人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

「クラシックに知識は必要か」という議論を巡って ~ 音楽情報誌『ぶらあぼ』連載の城戸孝吉氏のコラム「気分はカプリッチョ」から / ホリー・ジャクソン「受験生には謎解きは向かない」を読む

2024年07月19日 00時01分18秒 | 日記

19日(金)。昨日、関東・甲信地方の梅雨が明けました 明けましておめでとうございますなんて悠長なこと言ってる場合の暑さじゃありません 来週はもっと暑くなるという予報が出ています 趣味に熱中するのはいいけど、夏の熱中症には気をつけましょう

さて、クラシック音楽情報誌『ぶらあぼ』に連載のレコード会社勤務・城戸孝吉氏のコラム「気分はカプリッチョ」の8月号のテーマは「『クラシックに知識は必要か』という議論を巡って」というタイトルでした 超略すると次の通りです

「SNSで時々炎上するテーマとして、『クラシックに知識は必要か』という問いがある 最近読んだ投稿は、『音楽を前情報なしで感性だけで聴いても、もちろんオーケー。しかし、作品の背景を知ると鑑賞に奥行きが生まれ、体験が豊かになる』という至極まっとうな意見だった ところがコメント欄を見ると、意外に反論が多いのである これはおそらく、そのような聴き方をしていない人々が、自分を否定されているような気もちになるからだろう それはよくわかる。とりわけビギナーは壁を作られているようで、面白くないに違いない しかし問題は、それに対する反論が、『知識はいらない。感じるままに聴けばいい』という論調になりがちなことである 元々の投稿は、『感じるままに聴いてはいけない』と言っているわけではない。『知識があれば、聴くことがより楽しくなる』と提案しているのである その際『知識』とは、知ったかぶりするためのウンチクではなく、作品理解を助ける情報や学識を指している 『知ることによってもっと面白くなりますよ!』というのが趣旨だろう。『知識は不要である。感性で聴くだけでいい』というやや攻撃的な論調がメインとなり、そこに『教養を前提とすることは排他的である』というポリティカル・コレクトネスが重なると、知識の立場は俄然悪くなってしまう 情報を集めることがスノビズム扱いされ、理解を育むことが推奨されなくなったら、クラシックは確実に面白くなくなるだろう 知ることを恐れる必要はまったくない。今知識を持っている人も、何かのきっかけで情報を集め始めたのであって、最初は無知だったのである

最近X(旧Twitter)を見ていたら、城所氏が指摘しているのと同じような投稿を見かけました 最初の投稿を大雑把に要約すると「クラシック音楽を理解するためには多少勉強することが必要である その努力をしてはじめてクラシックを聴く楽しさを味わうことができる」という内容でした。これに対し、「そんな”上から目線”のようなことを言ってるから、”クラシックは敷居が高い”と言われて敬遠されるのだ」という反論が寄せられていました これを見て私は「何か勘違いしているんじゃないかな」と思いました 私は城所氏が書いている『知識があれば、聴くことがより楽しくなりますよ』という主張に共感を覚えます 私がコンサートの感想をブログアップする際に心がけているのは、演奏曲目の最低限の知識(作曲年や楽章構成など)やオーケストラの編成(対抗配置など)を紹介することによって、そのコンサートを聴かなかった人にも どういうコンサートなのかがある程度分かるようにすること、そして、何より「ライブのコンサートって面白い」という雰囲気が読者に少しでも伝わるように書くことです その一方で、マナー違反行為については遠慮なく批判します 「演奏中のケータイ着信音」や「フラブラ(フライング・ブラボー)」などがその最たるものです コンサートは一人で聴いているわけではありません せっかくの良い雰囲気をぶち壊すような行為は演奏者や他の聴衆を不愉快にさせ、コンサートを台無しにします 私は「誰もが生演奏を楽しめるように、それぞれが最低限のマナーは守るべきである」という観点から批判します

ということで、わが家に来てから今日で3475日目を迎え、アメリカ大統領選の2つの世論調査で、いずれもバイデン大統領とトランプ前大統領の支持率は銃撃事件の前と後で大きな変化がないことが分かった  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

     

     新型コロナ罹患のバイデンを尻目に ケガしても元気なトランプが目立つのが気になる

         

昨日、夕食に「肉じゃが」「生野菜とアボカドのサラダ」「冷奴」「シメジの味噌汁」を作りました 肉じゃがは先日のビーフシチューで余った牛肉を使いました

     

         

ホリー・ジャクソン「受験生には謎解きは向かない」(創元推理文庫)を読み終わりました ホリー・ジャクソンはイギリス・バッキンガムシャー生まれ。ノッティンガム大学で言語学と文芸創作を学び、英語の文学修士号を取得 2019年に刊行したデビュー作「自由研究には向かない殺人」は英米でベストセラーとなり、2020年のブリティッシュ・ブックアワードのリルドレンズ・ブック・オブ・ザ・イヤーを受賞した 本書は「自由研究には向かない殺人」の前日譚に当たる作品で、続編に「優等生は探偵に向かない」「卒業生には向かない真実」がある

高校生のピップにある招待状が届いた 試験が終わった週末、友人宅で架空の殺人の犯人当てゲームが開催されるという 舞台は1924年、孤島に建つ大富豪の館という設定で、参加者は同級生とその兄の7人。開始早々、館の主の刺殺死体が発見される 当初は乗り気ではなかったピップだが、次第にゲームにのめり込んでいく

     

この作品はピップの視点からゲームの進行がリアルタイムで描かれていくので、読む側も謎解きの楽しさを味わいながら読み進めることができます ピップのブックレット(それぞれの参加者の役割や、その都度どう行動すべきかの指示が書かれている)の内容や、その場で得られる情報、それを見たピップがどう思ったかなどはすべて読者に明かされるので、読者も彼女と同じように犯人は誰か推理することが出来るようになっています 参加者はブックレットに書かれた指示に従わなければなりませんが、その最後を見ないと(それは禁じられている)、自分が犯人かどうかも分からないというのがミソです

ゲームのラストで、ピップが理路整然と理由を説明して「この人物が犯人だ」と主張します 参加者は「さすがはピップ」と称賛しますが、ゲームの仕掛け人で探偵役のジェイミーは「それは間違いだ。この人が犯人だ」と、複数の参加者が怪しいと指摘した人物の名前を挙げます これに対し、ピップはいくつか矛盾を指摘しますが、ジェイミーは真犯人は変わらないと答えます ピップは「所詮ゲームだし、楽しかったから」として反論を止めます しかし彼女は納得していません。「でも間違っていた。間違うのは大嫌いだ」と独白します

この小説が他のミステリーと違うのは、必ずしも探偵役が正しいとは限らないということを示していることです

気軽に読めるミステリーとしてお薦めします


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