挙区制のもとでは与党に有利に働く面もあるのです。例えば今のような情勢になると「もう反対候補に入れてもダメだ。どうせ死に票になるんだから投票にいかなくても」と思う人も出てきてしまいます。
それだけでも与党に有利になります。まだ残されている形勢逆転の可能性が消えて行くからでもありますが、同時に反対の民意がその分選挙に反映しなくなるからでもあります。

選挙はふたをあけてみてみなければ分からない。大新聞の与党圧勝の大合唱に乗って諦めてしまってはいけない。
同時にかりに私たちの応援する候補が結果的に負けたとしたって、そこに投じられた票は「死に票」になどなりはしないのです。まったく逆です。破れた候補者の票が多いほど当選した候補者は反対意見に規制されるのです。
だから負けたら民意が届かないと思わされてここで萎えてしまってはいけない。そもそも民主主義は多数決で負けた側を切り捨てる制度ではありません。いわんや勝った側が何でもしていいなどと考えるのは大間違い。勝った側には負けた側の意をいかに受け止めるのかが問われるのです。

このためそもそも選挙システムには少数派の意見が尊重される仕組みがなくてはならないのです。だからこそかつては選挙区がもっと大きく作られていて、少数派でも議会に進出できる仕組みが保障されていたのです。
ところが今、私たちはとんでもなく歪められた選挙制度のもとにいます。あまりに間違った制度です。何せ前回、与党連合は、実質選挙民の2割台の支持で7割もの議席を獲ってしまったのです。
明らかに選挙制度に公正と正義が欠けすぎている。だから極端なほど民意が議席に反映しない。そのことが選挙へのしらけ、投票放棄にもつながってますます選挙制度を劣化させてきました。

実は少数選挙区制度の成立のために奔走したご本人が、この制度をスタートさせてしまったことを心から悔いています。自民党の河野洋平さんです。
日本憲政史上、初めて女性の政党党首となられ、小選挙区制にも反対していた旧社民党党首土井たか子さんが9月にお亡くなりになり、11月に追悼会が開かれましたが、ここに出席した河野洋平さんは次のように語られました。
 「あなたに大変申しわけないことをした。おわびしなくてはならない。謝らなければならない大きな間違いをした」
 「私は~中略~小選挙区制を選択してしまった。今日の日本の政治、劣化が指摘される、あるいは信用ができるかできないかという議論まである。そうした一つの原因が小選挙区制にあるかもしれない」

全文を読みたい方に産経デジタルのページをご紹介しておきます。またYouTubeで直接発言を聴くこともできます。

 【土井たか子さんお別れの会・詳報】(3)河野洋平・元衆院議長「あなたに謝らなければならない大きな間違いをした」
 http://sonae.sankei.co.jp/ending/article/141125/e_sogi0007-n1.html

 土井たか子・元衆院議長をおくる会 河野さんの発言は33分20秒から
 https://www.youtube.com/watch?v=9WNEDipntCE&feature=youtu.be

なぜ小選挙区制で政治が、政治家が劣化してきたのか。与党にくみせば中選挙区制のときよりも安易に勝ててしまうので政治家が有権者を大切にしなくなってきたからです。
むしろ政党の公認候補を得られるかどうかの方が重要になるため、政治家が与党幹部の顔色ばかりを窺うようになってしまった。さらに自民党内の総裁の権限も強くしたため、首相のイエスマン議員ばかりが増えてしまいました。
実はそのために与党内部でも困り果てている方たちがいるのです。それが河野洋平さんの言葉にも強く表れていました。もちろん河野洋平さんにはそう述べられた限り、選挙制度をせめてもとにもどすために私たちと一緒に頑張っていただきたいですが。

ともあれ今、私たちは本当に悪い選挙制度の中にいます。その中で若い人たちが投票にいかないことが度々問題視されていますが、僕は「そりゃそうだろう」とも思うです。なぜって若い人たちの多くがこのひどい小選挙区制しか知らないからです。
かつては選挙はもう少しは面白かった。中選挙区では自民党議員同士が競り合うことも珍しくなかった。少数派でも丁寧に票を集めていけば当選することができた。だから選挙には今よりも多様な可能性があった。
しかし小選挙区制でさまざまな可能性が手酷く潰されてしまいました。だから選挙が盛り上がらない。当選した議員も平気で公約を破る。そんな中で、こんなにひどい選挙制度しか知らない若い人々が社会と自分が遠く感じてしまうのも分かります。

でも騙されないで下さい。民主主義とは議会制度だけで成り立っているのではないのです。けして議席の数だけですべてが決するわけではない。私たちの意志の表し方は他にも多様にあります。
例えば原発問題を見て下さい。あれだけの圧倒的多数の議席を手にした安倍政権は、まだ一基の原発も再稼働させることができていません。これはとても大きなことで、世界に影響を与えてもいます。
そもそも世界で最大の原発は日本の柏崎刈羽原発です。それをも私たちは止めている。他にもものすごい数の原発を止めている。このため今、世界のウラン価格が暴落し、アメリカの大手核燃料会社が倒産するに至っています。私たちの行動で世界の原子力推進派が困り果てているのです。

だから安倍首相は、ウランの新たな需要を作り出すために世界に原発を輸出しようとしています。そのために安全性をアピールしなければならず川内原発などを再稼働させようとしています。
しかし民衆の声が怖いので、今回の選挙でこの論議をできるだけ避けよう、避けようとしてきました。(川内原発の再稼働への動きも、官邸は来年4月以降にして欲しいと現地にくぎを刺していたそうです)
それを象徴するかのように、選挙終盤になって自民党は『景気回復、この道しかない』と題した12ページカラー刷りのパンフレットを各戸配布しましたが、その中でなんと原発再稼働については一言も触れていないのです。

原発の話が選挙にとってはまったく不利だと思っているからです。前回の総選挙であれだけたくさんの議席を獲っていても、そこにすべての民意が反映されたわけではないことを自民党自身が知っているのです。議席には結びつかずともたくさんの批判票があったことを実は自民党も脅威を感じつつ見ていたのです。
もちろんそればかりではなく、直接行動でも原発反対の意志が示されました。首相官邸前で毎週の再稼働反対のデモが行われ、全国各地の電力会社前でも行われてきました。それらは100回を越えつつあります。これほど同じ課題で各地で持続的なデモが行われているのは政治史上、おそらく初めてのことです。
民主主義は、議会という間接民主主義と、デモンストレーションをはじめとした直接行動、直接民主主義によってこそ担われているのです。だからデモが非常に大きな力を持っている今、議席には結びつかない反対票も民意の突きつけとしての意義を失ってはいないのです。

選挙はこの民衆の動き、力とこそ連動しています。だからある投票が議席を獲得するに至らないのだとしても、自民党政治に批判的な意志を票で示すことは大事であり尊いのです。
何に対して意志を示すのか。一つは政府与党に対して。もう一つはマスメディアに対して。そして私たち民衆自身に対して。だから「死に票」という言葉や「与党圧勝」という報道に惑わされずに、総じて与党への批判票を伸ばすために努力しましょう。
投票もまたデモンストレーションの一部です。実際に政治主張を大声に出すことが憚れる人のために無記名投票が制度化しているのでもあります。だからこそ国と社会に対するデモの気持ちで、平和と公正と正義のため、貴重な一票を投じに周りの人を誘って行きましょう!

もちろんこんなに歪んだ選挙制度ですから、誰に投票したらいいかは大いに悩むところです。選挙制度が悪すぎるからなかなか良い答えは見つけにくい。「これが正解」といえる明快なものはないと僕は思います。
ある人々は「ここは与党を凹ますために、選挙区では自分がそれほど納得できなくても、与党に勝てるかもしれない候補に票を投じよう」と呼びかけています。「鼻をつまんで」与党よりましな人々に投票しようと言うのです。それもありです。
でも一方である人々は「野党といいつつ隠れ与党でしかない候補では信用がおけないしもはやそうした候補に与党への批判票が集まるとも思えない。やはり信頼のおける候補に投票した方がよい」と言います。それもありだと思います。

どちらにも一理ある。ただどう考えるにせよ、勝つことも負けることもある選挙の中で、ただ議席を獲るかどうかだけで選挙を考えず、自分の意志を表明しにも行こうとではないかと僕は強調したいのです。結果的に応援した候補が負けたとしてもその票はけして無駄ではない。すべての投票はライブなのです。
もちろん比例区への投票はもっと自分の信条にあう政党の議席に結びつきやすい。私たちは二つの票を持っていて、この票はより迷うことなく投じられる票です。このことも考えて、多くの人に投票を呼びかけましょう。
とくにこの小選挙区の仕組みの中で、政治を縁遠いと感じている人々が周りにいるならば「あなたがあなたの意志を表すことはけして小さいことではない。自分の声など届かないと思ってはいけない。与党はそう思わせようとしているけれど、そんなことに騙されずあなたの意志を表しに言こう」と語りかけてあげてください。

繰り返します。私たちは与党大勝報道に失望することなく自らの意志を示しに行きましょう。選挙の仕方はもともと各人の自由に属すること。自分にとって一番納得のいく最善の投票を行いましょう。
同時に選挙制度はこのようにひどすぎますが、それでも私たちの国の民主主義はまだまだ死んでなどいないこともしっかりとおさえておきましょう。民主主義が死ぬのは誰も反対意見を言わなくなるとき、言えなくなるときです。
だから私たちは少々の困難があろうとも、これまで以上にまっとうな意見を言い続ける決意をここで固める必要があります。腹をくくればまだまだ私たちにできることはたくさんあります。先にも述べたように、疲弊を強める国際原子力村の意向を受けた日本政府による原発再稼働の動きも、まだ私たちは止め続けているのですから。

そもそも政府が一番恐れているのは、民衆が自らの力に目覚めることです。政府はあの手、この手で、民衆には力などなく、無能であり、管理を必要としており、だから自分たちに任せておけばよいのだと思わせようとします。
実はそれこそが支配の要なのです。でもよく見てみましょう。無能性を極めているのは与党の議員たちの方です。どんどん劣化しています。安易に勝てる選挙制度が政党としての彼ら彼女らをも弱めているのです。「政治と議員の劣化」とマスコミでも指摘される所以です。
だからこそ政府は直接行動を恐れて特定秘密保護法を施行するなど狂暴化を深めています。実はどんどん批判勢力が増えていることを知り、恐れているから狂暴化しているのです。そのことで民主主義がこれからますます厳しい局面を迎えつつあるのも厳然たる事実です。

しかしこの中でこそ、私たちは私たちの民主主義を磨いていけばいいと僕は思うのです。試練の中でこそ、官僚や政治家にあやつられたニセものではない、草の根からの本当の民主主義を育てあげることができます。二度と「上から与えられた」などとは言われることない素晴らしい民主主義がです。
同時に僕は「驕る平家は久しからず」とも思います。「なめるなよ!」とも・・・。民主主義は私たち民衆の中に宿るもの。けして議席数だけで決まるものではない。この選挙が民意を表してないことはもうはっきりしているのですから、投票とともに、デモをはじめもっと多様な表現で政府批判を貫ぬこうではありませんか。
そのこともしっかり見据えて、今は与党を少しでも凹まし、同時に自分たちを励ますためにも選挙に向かいましょう。それぞれにとっての最善の道を歩み、選挙区で、比例区で、少しでも真っ当な議員を増やしましょう。そして新たな民衆派の議員たちと一緒に新たな民衆運動を起こしましょう。

選挙の日はそのスタートの日です。
冬来たりなば春遠からじ!
Power to the People!

