明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1190)後藤政志さんに聞く高浜原発再稼働の危険性(京都)、平和と電気ネット学習会(大阪)へ!

2015年12月15日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151215 23:30)

みなさま。12日の『原発からの命の守り方』の出版を祝ってくださる会にとてもたくさんの方が来てくださいました。会場の新島会館が満杯になりました。
この場を借りて御礼申し上げます。
さまざまな企画が被っていたので、もっと少ないかと思っていたのですが、各地から駆けつけて下さりとても嬉しかったです。
これを力に代えてさらに前に進みますのでどうかよろしくお願いします。

さて早速ですが、次の企画についてお知らせします。
直前の告知になり恐縮ですが、17日に後藤政志さんが急きょ、京都にやってきてくださることになったのでお話を聞く会を企画しました。
僕がインタビュー形式でお尋ねします。Facebookのイベントページをお知らせします。
午後2時からノンベクキッチンホテヴィラ2階のアートギャラリー、グリーン&ガーデンでの開催です。
https://www.facebook.com/events/145470422484021/

これまで何度もご紹介してきましたが、後藤さんは元東芝の原子炉格納容器設計技師で、在職時代から原子炉の根本的矛盾と限界に気付き社会に訴えることを準備してこられた方です。
福島原発事故以降、満を持して登場。誰よりも的確に福島原発の中で起こっていることを解き明かしつつ、問題点を突き出してこられました。
その後もNPO法人APASTを主宰しつつ、再稼働に向けた新規制基準のあやまりを技術論的に明らかにするなど、精力的な活動を続けてこられました。

僕も事故当初から後藤さんの発言に最も惹かれるものを感じ、何度も文字起こししてみなさんにお伝えしてきました。
後藤さんが訴えられてきたことがもっと広範に社会に行き渡れっていれば、再稼働などありえなかったと思え、悔しい気もします。
しかしまだ遅いわけではありません。今からでも繰り返し社会への問いかけを行っていきたいと思います。

今回のお話会もその一環です。とくに再稼働への動きが強まりだしている高浜原発の持つ危険性、再稼働をするとどこがどのように危ないのかを説明していただきます。
僕がインタビューのような形で質問しながら話を進めていきたいと思います。

師走で何かと忙しい時期ですが、お近くのみなさま、ぜひお越しください。
IWJでの中継も行われますので、お腰に慣れない方はぜひそちらでご覧下さい。

しっかりとした知恵を身につけて、再稼働の動きに立ち向かっていきましょう!

以下、詳細はお知らせを貼り付けておきます。

日時  12月17日午後2時から4時半まで
場所  ノンベクキッチンホテヴィラの2階のGreen&garden
https://www.facebook.com/gandgarden/?fref=ts
京都市中京区猪熊通三条下る三条猪熊町645-1 2F

講師  後藤政志 コーディネータ 守田敏也
参加費 1000円(ワンドリンク込み)

託児はありませんが、お子さん連れでも気にせずに一緒に参加されてください!

主催 本田久美子さんを勝手に応援する会
    ノンベクキッチンホテヴィラ
問合せ 守田まで。morita_sccrc@yahoo.co.jp

*****

夏に行った後藤さんと守田の対談の動画と文字起こしを以下に貼り付けておきます。

後藤政志 ゲスト 守田敏也
https://www.youtube.com/watch?v=TKJNkgNOgaI

明日に向けて(1123)福島原発事故からつかむべきこと(後藤政志&守田敏也対談か ら)-1
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/9b5b445e16ed2fa9cbaac7e336870bda

明日に向けて(1124)川内原発再稼働の危険性と「過酷事故」の曖昧化の問題(後藤&守田対談よりー2)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/6e90c7394a36315234d435aeb267da78

明日に向けて(1125)ベント後付けの条件設定を無理強いされて(後藤&守田対談から-3)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/b6723e704fd2df6cea3f4b429f55ec80

明日に向けて(1126)安全についての考え方を身につけることが問われている(後藤&守田対談から-4)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/0643e26193fcc0fd7471b3f25e51ee0f

*****

その後の講演スケジュールです。

大阪の「平和と電気ネット」さんのお招きで、12月19日(土)と来年1月16日(土)の2回の連続講演を行います。

「平和と電気ネット」は「平和」(平和外交、安全保障など)と「電気」(原発、自然エネルギーなど)の問題について学習するメーリングリストで、学習会や講演会も開催しておられます。
このネットの第7回と8回の学習会の講師を務めさせていただくことになりました。
12月の演題は「原発事故と健康被害~内部被曝って何?~」。
1月の演題は「原発災害にいかに備えるか」です。

このようにお招きいただけるのはとてもありがたいです。
この5年間でさまざまにお話すべきことを積み上げてきたので、最近は伝えたいコンテンツがいっぱいで、いつもどこかを端折りながら話すことになっているからです。
今回は2回に分けられるので、一つ一つをかなりしっかりとお話できるのではないかと思います。
それぞれに独立した内容ですので、どちらか片方だけの参加ももちろん可能です。

ともに大阪市天満橋のエルおおさか(研修室3)で13時30分から16時30分までの開催です。
参加費500円、主催は「平和と電気ネット」です。

なお会場が狭いため、要申込です。
ご参加を希望される方は、事務局の野村東洋夫様にご連絡ください。以下がアドレスです。
nomtoyo@wing.ocn.ne.jp

ぜひ可能な企画にご参加下さい。


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(1189)篠山市で沸騰する原発からの命の守り方をめぐる議論(本日は京都市新島会館へ!)

2015年12月12日 12時00分00秒 | 「原発からの命の守り方」発売中です!

守田です。(20151212 12:00)

今日は『原発からの命の守り方』の出版を祝う会を催していただける日ですが、その前の昨日は篠山市で原子力災害対策検討委員会の緊急会議が招集されて行ってきました。
実は昨日まで篠山市議会が開催中。来年1月から始めようとしている安定ヨウ素剤の事前配布の予算執行に対して、少し前に議員の一部から「待った」がかかり紛糾していたのです。

理由は「市民へのヨウ素剤配布の意義の周知が徹底していない」「もっと時間をかけてやるべき。例えば学校で生徒・児童に対してもっと徹底した説明を行うべきだ」などというもの。
同時に事前配布にはたくさんの医師、薬剤師の関わりが必要であり、それなりの予算が必要なのですが「そんなにかかるとは知らなかった」とも。

これに対して市長・副市長と市役所職員が説明不足を己に問いつつ、説明に次ぐ説明で大奮闘、ようやくのところで賛成多数を得て予算案が委員会を通過(ただし付帯決議付き)、本会議にまわりました。
昨日の私たち検討委員会は、議会で配布方針がひっくり返ってしまう可能性も含めて、市から議会の様子をお聞きすることをメインとしていましたが、事務局を務める市民安全課防災係のみなさんが、やつれながらも安堵していたことが印象的でした。

実はその前にも篠山市医師会からもいったん待ったがかかりました。この時も説明が不十分だった面もあると捉えて、委員会に属する兵庫医大の上紺屋先生や事務局のみなさんがさらなる丁寧な説明を行ってくださいました。
職員の方たちは医師からの高度な医学的質問にたじたじしたりしながらも、説明を繰り返されたそうです。すると医師会のみなさんがようやく理解を示してくださり、ヨウ素剤配布に医学的見地から前向きに協力して下さることになりました。

それもあってこの間。職員の方たちからいろいろと僕にも質問が。
「燃料プールの事故の場合でも放射性ヨウ素は発生しますか?」「甲状腺等価線量50ミリシーベルトというのは、もし放射性ヨウ素だけが飛んできたと仮定して実効線量ではどれぐらいになりますか?」
・・・さてみなさん、これらにすぐに答えをだすことができますでしょうか?

