明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1456)原発からの命の守り方を身につけよう!一緒に世界とつながろう!1月13日、すみれや・かぜのね(京都市)に!

2018年01月07日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20180107 23:30)

「世界に愛と平和と革命を」というモットーを掲げて今年の活動を始めさせていただいていますが、最初の講演として1月13日に「原発からの命の守り方」と世界とのつながりを強化するためのお話をします。
場所は京都市左京区のすみれやとかぜのねです。それぞれ朝10時半から。午後3時からです。かぜのねでは午後5時から交流会も予定しています。

「原発からの命の守り方」については、まずは一番大事なエッセンスをぎゅっとつめてお話します!
また続いて、昨年12月10日に僕が所属する「ウチら困ってんねん@京都」の企画の場で「ヨウ素剤を配ってよ@京都」を立ち上げたことに踏まえ、いかにヨウ素剤をみんなで手にしていくのか、そもそもヨウ素剤とは何かに立ち戻ってお話します。

各地でのヨウ素剤配布のための活動の紹介も行いますので、とくにヨウ素剤に興味がある方にご参加いただきたいです。
また「原発問題がよくわからないけどいまさら聞けない」とか考えている方もぜひぜひ来ていただきたいです。できるだけ分かりやすくお話します。


午後3時からは7月ドイツデーベルンで行われた反核国際サマーキャンプ、11月フランスパリで行われた反核世界社会フォーラムへの参加の報告をした上で、この流れの中で設定された本年8月南仏開催の反核国際サマーキャンプをみすえた会議も行います。
「公開秘密会議」と銘打ちました!公開なんですがかなり突っ込んだ内容も話せればなと思っています。

呼び掛け文の中でこの夏のサマーキャンプに「日本チームを作って参加したい」と書きました。いまもそう思っているのですが、その後に、さまざまに構想が拡大してきました。もっといろいろな形で世界への発信を行いたいのです。
というのはこの間、世界に出て痛切に感じたのが世界が日本の情報に飢えていることです。とくに福島原発事故以降、日本がどうなっているのか。福島原発のその後は?被曝の状況は?日本の原子力政策の展望は?そして反核運動の現状は?などなどです。
また私たちからも発信できること、すべきことがたくさんあります。例えば福島原発はどのように壊れたのか。原発はどのような脆さをもっているのか。被曝後に政府が何をしてきたのか。どうやって被曝が隠されようとしているのか。などです。

それらがすべて現地の運動の大きな糧となります。だから世界の人々は日本の情報をとても知りたがっているし、福島原発事故による私たちの痛みを分かち合い、知恵をシェアし、核のない世界の実現のために役立てたいと思ってくれているのです。
とくに喜ばれるのは日本の民衆がどんな運動を行っているかの紹介です。僕は海外で日本のデモ情報をよく伝えますが、とても喜んでもらえます。
ところが日本語の壁はものすごく高い!日本語で書かれている情報に世界からアクセスするのはとても大変なのです。そのため日本は、原発問題だけでなく、世界から見るとかなりブラックボックスな国なのです。

だからこそ私たちがもっと明確に情報を発信していくと世界の人々のためになり力になります。そして世界の反核の流れが強まると日本の原子力政策にもますますストップがかかります。つまり私たちの発信は跳ね返ってきて私たちの力になるのです。
幸いこれだけインターネットが発達しているのですから、何も世界にいかなくても情報発信をする道も幾らでもある。例えば英語の情報発信専用のホームページを作る。そこにビデオレターを載せる。かつ可能な限りの多言語に直して発信していく。

各地の測定所の情報も専用ページを作って紹介していきたいです。すでに「みんなのデータサイト」が英語発信を始めていますのでそれとも連携させていただきたい。
それやこれや、いろんな知恵を集めて、いろんな人の力で、世界への発信を実現していきましょう。なのでネットに強い方、映像に強い方にもぜひ参加して欲しいのです。音楽が強い方、ファッションに強い方も参加して欲しいです。よりかっこよく情報発信したいですから!

