無事出産を終えて明水館に戻ったとき、大女将の珠恵を始め、番頭に板長そして仲居頭の豊子たちの出迎えを受けた。
然も、玄関口でだ。初めてのことだった、これほどの人に笑顔で出迎えられるのは。
思わず後ずさりをした。娘だけを取り上げられて、光子はそのまま叩き出されるのではないか、そんな思いにとらえられていた。
「お帰りなさい、若女将!」。「お帰り。さあさあ早く入りなさい、奥の部屋で休むと良いわ」。
珠恵の優しい言葉は心底のもので、温かい慈愛が感じられるものだった。
そしてそのことばで、やっと光子はこの合原家の一員となったことを実感した。
それは突然のことだった。
珠恵がお使いから帰ったところを見た清子が「おばあちゃま、おかえりなさい!」
と、通りの向かい側に飛び出した。
急ブレーキ音とともに、ドン! という音が響いた。
珠恵がオート三輪の接近に気付いたときには遅かった。
清子の体が宙に浮き、くの字に曲がっていた。
金切り声を上げた珠恵に対し、光子の動きは素早かった。
宙に浮いた清子の体を受けるべく脱兎に駆け出していた。
道路に叩きつけられるすんでの所で、光子の体が清子の下に滑り込んだ。
「どうしたの、なになに、どういうことよ!」。
ただただ金切り声を上げる珠恵に「救急車を!」と叫んだものの「連れて行きます!」と、そのまま走り出した。
(医院ではダメ、山田病院に行かなくちゃ)。(清子、がんばるのよ)。
(まだあなたは、5歳になったばかりなの。これからお母さんを助けてくれなくちゃ)。
呪文のように念じながら、山田病院への道を走り続けた。
「残念です。手を尽くすこともできず、申し訳ありません。
おそらくは、即○だったと思います。苦しむことがなかったのが幸いです」。
合唱しながら、死亡宣告をする医師に対し
「幸いって、なんですか! まだ暖かいんですよ、まだ十分しか経っていないんですよ」と、鬼の形相を見せる光子だった。
しかしただうなだれるだけの医師で、光子が両手を掴んで揺さぶっても「申し訳ありません」と頭を下げつづけるだけだった。
清二のたっての希望で清子と名付けられた幼子は、珠恵と光子の眼前で死亡した。
「どうして止めてくれなかったの」。
涙ながらに光子を糾弾する珠恵に、栄三が
「無理を言うなよ。清子が好きなおばあちゃんを見つけたんだ。飛び出すに決まっているだろう」と取りなすが、
「そうなの。飛び出すことは分かっていたはずよ。だから言ってるのよ」と、聞かない。
光子はただ黙って唇を噛んでいた。
「ぼくが傍にいたら、きっと止めていたのに」。
口を挟んできた清二に対し、珠恵が雷を落とした。
「あんたはどこにいたの! またパチンコでもしていたんでしょう!」。
「いや、そんなこと。帰る途中だったんだから。清子の好きな、ほら、これ」と、キャラメルを差し出した。
こんなもの、とはたき落とそうとする珠恵に対し、光子が
「大女将、おやめください。清子の好きなものです、口に入れてあげたいです」と手に取った。
「やっぱり、冷たいひとですね。涙ひとつ見せなかったらしいじゃないですか」。
「なんだか、事故を予測してたみたいだって言う人も」。
「そうね、あんなに早く動けるなんて、分かってたのかもね」。
しばらくの間、光子への風当たりが強かった。
「清子の飛び出しで……」と警察に告げたことが、光子への非難の高まりを呼んでしまったのだ。
光子にしてみれば事実を告げただけなのに、という思いがあるが、それを言ったところでまた非難の対象になるだろうと口をつぐんだ。
葬式の日、ふたつの会話か飛び交った。
「りっぱだねえ、光子さんは。凜としている」。「さすがに、明水館の若女将だけのことはある」。
「とんでもない女ね。涙ひとつ見せないなんて」。「若女将になれたのは、あの子が産まれたからだっていうのに」。
そしてそれ以来、「女将の中の女将」と「冷徹な女」という二つの称号が、光子に与えられた。
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