篠山市はこの間、こんなことをあちこちで論議しています。これまで安定ヨウ素剤の説明を行った自治会は206。説明会参加者数は4300人。ちなみに篠山市の人口は約4万人です。
市議会では「それでも足りない」という意見が出てきたわけです。「よーし、それならもっと徹底して説明しますよ!」とか僕は思っちゃいましたね。

医師会や議会から待ったがかかる度にハラハラどきどきで、必死で汗を書いている事務局のみなさんには著しく申し訳ない言い方にはなりますが、僕はこれはこれでとても意義深いことだとも思っています。
なにせ篠山市のあちこちで放射能からの命の守り方について論議しているのだからです。こういうときはどうするんだ、こういうことが考えられてないじゃないかとかやっている。その中で説明が繰り返されている。この過程こそが防災力をあげるのです。

篠山市は小さな行政体でお金があまりない。だから初めからモニタリングポストを建てるだとか、事故通報システムを整備するだとか、そんな高額のハード整備については考えてきませんでした。考えたって買えなくては仕方がないのですから。
その分「人の頭」を啓発することに焦点を絞ってきた。ヨウ素剤配布でも事前の啓発活動に力を入れてきました。それでも足りないという突込みが議会でありましたが、その際の細かい質問にまで事務局の方たちが対応できる。だって勉強してきましたから。

とはいっても最低限の必要なものは買っていただいています。そのひとつに消防団の原発災害時出動用にゴアテックスのカッパを新調したことがあります。1着約1万円を1200着。
もちろん安定ヨウ素剤はいち早く全市民分を購入して備蓄済みだし、ガイガーカウンターなども買いそろえました。消防団では今後、眼を守る曇り止め付きゴークルを揃える予定です。精度のよいマスクも。

昨日の帰りがけに職員の方が言いました。「ヨウ素剤配布。はじめたらすごいことですわ。物理学もやらんならんし、薬事法も調べんならんし、その上、原子力規制庁の指針も読まなあかん。私のようにズブズブの文系にはえらいですわ」
僕が言いました。「僕ももともと文系なんですよ。でもまあそれでもよくここまで来ましたよねえ。気がついたら驚くような高い山に登っていたことになりますよ。ご苦労様です」・・・。本当に心の底から篠山市のみなさんの奮闘に敬意を表したいです。

ヨウ素剤配布の現場にはたくさんの医師、薬剤師が立ち会ってくださることになったのですが、この方たちももともと放射能のことに詳しいわけではありません。今、懸命になって勉強していただいているところです。
こうして篠山市は、放射能問題を学び、理解し、安定ヨウ素剤についてのしっかりした知識を持つ医療関係者や自治体職員の数が増えつつあります。もちろんしっかりした知識を持った市民の数自身も上昇中。大変良いことだと思います。

さらに放射能の問題に限らず、災害全般への市民の対応力を伸ばそうとしているのが私たちの委員会が出している災害対策の「ミソ」です。
僕はこのことは民主主義そのものの促進につながるという確信も最近深めてきています。今日もそのことを結論として発言したいなと思っています。

原発から、放射能から命を守るために、同時に私たちの町、社会を下から作っていく市民的能動性を高めていくために、さらに多くのみなさんと一緒に前に進みたいです。
お近くの方、本日はぜひご参加下さい。

*****

守田敏也さん「原発からの命の守り方」(海象社)出版を祝う会
https://www.facebook.com/events/178060139201488/
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(1188)台湾のおばあさんたちを訪ねて3-性暴力問題に男性はいかに向かいあうべきか

2015年12月10日 14時30分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

明日に向けて(1188)台湾のおばあさんたちを訪ねて3-性暴力問題に男性はいかに向かいあうべきか

守田です。(20151210 14:30)

前回の続きです。
ところで9年前に僕は男性としてこの性に潜む暴力性に向かいあい続けなければならないけれども、どこかで自信を持って言い切れない自分がいると書きました。
今はどうかと言うと、さすがに9年を重ねてきて、もう一つか二つ、前に進めたものを感じています。だからもちろん今は自信を持って言い切れるし、むしろ今はそこに男性自身の解放もあるとも確信しています。

この間、折に触れて語ってきましたが、軍隊「慰安婦」問題の背後にあるのは、旧日本軍の並外れた構造的虐待体質でした。
兵士たち、とくに二等兵、一等兵などの末端の兵士たちは、毎日、毎日、殴られるのが普通でした。訓練も過酷で命を落とすものがでることもしばしば。それも体罰などが続いた末のことでした。
「きさまたちは軍馬よりも安い。一銭五厘(召集令状=赤紙の代金)で補充が効く」などと言われ続けました。

その上、多くの戦線で酷い人殺しを強制されました。度胸試しだといって捕虜となった人々を刺殺させられたり、さまざまな虐殺を命令されました。
このため、日本軍兵士たちは一度野に放つと、とんでもない狂暴性を発揮するようになりました。とくに民家を見つけると略奪に走り、男性を殺し、女性を強姦しました。強姦してから殺すこともしばしばでした。こうした体質が特に南京で猛爆発しました。
兵士たちの暴走に手を焼いた軍部は、南京虐殺の捉え返しから「慰安所」という性奴隷施設を創設しました。軍部が特に問題にしたのはレイプそのものよりも兵士が性病にかかることでした。かくして軍は処女の女性・・・幼い少女たちを狩り集めたのでした。

繰り返しますがこのように旧日本軍性奴隷問題の背後には、日本軍の構造的虐待体質が横たわっていました。だから日本軍下級兵士たちの中には、本来、上官や軍上層部、政府中枢に向けるべき憤怒のエネルギーが堆積していたのでした。
しかし兵士たちは軍部によってそれを女性たちに向けさせられ、性暴力を振るってしまいました。あるいはアジアの多くの人々を虐殺する形で晴らさせられてしまいました。だからそれはますます自らへの虐待を強める力へと転化していったのでした。
かくして兵士たちは、太平洋戦争の中でまったく勝つ展望のない過酷で不条理な戦を強いられました。弾薬も足りず、それどころか食糧すら満足に供給されませんでした。太平洋戦線で死亡した兵士の実に半数以上が餓死してしまったのでした。

その大半は若者です。しかも二十歳前後の。まだまだ子どもたちです。しかし彼らは殺人鬼になってしまいました。いやされてしまったのでした。
この歴史をこそ正さなければなりません。女性の虐待の背後には必ず男性の虐待がある。反対に女性の尊厳が輝くときにこそ、男性の人権もより守られ、尊厳も輝いていくのです。ここには深い連動性があります。
女性たちが不当に虐げられている世の中で男性が幸せなわけがない。またそんな不当なことがまかり通る世の中では必ずや男性もまた理不尽な虐待ピラミッドの中におかれるのです。男性はこのことにこそ気が付くべきです。

僕自身はそのため、旧日本軍兵士たちの罪を背負っていきたいと思っています。なんというか、背負ってあげたいと強く思うのです。
もちろんそれは彼らが犯した罪を容認するものでは断じてありません。彼らは被害者に懺悔しなくてはならない。だとしたらそれを力強くサポートしてあげたい。彼らもまた国家の犠牲者なのですからその痛みにも寄り添いたい。
しかも彼らは虐待者、性暴力者、虐殺の共犯者にされてしまった犠牲者なのでした。それで彼らの魂が安らかに眠れるはずなどないと僕は思うのです。だから彼らの深き罪から彼らの魂を救うためにも、おばあさんたちの尊厳を取り戻したいと強く思います。

同時にだからこそ、あらゆる戦争に僕は反対し続けます。僕は自衛の戦争も、自衛権の行使にも反対です。
自衛権の行使だってなんだって人殺しをするためには人殺しの訓練をさせなければなりません。そのためには「人を慈しみたい」、いわんや「人殺しなどしたくない」という人間的心情をこそ潰さなけばならない。それでないと人間は人間を殺せないのです。
だから、国を守るためだろうがなんだろうが、僕は若者たちに人殺しの訓練を課すことに反対です。「誰の子どもも殺させない」・・・これこそが最も正しい答えだと僕は思います。

同時にすべての男性のみなさん。この日本という国は、女性の、議員数や会社の役職者数、平均給料などからはかった社会的地位がなんと世界の中の100番以下の国なのだそうです。
そのことは私たち男性が「国際水準」からみて、いかに劣った愚かな存在であるのかをも物語っています。
こんな状態は僕はごめんです。こんな不名誉なあり方から解放されたい。だから私たちは私たち男性の課題として、すべての女性の地位の向上に尽力すべきです。