その点では何も京都に限らず、全国の方に力を貸して欲しいのです。
例えば各地の金曜行動を毎回ショートビデオにして世界に流すとかはどうでしょうか。各地で行われている講演会情報も出してはどうでしょうか。
また各地の原発前の行動についても出していく。考えてみればやれることはもっとたくさんあります。ぜひ「こんなことなら協力できるよ」という知恵を送ってください。

このことは世界各国におられる方にもぜひ協力をお願いしたいです。
情報が迅速に伝わっていく世界的な仕組みも作れたらと思います。みなさんの力が必要です。それで一緒に世界に革命を起こしていきましょう!

以上、1月13日に京都市で二つの企画を行います。
ぜひご参加下さい。
Facebookのイベントページのアドレスも載せておきます。

*****

守田敏也さんから聞く 
原発からのいのちの守り方
https://www.facebook.com/events/170410763562463/

 

高浜原発から京都市役所まで約60キロ。
もしも事故があったら放射能が やってきます。
琵琶湖も深刻に汚染され、京都市では水が飲めなくなってしまいます。
高浜原発はすでに再稼働しています。そして来年の春には大飯原発も稼働予定。

私たちは原子力災害に備えることが大切だと思います。
事故は明日起こっても不思議ではない。
だとしたら身を守る準備をしなくてはなりません。
万が一のときに子どもたちを守りきる備えをしなくては。

自分のこととして事故へのリアリティを想定し、とっとと逃げる準備をしましょう。
ヨウ素剤はそのときに飲むもので、事前配布をしておくことが大切です。
ヨウ素剤は緊急時に甲状腺を守るためのものです。
また事前配布をすることで、
事故発生のリアリティを考えるようになり、
原発の危険性と向かい合えるようになります。

まずは現実を知り、今何ができるか具体的に考えていきましょう。

日時:2018年1月13日(土) 10:30〜12:30
場所:すみれや 2F
京都市左京区田中里ノ前町49-1(叡電元田中駅より徒歩5分)
参加費:1,000円(お茶・お菓子付き)

お問合せ:info@sumireya.org(担当:春山)

*****

守田敏也さんによる市民交流ツアー報告会
& 「反核キャンプ2018in南仏」に向けた公開秘密会議!
https://www.facebook.com/events/2051310961769488/

2018年1月13日(土)
報告会 15:00~17:00
交流会 17:00~20:00
☆当日参加も可能ですが、準備の都合上、参加希望の方は事前にご連絡いただけるとありがたいです。

場所:かぜのね
左京区田中下柳町7-2

報告会参加費:1000円
☆交流会別料金(割り勘)
☆遠方からご参加の方、経済的に厳しい方はご相談ください。

定員:20名

主催:核のない世界をみんなで考える会(仮)
連絡先:080-6942-1974(宮崎)
 
この夏にドイツ・デーベルンで反核サマーキャンプに参加し、世界中からの参加者と交流しました。
さらにここで結成した国際チームで11月反核世界社会フォーラムinパリに参加。交流の輪をもっと広げて来年夏に南仏で規模を倍する反核サマーキャンプを行うことをパリで決めました。
ここに今度は僕1人ではなくて日本チームを作って参加したい。ということで報告と同時に公開秘密会議(笑)を行います!
核のない未来はいまや世界共通の願い。あなたもこの日から国際連帯の輪の上に一緒に乗りましょう!ぜひご参加を!(守田)
 
守田敏也さんのプロフィール
同志社大学客員フェローなどを経てフリーライターとして活躍。
篠山市原子力災害対策検討委員会委員としてリアリティのある原子力防災計画を作成し、同市のヨウ素剤配布の実現にも尽力。
主な著書に『内部被曝』(岩波ブックレット、矢ヶ﨑克馬氏との共著)、『原発からの命の守り方』など。

  

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明日に向けて(1455)多くの原発の稼働を停めていることにもっと自信を持とう!(民衆の力を高めるために-2)

