昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第三部~ (四百六十七)

2025-03-18 08:00:33 | 物語り

 五平から声がかかり、徳子が応接室にはいったときだった。
小夜子がいるへやの前をとおったとき、扉がすこし開いていた。
キチンと閉じることなく入ったせいか、窓からの風でドアがすこし開いたようだ。
重厚に見えるそのとびらも、じつのところ合成板を使った安物だった。
武蔵ならばすぐにも取り替えさせたであろう、代物だ。      

「お客に見られる最初のものだ、本物を使わなくてどうする。
輸入の高額品でなくてもいい、たとえ安物の国産材でもいい。
とにかく本物を使え。富士商会は本物しか扱いません、と宣伝するんだ」
そういえば1階のカウンターも、名前は知らないが1枚板だときいている。
業者に在庫がなく、また市場にも流通していないと言うことで、特注でつくらせたものだった。
    
 どうにも気になった徳子は、「書類の一部をわすれました」とことわって、そっと小夜子のへやを盗みぎきした。
ひとり小夜子がへやを歩きまわり、相手にたいして抗議らしきこと――グチかもしれぬことばを吐いている。
  
 小夜子にしてはあまりに低い声なのでなかなかに聞きとりにくかったが、相手がだれなのか判然としない。
語り口からすると取引関係先ではなく、身内とも思える身近な人間に思えた。
千勢さん? そうも思えたが、誰にも気づかれず会社に訪れることはできないはずだ。
「ないしょで」と声をかけたにしても、徳子にだけは内緒にということですがと前置きをうけて、千勢の来訪を告げるはずだ。

 よくよく聞いてみると 会話調ではあったが、どうにもひとり言のように思えた。 
架空の相手をみたてて、問う、というか詰問調にもきこえた。
「どうしてなの」、「それはムリよ」、「告げちゃダメなの?」、「拒否されるかしら」、「仕返しは?」、話の途中に「あなたが蒔いたタネでしょ!」とよりきつい詰りことばがでた。
 
 相手を責めているようにきこえる。むろん相手からの返事はない。
どうやら、亡くなった武蔵を相手のことのようにおもえる。
人前では決して口にしない悪口をつぶやいている。
徳子も聞いたことのない、竹田が以前にこぼしていた――社長や専務にたいすることが多いんです――不満や悪口を聞いた。
聞いてはいけないことをきいてしまったという罪悪が生まれてきた。
〝そうよね、お姫さまだって人間だもの。
腹のたつことは一杯あるわよね〟

 極めつけは、「こんなことなら」ということばのあとすこし間が空き、
「経営の勉強をしておくべきだったわね」、そしてつづけて
「武蔵がいなくなるなんて、あたし、あたし、考えてもいなかったから……」
と、なみだ声になっていった。
「でも許せない!」
 語気するどい声が発せられた。
「末期の水は、あたしが飲ませたかった。
あたしが間に合わないとしても、あたしが……」
 胸の詰まるおもいだった。
すぐにも部屋にかけこんで、小夜子を抱きしめたいとおもった。
まだ20代なかばなのだ。
子どもが生まれて幸せの絶頂期のはずなのだ。

 

*「末期の水」とは?

① 個人が息を吹き返してほしいと願い水を飲ませる。
② せめてあの世でのどが渇くことのないようにという、ねがい・感謝・ねぎらいの気持ちをこめて飲ませる水。

(由来)

お釈迦様が入滅前の食中毒に苦しみ、「のどが渇いた。水のみたい」とおっしゃった。
お弟子が、近くの川の水がにごっており遠くの川まで行こうとします。
お釈迦さまが「にごっていても、その水で良い」とおっしゃいます。
すると、雪山にすむ鬼神が浄水をささげました。
この浄水がお釈迦さまの最後の飲食物になった、という故事があります。



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