そのための大切な道しるべをたくさん作りだしてくれたのが性奴隷問題被害者のおばあさんたちだと僕は思います。
その勇気ある姿を知ってください。同時に、それぞれに優しく、かわいらしく、お茶目な、彼女たちの横顔を知ってください。
すべての女性と男性の真の解放のために、おばあさんたちの思いをみんなで何度もシェアして、前に進みたいと思います。

連載終わり

*****

2012年秋に台湾のおばあさんたちを訪問した際の連続記事のアドレスを記しておきます。ぜひご参照下さい。

明日に向けて(546)福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(上)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/430fed7c5227f1b2f3d950199e350215

明日に向けて(548)台湾のおばあさんのこと・・・福島原発事故は戦争の負の遺産とつながっている(中)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/fa4f3e76c32de1f65b67cffe2748f976

明日に向けて(550)台湾・霧社事件と原住民と「慰安婦」・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の2
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/55a668ec4dca3c065a944501eb8a6219

明日に向けて(551)タロコ族のアマアたちのこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の3
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/55e1cbf5935c0ab7a2b77d1e7fc82387

明日に向けて(552)タイヤル族のアマアのこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の4
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/e2098433faf74f20876ba368ec669018

明日に向けて(554)呉秀妹阿媽のこと・・・福島原発事故と戦争の負の遺産(中)の5
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/3c59c0d525331d84de324393a823f2f4

明日に向けて(574)台湾の呉秀妹阿媽が逝去されました・・・。
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/770f6a19030ae52e12772bae2126321b


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(1187)台湾のおばあさんたちを訪ねて-2・・・陳蓮花アマのこと

2015年12月09日 19時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151209 19:00)

もう一月前になってしまいましたが、台湾での旧日本軍性奴隷問題被害者のおばあさんたちの訪問記の続きを書きます。
今回、ピントンの小桃アマの次に訪ねたのは台北在住の陳蓮花(チンレンファ)アマでした。

レンファアマと私たち京都グループは深い縁で結ばれています。それはアマが初めて人まで被害体験を証言したのが私たちが呼んだ京都での証言集会の時だったからです。
アマは来日するまではまだ初めての証言をする決意ができていなかった。しかし京都に来て、私たちと心を通わせる中で「私も話す」と起ちあがってくれたのでした。
この時のことを2006年に僕があるところに投稿した文章からご紹介したいと思います。アマが仏教大学で講演した時のもとです。ちなみにこのときアマはまだ陳蓮(チンホア)という仮名を使っていました。

*****

アマはフィリピンのセブ島に連れて行かれ、性奴隷の生活を強制されました。それだけでなく、フィリピン奪回のために大軍で押し寄せたアメリカ軍と、日本軍の戦闘に巻き込まれ、地獄のような戦場をさまよいます。
私はフィリピンからフリアスさんをお招きする過程で、このセブ島やその対岸のレイテ島などで戦った、旧日本軍兵士のおじいさんからの聞き取りも行っていたため、とくにその背景がよく見えるような気がしました。
 
陳樺(チンホア)アマは、戦闘の激しさを身振り手振りで表現しました。米軍は海から凄まじい艦砲射撃を加え、さらに徹底した空襲を加えて日本軍を圧倒していきました。
渦中にいたアマはそれを「かんぽうしゃげき」と日本語で語り、「パラパラパラ」と空襲や米軍の銃撃の様子を伝えました。
装備の手薄な日本軍兵士とて、鉄兜ぐらいはかぶっています。そのなかを粗末な衣服で逃げねばならなかったアマのみた地獄はどのようなものだったでしょうか。

そればかりか彼女たちは弱ったものから次々と日本軍に殺されていったのです。そして20数名いた彼女たちはとうとう2人になってしまいます。そこで米軍に投降した日本軍とともに米軍キャンプに収容されるのです。
ところがそこまで一緒だった女性が、そのキャンプの中で日本兵に殺されてしまいます。そのことを語りながら、アマは号泣しました。過酷な地獄を励まし合って逃げたのでしょう。その友の死を彼女は、泣いて、泣いて、表現しました。
聞いている私も涙が止まりませんでした。20数名のなかの1名の生き残りは、この地域の日本軍兵士の生き残り率と気味が悪いぐらいに符合します。日本軍が遭遇した最も過酷な戦闘の中にアマはいたのです。

この話を聞いているときに、私は不思議な気持ちに襲われました。被害女性たちが共通に受けたのは、言うまでもなく男性による性暴力です。
その話を聞くとき、男性である私は、いつもどこかで申し訳ないような気持ちを抱かざるを得ませんでした。いや今でもやはりその側面は残ります。私たち男性は、自らの性に潜む暴力性と向き合い続ける必要があるのです。
私たちの証言集会では、このことを実行委メンバーの中嶋周さんが語りました。「男性ないし、自らを男性と思っている諸君。われわれはいつまで暴力的な存在として女性に向かい合い続けるのだろうか」。
「われわれは、身近な女性の歴史を自らの内に取り込んでいく必要がある。まずは女性の歴史に耳を傾ける必要がある」。
すごい発言だなと思いました。正直なところ進んでいるなと思いました。そうあるべく努力をしてきたつもりでも、どこかでそこまで自信を持っていいきれないものが私の内にはある。

ところが戦場を逃げ惑う陳樺アマアの話を聞いているうちに、私にはそれが自分の身の上に起こっていることのように感じられました。まるで艦砲射撃の音が聞こえ、空からの攻撃が目に映るようでした。
そして友の死。その痛みが我がものとなったとたん、それまでのアマアの痛みのすべてが自分の中に入ってきました。
騙されて船に乗せられ、戦場に送られ、レイプを受ける日々の痛みと苦しみ。同時にそこには、これまで耳にしてきた被害女性全ての痛みが流れ込んでくるような気がしました。
私は私の内部が傷つけられ、深い悲しみに襲われました。そのとき私は、男性でも女性でもなく、日本人でも、韓国人でも、フィリピン人でも、台湾人でもなく、同時にそのすべてであるような錯覚の中にいました。
陳樺アマの体内に滞ってきた悲しみのエネルギーの放出が、私に何かの力を与え、越えられなかったハードルがいつの間にか無くなっていくような感じが私を包みました。

残念ながら、その感覚はすでに去り行き、私は今、やはり男性で日本人です。しかしあのとき垣間みたものを追いかけたいとそんな気がします。
こにはここ数年、この問題と向かい合う中での、私の質的変化の可能性がありました。今はただ、それを私に与えてくれたアマアのエネルギーに感謝するばかりです。

*****

2006年・・・もう9年前です。私たち京都グループが初めて台湾のおばあさんたちを呼んだ時のことでした。一緒に呼んだのは呉秀妹(ウーシューメイ)アマと、タロコ族のイアン・アパイアマ。お二人とももう亡くなられてしまいました。
蓮花(レンファ)アマ自身は、この後、どんどん逞しくなっていかれた。どこででも背筋をピンと伸ばして、堂々と体験を語り、日本政府を批判するようになりました。お会いするたびに逞しくなっていくアマの姿は眩しいほどでした。
そうして気づけばアマは今生きておられる4人のアマのうちの一人となり、一番お元気な姿を見せて下さっています。昨年5月には映画『蘆葦之歌』の東京上映会のために最後の訪日もしてくださいました。

そのアマの家に訪れると、なんとアマはとてもきれいに着飾って待っていてくれました。オーダーメードのピンクのシックなチャイナドレスを着て、とても素敵な金のネックレスをかけ、バッチリメイクしてくれていました。
もともとおしゃれなアマですが、今まで見た中で一番きれいに決めてくれていたかもしれない。
みんなが「アマ、きれい」と歓声を上げると、素知らぬ顔をしながら日本語で「年とったよ。耳、聞こえないよ」とだけ返してくる。でも顔には嬉しそうな笑みがはじけています。

その後、買ってきた朝ご飯をみんなで食べました。これも台湾流です。台湾は屋台文化がとても発達しており、朝から開いているお店もとても多い。街中に行けばいつでもご飯が買える。
このため多くの人々が朝、家を出てから近くでご飯を買い、目的地に向かっていくのです。
もちろん、こうして買ったものはどこでもいつでも美味しい!この時も万頭やら豆乳やらが入った袋を幾つも下げてアマの家に入り、そのままわらわらと包みを開けてみんなでほうばりながらの会話が続きました。