2018年01月06日 11時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20180106 11:00)

前回の記事の中で、どうも日本人は謙虚すぎるのではないか。自分を評価しなさすぎるのではないか。
常に高みを目指す職人的気質でもあって良い点もあるが、それが生きづらさを作りだしてもいるのではないか。そんなことも社会運動の課題にしたいと思うがどうだろうか・・・と書きました。

今回はこの点をそのまま社会運動に当てはめてみたいと思います。
するとここでも同じことが言えて、社会運動の中でも、自分たちに対するあまりに過小な評価がなされているとは言えると僕は思うのですがいかがでしょうか。

例えばいま、稼働している原発はたったの4基です。しかし「多くの方がもう4基も動かされてしまった」と言う。それで反原発運動が下火になっているという方も多いです。
「いやいやそうではない!」と僕は思うのです。

そもそも福島原発事故まで稼働可能な原発は54基あったのに、昨秋までに福島第一原発を含めて12基の廃炉が決まり、稼働可能な原発は42基でした。
一方、昨年10月まで伊方原発も動いてましたから稼働は5基でした。つまりその段階で私たちは日本に住まう市民は37基もの原発を止めていたのです。(伊方原発はその後定期点検で停止)
廃炉と言う点ではこれに最も危険な高速増殖炉もんじゅの廃炉も加わりました。

しかもその後、関西電力は大飯原発1、2号機の稼働をも断念し、廃炉化を決めました。私たちの民衆運動の広がりへの対応の中で作りだされてきた新規制基準を満たすことができないからです。
この新規制も「重大事故」の発生を前提としたもので、安全の確保にはほど遠く、評価などできませんが、しかしそれがネックで動かせなくなった原発もたくさんあります。

ともあれこうして稼働可能な原発そのものが現在、40基にまで減りましたが、さらに昨年末に伊方原発の運転を認めない仮処分決定が広島高裁で発せられて、現状での稼働原発は4基になっています。
つまり私たちはなお36基の原発の稼働を止めているし、裁判を重ねて他の原発を停める可能性だって広げてきているのです。

もちろん関西電力と九州電力が、今春にさらに大飯3、4号機、玄海3、4号機の稼働を目指していますから、けして楽観できるわけではありません。
いやすでに動いている4基もいつ事故を起こすやも知れませんから、原発から命を守る備えをせざるをえません。
しかしそれでも福島原発事故以前とは雲泥の差なのです。ここにはさまざまな形でのこの国に住まう人々全体の覚醒の影響が見てとれます。

これに対して多くの方、とくに社会運動を担っている方が、日本の民衆のことを、しばしば否定的に語るのをよく耳にします。
「意識が低い」「なんでもすぐに忘れてしまう」「政治に関する教育を受けていない」などなど。

それらの一つ一つに確かに根拠もあると僕も思います。でももっと肯定的な面も見てもいいのではないでしょうか。
さらに「無関心こそが一番悪い」などという言葉もよく聞きます。しかしそのたびに僕は「果たしてそうだろうか」と感じるのです。

なぜならこの国に住まう人々の多くは、先にも述べたような職人的気質を強く持ち、それぞれの現場で、責任感を持って、かなりの奮闘をして社会を支えてくれてもいるからです。
だから例えば電車もバスも、かなりの正確さで駅や停留所に入ってくるし、郵便物や宅急便もリジッドに届きます。商店で買う商品もひどい裏切りにあうことはほとんどないし、値段に対しても割と安心して信用することができます。

あるいはどこかで大けがをすれば、いち早く救急車が駆けつけてくれます。しかも無料でです。病院に行けば、基本的には貧富の差別なく医療を受けることもできます。
つまり「政治」に無関心であろうと、多くの人々が、社会のどこかで何かを支えて奮闘してくれていて、その一つ一つが私たちの暮らし、命と平和を支えています。