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明日に向けて(992)原爆線量見直しとチェルノブイリ原発事故(ICRPの考察-6)

2014年12月09日 20時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141209 20:30)

ICRPの考察の続きです。

医学や生物学と密接な関係にある放射線防護学の領域では、放射線の危険性をめぐる論争に次々と敗れてどんどん線量評価を厳しくしなければならないことを熟知したICRPが、1977年勧告においてコスト・ベネフィット論にシフトしたことをこれまで見てきました。
ところがその後に大きな問題が持ち上がりました。ICRPが依拠してきた広島・長崎を調査したABCC(原爆傷害調査委員会)による原爆線量評価に大きな間違いがあることが浮上してきたことでした。
ICRPをはじめとした国際機関がABCCのデータに固執してきたのは、このデータがアメリカ原子力委員会によって独占的に集められ、解析されてきたもので、原子力推進派にとって都合が良いものだからでした。

ABCCデータの信頼性が崩れだしたのは、前回に述べたイギリスのスチュアート、アメリカのゴフマン、タンプリンの批判などの影響によるものでしたが、1974年に新たな批判が付け加わりました。
ワシントン州の人口研究班の医師であったサミュエル・ミラムが1950年から1971年にワシントン州で死亡した307828人を調査し、州内のハンフォード核施設で働いたことのある労働者の死亡率が25%も高いことを見出したことでした。
さらに続いて原子力委員会からのハンフォードに関する委託研究を行っていたトーマス・マンキューソから、28000人の調査によって放射線のリスクがICRPが主張していた従来の見解の10倍も高いという研究結果が報告されました。

同時に中性子爆弾の開発を行っていた米軍からも新たなデータが提出されました。
この爆弾の殺傷能力を知るには、広島・長崎のデータを利用する必要があり、その洗い直しに結果したのですが、ロスアラモスで開発されたコンピューター・コードを使って解析したところ、原爆の放射線、とりわけ中性子のスペクトルが従来の推定値と大きく違っていることが分かったというのです。
広島・長崎の被爆者は、これまでABCCが主張していたよりもずっと少ない放射線被曝で重篤な傷害を受けていたことが判明しました。この結果ICRPが依拠してきた「T65D(Tentative Dosimetry System 1965=1965年暫定被曝推定線量)」と呼ばれてきた体系の権威が大きく揺らぎ出しました。

T65Dに誤りが見つかったことは、原子力推進派にとって大きな危機でした。これまでの放射線防護体系がすべてT65Dを根拠に行われてきたためです。
このためマンキューソの研究結果が広く知られる前に中性子爆弾の開発で得られた軍事機密情報を意図的にリークし、あたかも国際機関の側から積極的な線量基準の見直しがなされ、安全性が追及されているかのような粉飾が施されました。
アメリカは他国が中性子爆弾の製造に踏み切った時に、いずれにせよこのデータが明るみに出ることも考慮に入れて、こうしてリーク戦術に踏み切ったのでした。

こうして新たな線量体系として1986年に確定され、翌年に発表されたのが「DS86(Dosimetry System 1986=1986年線量推定方式)」でした。
ちなみに後年、矢ヶ崎さんが内部被曝の影響についての研究を開始し、初めてこの「DS86」に触れたとき、そのあまりの非科学性に唖然となったそうです。余りに非科学的な報告が被爆者の被曝線量データとして容認されていることに立腹するとともに、なぜゆえに誰も体系的な批判を試みなかったのかと身もだえし、3日間眠れなかったといいます。
矢ヶ崎さんのICRPへの批判については稿をあらためて紹介しますが、ともあれ原子力推進派は、原爆の被害データを大急ぎで修正して、マンキューソが明らかにしたハンフォードの労働者の被害と辻褄をあわせようとしたのでした。

DS86の新たな策定の動きに合わせつつ、ICRPは1985年にパリ会議を開き、公衆の放射線防護基準を従来の5分の1とし、1年間に1ミリシーベルトとしました。現在も適用されている基準です。
同時にICRPの防護基準は、被曝をより少なくする精神に貫かれたものであるとの宣伝を行いました。これらのもと、1977年勧告で進化したコスト・ベネフィット論の各国の受け入れ・浸透もが図られました。
しかもパリ声明では同時に次の文言が付け加えられました。「1年につき5ミリシーベルトという補助的線量限度を数年にわたって用いることが許される」。要するに実際には1ミリシーベルトを守らなくてよいという言葉もが埋め込まれていたのでした。

こうしたICRPの一見すると基準を強化しつつあるかのように見える動きは、1979年のアメリカ・スリーマイル島原発事故に対する反原発運動の高まりにも対応したものでした。そしてここで埋め込まれた「補助的線量限度」という文言は、早速、チェルノブイリ原発事故に際して効力を発揮しました。
1986年に起きた同事故で、100万人に及ぶ人々が避難を余儀なくされましたが、その基準は生涯で350ミリシーベルトに達するかどうか、生涯を70年とみて年間5ミリシーベルトに達するか否かに置かれました。
つまり年間5ミリシーベルトもの被曝が「数年にわたって」どころか生涯にわたって続くことが認められたのでした。ICRPら国際機関はこの旧ソ連の決定は国際的な放射線防護政策に一致していると声明し、強く支持しました。

『放射線被曝の歴史』からこの点のまとめを引用します。
 「このようにチェルノブイリ事故後は、原発重大事故が現実に起これば、年1ミリシーベルトの基準など適用されないこと、したがってICRPのパリ声明の「公衆の年被曝限度1ミリシーベルト」が一般人の被曝線量の実質的な引き下げを意味するものではないことが、事実で示されているのである」(『同書』p195)
このことはチェルノブイリ原発事故だけではなく、福島原発事故ではもっと激しく適用されてしまいました。福島では5ミリシーベルトどころか20ミリシーベルトが避難基準とされてしまったからです。福島原発の被災者はチェルノブイリ周辺では強制移住の対象になる地域に多数が住まわされ、あるいは帰還が強制されようとしています。

しかもここで適用された「線量」は、1977年より持ち込まれた「実効線量当量」でした。これはコスト・ベネフィット論のもとに放射線被曝に金勘定という非科学的なものを持ちこんだもので、身体にあたる物理量を示したものではありません。
計算式も複雑化されていて非常にわかりにくいのですが、実際には物理量の被曝としてはICRP1977年勧告以前のものと比較した場合、むしろ多量になっているものが少なくなったように粉飾されるように設定されたものでした。
その点でICRPが放射線被曝基準を厳しくしたというのは全くのまやかしでした。

ICRPはこれらをICRP1990年勧告にまとめていきましたが、その際、原発事故などの「緊急時作業」においては引き下げどころかむしろ労働者への線量の引き上げを盛り込みました。
1977年勧告において100ミリシーベルトだった全身への被曝限度が新勧告では500ミリシーベルトまで引き上げられ、皮膚の線量限度は5シーベルトにまで拡大させられてしまいました。
要するにスリーマイル島事故やチェルノブイリ事故をもって、事故の終焉を目指すのではなく、むしろ次なる事故が起こりうることを想定して、その際の収束作業ができるような線量設定が行われたのでした。

こうして作成された1990年勧告のねらいを同書は以下のようにまとめています。
 「第一に、放射線リスクを従来の三分の一に引き下げ、労働者の被曝線量限度も年間20ミリシーベルトへと1958年以来はじめて『引き下げた』とごまかし、ICRP1977年勧告で導入した、安全性よりも経済性を重視する「ALARA原則」を定着させ、チェルノブイリ後、いっそう経済的困難に直面している原子力産業に、放射線被曝面からの救いの手をさしのべることにある」
 「第二に、反原発運動からのICRPとそのリスク評価、放射線防護基準への強い批判をかわし、あわよくば批判意見を分断するとともに、ICRP勧告を各国に導入するうえで最も大きな政治的発言権と行政的既得権をもつ放射線関係の諸組織、あるいはこれまで『ICRPの精神』を支持してきた学会や協会、放射線関連の労働組合組織などに、依然としてICRP支持路線を採用させることにある。
 この目的からも新勧告は、現実に大量被曝している原発下請け労働者の被曝線量は引き下げないで、従来からも低い被曝線量下にある安定雇用の放射線作業従事者の被曝量を制限して、彼らの不安のみに応えようとしているのである」(『同書』p214、215)

「放射線防護基準への強い批判をかわし、あわよくば批判意見を分断する」とは実に鋭い指摘です。
事実、放射線被曝に関する視点、線量をいかに評価するのかという側面でのICRP批判の観点は、被爆者運動の中でも、反原発運動の中でも十分に深めてこれたとは言えませんでした。これは世界にも共通することがらです。
そのことがとりわけ日本では、福島原発事故以降の民衆運動の中でさまざまな矛盾を表してもいます。政府の原子力政策に批判的で、明確に民衆の側に立っている人の中にも、基本的な視点をICRP体系の上に置いて、放射線被曝を過小評価している方々がおられるからです。

このことが同時に、「福島エートス」的な動きが生じる根拠にもなっています。ICRP的な放射線被曝の過小評価のもとでは、高汚染地域の危険性を捉えることができず「そこで安心して生きていける道を探す」ことに流れやすいからです。
これらの結果、日本はチェルノブイリ事故後の旧ソ連がとった避難基準よりももっと格段に緩い基準しか適用されておらず、今なお、チェルノブイリの基準からいっても避難しなければならない地域に膨大な人々が暮らしています。
いや私たちが見ておかなければならないのは、このチェルノブイリ事故における避難基準とて、ICRPや原子力推進派自身が自身が認知した危険性からいっても、極めて緩い水準で適用されているのであって、本来、もっと厳しく人々を守らなければならないものなのだということです。

本書はすでに1990年の地点でこうした観点を私たちに提起してくれていました。今回、あらためて精読して大変先駆的な書物だと思いました。
著者の中川保雄さんは、病床の中でこの本を書かれ、1991年の出版と共に病に倒れられたのですが、彼が遺して下さった足跡は、福島原発事故の中でもがき苦しむ私たちに今、一本の大きな道筋を示してくれています。
中川さんの素晴らしい功績に心の底からの感謝を捧げつつ、次回に本書を継ぐ立場から私たちがおさえるべきものを明らかにして連載をまとめたいと思います。ポイントは矢ヶ崎さんが切り開いてきた「ICRPによる内部被曝隠しとの対決」をいかに深めていくかにあります。

続く

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明日に向けて(991)コスト・ベネフィット論-放射線防護学への金勘定の導入(ICRPの考察-5)

2014年12月08日 23時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141208 23:30)

ICRPの考察の5回目です。

第3回目の考察で、ICRP(国際放射線防護委員会)が核実験反対運動の世界的高揚の中で、医学的に「放射線被曝はそれほど危険ではない」と言い続けることの困難性に直面し、リスク・ベネフィット論の導入に踏み切ったことを明らかにしました。
放射線被曝の影響にしきい値はないこと、どれほど少量の被曝でも体へのリスクがあることを認めた上で、「それを上回るベネフィットがあれば被曝は容認されるべきだ」という論への転換を図ったのです。
そこには医学的・科学的論争を回避し、社会的経済的要因を持ち込むことで、放射線被曝の危険性をはぐらかしていく意図があったわけですが、そのことで「放射線学」は科学から大きな逸脱を開始しました。

その後、ICRPはより非科学的な逸脱を深めていき、「リスク・ベネフィット論」を「コスト・ベネフィット論」へと「深化」していきます。
その際も大きな要因となったのは、核実験反対運動に続く、原子力発電反対運動の世界的高揚と、このもとでの原発推進の手詰まりでした。
原子力発電は1960年代以降、アメリカやイギリスを中心に建設が進んでいきましたが、70年代に入ると各地で原発事故が続発し、安全性への不信が一気に高まっていきました。