アマは今年92歳。初めて京都に来た時は、一緒に金閣寺の境内を元気に歩いてくれましたが、もう足が悪いのだそうです。外出時は車イスを使っています。
それでも本当にとてもきれいにしてくれて、僕らを待ち、相変わらず背筋をピンと伸ばして応対してくれました。
アマにとって私たちの訪問が、こんな素敵な晴れ舞台になるのなら、何度でも訪ねて差し上げたいなと思いました。

その後、記念撮影。まずは起ちあがって手を振るアマを何台ものカメラが取り囲みます。アマはカメラ目線を順番に返してくれて完全にセレブ状態。
続いて僕がツーショットを撮らせてもらったら、みんなが「私も私も」となりホエリンなんかはアマに抱き付いてポーズ。
たくさんの写真を撮ってからお別れの時間となりました。

「またいらっしゃい!」と大きな声で私たちを見送るアマ。
「来るよ。必ず」とみんなで何度も応えながら、手を振って家を出ました。そう。必ずまた来ようと思いながら。

こうして今回のおばあさんたちの訪問を終えました。
あと何回、こういう出会いを重ねられるか分かりません。でもまだまだアマたちは命の炎を燃やしてくれています。そんなアマたちの横顔、「被害者」という言葉に収れんされない一人一人のアマの顔を伝え続けたいです。

続く

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(1186)災害対策のソフト面からの強化は民主主義の促進につながる(12日は新島会館に)-2

2015年12月08日 09時30分00秒 | 「原発からの命の守り方」発売中です!

守田です。(20151208 09:30)

昨日の続きです。三回に渡った滋賀県での取り組みに関する感想の続きです。

*****

近江八幡での「くらしとせいじカフェ」もとても印象的でした。ここには社民党の福島みずほさん、共産党の宮本たけしさん、民主党の徳永ひさしさんなど国会議員と国会経験者が参加されていて、さまざまな話題が論議されました。
最後の方で僕が原子力災害対策についての自論と兵庫県篠山市での実践を紹介し、同じような取り組みを各党で行って欲しいと要望したところ、社民党の福島みずほさんが、国が行っている避難計画のひどさを指摘し、避難なんかできないと言われるのです。
ちなみに福島さんのお連れ合いの海渡弁護士は数々の原発訴訟を担われてきた方です。福島さん自身も各地の原発の視察を行われています。僕など足元にも及ばないほど、原発の現場を周ってきて原発に反対して来られた方です。

しかしその福島さんですら、国の行っている災害対策のひどさの指摘(それ自身は実に的確ですが)にとどまってしまい、それでは民衆の側がどうすべきかについては触れられない。「避難は無理」と断言される。
僕は「避難はできないとは言わないで下さい。それでは実際の事故の時に多くの人が避難しなくなってしまう。現実には原発事故はどう進展するか分からない。もちろん最悪の場合は膨大な人が急性死することもありえる。
だから完璧な避難計画などできないと言うのは正しいけれども、実際に避難できないかどうかとは違う。福島原発事故では時間的余裕があった。だからとどうなるか分からないから可能性にかけて必死に逃げ出すことが必要です」と述べました。

これに対して、くらしとせいじカフェin長浜では、民主党の田島一成議員と僕が発話させていただき、僕の話の後に、彦根や長浜からの避難のリアリティも討論になったのですが、田島さんは彦根からなら南下しないで関が原方面に逃げた方が良いと言う。
南下した場合、湖岸に近い道路を通ることになるわけですが、しかし放射能は琵琶湖の上をすぐに渡ってきてしまうので琵琶湖の西側の湖西と東側の湖東の間には距離はないと思った方がいい。だから彦根にいるなら自分なら関ケ原方面に逃げると言うのです。
他にも田島さんはご自分がいろいろに考えておられる事故想定と、対処方針を語られていました。田島さんとは「くらしとせいじカフェ」を何度もご一緒してきたのですが、こうしたリアルな想定を深められていることがなんだか嬉しかったです。

僕はここにキモがあると思うのです。原子力災害対策のみならず、国や行政の行う災害対策はとかくハードに傾きがちです。典型的には風水害対策では一級河川の多くの堤防を増強し、100年に一度の洪水に耐えられるようにするという。
しかしそれには莫大な費用がかかるし、実は非常に遅々としてしか進展していないのが実情なのです。このままでは国中の河川を改修するのに1000年かかってしまいます。100年に一度の洪水をふせぐために1000年かかる。矛盾が大きすぎます。
しかも大事なのは、そうやって整備しても、100年に一度の規模を越える洪水が来たら、もう打つ手なしなのだということです。概してハードは予算がかかる上に、想定が越えられたらまったく役に立たなくなってしまう。

これに対して僕が言うソフトとは人の頭脳のことです。災害に対する民衆の能動性を高めるのです。そのために事前の学習を増やし、判断力をみんなでアップしていく。いざというときにそれぞれが自力でやれることを増やしておく。
概してソフト強化はハード強化に比べてお金がかかりません。その上、人間の知恵を高めておけば、想定が破られてもまだまだ対応する余地があります。人間には柔軟な応用力があるからです。
そのために災害対策は国や行政がやるものという従来のパラダイムを転換し、国や行政がやるべき範疇は残しつつも、民衆の側、人間の側の力をアップさせることに力を注ぐのです。そうすれば災害・事件などあらゆることに適用でき、費用対効果も抜群です。

ところが原子力災害対策の場合、ソフトの強化に踏み込めば、原発と放射能の危険性を多くの人々があまねく知ってしまうことになるため、原発推進側によって避けられてきたのです。このことに着目すべきです。
反対に、民衆が下から原子力災害対策を強化すれば、自ずと隠されてきた真実も明るみに出てくる。放射能から身を守る知識を増やす中でこそ、原発の危険性がよりしっかりと把握されるのです。しかも身を守る術が軸ですから能動的に学べます。
その意味で、この取り組みは民主主義を強化するものでもあること、民衆の能動性を磨くものであることを強く訴えたいです。

新著にはこうしたことをたくさん盛り込みましたが、この間の滋賀県への関わりの中で、僕自身、さらに確信を深める思いがしました。
そもそも、しがの方たちが作った「くらしとせいじカフェ」というキャッチ自身がこのことを表しています。ここには「政治は政治家がするもの」という、いつの間にかできあがってしまった硬い想念をスルっと抜けていくモメントがあります。
「くらしのばでせいじをかんがえようよ」という柔らかい呼びかけがある。「想念を打破せよ」なんて怖い言い方はしない。「カフェでせいじをはなそう」というわけです。その場で「放射能がきたらどっちに逃げる?」なんてがやがや語り合ったわけです。

さてすでに何度かお伝えしましたが、新著の出版を祝う会を12日に友人たちが催してくれます。京都市内の新島会館で午後2時から行われます。
もちろん僕も30分ほどスピーチすることになっていて、何を語ろうか考えていましたが、いま述べてきたような話をもっと煮詰めて話そうかなと考えています。
原発からの命の守り方をみんなで高めあげ、その中で民主主義を育てていきたい。ラディカルなデモクラシーの発揚へとつなげていきたいと思うのです。

お近くの方、ぜひ出版を祝う会にお越しください。
来られない方も、原子力災害のみならず、あらゆる災害に対する私たちの能動性を一緒に磨いていきましょう。
そのために新著をぜひお手に取ってください。自信を持ってお勧めします!