これらは戦後70年におよんで民主主義を守り、育んできた民衆の努力の結果でもあります。
私たちがいま当たり前のように受け取っている平和をはじめ、数々の権利が以前の世代の奮闘の中で私たちに送られてきているのです。僕はそれらに深い感謝を感じます。
多くの人々がそうやって、いろいろなところで日夜汗水流しているので、僕には「民衆は意識が低い」などなどと言う気にはなれないのです。福島原発事故以前からそうでした。

では悪いのは誰かと言えば、こうした人々の信頼=信任を裏切り、無責任なことを続けてきた政府や企業、電力会社の中枢の人々でしたし、それにおもねってきた科学者やマスコミ幹部たちでした。今もそうだと思います。
とくに原発推進派と呼ばれる人々は、数々の科学的な警告を無視し、あるいは握り潰し、人々の安全性を踏みにじって儲けることを続けてきました。とても悪いです。危険なのを承知なのに人々を欺き続けてきたのだからです。

しかしいま、多くの人々がやっとのことで、この国の中枢の人々の多くが無責任であり、かつ私利私欲をむさぼるものが多いことに覚醒しつつあります。
素晴らしいことです。明らかにこの国の歴史を画しています。

とくにこの間、多くの人々は、新自由主義のもとの過酷な競争原理に追い込まれ、その中で「自己責任」を背負わされ、自分以外のことに目を向ける余裕をますます奪われている状態にあります。
「無関心」というより社会に関心を向ける余裕、あるいは自分が社会の重要な一員であると実感できる場を奪われ、疎外され、それでもなお自分の場の責任を果たそうともがいている人がとても多いです。

東日本大震災と福島原発事故後、そこに大きな変化がおきつつある。実にたくさんの人々が、それまで行ったことのなかったデモに出てみたり、脱原発企画に参加したり、自ら行動するようになりました。
「被曝」という現実的な脅威にさらされているファクターもあってのことであり、喜べない面がたくさんありますが、しかしそれを差し引いてもなお素晴らしい。

その力があるからこそ、原子力政策の流れも大きく変わりだしています。
あれだけ圧倒的な議席を占有し、さまざまに悪いことを強行している安倍政権ですらいまだに4基の原発しか動かせていません。理由は世論の過半数が原発反対だからです。

またこの力が裁判所をも大きく動かしています。福島原発事故まで原発の稼働を認めなかった判決は1件だけでしたが、福島原発事故後はもう4件も稼働を認めない判決や決定が出されています。
2016年3月には初めて稼働中の原発(高浜原発)を裁判で止めることが実現されました。昨年はやはり初めて高裁での停止命令判決が出ました。このため電力会社は大きな「訴訟リスク」を抱えて困惑しています。

誰がこうした流れを作り出したのかと言えば、もともと原発の危険性を訴え続けてきた人々と、避難者をはじめ、東日本で、自ら被災しながら原発の危険性と非人道性を訴えてきた人々だと思います。
しかしこれに対する全国津々浦々での受け止め方も素晴らしかった。原発反対の声は瞬く間に広がり、平和を守る行動にも飛び火していきました。本当に多くの人々があの日を契機に変わりました。

もちろんいまこの社会に足りないことはたくさんあります。たくさんの被曝が放置されたままです。恐ろしい健康被害も進行中で、けして楽観はできません。
しかしこの状態をさらになんとかひっくり返すためにも、僕はいまある自分たちの力をもっと高く評価し、そこにさらなるポテンシャルが隠されていることも知るべきだと思うのです。

そもそもこれまでの世界史の中で、常に為政者にとって一番重要なことは、抑圧されている人々に無力感を植え付けることでした。民衆に自分たちの力を自覚させないことでした。
いまも同じです。民衆に自分たちのことを、無力で、愚かで、力もないと思わせることにこそ常に支配の要はあり続けているのです。

だからこの世を愛と平和と革命で満たすために一番大事なことは、私たちが私たちの力に目覚めることです。
ラディカルデモクラシーはそこから始まると僕は思うのです。

続く

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明日に向けて(1454)民衆の力を高めるためにもっと自分たちに自信を持ち互いを評価し合おう!-1

