(九)
深くうな垂れたままの正三に対し、更に源之助の言葉はきつかった。
「英会話の方は、確かに通っていたようだ。
しかし、キャバレー勤めは間違いがない。
女給ではない、言い張ったということだ。
客の求めに応じて、煙草を運ぶ役目らしい。」
菓子を口に運び、茶をすすり、もったいぶっての源之助だった。
耳に手を当て源之助の言を遮断したいと思う正三だが、その一方で心が騒ぐ。
「そこで、御手洗と言う男に目を付けたというわけだ。
どんな手練手管を使ったかは知らん。
しかし程なく、あれこれと贈り物をされ始めたらしい。」
もう正三の耳には届かない。何も聞こえない。
“まさか…まさか…”
その言葉が頭の中で、グルグルと反復している。
つい先ほどまでの否定する思いが、ガラガラと音を立てて崩れていく。
目的のためにはどんな苦労もいとわぬ、と強い気持ちを持つ小夜子。
己の行く道を阻むものには、容赦ない攻撃をする小夜子。
そしてあの夜、垣間見せた妖艶な表情。
“ひょっとして……”
恐ろしい言葉が、とうとう浮かんでしまった。
(十)
憔悴しきった正三に、源之助は優しく声をかけた。
「今のお前には辛いだろうが、現実を受け入れなさい。
さぁ、夕食を食しようじゃないか。
今夜は、お前の大好物を用意したらしいぞ。」
しかし今の正三には、食事どころではない。
いや、源之助の言葉が耳に入らない。
激しい葛藤が渦巻いている。
“どうして、待っててくれなかったんですか……”
“どうして、葉書の一枚が出せなかったのか……”
後悔の念に苛まれる正三、ふらふらと立ち上がると
「帰ります、帰ります……
小夜子さんの所に、帰ります……」
と呪文のように呟き続けた。
「正三さん、どうしたの?
あなたの好きなすき焼きですよ。
食べていらっしゃいな、正三さん。」
そんな奥方の声にも何の反応も示さず、呪文を繰り返すだけだった。
「あなた、あなた! 正三さんが、帰られますよ。あなた、あなた!」
慌てて源之助を呼ぶ奥方に
「いいんだ、帰らせてやりなさい。
今夜はそのままでいい。
頭を冷やせる時間がいるだろう。」
と、応じなかった。
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