*****

守田敏也さん「原発からの命の守り方」(海象社)出版を祝う会
https://www.facebook.com/events/178060139201488/

守田敏也さんは、2011年の東日本大震災と福島原発事故の直後から、ブログ「明日に向けて」(http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011)にて、原発事故や放射能の情報を発信し続けてきました。
被災地や日本各地に避難した方々を訪ね、励まし、人と人の関係をつなげながら、その活動はトルコ、台湾、ドイツにもおよび、放射能による被曝からの身の守り方、各地の実践に根ざした原子力災害対策のパイオニアとして奔走されています。 

10月末に出版された『原発からの命の守り方』(海象社)には4年半の活動の成果と、「原発」からだけでなくさまざまな災害から命を守るための具体的な知恵がどっさり盛り込まれています。
守田さんがつないできた多くの人たちが集い、この大切な一冊の出版を祝う場を持ちたいと思います。守田さんには、台湾訪問などの最新情報を加え、渾身の記念講演をお願いしています。
明日に向けて、師走の午後にみんなで出会い楽しみましょう。お誘いあわせのうえ、ぜひお越しください。

日時:12月12日(土)午後2時~4時頃
場所:新島会館 別館 京都市上京区寺町丸太町上がる
http://www.doshisha-alumni.gr.jp/access/access.html
会費:1000円(おやつ付)

主催:守田敏也さんの出版を祝う仲間たち
連絡先:090-3704-3640(蒔田)

出席される方は蒔田までご一報ください。
こちらへ⇒bosko@gaia.eonet.ne.jp


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(1185)原発災害対策をどう進めるのか-ソフトの強化こそキモ!(12日は新島会館に)-1

2015年12月07日 23時30分00秒 | 「原発からの命の守り方」発売中です!

守田です。(20151207 23:30)

新著『原発からの命の守り方』を上梓して以降、原発災害をめぐるいろいろな講演、企画に参加しました。
あるいはさまざまな企画の場に、この問題を持ち込ませていただきました。
中でも特筆すべきは、滋賀県で三週間にわたって企画参加したことです。

まずは11月23日に大津市で「滋賀の原子力災害対策について知ろう」という企画に参加し、講演させていただきました。
続いて11月29日に「くらしとせいじカフェin近江八幡」に参加、終盤に原子力災害対策について3人のパネラーとやりとりさせていただきました。
そして12月6日に「くらしとせいじカフェin長浜」に参加。前2回の経験を踏まえ、滋賀の原子力災害対策に大きくフォーカスしつつしっかりと話させていただきました。

なぜこれだけ滋賀県に続けて行っているのかというと、嘉田知事を継承した現三日月知事の選挙戦の際に、しがのかあちゃんたちを中心にさまざまな方たちがこの選挙を支え、自民党政治への舞い戻りを食い止め、そこから新しいモメントも生まれたからです。
そのひとつが「くらしとせいじカフェ」です。いわば市民の側にせいじを取り戻すと言うか、くらしの場、なじみ深い場にまでせいじを持ってきて、多くの方の参加を促すようなモメントです。
このなんともしなやかな動きが三日月知事や滋賀の政治家たちをさまざまに囲んでいる。これまた何とも面白い。それで僕も継続的に参加させていただいてきたのですが、とくにこの間は原子力災害対策についてぐっと深みがでることとなりました。

とくになかなか画期的だったことに、大津市での企画で、ここには大津市と滋賀県の原子力防災の担当者が参加され、それぞれの対策について講演してくださいました。
これは主催者の方たちが、ダメもとで頼み込んでOKをしてもらったものです。このように行政にしなやかにアプローチして、スルっと来ていただいてしまうのも「しが流」です。
同時に大津市の側、滋賀県の側に語るべきものがあったことも市民集会に出てきた下さった理由だと思います。

というのは大津市は、原子力規制庁が原子力災害対策を事実上半径30キロの市町村にだけ求め、あたかも30キロより遠くには放射能の被害はおよばないかのように振る舞って言ることに対し、独自の計画を作り出したのです。
具体的には避難を含む災害対策エリアを半径47キロにまで拡大設定したことで、福島原発事故で、原発から30キロから47キロに位置していた飯舘村が、今もって全村避難していることを踏まえたものです。
大津市はさらにこのラインを越えてホットスポットが生じうることにも言及し、計画を柔軟に運営することを述べています。

この点では滋賀県も独自にラインを43キロと設定し、原発にもっとも近い湖北地域に安定ヨウ素剤の備蓄を行っています。
この際、なかなか凄いと思ったのは、小中学校、幼稚園、保育園への備蓄を行っていることです。これは篠山市でもまだ実現していないことです。
学校施設は薬品に関するトラブルを防ぐために、基本的にあらゆる薬剤を配らないことにしているからです。この点をどう進めたのか、滋賀県の担当者に聞いたところ「拝み倒しました」と語られていました。素晴らしい!

もちろん僕は原子力災害対策は半径47キロでもとても足りないと思っています。そもそも原発事故が最悪化した場合、どこまで放射能被曝するか分からない。
そのため市役所が高浜原発から54キロにある篠山市では何かあったら「とっとと逃げる」ことを方針にしているし、その際、ヨウ素剤を飲んで逃げるべきことを市民に伝えています。そのために来年1月から事前配布を開始します。
大津の会合では、大津市と滋賀県の取り組みの積極面を高く評価させていただくとともに、さらにもっと対策を推し進めること、ぜひヨウ素剤の事前配布に踏み込んで欲しいと訴えました。

同時に行政の方にも市民の方にも大きく訴えたのは、そもそも私たちが災害対策のパラダイムチェンジの時代を迎えており、その必要性がもっとも高いのが原発災害への対応だということです。
というのは僕が新著のタイトルを『原発からの命の守り方』とした所以の一つなのですが、「災害対策」というと何かしら行政がすべきことだと想念されてしまいやすい。それはこの国の防災システムが行政主軸でできあがっているからです。
しかし昨今、地球的規模での気候変動の中で、これまでの想定をはるかに越える事態が頻発しており、避難指示や勧告が間に合わない事態なども多発しています。行政に頼っているだけではダメなのです。

これが一番顕著なのが原子力災害です。端的に言って原発の運転主体でもなんでもない各府県や市町村に原子力災害対策の知識も経験もないのがあたりまえで、本質的にここには国と電力会社の責任に属するものが押し付けられている構造があります。
加えて各行政は、しばしば想定を越える風水害に直面しており、その面だけでもアップアップになっている。その上、東海大地震や南海トラフ地震にも備えなくてはならない。とてもではないけれども余裕がないのが実情なのです。
しかも、福島原発事故で明らかになったのは、事故になったら国も電力会社も情報をきちんとつかむことなどできないということでした。何せ、1日目に始まったメルトダウンが、既定の事実として認識されたのは5月の連休頃だったのですから。

だから国に的確に逃げろと言う時期をつかむことなどできません。いやそれどころか4号機が危機に陥り、半径170キロの強制避難までが予想されたにもかかわらず、国はあのときこの危機を隠して安全ばかりを強調し続けました。
そのことが何ら反省もされず、責任追及がなされていないのですから、同じ事態になれば必ず同じことが起こりうる。国は迫りくる危機を伝えてなどくれないのです。
だからこそ、民衆の側が自ら危機を察知し、回避し、脱出する術、あるいは被害を少しでも減らす、被曝を少しでも減らす能動性を身に着ける必要があるのです。

続く

企画案内です。12日はぜひ新島会館にお越しください!

守田敏也さん「原発からの命の守り方」(海象社)出版を祝う会
https://www.facebook.com/events/178060139201488/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(1184)空襲などの戦争犯罪に反対することこそ大切!世界の暴力化を止めよう-2

2015年12月05日 10時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151205 10:00)

昨夜の続きを書きます。

フランスやロシアが参戦する以前の7月末から空襲を開始したのがトルコでした。もともとISとはそれほどの敵対関係になかったトルコが参戦した理由は、ISとの戦闘の前線に立ったクルド人武装組織をアメリカなどが後押しししていたからです。
さらに国内事情も大きく絡みます。首相から大統領へと任期が長期化し、専横を強めていたエルドアン政権が6月の総選挙で敗北、単独で政権を作れなくなってしまいました。このとき大きく躍進したのが、クルド人を主体とした新たな政党でした。
この政党はクルド人の問題だけでなく、エルドアン大統領の反民主主義的な政策全体を批判したため、クルド人以外のトルコの人々の支持を集めることにも成功し、大きな躍進を遂げました。
これに対してエルドアン大統領は、国内の右派を糾合し、クルド人との対立を先鋭化するためにもクルド人武装勢力への攻撃を強めだしました。ISへの空襲はそのだしに使われたような感があり、攻撃の大半は対クルド人勢力に向けられました。