2018年01月05日 13時30分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)

守田です。(20180105 13:30)

2018年の幕開けに「世界に愛と平和と革命を」と書きました。
その中身としていかなる政体が政権をとっていようとも民衆に力がある状態=ラディカルデモクラシーを作り出そう。たった今から民衆の力を高めるあらゆることを促進しようと提案しました。
今回はそれを受け継いで、民衆の力を高めるための方策について論じてみたいと思います。

今回、言いたいことは端的に「もっと自己肯定しよう」「自信をもとう」「評価しあおう」「褒め合おう」ということです。
民衆の力を高める前に、私たちが、一定の、高い力をすでに手にしていること、それが戦後70年かけて、いやそれ以前の抵抗の時代を含めて、この国の民衆が作りだしてきたものであることを自覚しようということです。

なぜそう思うのかと言うと、この間、何度も海外に出る中で、「日本人は謙遜し過ぎ。自分を誉めなさすぎ」ということを痛感してきたからです。
ちなみにここでは「日本人」と書いていますが、日本で育った方は国籍を問わず、多くの場合、この日本的メンタリティーを共有している面があるのではとも思います。

例えばドイツに行った時の話。ある街に住む日本人の友人から「ドイツ人はなんでもできる、できるってすぐに言うんですよ。日本人と真逆なんです」なんてことを聞きました。
彼はギターをなかなか上手に弾くのですが「ドイツ人は3か月も弾いたら、もう自分はできるって言うんです」という。

ちなみにこの会話は、僕がその彼に「ギターは弾けるの?」と尋ねたことから始まりました。
彼ははにかみながら「まあ少し」と言ったのですが、実はかなりうまい。でも多くの日本人は相当に弾けても「弾ける」とは言わないのです。それこそセミプロぐらいでないと「弾ける」とは言わない。
それに対してドイツ人はちょっとできたら「できる」というのだと言います。だから日本人は損していると彼。できるのに「できない」という日本人があまりに多いと。

同じことが言語力でも言えます。例えば英語力について、日本的メンタリティーを持っていると、相当、話せないと「英語が話せる」とは言いません。
ほとんど通訳ぐらいの実力がないと「話せる」ことにはならない。日常会話なら十分な人でも「でも私、ブロークンですから」なんて付け足す。

さて僕はこうした日本的メンタリティーのすべてが悪いとは思っていません。
言うなれば誰もが職人気質のようなものを持っている。常に高みを目指そうとして現状に満足しない面がある。強い向上心がそこにあるのです。
でもややもするとこれがすごく生きにくい社会を作っている面もあるのではないでしょうか。

ちなみに僕は箱根駅伝のファンで、毎年テレビで観戦しているのですが、今回は復路の解説を元東海大学で実業団で大活躍している佐藤悠基選手が担当していました。
その彼が7区の解説をしている時にアナウンサーから「佐藤さんはここを走られましたよね。ここはどういう区間なのですか」と尋ねられました。
すると佐藤選手、「うーん。僕はここをうまく走れたことがなくて。悪い思い出しかないところなんです」と言う。

アナウンサーが驚いてこう聞き返しました。「だって佐藤さん。あなたはここで区間新記録を出してますよねえ。それでもなんですか」と。
佐藤選手、「はい。まったくうまく走れなかったんです。辛い思い出です」という。

「ああこれだな」と僕は思いました。一面ではここに佐藤選手の高い向上心が現れている。大変立派なことです。
区間新記録を出したって彼はうまく走れなかったと思っている。つまり彼はもっと素晴らしい走りを目指しているのです。
でも、佐藤選手への批判ではまったくないのですが、それでは他の選手は立つ瀬がないなあとも思えました。区間新記録でも「うまく走れなかった」となると他の選手はどうなってしまうのか。