低線量被曝の危険性を明らかにした少数の先鋭な科学者たちの警告にもようやく注目が集まり始めました。
そのひとつはイギリスのアリス・スチュワート博士による放射線被曝による小児の白血病とガンに関する疫学的な研究でした。彼女がとくに注目したのは母親が妊娠中にレントゲン診断を受けた際の胎児への影響でした。
彼女は胎児期の放射線被曝により、1シーベルトどころかわずか数ミリシーベルトでも白血病はガンが発生することを明らかにしたのでした。

これに続いたのはジョン・ゴフマン、アーサー・タンプリン、アーネスト・スターングラス、ロザリー・バーテルらの博士たちでした。
とくにゴフマンとタンプリンは、マンハッタン計画を継承したアメリカ原子力委員会傘下のローレンス・リバモア国立研究所の中心的科学者で、ゴフマンは副研究所長の一人でしたが、いわば内部からの反乱として原子力推進派を批判したのでした。
二人はアメリカが当時の連邦放射線審議会の勧告した年間1.7ミリシーベルトを許容値とする被曝を続けたら国民のうち年間32000人の白血病とガンが発生することを明らかにし、許容値を10分の1にすべきたと主張しました。

こうした良心的科学者たちの追及の前に、ますます医学的に論争していては不利なことを悟った国際原子力推進派は、「社会的・経済的要因」なるものを混入させることにより、ますます問題をあいまい化させる方向に進んでいきました。
この際も、客観性を装った団体が活用されました。それが前にも触れたBEAR委員会(Biological Effects of Atomic Radiation)であり、後継組織のBEIR委員会(Biological Effects of Ionizing Radiation)でした。
両者の違いは「A」と「I」。日本語では「原爆放射線の生物学的影響委員会」と「電離放射線の生物影響に関する委員会」になりますが、そこには核実験から原発に焦点が移る中で、「原爆放射線」の安全性をめぐる問題から「電離放射線」のそれへと問題が移ったことが反映していました。

ここで大きく登場してくるのがコスト・ベネフィット論で、ICRP1965年勧告にでは放射線被曝を「経済的および社会的な考慮を計算に入れたうえ、すべての線量を容易に達成できる限り低く保つべきである」(as low as readily achievable:ALARA)とされた内容の進化がなされていました。
どう変わったのかと言うと「容易に達成できる限り」を「合理的に達成される限り」に差し替えたのです。英語では”as low as reasonably achievable”になります。readilyがreasonablyに変えられたのです。
前者は「容易に」「難なく」という意味ですが後者は「合理的に」とともに「値段がまあまあの」と言った意味あいを含みます。どちらもアラーラ(ALARA)原則と呼ばれましたが、後者で明確に「金勘定」が導入されたのでした。

BAIR委員会は1972年に『BAIR-1報告』と呼ばれるものを出しました。これを『放射線被曝の歴史』では次のようにまとめています。
 「一般の人びとの総被曝線量は、『実行可能な限り低く」と、どこまでも低減をはかるべきではない。被曝線量を下げるために要するコストが、その金額で得られる利益、ベネフィットよりも上回るなら、人々に被曝を容認させるべきである。
 その場合、ガンなど放射線の影響を被る人間がかなり出ることになるが、その発生率が他の容認されているリスクより小さくなるように、個人に対する被曝の上限値をもうける必要がある。
 このようなコストとベネフィットを比べて被曝線量をコントロールする手法はまだ確立されていないので、早急に被曝の金勘定、損得勘定のやり方を具体化すべきである」(『同書』p141、142)

 「NCRPもBAIR委員会も、生物・医学的な危険性を評価して被曝の防護基準を設定するという従来のやり方では、時代とともに基準を下げなければならない羽目に陥り、危機に陥った原子力産業を救うことはできないと考えた。
 彼らは、考え方を大胆に転換すべき時期がきたと判断した。放射線被曝の問題を、経済的な利潤の獲得の問題に従属させるべきと判断したのである。
 このコスト-ベネフィット論こそ、原発の経済的危機を救うために新たに考えだされた放射線被曝防護の哲学であり、経済学であった」(『同書』p142)

このBAIR報告を受けてICRPもコスト・ベネフィット論の導入を開始し、アラーラ原則の具体的適用方法を「最適化」と呼ぶようになりました。
原子力推進派はこの「最適化」の意味を今も被曝をできるだけ少なくするようにすることであると説明していますが、それならば「最適化」などという言い回しは使わなくても良い。
実際には被曝をできるだけ避けようとして、経済的・社会的不利益を被ってはならないというのがその趣旨なのでした。その際、被曝によって生じる損害を金勘定を変える必要があったわけですが、ICRPは損害を死亡にのみ限定し、損害賠償などで支払われる「人の命の値段」を持ちだして、計算の中に入れ込みました。

こうして進化させられたアラーラ原則を盛り込んだICRP1977年勧告が打ち出されました。そこではこれまでの「許容線量」という概念が放棄され、「線量当量」と「実効線量」という概念が持ち込まれました。
「実効線量」などというと、人体にあたる物理的な量だと誤解されますが、実際にはガンでの死亡や重篤な遺伝的障がいを恣意的な計算で見積もった値を持ち込んだものであり、科学とは言えないものでした。それが実効線量=「シーベルト」の実態なのでした。
つまりこれ以降、ICRPは、あたかも身体にあたった放射線の物理的な量を客観的に示しているように装いながら、その実、身体がダメージを受けた場合の金勘定を持ち込み、物理的な量でないものをそのものであるかのように粉飾する科学的欺瞞を行ったのでした。

以下、『放射線被曝の歴史』でICRP1977勧告の特徴が端的にまとめていますが、非常に重要なポイントなので引用します。

 「第一は、放射線被曝防護の根本的な考え方の大転換である」
 「放射線被曝を可能な限り低くするという過去の勧告にみられた表現は、1977年勧告からはすっかり消し去られた。手厚く防護すべきは、労働者や住民の生命と健康よりも原子力産業やその推進策である、と宣言したのである」

 「第二は、放射線のリスク、被曝の容認レベル、被曝の上限値について、社会・経済的観点を重視した新しい体系を打ち出した。ICRPはそれを(1)正当化、(2)最適化、(3)線量限度と呼んで、三位一体の体系として提出した」
 「放射線の人体への影響は今は過小評価に固執することができても、科学的基準に立脚する限りは、将来被害についての科学的知見が深まるとともに、やがて被曝の基準も次第に厳しくならざるをえないであろう。そのとき原子力産業は死滅する。
 そうならないようにするには、基準を科学的なものから社会的・経済的なものへと転換し、この観点から被害の容認を迫るべきである」(『同書』p154,155)

 「第三に、放射線被曝管理に公然と金勘定が持ち込まれた」
 「それを行うのは原子力産業と政府なのであるから、労働者や住民の生命の値段も安く値切られ、その安い声明を奪う方が被曝の防護に金をかけるよりも経済的とされるのである」

 「第四に、放射線被曝の金勘定、それと表裏一体の放射線の影響の過小評価は、被曝基準のいたるところに盛り込まれた」
 「あげればきりがないほど多くの点で被曝基準が緩和された」(『同書』p155,156)

 「第五に、許容線量に代えて、実行線量という新しい概念が導入された。これは新しい科学モデルを導入して、人間への計算上の被曝線量を設定するもので、『科学的操作』が複雑に行われるだけ実際の被曝量との差が入り込みやすい。それだけごまかしやすいのである」(『同書』p156)

 「第六に、原発などの放射能の危険性は、放射能自体が危険であることについては何も触れられず、他の危険性と比較して相対的な大きさの違いに矮小化されている」
 「線量当量限度被曝させられた一般人のリスクは、鉄道やバスなどの公共交通機関を利用したときの事故死のリスクと同程度だから、後者のリスクと同じように容認されるべきである、とICRPは厚かましく主張する」(『同書』p157)

 「第七に、ICRPのリスクの考え方からは、リスクを『容認』するものにはどこまでもリスクが押し付けられる。この結果、とりわけ社会的に弱い立場にある人びとに放射線の被害が転嫁されることになる」
 「それらの人びとに被曝を強制したうえに、被害が現れると、自分たちが過小評価しておいた放射線のリスク評価を用いて、『科学的』には因果関係が証明されないからその被害は放射能が原因ではない、と被害者を切り捨てる」(『同書』158、159)

 「第八に、放射線からの被害を防ぐと言うのであれば、放射線に最も弱い人を基準にして防護策を講じなければならないにもかかわらず、ICRPは逆である。基準とするのは成人で、放射線に一度敏感な胎児や赤ん坊のことはまともに評価すらされない」(『同書』p159)

ながながと引用しましたが、ICRP1977勧告の本質が非常によくまとめられていると思います。
科学の装いをまとった放射線学から露骨に金勘定を導入した「放射線学」へ。ICRPなど国際機関の主張する「放射線防護学」はここでもはや科学や学問とは言えない領域に入り込んだのだということをしっかりとおさえておく必要があります。
この点をおさえてさらにICRPの考察を続けます。

続く

 


 

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明日に向けて(990)原発事故が明らかにしたウクライナの苦しみと世界の危機(ポーランドを訪れて-7)

2014年12月07日 01時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141206 23:30)

11月28日に発生したウクライナ・ザポリージャ原発3号機の事故は、放射能漏れに発展することなく収束し、同原子炉は現地時間の5日午後10時に再稼働した模様です。
しかし今回の事故はあらためてウクライナの抱えている苦しみ=構造的危機を世界に示すものではなかったかと思います。
残念ながら日本の中でも世界の中でもこうした観点から事故とその背景を分析しているものはありませんでしたが、重要な点ですのでここでまとめておきたいと思います。

これまで僕はポーランドでの国際会議から戻り、現地でウクライナの方たちと出会ったことなどにも刺激されて、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシの歴史を振り返る作業を重ねてきました。
その中で次第に見えてきたのが、現在のウクライナの政治的混乱の大きな規定要因となっているものが、チェルノブイリ原発事故だということでした。
被災地域の子どもの8割が病気を持っており、国家予算のかなりの額が疾病対策に使われているという現実、同時に事故処理にも毎年かなりの予算が必要であり、この国の体力を大きく奪ってきました。

政治的軍事的対立が激化する要因、それは世界のどこでも実はシンプルで、経済がうまく立ち行かず、生活が苦しくなり、人々の意識がザラザラして、やり場のない怒りを何かにぶつけたくなっていくことに大きく依存しています。
さらにウクライナの前に大きく立ちはだかってきたのが、チェルノブイリ事故の被曝影響をもみ消そうとする国際放射線防護委員会(ICRP)など、国際機関の存在でした。
ウクライナの医師たちの懸命の訴えに対し、常にこれらの機関が対立的に振る舞い、病に対する国際的援助の妨害をしてきたのでした。当然にもなされてしかるべき国連などを介した援助が阻害されてきたのです。

このためこの間、ウクライナの人々と連帯していくためにも、ICRPへの批判を強めなくてはならない、科学を装った放射線被曝過小評価のカラクリを暴かなくてはならないと、「ICRPの考察」の連載を行っているところですが、まさにその最中にこの事故が起こりました。
多くの人々がもっとも懸念する放射能の漏出については、英文情報などもかなり追いかけてみましたが、確かに今のところ危険な兆候は確認されていません。ヨーロッパのグリーンピースの独自測定でも問題は検出されていないので、その点ではひとまず安心をしていいのだと思います。
しかしほとんどこの点を論じている人士がいないのですが、例え今回の事故が無事に収束しようと、ウクライナの原発が極めて危険な状態におかれていることを今回の事態は私たちに伝えてもいます。