こうしたトルコの参戦に黙っていられなくなったのが、かつてこの地域を線引きして分割したロシアでした。ちなみにこの頃のロシアはその後の1917年に革命が起こり、ソ連邦へと変身を遂げました。革命政権はサイクス・ピコ秘密協定を暴露しました。
しかし一言で片づけるにはあまり大きな歴史ですが、このとき世界中の被抑圧民の団結を訴えたソ連邦はやがて内部対立から恐ろしい粛清国家に変わってしまい、周辺国を衛星国家化するあらたな抑圧者に変貌しました。
その旧連邦が倒れたのも、1979年からのアフガニスタンへの軍事介入故でした。アフガン戦争は20世紀の中で世界中からムスリムの武闘派が集まり、巨大権力と立ち向かう初めての戦場となったものでした。
このとき、ソ連邦との対立から、この「ジハード」のために集まったムスリム武闘派に武器を与え、訓練を施した国こそアメリカでした。こうしてムスリム武闘派はアメリカ流の軍事思想を身に着け、やがてアルカイダなどに成長していったのでした。


さてロシア自身は今回、ソ連邦崩壊の過程でアフガンから撤退して以降、自国やかつてのソ連圏内部にとどめていた軍事展開を大きく踏み越える戦闘に参加しだしました。
空襲には戦闘爆撃機だけでなくカスピ海に配備されている最新鋭艦からの巡航ミサイルの発射も含まれた猛烈なものとなりました。
なぜロシアが軍事介入したのか。直接的にはアサド政権に長らく批判的で、トルコに近い反政府武闘派をトルコ政府が支持しているからでした。そのトルコが軍事介入することでバランスが大きく崩れ出しました。
さらに大きいことはトルコの参戦がアメリカとの合意のもとに実現したことでした。ここにはトルコ軍によるクルド人勢力への攻撃の黙認も間違いなく存在しており、トルコ軍の参戦はアメリカのこの地域への支配力の伸長を物語るものでした。

もともとロシアはソ連時代からシリア政権と軍事的な協力関係を結んできました。中でも重要なのはシリアがロシアに軍港を提供していることでした。ロシアにとってこれは自由に地中海から大西洋へと出ていける唯一の港です。
さらにそもそもロシアはウクライナ情勢でも欧米との緊張関係を孕んでいます。2014年2月にクーデタによって成立した現ウクライナ政権は欧米よりです。
これに対してロシア軍はクリミアだけは渡さないと即座に軍事行動に移り、クリミアを占領してしまいました。ここにもロシアの軍港があること、またクリミアは長くトルコとロシアの奪い合いの地であり、「愛国心」を刺激する地であったためでした。
こうした一連の情勢の変化の中で、ロシアは自らの軍事的プレゼンスを大きく押し広げることを目指したのだと思われます。そのためにこれまで実戦で使ったことのなかった最新鋭兵器を次々と投入したのです。

これに対して巡航ミサイルも戦闘機も持っていなくて、トヨタのピックアップトラックに銃をつけて走り回っているだけのISは、各国の支持者に攻撃指令をだし、殺人作戦を始めました。それが唯一の反撃手段だからです。
10月3日にはバングラディッシュでなんと日本人が殺されてしまいました。十字軍に日本が参加したからだと言います。これはISにシンパシイを持つ団体の行動とされています。ISはさらにバングラディッシュでの日本人殺害を宣言しています。
さらに10月31日にはエジプトを発ったロシアの旅客機が空中爆発を起こして墜落しました。ISが実行声明を出しました。当初ロシアは否定していましたが、その後に何者かによる爆破であったことが否定できなくなりました。
そうして11月に入り、13日にパリで130名以上が殺害される大規模な攻撃がなされました。これもまた実行者が身体に爆弾をまいた特攻攻撃として行われました。

翌日からフランスが報復爆撃を開始。空母シャルル・ドゴールまでもが投入されました。旅客機墜落を爆破によるものと認めたロシアもさらなる猛爆撃を開始。戦略爆撃機Tu160(欧米での呼び名はブラックジャック)を投入しました。
この際には爆撃機から空中発射される最新鋭型の巡航ミサイルKh-101も投入されました。かつてアフガン戦争、イラク戦争はアメリカの武器の「見本市」などとも言われましたが、ロシアもこれ見よがしに戦闘力を誇示した攻撃を拡大しました。
これに黙っていられなくなったのがトルコでした。ロシア軍機が領空侵犯を繰り返したことに対し、24日にトルコ軍がF16戦闘機を発進。わずか10秒程度の侵犯を行ったとされるロシアのTu24戦闘爆撃機を撃墜してしまいました。
これにロシアが猛反発。矢継ぎ早に経済制裁を発動し、トルコに謝罪を迫ると同時に、そもそもトルコがISから石油を密輸しているという大批判を開始。証拠として多数のタンクローリーの衛星写真を公開しています。

さて前後しますが、こうした中でトルコでも10月10日に反戦集会の場で爆弾攻撃が行われ、集会参加者100名以上が殺されてしまいました。
この事件には不可解なことがたくさんあります。集会がトルコ政府を批判し、クルド人武装勢力とトルコ政府の和解を求める平和的なものだったからです。
トルコ政府はただちにISの攻撃と断定し、実行者の遺体を回収したと発表し、クルド人の関与まで匂わせましたが、100人が殺害された特攻攻撃で遺体がそんな形で残っているのでしょうか。また「戦果」を必ず誇るISが声明を出していません。
これらのことからトルコの中では、政府がこの爆破を仕組んだのではないかと言う強い批判が飛び交っています。その後の再選挙でエルドアン政権側が勝利したため一層、疑惑が深まっています。

このように見てきた中で特筆すべきことは、どこでも殺されているのは圧倒的に市民であり、住民であり、非戦闘員だということです。空襲ではもっぱら女性、子ども、老人が犠牲になります。
ロシアは1500キロも離れたカスピ海や空中から100発以上の巡航ミサイルを放っていますが、そんな遠くから機敏に攻撃をかわしているISをピンポイントで殺害できるのでしょうか。できるわけなどない。殺されている過半は逃げ場のない市民です。
繰り返しますが、「地上軍投入でなけれなISをやっつけられない」ということは、空襲で殺されるものの多くが戦闘員ではないうことです。この虐殺を一刻も早くやめさせなければなりません。
これに加わっているのはアメリカ、トルコ、ロシア、フランスとシリア周辺国です。さらに12月3日からはイギリス軍までが加わってしまいました。その上、ドイツまでもが派兵を表明しています。

この軍事攻撃でかりにISが掃討できたとしても、ISにかつてのフセイン政権下のイラク軍人が多数参加していると言われるように、また新たな武闘派が台頭するだけでしょう。
そもそもフセインの旧イラク軍も、もともとはアメリカがイラン革命の影響をおさえるために背後から支え、育て、地域覇権勢力として伸長させたものだったのでした。
今もアメリカはアサド政権と戦う武闘派を「反体制派」と銘打って援助していますが、それがいつ「イスラム過激派」に転化するか分からない。「イスラム過激派」とはアメリカに牙を向けるようになったイスラム武闘派を指す言葉です。
同時に見ておくべきことは、こうした武闘派が多くの場合、アメリカの直接的・間接的な関与のもとで生まれてきたことです。だからそれは伝統的なイスラム主義から生まれたのではない。むしろ欧米化したムスリムこそがもっとも過激なのです。

問われているのはこの流れに逆行するムーブメントを世界各地から広げることです。そのために空襲は民衆を巻き込み、それどころか日本空襲でも明らかなようにもっぱら民衆を殺りくするものであり、明確な戦争犯罪だということを告発することが大切です。
全ての国に、即刻戦争犯罪を止めることを訴えていきましょう。そのためにアフガン戦争、イラク戦争の侵略性、非人道性を再度、クローズアップしていく必要があります。
その上で、すべての戦争の犠牲者を悼み、報復では何も解決しないこと、軍事戦闘こそが、絶え間ない暴力の拡大を作り出している元凶であることを訴えましょう。
平和のための行動を強化しましょう。そのためにこそ戦争法に反対し、抵抗し、沖縄の人々を支え、辺野古を守りましょう。その努力の一つ一つが暴力化の逆の風を吹かせて行くものになると僕は信じています。