・・・あくまでもここでは日本的メンタリティーの説明をしたいので、あえてトップアスリートの佐藤選手のことを引き合いに出したことにご留意ください。
僕は佐藤選手や多くの選手たちに共通する職人的な思いの熱烈なファンであり支持者の1人です。

しかしこの優れたところもある日本的メンタリティーが、一方ではあまりに自分を褒めなさすぎるモメントを作りだしてもいないでしょうか。
そしてそれが転じて、あまりにこの日本的メンタリティーのもとでは人を褒めることが少なすぎるのではないでしょうか。

僕はこれに減点法の教育評価システムも負の側面を付与しているように思えます。
というのは私たちは学校時代、100点を満点とする採点を受けてきました。そうすると私たちの得点はたいていいつも満点から欠けているものになる。
このシステムでは「素晴らしい」とか「最高」とかいう評価は得にくいのです。いつも完璧からどれぐらい劣っているかを突きつけられてしまう。
それやこれやで多くの人が自分の長所よりも欠点を探すくせが身についてはいないでしょうか。そしてそれが他者を評価する基準にもなってはいないでしょうか。

そのため私たちの多くは褒められ慣れていません。だからまた他者を褒めることもうまくない。
その結果として多くの人が低い自己評価を持ってしまう。どうもそれが日本的メンタリティーの負の側面であるように思えます。

実はこうした傾向は政府の調査にもあらわれています。以下の調査結果をご覧ください。
特集 今を生きる若者の意識~国際比較からみえてくるもの~
http://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26gaiyou/tokushu.html

ここにも日本の若者の自己評価が他国に比べて著しく低いことが示されています。
最初にこの統計結果に接した時に、僕はこれが日本社会の暗い実情を表しているのではないかと胸が痛む思いもしました。
しかしよく分析してみると例えば日本社会よりも激しく貧富の格差が開き、社会問題も激発しているアメリカなどでも、もっと自己肯定感が高い。
つまりここに表れているのは社会の実情というよりメンタリティーのあり方なのだと思えるのです。

だとしたら私たちは、もっとメンタリティーの面からも社会のあり方を捉えなおしていく必要があるのではないでしょうか。
もっと自他を評価し、褒め合うことが必要なのではないでしょうか。もっともっと普段の努力を称賛したり、努力の開花を祝う必要があるのではないでしょうか。
日本社会の生きづらさの一面は、どんなに頑張っても滅多に褒めてもらえないことにある!と僕には思えるのですが、みなさんはどう思われますか?

続く

*****

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明日に向けて(1453)あけましておめでとうございます。今年一緒に「世界に愛と平和と革命を」もたらしましょう!

2018年01月01日 22時00分00秒 | 明日に向けて(1300~1500)
守田です。(20180101 22:00)
 
あけましておめでとうございます。富士宮市で新年を迎えました。
元旦の霊峰富士の姿をお届けします。

作年末に京都の地方紙「京都民報」の取材を受けました。
「メッセージボードに新年の抱負を書いて下さい」と頼まれたのでちょっと考えた末に「世界に愛と平和と革命を」と書きました。
昨年、日本各地をまわって、あるいはトルコ、台湾、ドイツ、フランスをまわって、「これはやはり世界革命を目指すしかないな」と痛感したからです。

新自由主義のもと、世界はどんづまりの状態にあります。世界各地で多くの人々が同じ新自由主義のせいで喘いでいます。また核と原発に象徴される暴力的なビッグパワーの支配からの解放を、世界の多くの人々が同じように求めています。だから現代世界には根底からの変革が必要であり、それは世界共通の課題になりつつあります。なんとしても世界の人々の連携で革命を起こしたい。
ただし革命といっても流血の闘争のもとになされるそれではなく、愛と平和のもとに進むそれでなければいやですよね。Love and Peaceの思い、心、スピリットのもと、人々が幸せになるための革命を起こしたいです。だからみなさん、一緒に世界に愛と平和と革命をもたらしましょう!みんなで世直しを進めましょう。
 