最も大きな危険性は同国が内戦的状況の中にあることです。このことには原発自身が軍事戦闘に巻き込まれるということももちろん大きくありますが、内戦そのものが電力供給状態を悪化させていること、そのことが原発の無理な稼働に結果しやすいということも大変な脅威です。
現在の戦闘は、ウクライナ政府軍と親ロシア派武装勢力の間で東部で行われていますが、親ロシア派が拠点とするドネツク州周辺には炭鉱が多く、これまで原子力とともにウクライナの電力事情を大きく支えてきた地域なのでした。
ところが戦闘の激化の中で150近くある生産拠点のうち稼働しているのは20ぐらいという厳しい状態になっており、そのためウクライナは全体として電力不足に陥っているのです。

このため今回のザポリージャ原発3号機の緊急停止でも、たちまち広範囲な地域に停電が発生し、ドネツク州に近い東部の大都市ハリコフでは一部の公共交通機関が止まる事態にまで発展しました。
すでにウクライナには極寒の冬が訪れていますが、石炭不足が当然にも暖房の熱源不足にも直結しており、こうした中での停電は生活にきわめて深刻なダメージを与えてしまいます。
今回、ザポリージャ原発3号機は28日のシャットダウンからわずか一週間で再稼働したわけですが、本当にきちんとした点検が行われたのか大きな疑問があります。

こうしたウクライナのエネルギー事情の悪化について朝日新聞が5日20時の記事で次のように報じています。
 「ウクライナのデムチェシン・エネルギー相は4日、11月末から各地で計画外の停電が続くことから国民、産業界に大規模な節電を呼びかけた。
 ピーク時の電力消費を15%削減することを目標に深夜の電気料金の値下げを表明、工場の夜間操業を促すという。」
 http://digital.asahi.com/articles/ASGD55GXWGD5UHBI01D.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGD55GXWGD5UHBI01D

原発事故によるハリコフでの一部公共交通機関のマヒもこの記事の中で伝えられたのですが、夜間電気料金の値下げの発表は実は原発への依存と大きくくっついています。
なぜかと言えば原発は一度稼働すると出力調整ができないので夜間の電力需要がない時でもどんどん発電してしまうやっかいなしろものだからです。電気は貯められないので、夜間の電力の使用先を求める宿命的構造を持っています。
今回の措置も、石炭の枯渇の中で、この夜間電力を活用するため工場の夜間操業を促しているのだと思われるのですが、それで工場が夜間に動けば動くだけ、ますますウクライナは原発を止めるわけにはいなかなくなります。

もちろん緊急停止などあってはならない。いやたとえトラブルがあってもできるだけ早く再稼働しなくてはならなくなってしまう。そうした状況自身がすでに原発の運転を危険な状態に落とし込めてしまうのです。
しかもウクライナの稼働中15基の原発のうち12基はすでに老朽化しており、運転期限終了を迎えようとしています。いやすでに幾つかが「運転延長オペレーション」のもとに運転期間の延長に入っています。
その際の審査も非常に杜撰になってしまう可能性が大いにあります。「背に腹は代えられない」とばかりに運転延長が強行されてしまいやすい構造にあるのです。

あるいはすべてが旧ソ連製の原子炉を使用しているウクライナの原発は、ロシアから核燃料を購入して成立していますが、この間、東芝傘下のアメリカ系企業ウェスチングハウス社の核燃料の使用を目指してきています。
実際に南ウクライナ原発3号機に2005年から2009年まで装填して稼働させるなどしてきましたが、その後に燃料棒の深刻な破損が見つかり、2012年に装着が禁止されました。もともとの企画が違うから無理があるのです。
ところがその後に起こった政変で成立した新政権が、新たにウェスティングハウス社との核燃料購入契約を結んでおり、これまた慎重な点検を無視したままの無理な核燃料の装填に向かっている可能性があります。

戦争はエネルギーを必要とする。同時に戦争は安全性や環境への配慮を後ろに押しのけてしまいます。「環境に優しく安全な戦闘機」など絶対に出てこないのもこのためです。
だから戦乱の中に置かれた原発そのもの、および原子力で発電することは極めて危険です。いやそもそも世界に400を超える原子炉があるこの状態で、私たち人類はもう戦争などしてはいけない状態に突入しているのです。
あらゆる意味で戦争に原発が巻き込まれたら、被害は地球規模におよんでしまいます。だからこそ私たちは歴史上、もっとも戦争を止めなければいけない時代、それでなければ大多数が共倒れし、傷ついてしまう時代に突入しているのです。

人類はこれまで核戦争に対してはこのことに気づき、なんとか第三次世界大戦を食い止めてきました。
その核戦争の危機とてまだ完全に去ったわけではありませんが、私たちは今、本当にスリーマイル、チェルノブイリ、福島につぐ大惨事を世界の連帯で食い止めなければならない時代に生きているし、そのことにもっと覚醒しなくてはいけないのです。
今回のウクライナ原発事故はそのことをこそ私たちに突きつけているように僕には思えてなりません。

そのためにはどうしたら良いのか。ものすごく遠回りに聞こえるかもしれませんが、歴史のねじを逆に巻いて、今の争いの火種を一つ一つ潰していくことが大切だと僕は思います。
ウクライナの戦乱の火種を消すのに必要なのはチェルノブイリ原発事故に戻ることです。そこで生じたものすごい健康被害がもみ消されてきた。ものすごい規模の人々が苦しみ悶えてきたのです。
今、そこに光を当てなければならない。そうしてウクライナの痛みを全世界でシェアしなくてはいけない。シェアして援助を届けなくてはいけない。そこに世界の資金を投入しなくてはいけない。

そうしてウクライナの痛みを癒すのです。癒すことで一つ一つ火種を消していく。そうすることで対立の収めどころをウクライナの人々が見つけられる条件を整えていく。その中でこそ、ウクライナおける第二のチェルノブイリ原発事故の発生が未然に防がれていくのです。
そのためにはICRPへの批判、あのひどい体系、酷い体系、人々に犠牲を強い続けてきた体系を解体しなくてはならないと思います。その作業は広島・長崎の被爆者の無念と結合することにもつながります。
なすべきことは放射線の危険性を世界の人々にもっと鮮烈に知らせることです。同時にその放射線を深刻に浴びてしまった人々こそ、私たちの時代がもっとも手厚くケアし、守り、癒さなくてはならないのだということを全世界に訴え抜かなくてはなりません。

「蟷螂之斧」であること、象に対決する一匹の蟻であることを重々自覚しつつ、僕は今、ウクライナの人々の痛みをシェアし、戦乱を鎮めるために、そうしてそのことから第二のチェルノブイリを避け、全世界の命を守るために、ICRP批判活動を続けようと思います。
どうかみなさん。一緒に起ちあがってください。一緒にウクライナに「平和であってください」と念を送り、ウクライナの人々に援助を送り、第二のチェルノブイリを止めるための何かをしてください。
またこうした活動をしている僕への援助もお願いします。ICRP批判のための諸研究にご支援ください。それやこれやの中で、ともに、世界を核事故の可能性から守っていきましょう。未来世代に少しでもきれいな地球を渡すためにともに奮闘しましょう。

*****

ウクライナの悲劇に関して書いた過去記事をご紹介しておきます。

明日に向けて(977)ウクライナの悲劇=被曝の現実を読み解く(ポーランドを訪れて-5)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/83669290d338e0f63d694c7e55bfbee2

明日に向けて(979)ウクライナの悲劇=被曝影響の隠蔽と第2世代の健康悪化・・(ポーランドを訪れて-6)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/4fe8468358e177a263eb02d2c943b422

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明日に向けて(989)広島・長崎での被曝影響の過小評価(ICRPの考察―4)

2014年12月05日 08時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141205 08:30)

ICRPの考察の4回目です。

これまでマンハッタン計画を引き継いだアメリカ原子力委員会や全米放射線防護委員会(NCRP)が、放射線の遺伝的影響への人々の不安をなんとか抑えることに腐心してきたこと、これにICRPが同調を深めてきたことを明らかにしてきました。
ところがビキニ環礁の核実験などを契機に全世界で高まった核兵器反対運動の中で、遺伝的影響だけでなくガンや白血病への不安もまた多くの人々が指摘するようになりました。
すでにICRPをはじめとした国際機関は、放射線の影響には「しきい値」がないこと、「安全な線量」などないことを認めていましたが、あくまで遺伝的影響に限ったことであり、ガンや白血病にはしきい値があるのかどうかが新たな争点になっていきました。

特にこの時期に問題となったのはストロンチウム90の影響でした。ストロンチウム90はカルシウムと化学的性質が似ているため、人体に入ると大部分が骨に蓄積してしまいます。そのため骨髄の中の造血機能が破壊され、がんや白血病をもたらします。
このストロンチウム90が相次いで大型の原水爆の実験が続けられた1950年代後半以降、例えばアメリカのミルクの中からもたびたび検出されるようになり、人々の不安を高めていったのです。
1962年に『沈黙の春』を出版したレーチェル・カーソンは、農薬や殺虫剤に含まれる化学物資の危険性を告発した人として有名ですが、実は彼女は化学物質とストロンチウムによる複合汚染をこそ問題としたのでした。彼女の書から引用します。

 「禍のもとは、すでに生物の細胞組織そのものにひそんでゆく。もはやもとへもどせない。汚染といえば放射能を考えるが、化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ禍いをもたらし、万象そものの―生命の核そのものを変えようとしている。 
 核実験で空中にまいあがったストロンチウム90は、やがて雨やほこりにまじって降下し、土壌に入りこみ、草や穀物に付着し、そのうち人体の骨に入りこんで、その人間が死ぬまでついてまわる。だが、化学薬品もそれにまさる とも劣らぬ禍いをもたらすのだ。」(『沈黙の春』新潮文庫p14,15)

 「殺虫剤による水の汚染という問題は、総合的に考察しなければならない。つまり人間の環境全体の汚染と切りはなすことができない。水がよごれるのは、いろんなところから汚物が流れ込むからである。
 原子炉、研究所、病院からは放射能のある廃棄物が、核実験があると放射性降下物が、大小無数の都市からは下水が、工場からは化学薬品の廃棄物が流れこむ。
 それだけではない。新しい降下物―畑や庭、森や野原にまきちらされる化学薬品、おそろしい薬品がごちゃまぜに降りそそぐ―それは放射能の害にまさるとも劣らず、また放射能の効果を強める。」(『同』p53)

人々の放射線による遺伝的影響とガンや白血病などの「晩発性障害」への恐れに対して、ICRPや他の国際機関は遺伝的影響には「しきい値」が認められないものの、ガンや白血病には「しきい値」がるという主張を1958年後半ぐらいから強め始めました。
その際に論拠となるデータとして出されたのが、広島・長崎での原爆傷害調査委員会(ABCC)の被爆者調査結果でした。
この調査では放射線急性死には1シーベルトというしきい値があり、放射線障がいには250ミリシーベルトというしきい値があると結論づけられ、ICRPの主張の有力な論拠となっていったのですが、同調査には意図的に被害が過小評価されるさまざまな仕組みがありました。

まず急性死しきい値1シーベルトという結論は1945年9月初めまでの死者を対象としたもので10月から12月までの死者が除外されて作られたものでした。
また被爆者に起こった急性障害には「脱毛、皮膚出血斑(紫斑)、口内炎、歯茎からの出血、下痢、食欲不振、悪心、嘔吐、倦怠感、出血等」があり爆心地から5キロぐらいでもたくさん見られましたが、ABCCはこのうち「脱毛、紫斑、口内炎」のみを放射線急性障害であると断定したのでした。
なぜかと言えばこれらの症状は爆心地から半径2キロ以内に高い割合で発生していたからでした。このことでABCCは放射線急性障害が生じたのは半径2キロメートル以内としてしまったのです。この2キロメートルの地点の放射線量の推測値が250ミリシーベルトでした。

このことでABCCは爆心地から2キロ以遠にいた人々には急性障害が生じなかったことにしてしまい、これらの人々を「被爆者」と認めませんでした。
しかも2キロ以内にいた被爆者と比較対象する「放射線障害を受けていない人々」の群としてこの2キロより外にいた人々を選んだのです。実体は高線量の被曝をした人々と、より低線量の被曝をした人々とを比較対照したのでした。
実際にするべきだったのは、爆心地から遠く離れ、被曝の影響が考えられなかった人々を比較対象とすることでしたが、意図的に低線量被爆者が比較対象とされたことで、2キロ以内の地域の人々のさまざまな病の発症の「被曝を受けていない人」との差異が実態より非常に小さくカウントされることとなりました。

また一方で広島市の中で「非被爆者」に分類されてしまった半径2キロ以遠の人々の白血病の発生率が、全国平均とあまり変わらないことも大いに利用されました。
ここでは実は広島市が1930~34年の調査では、白血病の発生率が全国平均の実に半分だったということが意図的に無視されました。もともとが半分だったのですから、全国平均と同じになったということは発症率が2倍になったことを意味していたにもかかわらずです。
広島市は1971年以降、政令指定都市を目指して周辺地域を合併して拡大しました。するとその地域の白血病者が統計に入ることとなり、発生率が急増しました。合併したかつての広島市郊外に黒い雨=放射能の雨が降った地域が含まれていたからでした。被曝は半径2キロよりもずっと広範囲で起こっていたのでした。

またABCCの調査開始日が1950年10月1日以降とされたことも被害を小さく見せるからくりとなっていました。先にも述べたように放射線急性死亡は1945年9月初めまで、正確には原爆投下後40日までしかカウントされていませんでした。
その後12月までに亡くなった方が除外されてしまったことを先に述べましたが、その後も多くの被爆者が、重傷から回復することができず、苦しみ悶えた挙句に亡くなっていきました。ところがこの1950年10月1日以前に亡くなった方たちの被害もデータから除外されてしまったのでした。
そのためABCCのデータは、高線量を浴びて重篤な被曝をしながらも、なんとか生き延びた人々によるデータなのであって、放射線への感受性がより強く、より大きな被害を受けた人々がそこから消し去られていたのでした。

さらに調査対象者を広島、長崎両市に限定することでもたくさんの実際の被爆者が除外されました。なぜなら被爆直後は広島も長崎も焼け野原であり、多くの人々が市街に避難せざるをえなかったからでした。爆心地に近いほどそうでした。
こうした人々の中には元の住所に戻れない方たちもたくさんいましたがこれもまたデータから落とされてしまいました。
この点で重要なのは、こうした人々には仕事を求めて移住せざるを得なかったより若い人々が多かったことです。つまり放射線に対する感受性がよりたくさんの強い若い人々がデータ集積から外されたのです。

『放射線被曝の歴史』ではこれらを以下のようにまとめています。重要な点なので同書から引用します。(なお同書では被曝を被爆と記述している箇所が多くありますがそのままに引用します)

 「第一に、被曝後数年の間に放射線被爆の影響で高い死亡率を示した被爆者の存在がすべて除外された。
 第二に、爆心地近くで被爆し、その後長く市外に移住することを余儀なくされた高線量被爆者が除外されている。
 第三に、ABCCが調査対象とした直接被爆者は1950年の時点で把握されていた直接被爆者数28万3500人のおよそ4分の1ほどでしかなかった。しかも調査の重点は2キロメートル以内の被爆者におかれ、遠距離の低線量被爆者の大部分は調査の対象とすらされなかった。
 第四に、そのうえでABCCは高線量被爆者と低線量被爆者とを比較対照するという誤まった方法を採用して、放射線量の影響を調査したのであった。
 第五に、年齢構成の点においてもABCCが調査対象とした集団は、若年層の欠けた年齢的に片寄った集団であった。」(『同書』p106,107)

ICRPが今にいたるも放射線防護基準の根拠としている広島・長崎の被爆者データはこのように何重にも捻じ曲げられ、過小評価されたものでした。被爆者を二度三度と踏みつけるようなデータでした。
そしてそのデータが、チェルノブイリ原発事故の被災者に対しても、福島原発事故の被災者に対しても、被曝の影響をもみ消すものとして使われているのです。
私たちはこうした歴史をしっかりとつかんで、ICRPをはじめとした原子力推進派による被曝隠しや被爆者切り捨てと対決していかなくてはなりません。放射線に苦しめられ、今なお苦しんでいる多くの人々の痛みをシェアしつつ、ICRPの考察を続けます。

続く


 

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明日に向けて(988)ウクライナで原発事故発生、5日に復旧の見通し?

2014年12月04日 15時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141204 15:00)

ウクライナで原発事故が起こったことが報じられましたので分析を行いました。

事故を起こしたのはウクライナ南東部にあるザポリージャ原発3号機。11月28日に出力系統で回路がショートし原子炉が緊急停止しました。
ウクライナエネルギー相によると「ショートの原因は分かってないものの、原子炉には問題はなく、5日までに電源系統の緊急修理を終えて再稼働する見通し」だそうです。
今のところヨーロッパ各地の放射線モニタリングポストは通常値を示しており、大きな放射能漏れが起こっている兆候は確認されていません。

発表が行われたのは12月2日。同原発の停止により電力供給が不足し、苦情が寄せられたため公表したとのことです。
ザポリージャ原発は旧ソ連時代に稼働を開始したもので発電規模はヨーロッパ最大。世界では第5位。合計出力は600万キロワットですが、近年は核燃料が得にくくなっており、定格の発電は行えていません。
同国の原発による発電の半分を担い、発電全体の5分の1を担っています。事故を起こしたものを含めて全部で6基の原子炉があります。

今回の事故がこれ以上、拡大しないことを祈るのみですが、調べてみると構造的に幾つかの問題があることが見えてきました。
一つに稼働年数が長いことです。最初の5基は1985年から1989年まで毎年1基づつ連続して稼働を開始し、6号機のみソ連崩壊後のモラトリアム期間を経て1995年から稼働しました。
旧ソ連製の原発は設計上耐用年数30年とされているので2015年から毎年1基が運転期間を終えることになりますが、ウクライナでも運転延長が目指されておりそれをIAEAが後押ししています。より危険度の高い老朽化した原発の運転延長が次々となされようとしています。

またこの地域はウクライナ政府軍と親ロシア派の軍事衝突が繰り返されている同国の東部地域から200キロ余り、同じくロシアが占領し編入したクリミア半島からも同じぐらいしか離れておらず紛争に巻き込まれる可能性があります。
実際に今年の5月17日にも銃で武装したグループが同原発に押し寄せて侵入を試み、地元警察によって阻止されるという事態が起こりました。
武装グループは自らザポリージャ在住のネオナチグループと名乗り、親ロシア派から原発を守ることが目的で原発への襲撃を試みたのではないと主張し、警察によって釈放されましたが、同原発が戦闘に巻き込まれる可能性があることを強く示唆した事件でした。

Gunmen attempt to enter Ukraine’s largest nuclear power plant
http://rt.com/news/159640-ukraine-gunmen-nuclear-plant/

もちろんウクライナ政府側も、親ロシア勢力側も、原発が事故を起こした際に壊滅的な事態が発生することは認識していますから、意図的な攻撃を行うことは考えられませんが、戦闘規模が拡大し、かつ戦線が近づいた場合、原発が不測の事態に巻き込まれる可能性があります。
7月17日には同国上空を飛行していたマレーシア機が何者かによって撃墜され、東部のドネツク州に墜落しました。兵器の威力と能力が高度化している中で、今後もこうした突発的な事態が発生する可能性があります。
またこの撃墜は未だに犯行者が不明で、親ロシア派説、ウクライナ軍説、またマレーシアにプレッシャーをかけたかった西側の何者か説などさまざまな憶測が飛び交っていますが、そのことが疑心暗鬼を生んでさらに一触即発の緊張感を高めてしまっています。

またウクライナ政府にとっては、国民の支持を得続けるためにも、こうした戦闘状態がある中で電力供給を維持することが重要課題となるため、その分、原発の安全性への配慮が後退している可能性も強くあります。
今回も原子炉が11月27日に緊急停止していながら12月5日に再稼働させるのは、冬の到来の中での電力需要への対応を最優先したいためだと思われますが、電源系統のショートの原因すら発表されないなかでのわずか1週間での再稼働はそれ自身危険行為に他なりません。
にもかかわらず、緊急の再稼働が容認されるのも、この地域が東部の戦闘地域に隣接する地域であることと大きく関係しているのではないかと思われます。

さらにウクライナとロシアの対立は違った形でも原発の安全性を低下させています。
ウクライナの原発はすべてロシア製であるため、核燃料もロシアから購入しているわけですが、ロシアとの関係が悪化する中で安定供給ができなくなっています。そこに東芝傘下となったウェスチングハウス社が2005年から燃料供給への参画を開始しています。
具体的にはザポリージャ原発に次ぐ規模の南ウクライナ原発3号機で従来のロシア製核燃料棒とウェスチングハウス社製の核燃料棒を混合して使用する試みが行われ、当初は良好とされましたが、燃料棒交換時に破損が確認され、2012年に装着が停止されました。

しかしその後に大きな政変があり、ウクライナ新政府がロシアとの対立を深める中でウラン燃料の枯渇が深まったため、もう一度、新政権がウェスチングハウス社製の核燃料の使用へと舵を切ろうとしているのです。
ロシア側は重大な事故の発生の危険性があると忠告しています。ロシア政府の核問題での発言にも常に信ぴょう性が欠けてはいますが、それでも原子炉設計社と無関係の会社が作った核燃料がどこまで安全なのか確かに大きな懸念があります。
しかも戦争的な事態の中でですから、戦闘に勝ち抜くためにも安全性が犠牲にされ続ける可能性があります。

どうしたら良いのか。世界的規模で起こっている戦争的事態ですので、私たち市民が何ができるか、頭がくらくらしますが、やはりすべてのウクライナの人々を苦しめているチェルノブイリ原発事故を見据え、親政府側であろうが親ロシア派であろうが、被災者への世界からの支援を続けることが大事だと思います。
そのことで争いの火種を一つ一つ消していく。私たちができることは本当に小さな努力でしかないかもしれないけれども、いつの時代もそれが積もり積もって歴史が動いてきたことを考えて、被災者支援を続けることが大事だと思います。
いや今や私たちは支援というよりも、ともに同じ原発事故を抱えたものとして連帯し、戦争と核のない世の中をともに求めていく必要があると思います。

その点で僕が10月に参加させていただいたドイツIBB主催の国際会議は学ぶことが満載でした。すでに報告したようにこの会議で僕はトルコと日本の間の脱原発運動での結びつきについて発言しましたが、檀上から降りた僕に一番最初に歩み寄ってきて手を握ってくれたのはウクライナから招かれたリクビダートルの方でした。
いきなりロシア語?ウクライナ語?で話しかけられましたが「お前の言っていることは良かった。共感した。一緒にがんばろう」と言ってくださっているに違いないことだけは良く分かりました。
あの方はどこにお住まいなのだろう。ザポリージャ原発からはどれぐらいのところにいるのだろう。原発で事故があったと聞いて、今頃何を思っているだろうという思いがこみ上げてきます。

またこうしたつながりがあるからこそ、5月17日にネオナチグループが武装して同原発に押し入ろうとした時にはそのニュースをキャッチできなかった僕が、今回の事故の報道に強く刺激され、すぐに情報収集を行えたのも事実です。
もちろんトルコの方たちのこともとても心配になりました。事故が拡大したらまた黒海を越えて放射能がトルコに飛んでいく可能性がある。そうならないことを祈るばかりですが、祈るだけでなく、事故を防ぐためにできることを重ねたいと思います。
私たちは原発が世界の至る所にある現状では、どこであろうと大規模戦闘は原発にも危険性を及ぼす可能性があること。また戦争という特殊事情そのものが、原発の危険性をさらに大きくしてしまうことを考え、戦争の火種を無くす最大の努力を傾けていくべきです。

こうした観点を頭に入れつつ、今後、ウクライナをはじめ各国の原発へのウォッチも強化していきたいと思います。
同時に市民の側からできる原子力災害対策を進化させ、本の形にまとめて普及を図るとともに、英語化に挑戦し、世界の原発の周りの人々にも読んでいただけることを目指したいと思います。
もう二度と深刻な原発事故が起こらないように心の底から祈りつつ、同時に、地球のどこでも事故が起こる可能性があることを踏まえて対策を重ねていきましょう。

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明日に向けて(987)映画『小さき声のカノン』に込められた思い(鎌仲ひとみさんとの対談から)-2

2014年12月03日 08時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141203 08:00)

鎌仲さんとの対談の後篇をお送りします。

*****

映画『小さき声のカノン』に込められた思い-2
2014年11月24日 アースディしがにおいて
鎌仲ひとみ&守田敏也

守田 その話を聞くと思い出すことがあります。僕もあちこちで講演させていただいているのですけれども、岡山で話をしたときに、関東の方から逃げてきたばかりのお母さんが参加されていました。
 僕の講演が終わった後に、幾つかグループを作って、それぞれでお互いの話を聞ける場を作ってくれたのですが、その時にその逃げてきたお母さんが、とつとつと、さきほど鎌仲さんが言った通りに話をしてくれたのですね。
 地震があった時に何も知らなくて、小学校6年生の息子さんがいて、お母さんたちみんなで卒業式だけはやってくれという運動をやったのですね。
 体育館も崩れている状態の中でしたが、学校側も「それでは校庭を使ってだったら認めましょう」ということになって、3月15日に校庭で子どもたちが並んで卒業式をやってしまったわけなのです。(守田注 3月15日、その小学校がある地域を大量の放射能を含んだ雲が通過していった)
 ずっと子どもたちがそこに立っていて、しかも卒業式が終わってからもみんなこれでバラバラになるからお母さんたちも名残惜しくて、ずっと一日そこに立っていたということをそのお母さんが泣きながら話すのです。「私は子どもたちを被曝させてしまった」と言いながら。
 それ以上、そのお母さんはどう捉えるべきなのかはなかなか言えないのだけれども、それを聞いていた周りのお母さんたちが彼女の手をとって、その方たちも言葉ではどう表現していいのか分からないのだけれど顔を見合わせて「うん、うん」と言っていたシーンを思い出しました。
鎌仲 本当に人類史上、まれにみる大惨事が起きたわけですが、しかし「人類史上、まれにみる大惨事」とメディアは伝えてないのですよね。

守田 そうですよね。
鎌仲 だからもちろん、どうしたら良いか分からなくて、言葉も出なくて、泣きながらたたずむのはしょうがない。誰だってそうだ。だけれどそれから3年経つ中で、子どもたちを守る新しい取り組みに入っていくときが来たのです。その瞬間を私はこの映画の中で描きたかったのですよね。
 それまで待たなくてはいけないというか。見守って、「うーん」という感じで。やはり人間の中にある強さ、母なるもの、男性の中にもありもちろん女性の中にもあるそういう力が、小さき存在の命をどう守っていくと考えたときに出てくる。今、その段階に来たと思います。その力の出すべき方向を私はこの映画の中で示していると思います。

守田 その取材の場に行って、どうお母さんたちが力を出せるように関わりながら鎌仲さんは取材するのですか。というか、その場合の取材って僕も良く分かるけれど、すごくセンシティブで難しいですよね。
鎌仲 だいたいね、普段はこうやって取材しているんです。三歩下がって。(鎌仲さんは僕の席の三歩後ろに移動)だから前には出ない。でも今回はここら辺からひっぱったかも。(鎌仲さんは僕の横よりほんの少し前に立った)。
 普段は後ろにいて追い抜かないようにしているんですよ。その人がどうあるのかを尊重したいから。この取材の仕方は今回も貫いています。でも時々、関わるよね。関わらざるを得ないのですけれど、基本のスタンスはちょっと後ろから見守る感じです。
守田 やっぱり鎌仲さんが来たら、答えを欲しがるのではないですか?
鎌仲 みんな逃げるんだよね。答えを欲しがるというより、私がすごく答えにくいことを聞くので。私はストレートにいろいろな聞きにくいことを聞くわけですよね。向こうも答えにくくて、ちょっと「うん・・」となる時期ももちろんありました。
 でもだんだん、そういうことを乗り越えて、関係ができていったと思うのですね。

守田 やっぱりそういうシーンが詰まっているというか。
鎌仲 そうですねー。なんだろう。私は出来るだけ私の映画の中では人を泣かさない、感情的なもので絡めとらないということを心がけてきたのです。「泣いたって何も解決しないよ」という考えがあったのですけれども、今回は自分で観ても泣ける、泣ける(笑)。
守田 うーん。それはすごい。
鎌仲 そういう感情のカタルシスがあっても、やはり問題は大きく複雑に私たちの前に立ちはだかっていることには変わりがないので、そこに向かって泣いたり笑ったりしながら、長くやっていく問題だと思っているのですね。

守田 すごく共感します。僕も講演をしたり、いろいろとものを書くときに人の話や書いているものも見ますよね。そうするとすごく上から目線で断定調に「こうしなければダメ」とか、「こういうことをどうして知らないんだ」という話し方、書き方をする人がいるのだけれども、今までの世の中そのものがそのような感じで来たのではないか。
 少数の官僚であったり政治家であったり、偉そうな人の言うことに振り回される。そうではなくて自分自身が、難しいかもしれないけれども情報をつかんで自分で考えて判断できるようになっていくことが大切なのであって、僕はそのためには何が必要なのか、何が提供できるのかということを考えてきました。そう思うだけに映画が楽しみです。
鎌仲 私は原発問題というのは、男性にいろいろなことをお任せしすぎて起こったんじゃないかなあって思うのですね。
守田 そうです!
鎌仲 男性原理。つまり効率を追求するとか、経済性を追及するとか、その価値観の前には「命」という言葉を使うのも恥ずかしくなるような感じで、男たちがやってきたと思うのですよ。
 でも女は子どもを妊娠して生むわけではないですか。それなのに「そんな感情的になるなよ」とか「科学的な根拠もないのに放射能を怖がっているだけじゃないの?」とか冷たい理屈を言う男たちが未だに日本では多いのですよ。
 だから今、そういう男たちが政治とかいろいろなことを決める側にいて、女性たちが「お願いです。給食には安全な食材を使ってください」と嘆願、陳情にいくという構造そのものを変えて、女性も政治を引き受けるし、男性も子育てや地域の活動を引き受けることが必要なのです。だからこれは、単に原発のことだけではなく、男と女の非常に深い問題に関わっているなと映画を作って思いましたね。
 母なるもの、男性の中の女性性が、あまりにも日本の中では抑圧されすぎていると思います。
守田 本当にその通りだと思います。
鎌仲 あるいは夫婦の関係で、夫が妻のいうことに耳を傾けることがあまりにもないと、今回取材をして、凄く感じて、驚いたということもありますね。
 子どもを抱いて放射能のことを不安だと言う妻に「政府が安全だと言っているのにおまえは何をバカなことを言っているのだ」と。でもそんなことを言ってもらいたいのではないのですよね。子どもを抱えて凄い不安に包まれている自分をどうにかして欲しいとまずは言っているのに、すぐに数字の話とか原発の話を男はしちゃうわけでしょう。
 やはり子どもを本当に守りたいという夫婦の共同作業がなければ私は子どもは守れないと思うのです。その中で母なるもの、母的な力というものが今でてきているわけですが、こんなに混迷している安倍さんのアベコベ政治の日本の中で、そういうものと真っ向から対立したら潰されてしまう。
 そうではなくて、地を這うように、草の根が広がるように、女たちが今までとは違う意識を持って前に進んでいかなかったら子どもは守れない。原発も止められない。そう思います。

守田 僕は滋賀に来てもそう思うのですよね。滋賀というより信楽のお母さんたちに最初に呼んでもらって、その場の雰囲気がとても心地よいというか、「話して下さい」と言われて来ながらその場の雰囲気にすごく教えてもらうことがあったのですね。
 たぶんね、僕は三日月さん(注 滋賀県知事。鎌仲&守田トークの前に、お母さんたちを中心としたチームしがの方たちと対談した)もそうだと思う。あれは男としてすごく得だと思いますよ。
鎌仲 そうそう。あれは良かったね。ああいうのいいね!
守田 おそらく今の彼の日常は、灰色の背広を着た時間泥棒のような人たちに取り囲まれている毎日だと思うのだよね。(守田注、灰色の男たち=時間泥棒はミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる)だから今日は三日月さんはなんかホッとした顔をしていた。
鎌仲 そうよねー。ここにいる女の人たちにいじられるのがいいね。
守田 そうそう。
鎌仲 いじくられキャラ(笑)。

守田 そういうのがもっと広がっていくと僕は「男性解放」になると思います。男性自身がすごく自分も抑圧しているのです。男性の中にも鎌仲さんが言ってくれたように母性的なものもあれば、優しい気持ちもあるのに「そんな腰抜けでどうするんだ」と言われちゃってね。「理屈に強く数字に強くないとダメだ」と言われて、結構、それで男性は疲弊しているのですよね。
 それで家に帰って、人のことばかり言えないけれども、お連れ合いに愚痴を聞いてもらう。それではダメで、社会の中で自分が公的な活動をしている場で、そういう母性的なものが出せるようにならないと。
鎌仲 でも連れ合いに愚痴を聞いてもらえるのは良い方だよ。(笑)

守田 さて鎌仲さん。そろそろ最後になるのですが、この映画を僕はとにかく観て欲しいし、広げたいと思うのですけれども何をしたら良いでしょうか。
鎌仲 そうですね。この映画の卵のように産み落とされたシーンを先行的に今日だけ上映するものがありますので観ていただいて、本編は来年の3月に東京の劇場で公開したあとに全国で一斉に上映して、どの劇場でも上映していただきたいと思っていますし自主上映もやります。そのどこでも使える前売り券を販売しています。
 私たちはこの映画を3年かけて作ってきました。こういうテーマの映画を誰も作ってくれないのですが、いいものを作らないと広がらないので時間がかかりました。映画を広げるためには、子どもたちを保養に出すとかあるいは定期検診を受けるとか、今はまだまだ足りない制度を作っていくための運動と連携していきたいなと思っていますが、私たち実はもうぶっ倒れるほどにお金がないのです。
守田 前売り券を買っていただくことが凄く重要なそうですね。
鎌仲 そうなんです。
守田 これから宣伝をしなければならなくて、もの凄くお金がかかると聞きました。ですからみなさんにぜひ前売り券を買っていただきたいです。
鎌仲 ほっておいたらマスコミは私がこの映画で描いたようなテーマを取り上げようとしないのです。でも映画になった、それが劇場公開になる、地域で上映になったとなったら取り上げるようになる。現場にはいい記者たちもいるわけですよ。
 このテーマを広げるチャンスなんです。私はそのチャンスを生かすために何人かのスタッフを雇わなくてはいけないし、その人たちだって人間的な生活をしなくてはいけない。その上で朝から晩まで働いてもらわなくてはいけない。
 映画を作ったのはいいのですが、実は今月の12日にこの映画の製作資金すべての責任を負ってくれていた私と30年一緒に映画を作り続けてきたプロデューサーが亡くなってしまいました。
守田 悲しいですね。
鎌仲 私たちは父親のようなプロデューサーを亡くしてしまって、路頭に迷っているような状態です。でも自分たちでこの映画をやっていこうということで、相変わらず頑張っているのですけれども、ただ、チケットを買っていただかないと、先が・・・という感じなのです。
 いやそれでもやっていくでしょうね。例えチケットが売れなくても借金をして頑張っていこうとは思っていますが、良かったら買ってやってください。
 はい。終わりました。
守田 今日はどうもありがとうございました!

終わり

*****

チケットは以下から購入できます!

鎌仲ひとみHP
 http://shop.kamanaka.com/?mode=cate&cbid=1852150&csid=0&sort=n

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明日に向けて(986)映画『小さき声のカノン』に込められた思い(鎌仲ひとみさんとの対談から)-1

2014年12月03日 07時30分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141203 07:30)

もう一週間も経ってしまいましたが、11月24日にアースディしがに参加して、映画監督の鎌仲ひとみさんと対談させていただきました。
午前11時15分からの開始でしたがその前に卒原発を掲げて当選した三日月滋賀県知事と、選挙を担った「チームしが」の方たちとのイベントトークがありました。しがのかあちゃんたちを中心とするチームです。
あらかじめ用意してきた幾つかの質問がなされましたが、チームしがのみなさん。知事をいじる、いじる!三日月さんはことごとく頭をかきながら応答していましたが、参加者全員の笑顔がはじけて雰囲気がとても良い。なんでも柔らかく包んで、楽しい間にどこかに連れて行ってしまう?しがの「市民力」の強さを見る思いがしました。

このセッションに僕も最後の方で登壇させてもらい、兵庫県篠山市での例を交えながら、原子力災害対策を市民目線でしっかりとたてて欲しいと知事にお願いしました。鎌仲さんとのお話はこのセッションの後に始まったのですが、鎌仲さんの提案でこの続きから話をすることになりました。
原発が災害を起こした時、リアルにはどんなことが起こるのか、その中で避難するというのはどういうことなのか。前半はこの話で盛り上がりました。
その後、鎌仲さんの最新作『小さき声のカノン』に話題を移行。ここからは対談というより主に僕がインタビューをして鎌仲さんに映画の内容を教えていただく形になりました。

『小さき声のカノン』は福島原発事故による放射能汚染に直面し、オロオロと慌てふためきながらも、子どもたちを守るために歩み始めたお母さんたちの姿を描いた作品ですが、この日、鎌仲さんはどんな思いでどのように映画を撮ったのか、その時どう思ったのかをリアルに語ってくださいました。
僕もこれまで鎌仲さんから月1回送られてくる『カマレポ』を観て映画の輪郭をつかんでいるつもりでしたが、鎌仲さんが何にフォーカスしていったのか、今回の対談を通じて初めてはっきりとつかめると同時に、深く共感し、感動するものがありました。
この映画は絶対に広める必要がある。この映画を観てもらうことで、子どもたちを放射線から守る活動をレベルアップさせることができる。多くの方に、未来のためにぜひ観て、広めて、上映に関わって欲しいと思いました。

そんな思いを込めて、この日の鎌仲さんと僕のセッションの後半部分を文字起こしすることにしました。
記事と対談につけた「映画『小さき声のカノン』に込められた思い」というタイトルは僕が独断でつけたものです。
長いので2回に分けますが、どうかお読みになった上で、映画の前売りチケットを購入し、他の方にも勧めていただければと思います。

*****

映画『小さき声のカノン』に込められた思い-1
2014年11月24日 アースディしがにおいて
鎌仲ひとみ&守田敏也

守田 鎌仲さん。そろそろ映画の話をしましょうよ。
鎌仲 したいしたい。

守田 映画がとうとう完成したということですけれども、まずは「見どころ」を教えて下さい。
鎌仲 え? ここで言うの?(笑)それがねえ、難しいのですよ。難しいと言うか、「見どころ」いってもエンターテイメントではないじゃないですか。
 「観たことのない映画」と言われています。まだそんなに多くの人に観ていただいてなくて、試写会を3回ほどしただけなのですけれども。観た人たちはそう言っている。

守田 観たことがないというところが「見どころ」というわけですね(笑)
鎌仲 つまり震災について起きた事象、問題についての映画は、この大震災と原発事故以降、たくさん作られてきたのです。初めて映像作家たち、メディアの人たちが原発問題を捉えるようになった。
 私はそれをできるだけ見るようにしているのですけれども、私自身は問題の核心は被曝にあると思っていて、その被曝に真正面からどう取り組むのかがこの映画の難しいところだったのです。
 一番、人々が混乱させられているところでもあったので、そこに一本の光が薄暗い中にサーっと射し込むようなビジョンを示せる映画にしたいと、作り始めたころから思っていたのです。
 なぜなら例えば福島の人たちは、原発が爆発してその瞬間を報道する福島中央テレビに「原発から水蒸気のようなものが上がっています。水素爆発だ」と言われたのです。放射能が出たとは言われなかった。
 「放射能が出ました。原発が爆発しました。みなさん。この放射能から逃れるためにこうしてください。ああしてください」ということは一切なかったのです。それでみんなボーっとしていた。何も知らされなかったのです。
 翌日、本当に線量の高い土壌の上で子どもたちが遊んだり、そこに座ったり、ご飯食べたり、一緒に水を汲みにいったりしていたのですよ。危ないことを知らなくて。
 それでその後にだんだん事実が明らかになっていったときに、人々の心の中に複雑な感情が芽生えてきたと思うのですよ。お母さんたちがどう思ったのかと言うと「ああ、自分たちが子どもを被曝させてしまった」って。

守田 そうです。そうです。
鎌仲 「そうじゃない。あんたたちがやったんじゃないよ」って言っても、日本人は律義で責任感が強くてすぐに自分を責めちゃうので「自分たちに知らせなかったやつが悪い」とは思わないんですよ。
 すごく加害者側にとって便利なサイコロジーをもっている民族なんですよ、私たちは。自分たちの責任を感じてしまう。そのように躾けられているのですね。なのでお母さんたちは罪悪感を持ってしまう。
 でもその放射線値が高くなったところから逃げればいいのかと言ったら「大丈夫、大丈夫」って言われたのですよ。「放射能が来たけど大丈夫だから。そこにいていいから。何も問題がありません」と、事故の収束よりも素早く言われました。私はものすごくす早く情報操作がされたと思っています。
 その情報操作を乗り越えて、子どもたちの健康へのリスク、自分たちのもそうですけれども、それに気が付くことができるかどうかが最初の大きな課題だったのですね。
 それでその後に「ホラ、こんなに放射線値が高くなっている。それは危ないんだ」と言われた福島の人たちは「自分たちはバカにされている。自分たちの大事な故郷が汚染された、穢れたと言われた」と被害者として感じるようになってしまっていて、複雑な感情がぐるぐる渦巻くようになってしまった。
 その中で一番、問題だったのは「これはもうどうしようもない。こんなに大きな政府や東京電力が助けてくれないのだったら、自分たちは黙ってここで生きていくしかない」と思ったのではないかと言うことです。そう思った人は多かったと思うのです。
 「何もできない。だからもう考えない」という選択が蔓延しました。私はそれが最悪だと思っていて「そうではなくて出来ることがある。子どもたちを守りたい」という気持ちにどんぴしゃっとはまること、できることがあるということを示したかった。
 しかしそれは現実の中にないと示すことができないので、凄く長い時間がかかっちゃったのですね。

守田 どういう形で示したのですか?
鎌仲 チェルノブイリ原発事故は福島原発事故の25年前に起きている。25年間、ベラルーシやウクライナのお母さんたちは経験を積んだわけですよ。その経験の中で分かってきたことはたくさんある。
 それで守ることができる。子どもたちの身体の中にいったん入った放射能も出すことができる。今、そういうさまざまな実践をしてきた28年目になろうとしていて、福島は今、4年目なのですよね。
 だからその先輩お母さんたちに、ビギナーのお母さんたちはものすごくたくさんのことが学べると思うのですよ。その学べるところをこの映画の中に入れました。
 それを今までの「原発反対」という対立的な運動の形ではなく、私たちが暮らしの中でご飯を食べるように、息をするように、朝、「おはよう」って言うようにできる運動、そういう取り組みをこの映画の中で具体的に示したのです。あ、それが見どころだな。そういうわけなんですよ(笑)。
 今日はその本編をお見せするわけにはいかないのですけれども、400時間このテープを回して、結局、2時間をちょっと切ったのです。縮めていくプロセスの中で泣く泣くお気に入りのシーンを落としていったのですよね。
 そのシーンが良くないから落としたのではなく、やはり物語を編んでいかなければならないので、その中にどうしても入りにくかったものを素晴らしいシーンだとしても落とさざるをえなくて、それは映画を作っていく中ではどうしても起きることなのですけれども。
 今日はその最後の最後の方で落ちていったシーンをみなさんに観てもらって、本編は来年の3月に東京で劇場公開をしたあとに一斉に全国で上映していただこうと思っています。

守田 昨日も京都で一緒にトークさせていただいて、いろいろと聞かせていただいたのですけれども、印象的だったのは、鎌仲さんはこれまで月に一回『カマレポ』というのを配信して来られました。長く撮りためたものをみんなにずっと観てもらえないのは残念だということで、毎回10分から長くて15分のものでした。
 僕は楽しみに観ていたのですけれども、その中に僕が東北に行って知り合った方たちがたくさん出てくるのですよね。その方たちは頑張ってあちこちで先頭に立って、素晴らしい訴えをしてくれている人たちなのですよね。
 僕は最初はそういう人たちのシーンが集まって映画ができるのかと思っていたのですが、昨日聞いたらほとんどそのシーンは落としたというのですよね。それはどうしてなのでしょうか。

鎌仲 もう分かっている人は良いかなと思ったのです。うーん。なぜって誰も原発のことを、その恐ろしさを知らなかったわけでしょう?日本中のほとんどの人が。それを知っている人が「ああだこうだ」って言ったって、それを素直に聞けないということもあると思うのです。
 分かっている人に言われるというのは上から目線的でもあるし、そうではなくて私は本当に地に這いつくばって、日々、ご飯を作ったり、子どものいろんな細かいことを気にしながら子育てをしているお母さんたちの目線はそういうところにはないということに気が付いたのですよ。お母さんたちはもっと違うところを見ているのではないかなって。
 その目線を合わせるのに、原発のことをただ知らせるのではなく、お母さんがどういう風に子どもを愛しその子供を守っていくということを、これまでのご飯を作る、洗濯をする、掃除をする、子どもの宿題を見る、子どもを幼稚園に、学校に送りだす。その延長上にあるべきだという風に思ったんですよ。
 それはグレイな、グラデュエーションでいうと曖昧なところですよ。はっきりと腹をくくった人たちではないのですよね。途上にある人たちなので。だからカメラに映ることも非常に難しい。カメラに映ること事態が福島では恐ろしい。
 なのでそういう非常に微妙なところを撮影するのに凄く時間がかかりました。微妙なところにいるお母さんたちが試行錯誤をし、泣きながら、励まし合いながら、でも孤独にもなりながら、それでもやっぱり前に進んでいく姿を3年間、追っかけたので大変だったのですね。
 そこが「今までにない映画」ということだと思います。映画には「素晴らしい人を撮る、素晴らしい覚醒した人たちを撮って、その教えを請う」というものもありますが、今必要なのはそういうものではないと私は思うのですよ。
 やはり今を生きている葛藤とか格闘の中に何か見えてくるものを追うのがこのテーマではいいかなと実感したのです。そのため編集はものすごく苦しかったのですけれども、最終的にはその目線と合うことができたと思っています。

続く

*****

チケットは以下から購入できます!

鎌仲ひとみHP
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明日に向けて(985)原発推進と核実験頻発の中で緩められていった放射線防護(ICRPの考察―3)

2014年12月02日 22時00分00秒 | 明日に向けて(901)~(1000)

守田です。(20141202 22:00)

ICRPの考察を続けます。

前回は第二次世界大戦後の「放射線防護活動」が、核戦略を中心とするアメリカの全米放射線防護委員会(NCRP)などにリードされていたこと、広島・長崎の事実上のアメリカ軍による調査がベースにされていったことを書きました。これらの中心にはマンハッタン計画からそのままスライドしたアメリカ原子力委員会がありました。
これに対してICRPにはアメリカ以外の国が参加していたため、世界の核兵器反対の声におされつつ、リスク受忍論の受け入れには積極的ではありませんでした。
しかしこの条件が1950年代に大きく変わっていきました。一つはイギリス・フランスなどが遅れて核保有国となったこと。また各国で原子力発電が開始され、ICRPがリスク受忍論により傾斜して行ったことです。

もう一つは核実験がより頻繁に行われる中で、ビキニ環礁での周辺住民の深刻な被曝が起こり、日本でも第五福竜丸などが被曝するに及んで、放射線被曝の危険性への国際的な関心が高まったことも大きな背景としてありました。
この中で核戦争体制を維持し、さらに原発を広げていくことが目指されたため、新たな「科学的な粉飾」を施した「放射線防護学」が求められました。
これらを背景としつつ、ICRPは1950年代から60年代に、勧告を塗り替えるたびに大きな変貌を遂げて行きました。

原子力発電に世界で最初に踏み切ったのは旧ソ連でした。1954年のことです。原子力部門で断然他国を引き離していると思っていたアメリカは大きなショックを受けました。
それまでアメリカは、軍部などが原子力部門の私的所有を認めたがりませんでした。軍事機密を保持するとともに核開発に関わる「優秀な」人材を独占したいからでした。
しかしソ連ショック以降、アメリカは急速に国内体制を転換し、商業用の原発技術の開発を目指していきます。重視されたのは長期運転を可能にするシステム作りで、コストを削減するための安全面の配慮の後景化が始まりました。

同時にこの年の3月にビキニ環礁で広島原発の威力を1000倍も上回る「ブラボーショット」などの核実験が繰り返され、ロンゲラップ島などマーシャル諸島住民や周辺にいた漁船多数に深刻な被曝が起きました。
アメリカの調査でもロンゲラップ島などでは「流産・死産の激増、マーシャル諸島の平均よりも異常に高い死亡率、生存者の多くをおそった甲状腺異常、とりわけ10歳以下の子どもたちは大半が甲状腺異常にかかり、切除や転移がんを免れなかった」(『同書』p71)とされています。
日本でも第五福竜丸ら多数の漁船が被曝。「第五福竜丸の23人の乗組員は、外部からのガンマ線だけでもおよそ200レム(2シーベルト)あび、その一人、久保山愛吉さんが死亡」(『同書』p72)するなどしました。この時被曝した漁船は1000隻もいたのではないかと言われています。

これに対して杉並の母親たちによって原水爆実験禁止を求める署名運動がはじまり、瞬く間に全国に拡大して原水爆禁止署名運動全国協議会が誕生、短期間で2000万人もの署名が集まりました。
これを受けて翌1955年に原水爆禁止世界大会が初めて広島で行われました。それまで被爆者たちは、ABCCなどアメリカ軍の関与の下での調査の対象とされるばかりで厳しい監視下に置かれており、全国からの支援も行われていませんでしたが、ようやく独自の声が上がり始めました。
またアメリカ自身の内側でも、経費削減のためマーシャル諸島からネバダ砂漠に移して行われた核実験で被曝が多発し、ニューヨークの水道水で放射能汚染が確認されたことなどから核実験反対の声が上がり始めました。これらの運動はいずれの放射線被曝による遺伝的影響への不安をバックボーンとしていました。

放射線被曝がこのように大きな社会的問題になると、必ず学術界が第三者のような顔をして登場してくるのですが、その史上最初の例が、このときのアメリカの「原子放射線の生物学的影響に関する委員会」でした。通称をベアー(BEAR)委員会といいます。
委員会を財政的にバックアップしたのは、マンハッタン計画のときから原子力産業に参画してきたロックフェラー財団でした。元理事長のジョン・ダレスが国務長官となっていましたが、この財団がアメリカ政府や軍関係者が表立つことよりも学術界が矢面に立つ方が良いと判断し、多額の資金を投入しました。
このもとで放射線の遺伝的影響とともに、病理学的影響、気象学的影響、海洋と漁業への影響、農業と食糧供給への影響、核廃棄物の処理処分に関する委員会の計六委員会が設置され、それぞれの報告が行われていくようになりました。

BEAR委員会の報告は早くも1956年6月に発表されました。焦点はやはり遺伝学的影響についてでした。以下、同書より引用します。なお単位にレムとシーベルトが使われていますがシーベルトのみを記載します。
 「遺伝学見地からは、放射線の利用は可能な限り低くすべきであるが、医療、原子力発電、核実験のフォールアウト、核科学実験からの放射線被曝を減少させることは、世界のおけるアメリカの地位をひどく弱めるかもしれないので、合理的な被曝はやむをえないと考える。」
 「遺伝的影響を倍加する線量は50から1500ミリシーベルトの間にあると考えられるが、動物実験によると300から800ミリシーベルトの間にありそうなので、
  合理的な線量として労働者の場合は30歳までに生殖器に500ミリシーベルト以下、40歳までにさらに500ミリシーベルト以下とするように、また公衆の場合は30歳までに生殖器に100ミリシーベルト以下とするように勧告する」(『同書』p79)

この報告は大きな位置を持っていました。それまでマンハッタン計画から生まれたアメリカ原子力委員会が公衆への許容線量の設定に抵抗していたためです。
BEARがこれに対し第三者の装いで登場し、原子力委員会に許容線量設定を認めさせ、労働者への被曝許容線量も従来の3分の1に下げることで、何よりも核実験反対の声を鎮めることが狙われました。
全米放射線防護委員会(NCRP)はさらにこれを加工し「職業人に対しては・・・3か月30ミリシーベルトの線量率を残した上で、50ミリシーベルト×(年齢-18歳)を生涯での集積線量として採用する」としました。
また「公衆に対しては医療被曝を含む人口放射線からの被曝量を、胎児から30歳までで~一人当たり50ミリシーベルトとする」との案をまとめました。(『同書』p81)

これがICRPに持ち込まれましたが、このころICRP参加各国が核武装や原子力発電への着手に踏み切っていたためBEAR報告を加工したNCRPの1956年勧告がそのまま適用され、ICRP1958年勧告が出されることとなりました。
このときICRPはリスク・ベネフィット論を受け入れ「原子力の実際上の応用を拡大することから生じると思われる利益を考えると、容認され正当化されてよい」と述べられ、放射線防護が緩和されていくようになりました。
 「1950年勧告では『可能な最低レベルまで(to the lowest possible level)』とされていたのが、1958年勧告では『実行可能な限り低く(as low as practicable:ALAP)』と緩められた」のでした。(『同書』p86)

アメリカはこの動きをさらに国際化していくことを目指していき、この時期に生まれた二つの国際組織への関与を深めて行きます。
その一つが「原子力の平和利用」の名の下の原子力発電の推進の中で1955年におこなわれた「原子力平和利用会議」を継承した「国際原子力機関(IAEA)」でした。
一方で核実験に対する批判の高まりの中で国連の中に生まれたのが「原子放射線の影響に関する科学委員会(UNSCER)」でした。「科学」の名が冠されているものの、実際には参加国の代表によって構成されました。

UNSCERは拡大版ICRPとも言えるもので、アメリカ、イギリス、カナダ、スウェーデン、フランス、オーストラリア、ベルギー、日本、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、インド、エジプト、ソ連、チェコスロヴァキアの15か国が参加しました。
ソ連や社会主義国、第三世界が参加したことに特徴があり、当初、核実験の降下物への評価が真っ二つに割れました。ソ連とチェコスロヴァキアは核実験反対を表明、これに対してアメリカ、イギリスが共同戦線を張りました。被爆国として参加した日本はアメリカに追従し、なんと核実験即時停止に反対しました。
こうしてUNSCER報告をめぐる争いはICRP陣営の勝利に終わり、その後、同委員会はICRPと共同歩調の道を歩んでいくことになりました。

こうして世界の「放射線防護」のための機関は、その実、核兵器と原子力発電の推進派に牛耳られるようになってしまいました。
この動きを一貫してリードしたのはアメリカ原子力委員会と全米放射線防護委員会(NCRP)でしたが、今はこのもとにICRP、IAEA、UNSCERがアメリカ核戦略よりの機関として存在しています。
アメリカはさらにこれらの国際機関を通じつつ、放射線の遺伝的影響の考察の徹底排除をもくろみ、放射線の危険性にしきい値がないという見解をなんとかくつがえすことを目指しました。

しかしこのアメリカの動きを大きく阻むものがありました。世界中でより一層、高まっていった核実験反対運動でした。アメリカはBAER委員会など科学的な粉飾を凝らした組織を登場させることで国際委員会を籠絡していったものの、世界の民衆の声を封じ込めることはできなかったのです。
この動きをみたソ連が1958年1月に一方的に核実験停止を宣言。追い込まれたアメリカのアイゼンハワー政権は翌1959年に核実験を一時停止すると声明しました。民衆の力が国際機関など跳ね除けて、核実験の停止をアメリカに約束させたのでした。
しかしこのためにアメリカは1958年に停止前の駆け込み実験を多数強行。その数は1950年代前半の数倍にものぼりました。このため1959年にはアメリカ全土での死の灰の降下が急増しました。各地でストロンチウム90の濃度が上がっていることが確認されました。

世界を覆うこの核実験反対の声に対しアメリカはさらにリスク・ベネフィット論を進化することで対応をはかり、NCRPに1959年勧告を出させました。以下、勧告の考え方を要約した点を本書から引用します。
 「核兵器・原子力開発から得られる利益を受けようとすると、その開発に伴うなんらかの放射線被曝による生物学的リスクを受け入れることが求められる。許容線量値を、その利益とリスクのバランスがとれるように定めることが必要である。
  社会的・経済的な利益と生物学的な放射線のリスクとのバランスをとることは、目下のところ限られた知識からは正確にはできないが、しかし欠陥は欠陥として認めるなら、現時点での最良の判断を下すことは可能である」(『同書』p116)

これらの総仕上げとして出されたのがICRP1965年勧告でした。勧告には「経済的および社会的な考慮を計算に入れたうえ、すべての線量を容易に達成できる限り低く保つべきである(as low as readily achievable:ALARA)」という文言が入りました。
ようするにアメリカの主導のもとにICRPは医学的、科学的に安全論を争っていてはもはや勝てないと判断し、「経済的および社会的な考慮」を持ち込むことで政治的に押し切る方向性に大きく舵を切ったのでした。
こうして世界の放射線学に、本来、放射線という科学的物質とはまったく関係のない政治・経済的要因が持ち込まれ、その上でいかなる放射線量を許容すべきなのかと言う考察が重ねられていくこととなったのでした。言い換えれば1964年にICRPは最後的に科学から遊離していったのでした。

続く

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