終わり

以下は講演情報です。

戦争法について
講師 守田敏也

12月5日午後6時から8時
場所 西成民主診療所
〒557-0034 大阪府大阪市西成区松2丁目1?7
http://byoinnavi.jp/clinic/54611

主催 たちばな9条の会

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(1183)パリで大量殺りく、トルコ軍が露軍機撃墜、世界の暴力化を止めよう-1

2015年12月04日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151204 23:30)

明日に向けて(1173)(1174)(1178)でシリアをめぐる国際情勢を分析し、「今こそ平和の声を」と題した連載を行いました。
その後、僕は台湾訪問の旅に出ましたが、その間にパリで130人以上が殺害されるとんでもない事件が起こりました。フランス軍がただちにISに対する報復爆撃を行いました。
さらに10月31日にあったロシアの旅客機墜落事件もまた爆破によるものであり、ISが声明を出していることからロシアがISに対するさらなる猛爆撃を始めました。
ところがこうした中で24日に領空侵犯を理由にトルコ軍機がロシアの戦闘爆撃機を撃墜。トルコとロシアの間が険悪化しています。

世界の暴力化がますます進んでいます。世界のあちこちから、すでにこれは第三次世界大戦の始まりではないかとの指摘がなされているほどです。
なんとかこの流れを食い止めたい。そのために今、何が起こっているのかを的確に分析し続けていくことが必要です。
僕は明日5日、大阪市西成区で「戦争法」についてお話しするので、同時に今、起こっている戦争についてお話したいと考え、今までスライドを作っていました。
そこでまとめたことを押さえておきたいと思います。

まずこれまでも述べてきたことですが、情勢分析にあたって僕が徹底して避けている言葉があります。「テロ」です。フランスの事件も僕は「テロ」とは呼ばず、攻撃と書いています。同じ意味で「犯行」とも「犯人」「実行犯」とも書きません。
もちろんこうした殺人攻撃に僕は強い怒りを持っています。いかなる意味でも自らの政治思想を貫くための殺人を僕は認めません。ではどうして「テロ」と呼ばないのかと言うと、この言葉は欧米ないし日本からの一方的な言葉だからです。
つまり「テロ」という言葉の使い方には、強い政治性があるのです。いや政治の世界では多くの言葉がそのように使われています。このため一たび客観的な視点に立つためにはこの強烈に価値化された言葉の外に立つ必要があります。
もちろん「それでは伝わりにくいから」ということで「テロ」という言葉を使うこともあり得るとは思いますが、それなら「テロ」を明確に定義づけるべきです。

少し考察すると分かることなのですが、もともと「恐怖」を意味するテラーから派生しているこの言葉には非常に悪いイメージが付加されています。非道で卑劣、人を殺すことをなんとも思わないイメージ、殺人鬼など冷酷ないイメージが連想させます。
しかし一度、欧米に繰り返し侵略され、植民地支配され、攻撃を仕掛けられてきたイスラム圏の人々の立場から考えてみると、これらはすべて欧米のやってきたことに当てはまります。
いや何もそんな遠いところの人々の立場に身をおかずとも、広島・長崎への原爆投下や、東京大空襲を初めとした主要都市への空襲、沖縄地上戦などを思い起こせば、アメリカこそが世界の中でもっとも殺人を犯してきたテロ国家であることが痛感されます。
何せアメリカはこれらの蛮行、明白たる戦争犯罪をただの一度も謝ったことがないのですから。日本で右翼を自称する人々のほとんどが、中国や韓国のことばかり騒ぎ立てますが、アメリカを批判できないことこそ強烈な自虐史観ではないでしょうか。

欧米社会は積年に渡る己の暴力をなんら振り返らないまま、「テロ」への怒りをかきたてています。そして報復の空襲を敢行しています。
ぜひイメージを膨らませて考えて欲しいのは、パリのこの事件が「カミカゼ」と呼称されていることです。旧日本軍の体当たり攻撃とイメージがダブっているのです。
その先にあったものこそ、日本本土への猛爆撃であり、沖縄上陸戦であり、原爆投下だったのです。「カミカゼどもを根絶やしにしてやる」とばかりに。しかしその攻撃で殺された圧倒的多数は子どもであり、女性であり、老人でした。
今日、広島市内の死者の中で群を抜いて多かったのが12才、13才ぐらいのこどもであったことが明らかになっています。「カミカゼ」などに動員された成年男子は、ほとんど町に残っていなかったからです。


さてこのことをしっかり踏まえて今、起きていることを大きく規定していることを見ていきましょう。なんといってもそれはシリアからの膨大な難民の発生です。
これは2011年ぐらいから拡大してきました。直接的にはシリアのアサド政権と反政府派の武装闘争の中で、アサド政権が樽爆弾などによる住宅地への空襲を開始し、人々が戦乱に巻き込まれる中で拡大してきたことです。
この上に、2003年から行われた英米によるイラク侵略戦争の結果、イラク社会が荒廃を極め、その中からIS(「イスラム国」・・・この呼称も問題を孕んでいます。他者に通じる言葉としてここではISを使用します)が台頭したことが重なりました。
その点で大きく中東・アジアという視点に立ち、アフガンをも見据えるならば、2001年911事件以降の米英によるアフガン戦争、イラク戦争こそがこの地域の不安定化、暴力化を作り出してきた大元であることを見ておくべきです。

こうして不安定化を深めるこの地帯のさらなる暴力化のアクセルを踏んだのもアメリカであり2014年夏からのISに対する空襲の拡大です。
当初から言われていたことですが、軍事的に言って空襲ではISを壊滅することは難しいというのが世界の常識でした。地上軍を用い、直接にISを攻撃しないと、巧みに攻撃を避けられてしまうからです。
実は報道の多くが触れないこの先にこそ問題があります。軍事武装集団であるISが容易に逃げられることに対して、IS支配地域に住んでいる人々はそんなに簡単に逃げられない。空襲ではこうした人々こそが犠牲になるのです。
そしてそのことが世界中のムスリムの間にさまざまなルートから伝わっていきます。民衆がアサド政権やISのみならず、圧倒的に欧米によって虐殺されていることがです。

このことが世界中でISに惹きつけられる若者が生み出される根拠となっています。
欧米社会が憎しみをこめてISの戦闘員を「テロリスト」と呼ぶように、彼ら彼女らは積年の憎しみを込めて欧米の殺りく部隊を「十字軍」と呼び、これに抵抗する「聖戦」=ジハードを呼びかけているのです。
しかもその戦法の軸にあるのはそれこそ自らの生還を顧みない「特攻作戦」です。これに対して「神風特攻隊は相手の軍を狙ったのであって市民を狙った攻撃とは違う」という反論が日本の一部からあるようですが、問題はそこにあるのではありません。
日本軍が徴兵社会で成り立っていたことに対し、ISへの各国からの陸続たる参加は主に自主的なものです。背景はさまざまあったとしても、自ら命を捨てる覚悟で参加しているのです。

ここに見られるのは空襲では何も解決しないということです。では地上軍投入なのか。もちろんそうではありません。そもそも今のイラクの惨状やISの登場はアメリカを中心とする有志連合軍の地上軍投入によるフセイン政権打倒の結果です。
繰り返し語られてきたシンプルな道理ですが、憎しみは憎しみをしか生まないのです。軍事で平和な世の中を作り出すことはできません。それがこの2000年代を振り返っただけでも見えてくることです。
にもかかわらずアメリカは軍事攻撃を止めない。軍産複合体としての戦争国家である所以でもありますが、それ以上に世界の多くの人々が、まだまだ軍事に解決を委ねているがゆえに繰り返される過ちだと僕は思います。
だからこそこの流れの逆を歩む必要がある。即時停戦、空襲の中止、欧米による中東侵略への謝罪と補償の実現。それが誠意をもってなされたときにこそ、ISは支持を失うのです。アルカイダもそうです。すべての武闘派がそうです。