こう書くと「ではどうな革命をどんな風に起こすのか」との問いが返されてくるでしょう。
それはそうですよね。その点がとても大切です。
僕はラディカルデモクラシーを押し進めること、革命を「政権交代」に切り縮めず、たった今から永続的に続けることが大事だと思います。
 
ラディカルデモクラシーとは、デモクラシーの原語のギリシャ語のデモクラチアに戻り、デモス(民衆)にクラチア(力)がある状態を作り出すことです。学問的には幾人かの方たちによって提唱されてきたようですが、僕の場合、ダグラス・ラミスさんが唱えているそれに強く惹かれています。
ラミスさんは、ラディカルデモクラシーは、ある特定の政体をめざすものではない。また旧来のさまざまな革命のように、権力奪取を目指すものでもない。どのような政体のもとでも、あるいはどのような政府のもとでも、民衆が力を持っている状態を作り出し保持して行くこと、だからさまざまに民衆の力を豊かに拡大していくモメントとしてあると提起しています。その力でどんな政府であろうと民衆が規定していこうというのです。
 
だからラディカルデモクラシーはある種の状態であり、結果として目指すものではありません。むしろいま直ちに始めて行くべきもの、行けるものとしてあります。
その際、最も大事なのは、民衆の中の豊な対話の回路を保障し続けることです。それが民衆の力の源だからです。
それはどのような思想や宗教に基づいて担われても良い。といってもファシズムやレイシズムなどはもちろん論外ですが、しかし「かくあるべし」という答えを決めてしまうのではなく、人々が抱えている問題をさまざまな立場から共有していくのです。そこでは社会主義の可能性を捉え返してみるのもいいし、アナーキズムをもう一度検討してもいい。自由民主主義の本義に戻ってみても良い。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教をはじめさまざまな宗教といわれるものも多いに検討すると良い。そんな中でいかなる革命が必要なのかをよりタイトに論争することもある局面では必要でしょう。
 
ただいまはっきりしていることは、ラディカルデモクラシーを進める上で、核と原発に象徴される現代の暴力ないし暴力的パワー体系からの脱出、ないし解放のモメントがこれらを展開する上での大きなプラットフォームになっているということです。なぜってもはや世界中の人々がこの暴力による被害や抑圧を受けているからです。つまり私たちは解決すべき課題を共有している。共有しているからこそ、恊働が実現でき、そこから人類の新たなる可能性を切開いて行くことができます。
 
もちろんその道は多様です。山の登り方が1つではなく無数であるようにです。だからそれらをおおらかに認め合うこと、また認め合うことができるだけの私たちの成長を目指すことが、ラディカルデモクラシーの重要な要素でもあります。
私たちは、資本主義と新自由主義が私たち全体をさもしくしているので、(あるいは一部は私たちの生物としての本能でもあるかも知れませんが)私たちの目がしばしば狭量になり、互いを認め合うことができず、衝突を繰り返すようにも出来ていることに自覚的でなければなりません。誰もがこの外に立ってはいないのです。だから互いを認め合える仕組みやアイデアの創出、あるいは思想的整理も必要です。
 
またすでにたくさんの人々が実践しているように、これまでの社会のあり方を変えるために、できるところから生活を変えて行くこと、エネルギーの使い方や、食べ物や食べ方、食べ物の作り方を変えて行くことも必要ですね。
そうしてそれらの実践のすべてがラディカルデモクラシーの要素であり、だからそれはすでに私たちがさまざまな形で進めつつ有るもの、すでに作られつつある状態なのだということも強く自覚しておきましょう。
 
2018年、私たちはこんな思いで、愛を平和を革命を広げて行きましょう。
そのために僕も一年間、全力で頑張ります。

ということでみなさん。今年もどうかよろしくお願いします。
みんなでこの一年を豊かなものにしていきましょう。僕の年頭の挨拶は以上です。

(なお今年から年賀状を卒業させていただきました。このコメントをもって新年のご挨拶とさせていただきます。)
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