にもかかわらず正反対の方向を強めるから事態がどんどん悪化しています。まずフランスについて言えば、9月27日よりシリア空襲=IS攻撃に参加しました。
ちなみにISはイラクとシリアの国境線の無効を主張しています。なぜか。この定規でひかれた国境は、第一次世界大戦でこの周辺一体を支配していた超大国、オスマントルコが倒れたときに、イギリスとロシアとフランスの密約でひかれたものだからです。
この密約を「サイクス・ピコ協定」といいます。1916年5月に結ばれたものでした。ちなみにイギリスはこの他に、中東のアラブ民族の独立を認めたフサイン=マクマホン協定と、パレスチナへのユダヤ人国家建設を認めたバルフォア宣言を結んでいました。
いわゆる三枚舌外交であり、このことが20世紀全般にわたってこの地域が戦乱にまみれる出発点となったのでした。その中心国の一つであり、植民地支配者だったフランスが空襲を開始したというわけです。

続く

以下は講演情報です。

戦争法について
講師 守田敏也

12月5日午後6時から8時

場所 西成民主診療所
〒557-0034 大阪府大阪市西成区松2丁目1−7
http://byoinnavi.jp/clinic/54611

主催 たちばな9条の会

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に向けて(1182)台湾のおばあさんたちを訪ねて-1

2015年12月02日 15時00分00秒 | 明日に向けて(1101~1200)

守田です。(20151202 15:00)

すでにお知らせしたように、11月13日から19日にかけて台湾を訪問してきました。旧日本軍性奴隷問題被害者のおばあさんたちを訪ね、同時に台湾の反核運動に参加してくるのが目的でした。
このうちのおばあさんたちへの訪問についてご報告したいと思います。

今回は2人のおばあさんを訪ねました。台湾ではカムアウトしたおばあさんたちのうち、今も生き残っておられるのはたったの4人になってしまいましたから、そのうちのお二方への訪問です。
初めに訪ねたのは陳桃アマ。小桃アマと呼ばれているアマです。高雄よりももっと南の屏東(ピントン)に住んでいて、長く青果市場でヤシの実を売って生計を立ててこられました。
今は随分と身体が弱くなり、施設に入所していてそこから病院に入られていました。

台北に到着してアマたちを支え続けてきた呉慧玲(ウーホエリンさん)に会うと、アマはだいぶ調子が悪いと言う。「秀妹(シュウメイ)アマの最期の時みたい」とも。
呉秀妹アマは、台湾のおばあさんたちの中でも、特に私たち夫妻が仲よくしていただいたおばあさんで、2012年秋に亡くなられた方です。
ドキッとしました。悲しい思いになりました。覚悟を固めてアマのもとに行くことにしました。

台北から小桃アマにお会いするにはまず新幹線にのって高雄まで行かなくてはなりません。正確には終着駅の一つ前の左営という駅までいきます。
新幹線の乗車時間は1時間半。日本と同じ車両を使っていて快適です。そこから在来線に乗り換えて屏東(ピントン)駅へ。全部で2時間ぐらいの旅だったでしょうか。
駅前からは歩き。今回は翌日、高雄空港から金門島に行く旅を予定していたので、重い荷物を背負っての旅となりました。

病院についてアマの病室にいくと、ちょうど清掃時間にあたっていて、アマがベッドに横たわったまま廊下に出ていました。
そこに私たちが一行ががやがやと辿りつきました。台北のホエリンを先頭に、長らく台湾のおばあさん達をささえてきた東京の柴洋子さん、同じく東京で各国のおばあさんたちを支えてきたWAM(女たちの戦争と平和資料館)の渡辺美奈さん。
同じく東京で長らくおばあさんたちを支えるなど、さまざまな戦後補償問題に関わり続け、今は台北に移住して暮らしている田崎敏孝さん、京都で運動をしてきた僕の連れ合いの浅井桐子さんと僕という一行でした。

今回の訪問目的はアマの92回目の誕生日を祝うことでしたが、アマは最初、私たちをいぶかしげに見上げました。みんなで声をかけても反応が薄い。
それでもしばらくして「日本から来たの?」としっかりした日本語で聞いてくれました。「アマ、お誕生日のお祝いで来たよ」と語りかけますが、アマは「今日は違うよ」という。旧暦なのでしょうか、違う日を示します。
意識がはっきりしていないのではとも考えて、みんなが一番アマのところに通い続けてきた柴さんを指さして「アマ、誰だか分かる?」と聞くと、「柴さん。忘れるわけないよ」と答えてくれました。みんなの顔がほころびました。

「アマ、誕生日のお祝いをしよう」と、屏東駅前で買ってきたケーキを取り出しました。病院の廊下でしかも部屋で清掃作業を行っているあわただしい場ですが、そんなことおかまいなしに自分たちの場を作ってしまうのが台湾流です。
ケーキをアマの前に出して、プラスチック製のナイフを渡して「ケーキカット、ケーキカット」と言うと、アマはベッドに横たわったまま、ケーキにナイフを入れてくれる。
こういう時、台湾のおばあさんたちはみんなサービス精神旺盛で、必ず応えてくれる。それでカットしたケーキをみんなで頬張りました。と言ってもアマは食事制限があって食べられないのですが。一つのセレモニーみたいなものということで。

みんなが用意してきたプレゼントを渡しました。WAMの美奈さんが何時間もかけて作ったと言う手製のアルバムをプレゼント。蛇腹のように開く仕掛けになっていて、アマたちがたくさんで東京に訪ねてきた時の写真が貼られていました。
写っていたのは呉秀妹アマ、タロコ族のイアン・アパイアマ、陳アマ、アマ、そして小桃アマと、今回訪ねたもう一人の陳蓮華(チンレンファ)アマでした。すでに4人がお亡くなりになっています。
アマは興味深そうに何度もアルバムをひっくり返し、蛇腹を開けたり閉じたりしては写真を見つめていました。亡くなったアマたちの名前を呼んでいました。素敵なプレゼントでした。

浅井さんからはミッフィーちゃんという白いウサギの縫いぐるみが渡されました。アマには食べ物を渡しても食べられない。それならば身近において慰めになるものをと思ってのことでしたが、嬉しそうにギュッと抱えてくれました。
この縫いぐるみ、抱き心地もいい。淋しい病室の中ではそういうものの価値が高いんだなと思わせる一瞬でした。
この頃にはアマの意識ももっとしっかりしてきて、みんなの声掛けにいろいろと答えてくれます。いつもながらアマの日本語はとても流暢です。

やがて清掃も終わって病室に戻れましたが、アマが少しずつ疲れてきたのが察せられたので、そろそろお暇することにしました。
「アマ、また来るよ。元気でね」とみんなが来ると、アマは「うん、うん」とうなづいてくれました。死を前にした秀妹アマの時は、柴さんが「アマ、また来るからね。」と言っても「その時は私はもういないよ」と言ったのでなんだかホッとしました。
アマのまだこの世の中にいようという意志が伝わってきた気がしたからです。実際、病状を尋ねると、肺に水が溜まって入院したものの、その後がよく、もう少しで退院して施設に戻れるとのことでした。


戦後70年。あの戦争で犠牲になった方たちは今、70~90代となっています。その中でも年配のアマたちは次々と亡くなってしまっています。韓国のハルモニたちもそう。フィリピンのロラたち、中国のダーニャンたちもそうです。
日本帝国主義がかつて行った非人道的な戦争犯罪を毅然と告発してきたおばあさんたち。そのおばあさんたちがどの国の方でも必ず語ったのは「もう二度と若い人たちがあんな思いをしてはならない・・・」でした。
このおばあさんたちの思い、切実な願いを日本政府は踏みにじり続けています。中でも最も悪質な対応を繰り返してきたのが現首相の安倍晋三議員です。何度もおばあさんたちの訴えを踏みにじる蛮行が繰り返されてきました。なんたることでしょうか。

そしてその安倍首相のもとで、この国はかつての侵略戦争への反省を忘れたかのように、戦争への道を再度辿りだしています。これこそがおばあさんたちが食い止めようとした流れです。
なんとしても止めなければと僕は思います。その中でこそおばあさんたちの尊厳を取り戻さなくてはいけない。おばあさんたちの姿、被害だけでなくそれと立ち向かい、毅然と生きた姿を歴史にきちんと刻印しなくてはなりません。
・・・ベッドの上で小さな手を一生懸命振って私たちを見送ってくれたアマの顔を思い出しつつ、そんな思いを新たにしました・・・。

続く

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする